大公殿下の結婚

 ……こうして、大公カイエンは結婚した

 それは、彼女の人生でたった一度だけのことだった

 彼女の夫として歴史に語られる男はただ一人

 パナメリゴ大陸最古の国からやってきて

 その生涯の終わりにセルヴァへと奔り去った

 あの男

 シイナドラドのならず者だけである

 この結婚は大公カイエンには迷惑至極なものであったが

 その時

 彼女の顔には希望の色も、失望の色もなかった

 その土気色に沈んだ顔色からは何の想いもうかがい知れず

 余人は驚き、惑うばかりであった



          アル・アアシャー 「海の街の娘」より「彼女の結婚」






 カイエンへの挨拶を終えた、エルネストの侍従ヘルマンは、まっすぐに主人の元へ帰った。

 そこは、旧スライゴ侯爵邸、現シイナドラド大使公邸兼、第二皇子の棲家となった屋敷である。

 エルネスト・セサル・デ・ドラドテラ。その祖国を後にする時に三つめの名前を父の皇王バウティスタから授かった、エルネスト・セサル・“ガロピン”・デ・ドラドテラは数日前にその邸へ入ってから一歩もその外へは出なかった。

 ちなみに、この三つめの“ガロピン”という名を彼が自ら名乗ったことはなく、その二つ名で彼が呼ばれたのは、その後半生に入ってからのことになる。

 婿入りに際して父の皇王バウティスタが、どうして二人めの息子にこんな名前をつけたのか、後世の人々はいささか悩むことになる。……それはこの呼び名の意味があまりよろしくなかったからである。

 ともあれ、帝都ハーマポスタールの読売りは、彼の到着の翌日にはこぞって彼の訪ハーマポスタールとその理由、大公カイエンとの結婚のことも報じた。

 だから、エルネストがクリストラ公爵の軍勢に連れられて帝都にやってきた翌日には、もうシイナドラド大使公邸の前には物見高い市民やら何やらがひしめき合っていた。

 その中を、ヘルマンの乗った馬車はやっとの事で通り過ぎた。複数の門衛が何か言いながら無理矢理に鉄の門扉を閉めるのを見送って、ヘルマンは屋敷の敷地の中へ入った。

 馬車を降りた時には、時刻はもう午後になっていた。

 ヘルマンは出迎えた、ハウヤ帝国の息のかかった執事や召使いに黙礼して、長身を止めることなく屋敷の中へ入っていった。

 ヘルマンの向かったのは、彼の主人のエルネストの部屋ではなかった。

「ガルダメス伯爵に訪いを!」

 命じた相手はこの屋敷の執事。

 実は皇帝サウルの親衛隊員である男は、凄まじい速さでヘルマンに先立って屋敷の一階の奥へと走る。

 エルネストの部屋は、前の主人であるスライゴ侯爵の部屋で、それは二階にあたっていた。ヘルマンは大公宮へ行く前にエルネストを起こして、朝の支度を手伝ったから、彼は起きているはずだったが、二階からはそよとの音も聞こえなかった。

 この屋敷の一階部分はシイナドラド大使公邸として使われている。

 だから、シイナドラド大使、ガルダメス伯爵ニコラスの居室と執務室も一階にあった。

「失礼致します」

 だから、シイナドラド第二皇子エルネストにシイナドラドから付いてきた、たった一人だけの侍従であるヘルマンが大使の執務室に入った時、もちろん、ガルダメス伯爵ニコラスはそこに待機していた。

