大公の男

 疾れ

 奔れ

 走れ


 密林の奥へ

 あの人がいるあの大きな街の反対側へ

 そして

 もう決して帰ってくるな

 もう決して囚われるな


 連れ戻しにくる奴らを打ち果たし

 自由リベルタ

 あの日の自由リベルタ

 確実に手に入れろ


 安心しろ

 自由を手にしたなら

 二度とは捕まることはない

 おまえはもう

 自分の足で何処へでも

 たった一人で走っていける


 おまえはもう

 一人前の兵士だ


 


      周 暁敏ギョウビン「革命夜話」、「疾走する兵士」より







 一月の末に病に倒れた皇帝サウルであったが、その後の経過は穏やかなものだった。

 病床にはあるものの、食物を受け付けないと言うこともなく、小康状態を保っていた。

 だから、宰相サヴォナローラは皇帝の病床とおのれの執務室を往復することが日課となっていた。

 サヴォナローラの命で内閣大学士のパコ・ギジェンが準備に奔走していた、皇太女オドザヤの摂政就任も、三月の頭には滞りなく手続きを終えて公のものとなった。

 これにより、皇太女オドザヤがいずれは女帝として即位するであろうことが、内外に確実な未来として示されたことになる。

 皇子フロレンティーノが誕生したとはいえ、生まれたばかりの皇子に次代を任せることはあまりにも危険すぎた。

 同時に、未だ十八にしかならないオドザヤを補佐するものとして、彼女の立太子式で皇帝に指名された者たちが公にされた。

 それは、宰相サヴォナローラ、そして臣下の第一としてハーマポスタール大公カイエン、軍の第一としての大将軍エミリオ・ザラ、元老院長としてフランコ公爵テオドロ、最後に皇帝の妹、そしてオドザヤの叔母としてクリストラ公爵夫人ミルドラおよびその配偶者、クリストラ公爵ヘクトルという総勢六名の名前であった。


 同じ頃。

 ベアトリアとハウヤ帝国国境を越えると同時に、シイナドラド皇国第二皇子エルネストの一行は、シイナドラド国軍の護衛部隊を国へ帰した。

 そのまま、クリストラ公爵の大城のある、クリスタレラに入った一行は、騎乗のエルネスト皇子たちや荷駄を運ぶ馬車の人員を含めても、百人どころか五十人にもならない数だった。

 この人数には、迎えに出ていたクリストラ公爵ヘクトルも驚いた。

 シイナドラドでのカイエンとエルネストの「事情」を知っているヘクトルであったが、彼は慇懃に一行を出迎えた。

 ヘクトルはエルネストたち一行を、この先、ハーマポスタールで待っている彼らへの待遇のこともあって、一箇所に集め、ハーマポスタールへの道筋でも一切、外部との関わりを持たせないように取りはからった。

 たった五十人のシイナドラド人たちを、クリストラ公爵の倍以上の数の軍勢が囲みながら、一行は三月末にハーマポスタールへ入った。

 その頃には、もう皇帝の第二皇女カリスマは王太女となるべく、ネファールへ向けて旅立っており、帝都は平常に戻っていた。

 クリストラ公爵の紋章入りの旗を掲げた一行は、小雨の中、それも昼間ではなくもう夜も更けた時刻を選んで帝都ハーマポスタールに入ったので、シイナドラドの皇子の婿入りはほとんどの市民の知らぬうちに終わっていた。

 一行が吸い込まれて行った館は、一昨年まで名門スライゴ侯爵家の邸宅だった広大な屋敷だった。先に到着したシイナドラド大使のために用意された公邸だ。エルネストはしばらくはここに滞在することになっていた。

 そこは皇宮に近い高台の一等地だったが、大公宮へは皇宮を挟んで反対側に当たっていた。周りには上位貴族の邸宅ばかりが並ぶ。

 屋敷自体は敷地に面した通りからは見ることもできない。それは鬱蒼と茂った森のような木々に隠され、屋敷の敷地をグルリと囲む鉄製の囲いの奥にあった。

 これも鉄製の丈の高い門扉の横には新しく作られたと思しき、門番の立ち小屋が立っている。

 一行が到着すると、そこから屈強な男が出てきて、クリストラ公爵の乗る馬の横へ走り寄る。全てが滞りなく行われ、一行が門扉の中へ入ると、それは再び固く閉ざされた。

 同じことは、屋敷の入り口でも繰り返された。

 屋敷でエルネストたちを出迎えたのは、この屋敷の新しい執事だった。中年の中肉中背の男だったが、物腰に隙がない。

 実は、その執事役は皇帝の親衛隊の一員だ。ただ、若い頃にこういう大きな貴族の屋敷で侍従をしていたことがあったことから選ばれた男だった。他にも男ばかり十数人が侍従役をしていたが、その全てが親衛隊員かまたは大公軍団から派遣されてきた隊員だった。

