揺れる帝国

 皇帝サウルの治世二十一年目の始め。一月末。

 皇帝サウルは病に倒れた。

 夜の食事の後に嘔吐し、腹部と腰の痛みを訴えて床に就いたのだ。

 医師の見立てでは胃が硬くなっており、肝の臓が腫れているようだということであった。皇帝の奥医師は数人いたが、老練な彼らの出した結論は、腹部の腫瘍という見立てであった。

 それも、すでにいくつかの臓器に及んでいるのではないか、と彼らは疑っていた。

 だが、この時代に出来る治療は限られたものでしかなかった。

 奥医師たちはいずれ黄疸が現れるだろう、と推測したが直接的にそれを防ぐ手段はなかった。

 で、あるから、彼らは皇帝の周りの者たちに、炎症を抑える薬と、肝の臓に優しい食餌療法を指示するしかなかった。


 「我は去りゆく者である。ゆえにこの時、世継ぎの定まった今こそ。ここで話しておきたいことがある」

 「オドザヤは未だ未熟であり、そして女でもある。これを直接に支える柱として、我は以下の者を指名する」

 一年前の一月。

 皇帝サウルがオドザヤの立太子式の最後にそう言い出した時。

「我は去りゆく者である」

 カイエンはサウルのその言葉に、漠然とした不吉さと不安のようなものを覚えていた。 

 あの時のその思いは漠然としたものであったが、皇帝が倒れた今になってみれば思い当たることもあった。

「ここにおる宰相サヴォナローラ、そして臣下の第一としてハーマポスタール大公カイエン、軍の第一として大将軍エミリオ・ザラ、元老院長としてフランコ公爵テオドロ、最後に我が妹、そしてオドザヤの叔母としてクリストラ公爵夫人ミルドラおよびその配偶者、クリストラ公爵ヘクトルを指名するものである」

「我は去りゆく者である」

 あの時、皇帝はもう一度、繰り返したのだ。

「去りゆくものの残す言葉を噛み締めよ」

 と。

 そう言って。

 皇帝サウルはその灰色の眼で、臣下一同をぐるりとねめつけた。

 そして、最後に彼が言った言葉。

 それは、今となってみれば遺言のような響きを持っていた。

「ハウヤ帝国よ永遠なれ。神々の加護のもと、永遠に栄えよ。これはこの皇帝サウルの残す希望である。人として子として親として、そしてこの大国の父たる皇帝として我は願う。皇太女オドザヤよ。汝がこの国土の母としての任務を全うすることを我は切望するものなり」

 そして。

 皇帝サウルが倒れた今。

 あの時、サウルが言った言葉の重要さを、人々はいまさらに思い知っていた。

 では。

 あの時すでに、皇帝サウルはおのれの命運を悟っていたのだ、と。






「またまた、どえらいことになって来ましたねえ。去年から色々、雲の上では大変なんでしょ。皇子皇女のご誕生はもちろん、第二皇女さんはネファールに行って王太女になるって言うし、殿下は……ねえ。そんな時に皇帝陛下が倒れちゃうって」

 第二皇女の後に、カイエンの結婚のことを言いかけてやめたのが明らかにわかるぼやき。

 二月に入ってすぐ。

 ある日の午後。大公宮の表のカイエンの執務室。

 カイエンは一月になってしばらくしてから、大公としての勤めに戻っていた。

 医師たちからも、そろそろ公務に戻っていいと言われたこともあった。だがまだ以前のように市井の事件現場を訪れるようなことはなかったが。

 大机の向こうに座って書類を決済していたカイエンの前で大仰に嘆いたのは、大公軍団長のイリヤだった。

「なんか、一昨年からこのかた事件続きで、皇帝陛下の後継ぎのことも急にとんとんと決まって、ついでに四十過ぎて皇子皇女まで生まれちゃって〜。変だなぁ変だなぁとは思ってましたけど。これって皇帝陛下には織り込み済みだったんですかねえ? まさか、ご自分の寿命を悟……」