 立派な木の机の向こうの椅子に堂々と座っている。

「おや。これはこれはお帰りなさい。……星の君のご機嫌はいかがでしたかな?」

 エルネストとヘルマンがこの屋敷に入ったその時、皇宮へ呼び出されて留守だったニコラス・ガルダメス伯爵はヘルマンよりやや年上だろう。

 ヘルマンは二十六のエルネストよりもやや年嵩だから、ニコラス・ガルダメス伯爵は三十前後の年頃に見えた。

 その姿は、髪の色も目の色も薄いヘルマンとは違って、エルネストによく似ている。

 やや青みがかった黒い髪はやや長めで、それを後ろへ流しているが、痩せた両頬の両側にいく筋かの前髪がかかっている。灰色の瞳に顔色は青白い。

 体は大柄なエルネストと違って、痩せて華奢に見えたが、顔の造作はよく似ていた。背の高さは座っているからわからない。

 去年、シイナドラド国境、リベルタでの大公カイエンの拉致事件で責任を問われて自決した、あのサパタ伯爵と同じく、皇王一族に連なる者なのだろう。

「……猊下にはお体もご回復になられ、至極お元気なご様子とお見受けいたしました」

 ヘルマンはこの屋敷の執事……実は皇帝サウルの親衛隊員が部屋を出て行くのを見送ってから答えた。彼が去ったとしても、この部屋には宰相サヴォナローラの手の者たちの多くの耳が張り付いているであろうことは、承知していたけれども。

 シイナドラド大使として、エルネストに先立って赴任したニコラス・ガルダメス伯爵はもう皇宮への挨拶も、大公宮への挨拶も済ませていた。

 だから今日、ヘルマンはエルネストの名代として大公宮へ一人で赴いたのだ。

 ガルダメス伯爵ニコラスの答えは、ヘルマンの予測通りのものだった。だが、言葉の最後には嫌味な空気が漂っていた。そんなことはもう知っている、もっと新しいことを言え、とでも言うように。

「そうだろうな。……私がご挨拶に伺ったのは二週間ほど前だったが、その折ももう、お健やかなご様子であられたからな」

 ヘルマンはちょっと顔を歪ませたが、言葉としてはまあまあ穏当な返答を選んだ。それでも、話は進めなければならなかったから。

「そうでございましたか。……伯爵様は大公宮で猊下以外の側近にお会いになられましたか?」

 聞くなり、ガルダメス伯爵の顔がちょっと変わった。

「……アキノとか言う執事だけだった。お前は他の誰かに会ったのか」

 ヘルマンはうなずいた。

「私は大公宮表の謁見の間にてお目通り致しました。……猊下のお側には大公軍団帝都防衛部隊隊長殿と、宰相の弟がおりました」

 ガルダメス伯爵の顔がしかめられた。

「なんと!」

 彼はヴァイロンのことも、リベルタでエルネストに大怪我を負わせたあの獣、ガラが宰相サヴォナローラの実の弟であり、大公宮の後宮に住んでいることも知っていたらしい。

「……なるほど。猊下はエルネスト様の側近のお前には、彼らをお見せになったのか。……彼らを『盾』になさったか」

 ヘルマンの眉がほんの少しだけ動いたようだった。

「盾、でございますか?」

 ヘルマンがその言葉を聞きとがめると、ガルダメス伯爵のしかめっ面が一気に明るいものに変わった。

「そうだとも。おまえは大公宮で『盾』に会ったのであろう?」

 ヘルマンはすぐにガルダメスの謎かけの意味がわかった。

(『盾』より伝言。今宵は殿下の寝台の位置を向かって左へ半分だけずらすように。挨拶に参る)