 その執事と並んでまだ冷たい春先の小雨の中、エルネストたちを出迎えたのは、アストロナータ神官の褐色の衣を纏った、小太りの男。

 内閣大学士のパコ・ギジェンだった。

 彼はあの、カイエンが解放された時、エルネスト皇子の顔を見ていることからサヴォナローラに選ばれたのである。確かに本物かどうか確認するために遣わされたのだ。

「ようこそ。おいでなさいませ」

 屋敷の入り口の前で真っ黒な馬から降りたエルネストの顔を見ると、パコはちょっと驚いた顔をしたが、エルネストの顔を見間違うことなどありえなかった。

 顔を上げると、パコはエルネストの後ろに控えたクリストラ公爵へ無言のままうなずいた。

「……公爵様にはお勤め、ありがとうございました。ここよりはこの内閣大学士、ギジェンめがお引き受けいたしました」

「お任せいたしましたぞ」

 そう言うと、クリストラ公爵は再び馬上の人となった。

 クリストラ公爵邸も、もちろんこの帝都ハーマポスタールにある。

 クリストラ公爵がエルネストに黙礼して去っていくと、屋敷から出てきた侍従たちが、多くもないエルネストの随行員達を案内し、荷駄の馬車などを引いて裏へと回って行った。残ったのは、エルネストと、彼の侍従であるヘルマンの二人だけだった。エルネストは侍従としてヘルマン一人を伴って来たのである。

「用意のいいことだな」

 エルネストが皮肉を含めてそう言うと、パコ・ギジェンは硬い顔のまま、執事の方へ顎をしゃくった。

「お疲れでございましょう。ただいま、御国の大使は皇宮へ呼ばれておられます。ですから、こちらの執事がお部屋へご案内いたします。……私はこれより宰相府へ報告に参ります。全てはここの執事へお申し付けくださいますように」

 エルネストの皮肉など、聞く耳持たぬと言うように言い切ると、パコはさっさとこの屋敷の広い馬車だまりに停めてあった馬車の方へ歩いて行ってしまった。

 さっきクリストラ公爵から「お引き受け」したばかりだというのにまるで疫病神から逃げるかのようだ。


「では、こちらへ」

 実は親衛隊員の執事がエルネストとそばに控えるヘルマンを案内して行ったのは、この屋敷の元の主人の居室だった部屋であった。

 スライゴ侯爵アルトゥールが使っていた居間は綺麗に掃除されていた。部屋の様子は重厚で落ち着いた心地のよいもので、テーブルの上には春先の薔薇さえ飾られていたのである。

 エルネストが居間のソファに座らされると、執事が侍従のヘルマンを伴って下がっていく。

 小雨が窓を叩く音だけが聞こえる。屋敷の中はそれほどの静寂に包まれていた。卓上のランプの光が頼りなく部屋の中を照らしている。

 しばらくして、ヘルマンが、飲み物ののった盆を持って戻って来た。

 その後ろから、屋敷の召使いたちを連れて、執事が入ってくる。召使いたちはエルネストの身の回りの品が入れられた、大きな革の鞄や、金属で角を補強された木の箱をいくつも運んできたのだ。

 執事が居間からのみ続いている寝室の方を指し示すと、召使いたちは声も出さずに荷物を運び入れていく。

 ヘルマンが前もって言ってあったのだろう。荷物を運び終わると、屋敷の執事は召使いたちを先導してさっさと部屋を出て行った。

「クリスタレラからの知らせで、殿下のお供が少ないことが伝わり、大急ぎで召使い達を集めたそうにございます。あの執事が万事、召使い達への取次ぎをするとのことです。……まあ、執事といっても、怪しいものですが」

 そう言うと、ヘルマンは趣味のいいソファに座ったまま動かない、エルネストを気遣わしげに見た。

 旅の間も好みの黒っぽい服装に終始していたエルネストだが、この日も黒に近い深い灰色の地味な衣服を纏っていた。ガラに襲われて脱臼した右腕はもう、肩から吊ってはいない。だが、まだぎこちなさが残っているようだ。