 さすがにその先は自粛したものの、イリヤの言いたいことはカイエンにもわかった。

 いろいろあって帰国後、一ヶ月の療養を必要としたカイエンであったが、この頃にはまだやつれは残っているものの、日常生活には滞りがないほどには健康を回復していた。

 イリヤはそのカイエンの目の前に並べられた二つの椅子の一つにかけている。

 カイエンが留守にしていた四ヶ月の間、大公軍団の長を務めていたイリヤ。いろいろと常人を超越した彼にとってもそれは気疲れのするのものでは、あったらしい。

 甘ったるい美形顔にはツヤがなく、どことなく老けて見えた。

「市内でも読売りが飛ぶように売れてるそうですよ。……そんなに根拠のしっかりした記事があるわけでもないのにねえ」

 イリヤの横の椅子から付け足したのは、小柄でひねこびた中年の、マテオ・ソーサだった。

 こちらは大公宮の奥の元後宮に住んでいるから、帰国してからぶっ倒れたカイエンの見舞いにも余念がなく、ガラ共々、療養中のカイエンにはいろいろと気を配ってくれていた。

「……ウゴから話が入っていますか?」

 ウゴこと、ホアン・ウゴ・アルヴァラードは帝都でも有数の読売りである「黎明新聞」の記者で、教授ことマテオ・ソーサの私塾の教え子の一人である。

 カイエンが聞くと、教授はちょっと眉をしかめて見せた。

「こういう雲の上の話が下々にまで伝わるカラクリには、大きくふた通りあります。一つは雲の上から意図的に流される公式見解です。これは言わば情報操作で、その時々に、民衆に信じて欲しい情報を出すわけです。もう一つは、雲の上に近いどなたかが、うっかりか、わざとか使用人などに漏らしたために人から人へと伝わっていく場合です。こちらの情報は当初は真実の状況に近かったかもしれないが、人づてに伝わるうちに変形してしまうのが常です」

「そうでしょうね」

 カイエンが同意すると、教授はふうっとため息をついた。

「ですから、前者の場合にしても後者の場合にしても、情報源としてははなはだ心もとない。ウゴたち読売りの記者たちはそんなことは百も承知です。だから、第三の方法を取らざるを得ません」