 それは、大公宮の謁見の間を辞してくるときに中肉中背の目立たない侍従に囁かれた言葉だ。

「……はい」

 ヘルマンが首肯すると、驚いたことに、彼はにこにことした笑みを浮かべた。

「そうかそうか。猊下はエルネスト様を恐れておられるのだな。まあ、無理もなかろうて。ここは……猊下のみもとで聞いた通りにするがよい。よいな?」

 ヘルマンはうなずいた。

 この屋敷には壁にも天井にも目があるのだろう。

 それなのに、寝台の位置をずらすなど、馬鹿げたことにしか思えなかったが、このシイナドラド大使のガルダメス伯爵までもが「そうしろ」と言っているのだ。

「承りましてございます」

 ヘルマンはそう言うと、ガルダメス伯爵の執務室を後にした。


 その夜。

 ヘルマンはエルネストの夕食も済み、執事や召使いたちの気配がなくなると、まだ居間で酒を飲んでいるエルネストを置いて、寝室の中へ入って行った。

 ヘルマンはこのエルネストの居室、それは寝室と居間、それに食堂からなっていたが……のすぐ側の一室で寝起きしていた。

 本来、侍従である彼の部屋なんぞは、召使いたち専用の建物の中にあるものだった。だが、ヘルマンはたった一人の侍従として付いて来たために、いつでもエルネストの呼び出しに答えられるよう、例外的にそうした場所に部屋をもらったのである。

 寝台を向かって左へ半分ずらすのにあたって、ヘルマンは召使いたちの前でつい先ほど、小芝居を打った。

(エルネスト様の大切な高価な宝石の嵌った袖ボタンが落ち、それが寝台の下に入ってしまった)

 と、言ったのだ。

 召使いたちはもちろん、「お手伝い致しましょう」と言って来たが、

「もう、夜遅いことだし、殿下は夜に大勢がお側で動かれるのは好まれない。私一人で手に追えなかったら、明日手助けしてもらおう」

 と言って、追い払ったのだ。

 だが、こう言っておけば多少の物音がしてもそれほど怪しまれないだろう。

 もとより、まったく疑われないとは思っていない。

 この屋敷の中ではガルダメス伯爵が来て以来、ずっとハウヤ帝国側とシイナドラド側が化かし合いをしているのだ。今さらである。ヘルマンは居間から手持ちの小さなランプを持ち出して、寝室へ入った。

 エルネストの寝室には明かりが点いていない。だが、居間のランプの光も頼りなげだが入って来ていたので、大体のものの様子は見て取れた。

 ヘルマンは一回ため息を吐いてから、おもむろにエルネストの寝台を動かし始めた。

 最初に、寝台の左右に敷かれた絨毯をどける。

 寝台は天蓋付きの重々しいものだったが、幸いに寝室の床は飴色に磨かれた幾何学模様に組み合わされた木材の床だったので、寝台の上部と下部を分けて押すと、あまり音も立てずに動かすことが出来た。

 それにしても軽く動くな、と思って寝台の足元を見てみると、寝台の太い足の部分の下には圧縮した繊維の布が当てられていた。最初から動かしやすいようにしてあったのだ。

 きっちり半分を左側にずらした時。

 エルネストのいる、居間の外の廊下に人の気配を感じたヘルマンはビクッと体を震わせた。

「おい、誰か来たぞ」

 大公宮から戻って来てからのヘルマンのすることを、無言のまま、面白そうに見続けていたエルネストの声が聞こえた。

「すぐに参ります」

 ヘルマンは寝室から居間に出ると、酒のグラスを口に運びながら、にたにたと笑っているエルネストを少しだけ睨みつけ、廊下への扉へと向かった。

 居間から廊下に続く扉の間には、狭い控えの間が挟まっている。

 コンコン。

 ヘルマンが居間を出ると同時に、扉を叩く音が聞こえて来た。

「はい。ただいま」

 ヘルマンはわざとゆっくりと答え、内側から扉を開けた。

「皇子殿下にはお休みのお時間に申し訳ございません」

 そう言って、ヘルマンに軽く頭を下げたのは、なんと、この屋敷の執事だった。中肉中背の冴えない男だが、身のこなしがその本来の身分を隠しきれてない男だ。それでも真っ黒な執事のお仕着せを来ていると、それなりに様にはなっていた。