 そして、先ほど、彼の顔をあの国境での騒ぎの中で見ていたパコが一瞬、驚いた目をしたように、彼の体は一回り萎んだように見えた。

 変わったのは、それだけではなかった。

 彼の顔の右半面は、銀色の刺繍の施された黒い布で覆われていた。

 パコが驚いた顔をしたのは、こっちの方が主な原因だろう。もっとも、クリスタレラからもうその情報は伝わっていたはずだ。それでもパコは驚いた顔を隠せなかったことになる。

 それほどに、顔の半分を覆い尽くすそれは目立っていた。

「ここはハーマポスタールのどのへんだ?」

 エルネストの色違いの目で今、表に出ているのは漆黒の目の方だけだ。左右色違いの目の強い印象がなくなると、その顔は意外に穏やかに見えた。

「先ほどの執事に聞きました。……ここは一昨年までスライゴ侯爵の邸宅だったところだそうです。大公宮へは皇宮を挟んで反対側に当たるそうです」

 ヘルマンが答えると、エルネストは一つだけの黒い目をぎろりと光らせた。

「スライゴ? アルトゥール・スライゴか?」

 そして、質問してきたのはヘルマンの話したことの前半へのものだった。

「そのようでございます」

 ヘルマンは水差しと、酒の入ったロマノグラスの壜をソファの前のテーブルに置いた。

(……俺もさ。あそこに居たんだよ。……あの、紺色の部屋に。あの、桔梗館に集められた、子供達の中に。ほんの短い間だけだけれどもな)

 あの時、ガラに襲われた後、エルネストはカイエンに、こう言った。だから、同じ頃に桔梗館にやって来ていたアルトゥールとも面識があったのだろう。

「はっ。奴は一昨年の騒ぎで皇帝に処分されたんだろう? 家も取り潰されたと言っていたな。その空き屋敷を俺にあてがって来やがったのか」

「……そのようでございます」

 我慢強く、ヘルマンは繰り返した。

「まあ、あんなことがあった以上、連中が俺をカイエンのそばに寄せ付けつけるわけがないとは思ってたが、まさかアルトゥールの屋敷をあてがってくるとはなあ。皇宮を挟んで反対側とは、まあ、うまい位置に建っていたものだなあ」