「第三の方法?」

 教授は痩せて骨ばった両腕を組んで、椅子の上で伸び上がり、執務室の高い天井をふり仰ぐ。よく考えてみれば、大公殿下の前でする態度ではない。

「自分たちでなるべく雲の上に近い場所へ張り込んで、こぼれ話を直接拾うんですよ」

「貴族の使用人とかに金を渡すのか?」

 カイエンが聞くと、教授はひょいと顔をカイエンの方へ戻した。

「それもあります。だが、それでは適当な情報を流されて終わりです。まあ、色々やりますよ。……イリヤ君、君ならわかるんじゃないかね?」

 ぽいっと教授から話を振られたイリヤは、嫌そうな顔をした。

「なあにぃ。せんせーは俺たちもブン屋さんたちと同じ手を使ってるじゃん、って言いたいの?」

 教授はうなずいた。

「弱みを握って手足に使うくらいの小手技は常套手段だろう」

 イリヤはにやっと皮肉そうな笑みを浮かべる。

「ああ。そう言うことね。まあ、犯罪捜査もブン屋さんの探求も、たった一つの真実を探してるって点ではまあ、一致はしているよね」

 それでも教授の指摘は認めたようだ。

「……たった一つの真実……か」

 そうなのだろうか。

 カイエンはふと、疑問に思った。

 皇帝サウルは、今思えばまるで自分の寿命が近い未来に失われることを知ってでもいるようだった。

 いや。

 もしかしたら、彼はもっと前から「その時」が近い未来に訪れることを自覚していたのではないか。

 だから、二年前の春、カイエンとヴァイロンにあのような沙汰を下し、カイエンに一人前の大公としての自覚を持たせようと図ったのではないか。

 黙ってしまったカイエンを、教授は真面目な顔で見つめていたが、やがて、声の調子を変えて聞いてきた。 

「それはそうと、殿下」

 カイエンははっとして顔をあげた。

「うん?」

「……言いにくいことですが、アキノさんも、そろそろ考えなければいけないと言っていたので」

 教授は言いにくそうだったが、これは今日言わなければならないと思ってきたのだろう。そういう口ぶりだった。

「なーに? 先生?」

 イリヤもそれを感じ取ったのか、教授の背中を押すようにとぼけた声を出した。

「ふむ。……殿下のご結婚のことですよ。皇帝陛下が倒れられた今、どうするべきなのか、早めに皇帝陛下のご意向をお聞きした方がいいと思ってね。向こうはもう、シイナドラドを出てしまったのかねえ。そんな連絡も、受け取ったとしてもそれは宰相さんだろうからねえ」

 カイエンもそのことは考えないではなかったので、鷹揚にうなずいた。

 エルネストのことはあまり考えたくも、思い出したくもないが、公人としてのカイエンとしては避けては通れない話題なのだ。

「そうなのです。ですからもう、宰相の方へ私の意向は伝えてあります。ですが、あちらは別の件で忙しいようでしてね」

「ああ」

 教授にはそれはもう、考えのうちに入っていたことだったらしい。

「オドザヤ皇太女殿下を、摂政として立てるのか否か、と言うことですな?」

「ええ」

 カイエンは机の上にかきかけのまま、放り出していたペンを取り上げると、インクをつけないままにそれを真っ白な紙の上にさらさらとさ迷わせた。

「……去年からの皇帝陛下のやりようを見ていると、今度のご発病のことも予想しておられたように思うんです。もしかしたら、もうかなり前からお身体のご不調を自覚なさっていたのか、それとも何か予感のようなものがあられたのかも知れんとも」

 カイエンがずっと漠然と思っていたことを話すと、教授とイリヤは顔を見合わせた。

「マグダレーナ様の御輿入れ、それに引き続く皇子皇女のご誕生は、そう言う意味では皇帝陛下には図に当たったと言うべきことなんでしょうな」

「そうだと思う。リリの方は計算外だったとは思うが」

 カイエンが言うと、イリヤが口を挟んできた。

「リリちゃんねぇ〜。頭がおかしくなっちゃった皇后陛下には悪いけど、あの子はいいですよねぇ。ヴァイロンの大将がお父さんみたいになっちゃって、びっくりしたわ俺」

 リリを引き取ってきてからしばらく、カイエンは療養中で動けなかったのだが、リリを引き取ったことは大公宮の奥の侍従や女中、それに大公軍団の幹部であるイリヤたちにも知らされた。

 乳飲み子のリリにはもちろん、信用できる乳母が付けられていた。

 だが、サグラチカやアキノ、それに奥の元後宮に住んでいる教授やガラ、それにヴァイロンやシーヴはカイエンに近いので、毎日のようにリリの顔を見にきていた。

 仕事に追われているイリヤや、双子のマリオとヘススは随分経ってからやってきたが、その時にはもう、ヴァイロンは仕事から戻ればリリにかかりっきりの状態だった。

 カイエンの見るところでは、あれは体を壊して寝ているカイエンに触れるのを遠慮しているヴァイロンの過剰な愛情の方向が変わっただけだったが、イリヤから見れば「お父さん」のように見えたのだろう。