「いいえ。……そちらの方は?」

 ヘルマンがわざわざ執事の後ろを見るまでもなく、執事の後ろに一人の黒い制服の男が立っているのが見えた。

「えっ?」

 夜更けのことだから、廊下にはランプの光はない。ただ、ヘルマンの持っている小さなランプと、執事の持っている手持ちの蝋燭が心もとなくあたりを照らしているだけだ。

 ヘルマンはそれでも、背筋を寒いものが撫でていくのを感じた。

 執事の後ろに立っている男の黒い制服には見覚えがある。

 今日の昼、大公宮で会った大公のカイエンと、その横に立っていたあの恐ろしい男が着ていた黒い制服と、それは同じ系統のものだったから。

 大公軍団の制服。

 それは、大公のカイエンのものが一番華やかで装飾が多い。以下、軍団長のイリヤ、治安維持部隊長のマリオとヘススの双子と帝都防衛部隊長のヴァイロン、と次第に制服は装飾が減り、地味になっていく。

 執事の後ろにいる男の制服は、明らかにその大公軍団の一員であることを示すものだった。

 だが、男の本当の階級はわからない。今、男がまとっている制服は街の署長級の着る制服だった。署長級には比較的若い者も、万年署長の年配者もいる。

「こちらの御仁が、至急の要件だと言うことで来られました。……それでは、失礼」

 皇帝サウルの親衛隊の一員であるはずの執事は、そう言うと、さっさと廊下を遠ざかっていく。

 その後ろ姿を、ヘルマンはやや茫然として眺めていた。

 では、あの執事にも、「盾」の息がかかっていると言うのだろうか。

「エルネスト皇子殿下にお目見えさせていただけますでしょうか」

 ヘルマンの驚きをよそに、残された黒い大公軍団の制服の人物が、まっすぐにヘルマンの目を覗き込んできた。

「……承りました」

 ヘルマンは、やっとの事でそう答え、男を控えの部屋に入れた。

「しばし、ここでお待ちください」

 そう言って、エルネストのいる居間へ入ると、そこには満面の笑顔のエルネストが待っていた。

「面白くなって来たじゃねえか」

 そう言うと、エルネストは手にしたグラスの中身をぐいっと一飲みに空けて言う。

「入ってもらえよ。……それとグラスをもう一つだ」

 ヘルマンはすぐに控えの間へ引き返し、大公軍団の制服を着た男をエルネストのいる居間へ通した。

 男は顔を隠そうともしない。

「お初にお目にかかります」

 エルネストを見るとそう、挨拶だけはしたが、その態度には不遜なものがあった。 

 それでも、ヘルマンはエルネストの座っている長いソファの向かいの一人掛けのソファに男を案内する。酒壜やグラスの並ぶキャビネットから、新しいグラスを持ってくると、その間に黒い制服の男はエルネストの向かいに悠々と腰掛けていた。