 ヘルマンはエルネストの声の大きさをはばかるように、ちょっとその薄い黄色の目を細めたが、この屋敷の壁にはどうせいくつもの耳があるだろうことを考えて、押し黙った。

「それでも婚礼の儀は近日中に行われると、クリストラ公爵はおっしゃっておられました」

 ヘルマンは一度、話を切ってから、付け足した。

「……さすがに婚礼の儀には、猊下もお姿を見せられるでしょう。お嫌でしょうが、あの方はご自分のお務めから逃げるようなお方ではございません」

 猊下。

 カイエンを星教皇として呼ぶヘルマン。その固い顔にはその心を強く縛る、強靭な信仰が見て取れた。

 それをエルネストは馬鹿にしたような顔を作って見やった。

「お前も、すっかり星の君に骨抜きにされたな。でもな。カイエンから見ればお前も俺と同じだぜ。……思い出したくない嫌な記憶に繋がってるんだからな」

 ヘルマンは苦いものを飲み込んだような顔になったが、主人に逆らおうとはしなかった。

「覚悟してここまでお供してまいりましてございます」

「ふん」

 ヘルマンが差し出した酒のグラスを左手で受け取って、一口飲んでからエルネストは呟くように言った。     

「もう、抱かしちゃくれねえんだろうな」   

 賢明なヘルマンは聞かないふりをした。

「あの人に唆されているうちに、すっかりその気になっちまってた。リベルタまで迎えに行ったのは気まぐれだったが、あそこであれを見ちまったのがいけなかったな」

 エルネストの頭に浮かんでいた情景。

 それは恐らく、殺されようとしているシーヴを見て、突きつけられた刃物も物ともせずに立ち上がった、あの時のカイエンの姿だっただろう。

 左手に握った、銀の持ち手のついた黒檀の杖を石畳に突き、彼女はやや斜めに傾いだ姿で、背中にシーヴと女騎士の二人をかばい、ただただそこに立っていた。

 すでに怒りの表情の消えた顔の、左の頬から真っ赤にしたたる血を、石畳にまで振りまきながら。灰色の目だけを爛々と光らせて。 

 凄まじい女。

 それは、あの後はもうカイエンから感じられなかった、彼女の激しい一面だった。 

「もう男がいるって言っても、世間知らずのお姫様のことだ。俺が可愛がってやればすぐにこっちを向くと思ったんだがな」

 エルネストの独白は低い、呟くような声だったので、ヘルマンは黙礼すると寝室へと入っていった。エルネストのこんな様子にはもう慣れていると言った様子だ。

 それに、たった一人の侍従のヘルマンとしては、エルネストの荷物を開かなくては、着替えすらも出すことができない。

「最初の夜は嫌がってても感じてたみたいだから、いけると思っちまった」

 まだ、右側の腕は痛むのか、エルネストは左手でグラスをあおり、飲み干すと自分で壜からグラスへ酒を注ぎいれた。これも左手だ。

「だけど、次の日からは頑なだったなぁ」

 力では敵わないことを体で理解したカイエンは、心の方を冷たくて固い氷の塊のように鎧ってしまった。何を言ってももはや答えようとはせず、いつも半分寝ているような気だるい顔で押し黙っていた。

 怒りが時折、その青ざめた顔に浮かんだが、日が経つにつれて急激に体力を奪われていったこともあって、昼の馬車の中でもエルネストに抱かれたまま、微睡んでいるばかりだった。

 エルネストがすることに逆らわない代わりに、次第に反応もなくなっていった。

 食も進まずにみるみる痩せていき、ホヤ・デ・セレンに着く頃には灰色の底光りのする目だけが大きく目立つようになっていた。

 カイエンがそんなになっても、エルネストはおのれの執着のままに彼女を弄び続けたのだ。

「……あの時、もう……してたのかな」

 去年の暮れ。

 ホヤ・デ・セレン郊外の桔梗カンパヌラの館へ呼びつけられて、聞かされた。

(カイエン様は、お子を妊娠なさっておられ、帰国とともに流産なされたそうだ)

 それを、党首の右腕である、あの恐ろしい男から聞かされたのだ。

 その時の驚きと、恐怖。

 それは、カイエンとの最初の夜に自分が言い放った言葉を、記憶から鮮やかに切り離した。

(言いにくいことだけど、俺はもうあんたとはこういう仲だし、未来の夫様だからあえて聞くけどさ。……子供ができにくいとかもあるんじゃないの? って言うか、できても子供が大きくなったら蟲が邪魔になるだろ)

 そう聞いたエルネストへ、カイエンはこう答えたのだ。

(……医師からはそういう話も聞かされている)

 と。

「ひでえこと、言っちまったもんだ」

 エルネストは次の誕生日が来れば二十七になる。これまでに寵愛したり愛玩したりした女は数多くいた。だが、彼の子を身籠もった女はいなかった。

 だから、まさかあんなことになるとは思ってもいなかったのだ。

 「あの人」に唆されるがままに、執着し続け、実物に会って早速に手に入れた結果の無残さ。

 エルネストは無意識に左手を伸ばして、顔の右半分を覆う黒い布の上を撫でた。

 そこにはもう、灰色の方の目はなかった。

(あなたが特別だった時は終わったのだ。さあ、あなたが特別だった証のどちらをここへ置いて、ハーマポスタールへ婿入りなさるか。今、ここで決めるのだ)