「おや。君にもあの子の良さがわかるのかね?」

 わざと意外そうな顔で訊く教授へ、イリヤは攻撃的な笑顔を向けた。この場合の攻撃的とは生まれついての伊達男が繰り出す、男女構わず必殺の笑顔のことである。

「あらあ。先生にもわかるのぉ?」

「……気持ち悪い顔をするもんじゃない! そんな顔でリリ様の前に出たら皆に殺されるぞ」

 教授は鳥肌を立てて呻いた。だが、イリヤはめげない。

「あの子はそんな細かいことは、きっと気にしない子になると思うけどなあ。生まれたばかりの赤ん坊なのに、なんだか落ち着き払ってるもん」

 カイエンはイリヤのとぼけた色男顔を見直した。

「……イリヤもそう思うのか」

「ええ?」

 カイエンが同意するとは思っていなかったようで、イリヤは意外そうな声を出した。

「あの子はあまりに手がかからないと、乳母が不思議がるほどなのだ。猫のミモもすぐに慣れていつもそばにいる。サグラチカに言わせると、赤子の時の私は癇が強くて手を焼いたそうだ。それに父以外の男の人がだめで姿を感じるなり泣き出すので、アキノさえなかなかそばに寄れなかったと言っていた。……それに比べると、姿は私に似ているようだが、性格の方は大物に育ちそうだな」

 カイエンがそう言うと、教授も得たり、と乗り出して来た。

「そうですよ、そうですよ。……私はもう歳だが、リリ様のご教育が始まったら、私の知っていることをみんなお伝えしてから死にたいと思いますよ。とりあえず六十まで生きればなんとかなりますかねえ」

 教授のとんだ「生き甲斐発見!」をイリヤがまぜっ返す。

「あらやだね。せんせーなんか殺したって死なない顔してるじゃないのー。百まで生きて、俺の葬式に出そうだわ」


 そうして。

 イリヤがリリの話を始めてから、三人ともにその前にしていた話を忘れそうになった頃。

 大公宮表のカイエンの執務室へ手紙らしきものがのった銀盆を持った、表の侍従のベニグノが入って来た。

「どうした?」

 カイエンが聞くと、ベニグノは静かにカイエンの執務机の前に立ち、銀盆を差し出した。

「宰相府からの書状が参りましてございます」

 カイエンが手紙を取り上げるまでもなく、その表書きは螺旋文字で書かれていた。

 カイエンは封を開けて、中身をゆっくりと読み下した。中身はもちろん神経質そうな太くも細くもないペン書きの、きっちりとした螺旋文字だ。

 イリヤには読めないだろうが、教授の方はちょっと覗き見えた文字から、大体のことが分かったらしい。

「早速、先ほどのお話が実現することになりそうですな」

 カイエンはそっとうなずいた。

 サヴォナローラのよこした文面は、今日か明日、いつでもそちらの都合のいい時間に宰相府まで来て欲しい。今後のことで打ち合わせたいことがある、と言う簡潔なものだった。


 




 翌日。

 まだ寒い時期なので、大事をとって朝の大公軍団の朝礼には出ていないカイエンは、朝食を済ませるとすぐに馬車に乗った。

 サヴォナローラへは昨日のうちに返書を送り届けてある。

 カイエンが宰相府のサヴォナローラの執務室へ入っていくと、皇帝の秘書である内閣大学士のパコ・ギジェンがサヴォナローラと机を挟んで何か相談中だった。

 パコとは一月に皇帝の誕生日の宴で会ったが、皇帝サウルが倒れた今、彼もなかなかに大変であろうことは容易に想像できた。

「あっ、殿下」

 カイエンを見ると、パコは深々と頭を下げて挨拶し、広げていた資料を紙挟みにまとめ、部屋を出て行こうとした。

「仕事は済んだのか」

 カイエンが聞くと、パコではなくサヴォナローラが答えた。

「いらっしゃいませ。大公殿下。わざわざご足労をおかけして申し訳ございません。……いいのです。パコとの話は終わりました」

 こちらはさすがに椅子からは立ち上がったものの、挨拶の方は早々に話に入りたい、と言う気持ちが見え見えだった。

「パコ。では、オドザヤ皇太女殿下の摂政就任の件は、そなたに任せる」

 カイエンや教授、イリヤが昨日話していたことが、すでに実現へ向けて実務段階に入っているらしい。

 出ていくパコの小太りな後ろ姿を見送ってから、カイエンはもう何度も呼び出されてきて慣れた場所である、サヴォナローラの机の前の椅子に腰掛けた。

「やはり、皇太女殿下を摂政に立てるのか」

 カイエンが聞くと、サヴォナローラは即座に答えた。

「もう、殿下もお気付きでしょう。……皇帝陛下は去年以前より、お身体に不安を抱いておられました。そのために次代をどうするか、ずっとお悩みだったのです。私も最初は気のせいですと申し上げておりましたが、皇帝陛下にはご自分の体調の変化と同じものを何度か見て来られたそうで……」