「……殿下の寝台を動かすようにと伺っていましたが」

 ヘルマンが、グラスを渡しながら問うと、男は嫌な笑いをその顔に張り付かせた。  

「寝台を動かすことに意味などありません。私ども『盾』に、接触するお気持ちがあるのかどうかを確かめたかっただけですから」

 男はことも無げにそう言うと、居間の中をぐるりと見渡した。

「この屋敷は、元はスライゴ侯爵の屋敷ですから、抜け道も隠し扉もあります。ですが、そっちは今、詳細な見取り図もろとも、あの宰相の手のものが抑えていますからね」

 聞くと、エルネストがだらしなくソファに寄りかかったまま、揶揄するように言った。

「あれえ? 俺は子供の頃、あの桔梗館でその宰相にも会ったことがあるぜ。……あいつもお前らの仲間じゃねえのか?」

 ヘルマンはもう、何も口をはさむつもりはなかったので、黙々と黒い制服の男の前のグラスに酒を注いだ。

「そこです。……神官見習いのフェリシモは確かに私たちの仲間だったが、宰相サヴォナローラとなった今は、ちょっと変わってまいりました」

 男は高価な蒸留酒の香りを楽しむように、グラスを回しながら言う。

「星の君に対する忠誠は変わらないでしょうが、あやつは皇帝サウルの決意を知って、私たちとは距離をとりました。だから、もう我らの仲間とは、いい難くなったのです」

 エルネストはまだまだ面白そうだ。

「へえ。それじゃあ、奴はもうあの人……党首様の言うことは聞かないって事かい?」

「そういうことになるでしょうね」

 黒い制服の男は深く、深くうなずいた。

「あれは……星の君個人に忠誠を誓ったそうです。……長い長い歴史の中で、ただ何かの偶然で星の君の姿を持って生まれてきただけの女にね」

 言葉の最後の方は苦々しい響きとなって語られた。この男にはカイエンは偶然の巡り合わせで大公になり、そして星教皇になっただけの、その中身には魅力を感じない存在なのだろう。

 そこまで聞いて、エルネストは話を元に戻した。

「へええ。そうなの。まあ、それはいいや。ところで、この屋敷の執事はお前の仲間らしいけど、他の召使いどもはどうなんだ?」

 エルネストの背後にはヘルマンが黙って控えている。だが、その薄い黄色の目は油断なく四方を警戒してるようだ。

「あの執事は親衛隊に籍を置くものですが、ここの召使いたちとして集められた者の一部には、大公軍団の隊員もいます。その中には私の息のかかった者もおります」

「へえ。それはカイエンも知ってんのかい?」

 男はちょっと目を光らせた。

「召使い役に大公軍団の隊員を使っていることなら、もちろんです。『盾』の息がかかっているや否やは別ですがね。一昨年からの大公軍団ではカイエン様に何も知らせないで大きな仕事をすることは、ほとんどできなくなりましたから」

 では、一昨年までは違ったと言うことだろう。

「ふーん」

 エルネストは面白そうだ。

「まあ、いいや。お前も知ってるだろうけど、俺はしばらくは大人しくしてろって言われてきてるんだ。皇帝の病気がどうなるかわからない以上、このハウヤ帝国の動静を見極めてからでないと動けないからな」

 男はうなずいた。

「シイナドラドの事情は聞いております。ところで、……ベアトリアの大使、モンテサント伯爵はもう動き始めているようです」

 聞くなり、エルネストの片目だけになった黒い目が黒曜石のように鈍く光った。

「へえ、そうなんだ。……あの国の企むことだ。姑息なことなんだろうな」

「その通りです。ロクでもないことですが、しかし、情勢の変化如何では、無視することができなくなっていくやもしれません」

 男の言いたいことは、そばで聞いているだけのヘルマンにもおぼろげに見えた。皇帝サウルの病気が長引くのか、それとも近い未来に最期の時を迎えるのかで、このハウヤ帝国は後継者について揉める可能性がある。

 オドザヤ皇太女は摂政になったが、それは本当に名目上のことで、彼女がこのハウヤ帝国を動かしているわけではない。

 また、初めての女帝の即位ともなれば、皇子フロレンティーノの誕生した現在、今までは黙っていた保守派が反対すると言うこともあり得る。そうなれば、ベアトリア陣営も蠢き始めるだろう。    

「本日はご挨拶に参りましただけですので、そろそろお暇いたします」

 グラスに最後に残った酒をぐいっと飲み干すと、男は立ち上がった。  

「これからお前に連絡を取りたい時にはどうすりゃいいんだい?」

 エルネストが座ったまま男を見上げて聞くと、男はことも無げに言った。

「あの執事にお申し付けください。……あれの弱みを握っておりますから、あいつは逆らえません」






 そして。

 四月二十三日の朝。

 それは、ハーマポスタール大公カイエンの結婚の日と定められた日であった。


 その日に先立ち、すでにエルネストは皇宮への挨拶も済ませていた。挨拶は皇太女、そして今は摂政という地位にもあるオドザヤが受けたが、宰相サヴォナローラが万事仕切り回したので、やり取りは儀礼的な言葉に終始した。

 本来ならば、他国の皇子の婿入りである。皇宮か大公宮で歓迎の宴でもしなければならないところだが、皇帝サウルが病床にあることを理由に、宰相サヴォナローラはその全てを省略してしまった。