 あの男がいった通りに。

 エルネストは彼が「特別」だった証の一つを奪わせたのだ。

 だが、彼はそのこと自体は当然の始末の付け方だと思っていた。そう言うことは桔梗カンパヌラの党では今までに何度も見てきたことだった。

 この屋敷の元の持ち主である、スライゴ侯爵アルトゥールも、その命をもって償わされている。

 ただ、違ったのは今度その裁きを受けたのが、自分自身だったと言うことだけだ。

 エルネストがそこまで考えて、空になったグラスに酒を注ぎ足そうとした時。

 寝室からヘルマンが戻ってきた。当座に必要なものを荷物から出し、整理し終わったのだろう。

 ヘルマンはエルネストが左手で持っている酒壜の中に残った酒の量をちらりと見たが、それに対しては何も言わなかった。

「エルネスト様、落ち着きましたら近日中に皇宮と、大公宮へご挨拶に伺わなければなりません。婚礼まで挨拶なしと言うわけには参りませんし……」

 戻ってきたヘルマンが言ったのは、ごくごく穏当な話題だった。

「皇宮へ、と言ったって、皇帝は病気で寝たきりなんだろう? まさか、俺に神官宰相とか言う奴に会いに行けと言うのか?」

 口元にゆがんだ笑いを浮かべて言うエルネストへ、ヘルマンは無表情で答えた。

「……そちらへはあの執事を通して、お伺いを立てて見ましょう。ですが、大公宮へは……」

「俺は行かねえよ」

 エルネストは即座に答えた。

「カイエンの男と、あの灰色狼と。二匹もケダモノの待ち構えてるところになんか、ノコノコと挨拶になんぞ行けるもんかよ」 

「承知いたしました」

 ヘルマンには主人のこの返答も予想のうちだったらしい。

「では、甚だ僭越かつ恐れ多いことではありますが、大公宮へは私が一人で、エルネスト様の代理としてご挨拶に参ります」

 カイエンがシイナドラドに囚われている間、彼女の世話をすべてしていたのは、ヘルマンである。

「猊下が応じてくださるかどうかはわかりませんが、ここにこうしてやって来ているからにはご挨拶に伺わないわけにはいきません」

 つけつけと付け足したヘルマンへ、エルネストは彼らしい皮肉な微笑を向けた。

「……星の君に堂々と会いに行けるんで、嬉しそうだな」

 もはやヘルマンは何も答えず、黙ってエルネストの持ったグラスへ酒を継ぎ足した。





 数日後。

 旧スライゴ侯爵邸の執事を通じて、大公宮へ訪いを入れたヘルマンは、侍従に案内されて大公宮の謁見の間へ通された。

 そこは、一昨年、ヴァイロンが男妾に落とされた時にウェント伯爵を迎え入れた時以来、ほとんど使われることのなかった部屋だった。

 大公宮の謁見の間。

 それは、名前は大仰だが、皇帝の海神宮の謁見の間とは比べるべくもない部屋だ。

 大公が座る場所は一段高くなっており、丈夫な樫の木の彫刻された椅子に大公は座るのだが、これも玉座とは比べ物にならない実用主義の代物だった。

 ヘルマンはエルネストの侍従であるが、なんの官位も持たない。シイナドラド貴族としての爵位さえ持ってはいなかった。

 エルネストの母親は皇王バウティスタの皇后ではなく、血族の侯爵家出身の側室だった。ヘルマンはエルネストの母親の乳姉妹の子である。

 母親はエルネストの母親について皇宮へ上がったので、彼は侯爵家に残された。体格が良く、俊敏だったので侯爵家の衛士として訓練された。そのまま衛士として働いていたのだが、彼の母親が死んだのちにエルネストの母親に呼ばれて皇宮へ上がることとなったのだ。

 そのまま、十年近く。

 衛士から皇子付きの侍従にされた時には、まさかハウヤ帝国までついてくることになるとは思ってもいなかった。

「こちらでお控えください」

 侍従のベニグノに言われた場所に、ヘルマンは膝をついた。

 大公が出御するであろう壇上までは幾らかの距離があった。それでも彼の身分を考えれば、近すぎるくらいだ。

 磨き上げられた大理石の床。

 俯き、その床だけを見ていると、重たい足音が聞こえて来た。

 その足音は、ヘルマンとカイエンが座るであろう壇上の木製の彫刻された椅子との間に立ちふさがった。

 元は衛士、武人であったヘルマンの背中につつーっと汗が流れる。

 この気配には覚えがある。

 エルネストに襲いかかった、ガラと言う名の獣人だ。

 あの時、ヘルマンはシイナドラド陣営の後方に控えていたが、灰色の巨大な狼にしか見えないものがエルネストに襲いかかったところを見ている。

 その後、エルネストが襲われた後に手当のために駆けつけてもいる。

 今、ヘルマンはもちろん、丸腰である。

 大公への挨拶に来たのだから、当たり前だ。

 大公宮の謁見の間で陪臣とはいえ、シイナドラド皇子の代理で来た自分が害されるとは思えなかったが、それでも冷や汗が流れた。

 そこへ、壇上の扉が開く音が聞こえて来た。

 かつん、かつん、と聞こえるのは、カイエンの持つ杖の音だろう。

 だが。

 それと一緒に聞こえてくるのは、またしても人間離れした重たい足音だ。

 ヘルマンは一瞬にして悟った。

 カイエンは自分の一番信頼する存在ものを引き連れて来たのだと。

「ご苦労」

 壇上の椅子へ座ったらしいカイエンの声が聞こえた。恐ろしい気配はその真横に立っている。

「構わない。顔をあげよ」

 カイエンの声が聞こえたが、ヘルマンはすぐには顔をあげられなかった。

「シイナドラドでは世話になった。……いや、これは嫌味で言っているのではない。本当に何くれと気遣って面倒を見てくれて感謝している」

 ヘルマンでなくとも、信じられないようなことをカイエンは言った。

 だから。

 ヘルマンはやっとの事で彼の「星の君」の顔を見上げることができた。

「……恐れ入りましてございます」

 彼が最後に見たカイエンの姿は痩せ衰え、あまりにも痛々しかった。

 だが、今、彼の目に映った姿は、去年、ラ・ウニオンの城下町の次にカイエンが訪れた豪族の屋敷で初めて見た時よりも健康そうだった。左頰の傷はどうやら残ってしまったようだったけれども。