 前半は、予想はしていたことだったが、後半を聞いて、カイエンは瞬きした。

「同じものを?」

「ええ」

 サヴォナローラは青ざめた顔で声も小さい。

「皇帝陛下のお父上である先のレアンドロ皇帝陛下、お母上のファナ皇后、それに叔父上のグラシアノ大公。皆様、五十に手がとどくか届かないか、というお歳でお亡くなりになっておられます」

 カイエンの大叔父に当たるグラシアノ大公はカイエンの生まれる前に亡くなっている。だから、アイーシャが一時期、大公妃だったのだから。

 祖父にあたるレアンドロ皇帝と、祖母にあたるファナ皇后はカイエンが生まれるのと前後して亡くなった。だから皇帝サウルの治世は今年二十一年目にあたり、カイエンは二十歳になっているのだ。

「皆様、内臓に腫瘍の出来る病で亡くなったそうです。私は最初に伺った時には、偶然だろうと申し上げたのです。もっと前の皇帝陛下、皇后陛下にはかなりご長命だった方々もおられますから」

「はあ」

「皇帝陛下は気のせいならそれはそれでいいとおっしゃいました。だが、皇子のないまま四十の坂を越えられたのは事実。ご体調のこともあって、オドザヤ様の立太子を決意なさり、その上でベアトリアとの戦後処理の一環でもあり、未亡人のマグダレーナ様を後宮へ入れられました」

「そして、フロレンティーノ皇子が生まれたわけだな」

「はい」

 だが、皇子はまだ生まれたばかり。ここで皇帝サウルが崩御すれば、ハウヤ帝国は赤ん坊の皇帝を戴くことになる。それはさすがに不安だ。

「ベアトリアが新皇帝の後ろにつくのも、避けたいだろうな」

 カイエンが言うと、サヴォナローラは首を振った。

「いいえ。皇帝陛下はベアトリア自体は恐れておられなかったのです。……マグダレーナ様がご懐妊になるまでは」

「はあ?」

 カイエンは思わず間抜けな声を上げてしまった。

「殿下も覚えておられるでしょう。一昨年、桔梗館の一党をおびき寄せて処分した時のことを」

 カイエンが忘れるはずもなかった。あの事件から彼女の人生は嵐の中に叩き込まれたのだから。

「そうか。あの皇后陛下の晩餐会には、フェリクスがいたな」

 外国の、ベアトリアの王太子が臨席する中で、あれは行われたのだった。

「ええ。あの時点では皇帝陛下はベアトリアはもうこのハウヤ帝国の属国くらいに思っておられたのです。ネファールやスキュラのように」

 なるほど。他の二人の妾妃の故郷の次代には、皇帝サウルの娘が立てられることになっている。

 皇帝はマグダレーナの子も同じように使おうと思っていたのだろう。

「だが、マグダレーナは他の妾妃とは違っていたんだな」

「そうです。あの方は最初の結婚でのお子様と引き裂かれて、この国へ来られた。他の妾妃様たちのように、何もわからない少女の頃に輿入れしてきた方とは明らかに気持ちの持ちようが違っていたのです」

「なるほど」

 カイエンが頷くと、サヴォナローラは話を戻した。

「今、皇帝陛下はいずれフロレンティーノ皇子が皇帝になられるとしても、その時にはお母上であるマグダレーナ様を排除せねばならぬとお考えです」

 カイエンはシイナドラドへ行く途中で立ち寄った、ベアトリアの異様な雰囲気を思い出していた。

 チェチーリオ国王も、王太子のフェリクスも、ハウヤ帝国に対する怒りを秘めていた。フェリクスなど、それを隠そうともしなかったではないか。

「ベアトリア宮廷の雰囲気もそうだった」

 もう、このことはサヴォナローラにも報告してあった。

(姉の子が皇子で、皇后陛下の子が皇女であったとしても、大公殿下が姉の側につくことはないということです)