 だが、これはそれほどの世間の憶測は産まなかった。

 「外国から皇子が来たので晩餐会を開きました」と言うなら読売りの記事にもなるが、「外国から皇子が来ましたが晩餐会はしませんでした」と言う記事を読みたがる市民は少ないだろう。だから、各新聞社も特にこの問題を報じようとはしなかったからである。

 新聞社に籍を置くものともなれば、シイナドラドとの間に、何かきな臭い事件が大公カイエンの外遊中にあったことはすでに嗅ぎつけていた。

 だから、あえて静観をしていたと言うこともあったのだろう。

 そうして放置されていたエルネストであったが、さすがに結婚式の日取りと場所は知らされていた。

 だからその日の朝、エルネストはせいぜい花婿らしい服装……それは兄であるセレスティノ皇太子の結婚式で着ていたシイナドラド風の薄い銀色に近い灰色の礼服だったが、に身を凝らして、馬車で大使公邸を後にした。

 彼の側の親族はいないから、代わりにシイナドラド大使のガルダメス伯爵ニコラスと、侍従のヘルマンが同行していた。

 この結婚式については、その日時さえ公表されていなかったので、屋敷の前に人だかりができているなどと言うこともなかった。

「陰気くせえ。これでカイエンが出てこなかったら、俺はもう知らねえぞ」

 皇宮の前もって指示されていた場所に馬車はつけられた。これまた、人気のない入り口で、エルネストは婚礼の行われる海神宮の大広間まで、待っていた侍従に連れられて、人気のない内廊下をくねくねと遠回りに歩かされた。

 そして、たどり着いたのも、あの立太子式でオドザヤが海を後ろに入って来た、海神宮の大広間の正面の入り口ではなく、奥の皇帝一家の立つ壇の側の入り口だった。

 それでも、高貴な人々の使用する扉なので、扉は表面に金属をかぶせた重厚なもので、海神オセアニアの姿が大きく象嵌されていた。

「こちらでございます」

 そこには別の年配の侍従が待っていた。

 彼らが二人掛かりで開けた扉をエルネストとガルダメス伯爵、それにお付きのヘルマンが通ろうとした時だった。

「お待ちください」

 侍従の一人が、ガルダメス伯爵とヘルマンの前に立ちふさがったのだ。

「何か!」

 侍従ごときに歩みを止められたガルダメス伯爵は、大きな声を出した。

 すると、年配の侍従は恐る様子もなく、静かに答えた。

「エルネスト皇子殿下以外の方のご入場はお控えくださるように、と宰相から命じられております」

「なにい!」

 ガルダメス伯爵ニコラスが、かん走った声をあげる。

 すると、このことは予測されていたのか、海神宮の大広間側の扉が開き、痩せて背の高い、褐色のアストロナータ神官の装いをしたサヴォナローラがエルネストたちの前に現れた。