「うん」

 カイエンはヘルマンには本当に感謝していた。

 弱った体に優しい食事を用意し、彼女が少しでも休めるように気を遣ってくれたからだ。

 だから、カイエンはヘルマンににこやかな顔を向けていた。

 だが。

 ヘルマンの方はそれどころではなかった。

 カイエン以外の二人の存在を無視することなどできなかったからだ。

 無言のまま、カイエンの真横と、壇の下に立っている二人の男。

 ヘルマンに近い方は、濃い灰色の髪に、真っ青の瞳をした大男だ。ヘルマンにはこれがあの、エルネストと夏の侯爵に襲いかかった灰色狼と同じモノだと言うことがすぐにわかった。

 ガラ。名前もちゃんと覚えていた。

 ガラは無表情のまま、ヘルマンを眺めている。その目にはなんの感情も浮かんではいない。それがかえって恐ろしかった。

 そして。

 正視できないほどの威圧感で立っているのは、カイエンの真横に立つ巨躯の方だ。

 真っ黒の、カイエンと同じ意匠の制服を纏っている。浅黒く日焼けした顔の中で、翡翠色の輝きがぎらぎらとヘルマンを威圧していた。

 窓から入った日光に黄金に輝くのは、真紅の髪。

 間違いない。

 ヴァイロン・レオン・フィエロ。

 元、フィエロアルマの獣神将軍。

 ヘルマンもとうに名前を知っていた存在だった。

 彼こそが、ハーマポスタールの大公殿下のただ一人の男だ。

「紹介しよう」

 ヘルマンは、ガラとヴァイロンを紹介するカイエンの声を俯いたまま、どこか遠いところで聞いていた。

 ヘルマンはカイエンを星の君として崇めていたが、この時、それとは別の意味でカイエンを恐ろしいと思った。

 彼女は許してなどいないのだ。

 彼女自身はにこやかに話しているが、ここに、この二人を伴って来たからには、カイエンはシイナドラドでのことを忘れてなどいないのだと、理解させられたからだ。

「……皇帝陛下がご病床にあられることから、皇宮への挨拶は摂政のオドザヤ皇太女殿下がお受けになる。そのこと、間違いなく皇子殿下にお伝えするように」

 エルネストの名前を言うのを避けたのを聞いて、ヘルマンがそっと見上げると、カイエンは困ったような顔をしていた。

「婚礼は四月の吉日を選んで行う。申し訳ないが、皇帝陛下ご不例の折であるから、儀式は簡略することに決まっている」

「ははっ」

 ヘルマンは深く首を垂れた。

 一言も声を発しない、ヴァイロンとガラの威圧が凄まじかった。

 ああ。

 怒りは彼らの中にも燻っているのだ。

 この場に来たがらなかったエルネストを、ヘルマンは臆病とは思わなかった。いや、思わないことにした。

 今はまだその時ではないのだ。

 エルネストの冒した事実は、あまりにも大きい。そして、彼は党首によって幾ばくかの処罰も受けている。

 怒りは時間がかかっても、いつかは別の感情に変わる。

 その時を待てない先の読めない惰弱こそが、今、嘲笑うべきことだった。



 カイエンと恐ろしい二人が奥へ下がった後。

 ヘルマンは動けないまま、謁見の間の床にうずくまっていた。

 やがて、ベニグノではない侍従が、ヘルマンのそばに立った。

「……大公殿下はご退出になられました。お立ちなされい」

 長身のヘルマンがそろそろと立ち上がろうとすると、途中で、中肉中背で目立たない姿形の侍従がそっと耳打ちして来た。

「『盾』より伝言。今宵は殿下の寝台の位置を向かって左へ半分だけずらすように。挨拶に参る」

「えっ?」

 ヘルマンが顔を向けた時には、侍従はもう背中を向けていた。

「ご退出のご案内を致します。……こちらへ」

 盾。

 それは、桔梗カンパヌラの党の内通者の符丁だった。

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