 あの時、フェリクスが言った言葉を思い出す。

 リリを引き取ったことで、事態はまさにフェリクスの言った通りに進んでいる。先月の誕生日の宴では、マグダレーナ本人にも言われたことだ。

「大変だな。……オドザヤ皇太女殿下の身辺を警戒せねばな」

 カイエンがなんとなくそう言うと、サヴォナローラは目を見張った。カイエンがそこまで気を回せるとは思っていなかったのだろう。

 馬鹿にされたもんだ、と思いながら、カイエンは聞いた。

「そなたはどちらに付くのだ?」

 そう、カイエンが畳み掛けると、サヴォナローラは苦笑した。そして、なんだか変な潤んだ目でカイエンを見た。

 そして、答えた声は聞き取れないほどに小さかった。


「最初にお目にかかった時に申しましたでしょう。『我ら兄弟、これより、ハーマポスタール大公、カイエン殿下に忠誠を尽くします』と」


 今度はカイエンが目を見張る番だった。

「……冗談じゃなかったのか。てっきり私を馬鹿にしているのだと思っていた」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラはさっきとは全く違う顔をして、違う話を始めた。 

「カイエン様。オドザヤ様の摂政就任のことは私とパコにお任せください。もちろん、オドザヤ様の身辺には特別の警戒を行います」

 そこで、一回息をついてから、彼はカイエンに直接関係のある話をし始める。

「シイナドラドから間も無く大使が来るそうです。これで彼の国の『鎖国』も、このハウヤ帝国に関しては緩んだと言うことになるのでしょうか。……また螺旋帝国の公邸に入られでもしたら厄介ですから、皇帝陛下には適当な屋敷を買い上げて用意しておくようにとの仰せです」

「そうか」

 カイエンがため息をつくと、サヴォナローラは意外な場所を口にした。

「ちょうどと言ってはなんですが、あのスライゴ侯爵の館が主人のないまま、放置されておりましたので、厳重に調査させた上で使うことにしました。調査の方は一度、一昨年の事件の後に行なっております。まだそれほど荒れてもおりませんので、ちょっと手を入れれば問題ないでしょう。場所も侯爵邸ですから一等地です。あちら様も文句はございますまい」

「……大丈夫なのか? 桔梗館の連中の出入りのための抜け道とかが作られているのでは?」

 カイエンが気を回すと、サヴォナローラは端正な顔に皮肉そうな笑みを浮かべた。

「ええ。もちろん、抜け道も隠し部屋もありましたのです。……ですが、あえてそれはそのままにしてあります」

「えっ?」

 カイエンは驚いたが、すぐに理解した。

「親衛隊でも常駐させておくか?」

 カイエンがそう聞くと、サヴォナローラは満足そうにうなずいた。

「ええ。親衛隊の精鋭を抜け道の出口に配しておきます。……変に新しい館を用意しても、どうせ良からぬ仕掛けを作ろうとする者共はやりますからね。それよりは事前に見取り図の取れている屋敷をあてがった方が安全でしょう」

「……」

 カイエンが疑わしいという顔で黙っていると、サヴォナローラはくつくつと笑った。

「ご心配なさらずとも、彼らはいずれ使用人を雇うはずです。それに食物やら日用品やら、燃料やらはこの街の商人を頼らずにはおられますまい。まあ、来て早々は連れて来た召使いで凌ぐでしょうが、いずれそうも言っていられなくなるでしょう。その時はこちらの息のかかった者を雇わせます」