「ご苦労」

 サヴォナローラがそう言うと、二人の侍従は扉の向こう側に下がった。

「お待ちしておりました」

 アストロナータ神官の褐色の長い帽子の下の、サヴォナローラの真っ青な目を見ると、エルネストはともかく、ガルダメス伯爵はややたじろいた。

「本日のお式には、エルネスト皇子殿下のみお入りくださいますように」

 サヴォナローラは静かな声でそういったが、それは相手の答えなど聞こうとしてない、決定事項を伝える声音だった。

 エルネストもさすがにカチンと来た。

「おいおい。まあ、俺の侍従はしょうがないとしても、こいつはシイナドラド大使だぞ。それも入れねえってのか」

 エルネストとサヴォナローラは、子供の頃にあのアルウィンの桔梗館の集会で顔を合わせたことがある。だが、互いにそのことを持ち出すわけにはいかなかった。

「し、失礼であろう!」

 エルネストの後ろから、ガルダメス伯爵も叫ぶ。

 だが、サヴォナローラは落ち着いていた。

「申し訳ございませんが、これは大公殿下のご希望です。……本当は、皇子殿下のお顔こそご覧になりたくもないのでございましょうが」

 痛烈な嫌味をさらりと、ことも無げに言い切ると、サヴォナローラはエルネストではなくガルダメス伯爵の方を見た。

 そして、小さな、囁き声で言った。ヘルマンの後ろの扉の向こうに控えた侍従には聞かせたくないのだろう。

「あなた方が無理矢理に御即位おさせした、星教皇猊下のご希望ですよ。それでも聞けませんか?」

 この言葉には、ガルダメス伯爵も一言もなかった。

「わかったよ」

 エルネストも渋々、了承した。

 ガルダメス伯爵には悪いが、エルネストの方は彼が立ち会おうが立ち会うまいが、どうでもよかったからだ。

「お前たち、ここで待っていろ」

 そう言うと、エルネストはサヴォナローラに案内されて、海神宮の大広間へと入っていった。


 海神宮の大広間。

 扉の向こうには、何百人、いや千人でも入れそうな天井の高い広々とした空間が広がっていた。

 入っていったエルネストも、内心、感心していた。この広さはシイナドラドの皇王宮の大神殿よりも広いのではないか。

 だが。

 オドザヤの立太子式が行われた、そのだだっ広い空間に集まっていたのは、新婦のカイエンを入れてもたったの四人だけだった。

 立会人として集まったのは、神官でもある宰相サヴォナローラにザラ大将軍、それにクリストラ公爵ご夫妻のみ。

 サヴォナローラとエルネストを待つ、全ての人々は壇上にいたが、入っていったエルネストの方を見る者はいなかった。

「お待たせいたしました」

 サヴォナローラがエルネストを連れて壇上への段を上がっていくと、壇上の中央には真っ黒な磨き抜かれた大きな木の机が置かれているのが見えた。その上に、羊皮紙らしい正式な契約などにのみ使われる厚くて丈夫な紙が広げてあった。脇にはペンとインク壺。

 その黒い立派な机の周りに、カイエン、クリストラ公爵ヘクトル、公爵夫人ミルドラ、それにザラ大将軍が無言のまま立っていた。皆、地味な礼服に身を包んでいた。カイエンの着ていたのはオドザヤの立太子式の時に着ていた礼服だったが、もちろんそんなことはエルネストにはわからない。

 カイエンの後ろには椅子が用意されていたから、彼女だけは待っている間、座っていたのだろう。

 サヴォナローラとエルネストを入れても、総勢たったの六名。

 エルネストはその異様さに呑まれて、いつもの軽口も出て来はしなかった。もっとも、カイエンとの事情を知り抜いている彼らからしたら、エルネストがもし変な口でもきこうものなら、大変なことになっていただろう。