 雇わせる。

 すでにその人選も済んでいるような言い方だ。

「そうか」

 大人しくカイエンがうなずくと、サヴォナローラは話を進めて来た。

「シイナドラドの大使が来るということは、いよいよ、かの第二皇子が婿入りして来ることになります」

「そうだろうな。もう期日の連絡は来ているのか」

 カイエンとしては、シイナドラドでのことは思い出したくもないことなので、棒読みのような言い方になってしまう。

 そんなカイエンをあえて表情を変えることなく見ながら、サヴォナローラは答えた。

「はい」

「いつだ?」

「一月の中旬、すでにシイナドラドを発っているとのことです。人数などは最低限で、護衛の者たちはハウヤ帝国に入りましたらそこから国許へ返すと書いて来ています」

 カイエンは反射的に聞いていた。

「では、クリスタレラに入る前にシイナドラドの護衛は引き返すのだな。……そこからはどうする?」

「クリストラ公爵様はまだハーマポスタールにいらっしゃいますが、間に合うようにご領地へ戻られます。……マグダレーナ様の時に迎えに行かせたドラゴアルマを、とも思いましたが、公爵様はご自分の軍勢で厳重に取り囲んで連れてくる、と仰せです」

 なるほど。

 すでに、クリストラ公爵ヘクトルには話をしたらしい。クリストラ公爵の夫人はカイエンの叔母のミルドラだ。だから、血は繋がってはいないが、ヘクトルはカイエンには伯父にあたる。

 彼はクリストラで倒れたカイエンに自分の侍医をつけてくれたくらいだから、シイナドラドでカイエンがどんな目にあったかも知っている。

 一月の皇帝サウルの誕生日のために帝都へ上がって来た時には、ミルドラと二人、何度か見舞いに来てくれた。

「クリストラ公爵なら、事情もご存知だ。それに慎重で理性的なお方だから、適任だろう」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラもうなずいた。

「皇帝陛下は病の床にあられますし、殿下にはお辛いことですから、ご婚礼の式はこの皇宮の海神宮にて、立会人として神官でもある私とザラ大将軍、それにクリストラ公爵ご夫妻のみが出席いたします」

 カイエンの婚礼の話だが、サヴォナローラは自分の事のようにもう全て決めているようだった。

 普通なら怒るところだろうが、カイエンには異存がなかったのでうなずいただけで了承した。おそらくはサヴォナローラなりに気を遣って決めて事なのだろうとわかったからだ。

「……お式の後ですが、シイナドラドの第二皇子はしばらくシイナドラド大使公邸に住まわせます。世間では不思議に思うでしょうが、しばらくは私の目の届かぬ場所には置けません。その間に、大公宮にかの者を収容できる宮をご用意いただきます。大公宮にはガラもおりますから、殿下のお部屋とは離れた、しかし見張りやすい場所がよろしいでしょう」

 かの者を収容できる場所。

 大胆にも彼は、大公に婿入りした他国の皇子を軟禁状態におけ、と言っているのだ。

 それに、サヴォナローラはエルネストという名前を口にするのを避けた。こちらはカイエンへの気遣いだろうが、彼の慎重さに今のこの国の状態の危うさが伺える。

 カイエンはサヴォナローラの言葉の選び方に、今、このハウヤ帝国が置かれている危うい均衡をまざまざと見た。

「わかった」

 だが、カイエンは短く言うと、それ以上は何も言わずに静かに宰相府のサヴォナローラの部屋を後にした。 






 そして、皇帝サウルの治世二十一年の三月初旬。

 第二皇女カリスマが王太女として立つために、ネファールへと旅立った。

 皇帝と宰相サヴォナローラはすでに去年からこの時の用意を行なっていたから、その出立までの手続きも準備も迅速に行われた。

 一人、母の故郷とはいえ異国へ行かされるカリスマは不安だっただろう。彼女の母である第一妾妃ラーラは、人質としてハーマポスタールの皇宮の後宮に残った。


 同じ三月の下旬。

 シイナドラドを一月の半ば過ぎには出立したと言う、第二皇子エルネストの一行が、ハーマポスタールへ入った。

 彼らは皇宮へも、大公宮へも入ることもなく、病床にある皇帝サウルの命令で用意された「シイナドラド大使公邸」、前のスライゴ侯爵邸に入ったのだった。

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