 エルネストはカイエンの方を見たが、カイエンはクリストラ公爵夫妻に挟まれ、ミルドラに右手を取られて俯き加減に立っており、エルネストの方を見ようとはしなかった。

 蒼白を超えた、死人のような顔色だ。

 それでも、シイナドラドで別れた時の痩せ細った姿からすれば、かなり健康そうに見えた。

「ふむ。公爵のご報告通り、片目を隠しておるな」

 サヴォナローラの後ろから、黒い机を挟んだカイエンの真向かいへと歩くエルネストへ、ザラ大将軍が感情の入っていない声で言った。

 挨拶もせず、他国の皇子の姿を冷たい声で論評する姿は、日頃のザラ大将軍を知る者からすれば驚きであっただろう。

「その目はどうなさいましたの? 皇子殿下」

 次に、カイエンの向かい側にやって来たエルネストへ、ミルドラの冷たい声が飛んだ。

 エルネストはミルドラと会ったのは初めてだったが、その自分やカイエンによく似た顔立ち、緑がかった髪に灰色の瞳を見れば、その正体は明らかだった。

 ミルドラの母である故、ファナ皇后はエルネストの父である皇王バウティスタの姉だから、ミルドラとエルネストはいとこに当たるのだ。

 カイエンもシイナドラドで感じたことだが、ミルドラは母のファナ皇后によく似ており、エルネストの父である、叔父の皇王バウティスタとも似ていた。

「お初にお目にかかります。公爵夫人」

 エルネストは落ち着いていた。ミルドラの質問は当然、予想していたからだ。

「こちらの目は、もうございません。……自ら捨てて来ましてございます」

 エルネストがそう言うと、ハウヤ帝国側の五人、すべての目がエルネストに注がれた。

 そう。

 この時やっと、カイエンは顔をあげたのである。

 だが、エルネストの姿を目の端に捉えると、カイエンの顔はふいっと背けられた。

「なるほどね。確か、黒と灰色の色違いの目でいらしたと伺っていますわ。それでは血族の証の方を捨てて来たと言うわけね」

 ミルドラの声は氷よりも冷たかった。そして、事実をしっかりと射抜いてもいた。

 エルネストはホヤ・デ・セレン郊外のあの桔梗の館で、まさしく二つの目のうち、血の繋がりを表していた方を捨て去ること自らで選んだのだから。

「ミルドラ……」

 クリストラ公爵ヘクトルが、さすがにとりなすように言いかけたが、妻の激しい怒りに燃えた顔を見ると、黙ってしまった。

「そんなモノで、カイエンの受けた苦しみがあがなえるとは思っていないでしょうね。この子はね、この通り体は回復したけれど、かわいそうに、鏡を見ることが出来ないのよ。この子の心は傷ついたままなの!」

「えっ」

 エルネストはミルドラの弾劾をそれまで、黙って聞いていたが、そこで声をあげた。

「鏡の中の自分の顔だけではなくて、私や兄上の顔を目にするのも避けてしまうのよ。その原因がわかる? それはあなたのその顔よ。忌々しいそのシイナドラド皇王家ゆかりの顔を見たくないからなのよ」

 ここまで聞いて、やっとカイエンは声が出た。

「伯母様、もう、そのくらいで……」

 自分の代わりに言ってくれているのはわかっていたが、言葉で聞かされると堪らなかった。

 ミルドラはカイエンに何か言おうとしたが、賢明な彼女はカイエンをこれ以上刺激するのはさすがに避けた。

「そうね。こんな奴に言ってもしょうがないことだわ。ごめんねカイエン。でも、これだけは言っておきたかったの」

 ミルドラはカイエンを自分の胸の中に抱き入れると、娘たちにするようにそっと背中を撫で始めた。

「皆様、大公殿下がお疲れになるといけません。せねばならぬことを済ませてしまいましょう」

 カイエンとミルドラを後ろにかばうように、エルネストの前に出たサヴォナローラがそう言うと、ザラ大将軍もクリストラ公爵もうなずいた。

「皇子殿下、こちらへ」

 茫然として立っていたエルネストを、サヴォナローラは黒い机の前へ呼んだ。

「こちらにご用意いたしましたのが、大公殿下とあなた様の結婚契約書でございます。本日はこちらにここでご署名いただくためにお呼びいたしました」

 サヴォナローラの淡々としたいいように、エルネストは頭が痺れるような心地がしていた。

 結婚契約書。

 なるほど、カイエンはもとより、ハウヤ帝国の人々にとってはこの婚姻は歓迎するものではないとわかってはいた。

 だが、それでも。

「もとより祝福された婚姻ではございません。そのことはご存知のはず。さあ、こちらへご署名を」

 静かな声で促すサヴォナローラは、神官としての責務をここで思い出したらしい。

「ここにはアストロナータ神官である私も立ち会っております。シイナドラドの形式にもこれで法っているはずです」


 誓いの言葉も、祝福の言葉もない結婚式。

 それが、彼ら二人の結婚式であった。

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