宣戦布告

 その時。

 カイエンは病み上がりの体が、すっと冷えて固まって行くような恐ろしさを感じて、相手の顔をただただ見つめているしかなかった。

「大公殿下、あなた様は本当に厄介な方ですのねえ」

 衣装と同じ真っ赤に塗られた唇から飛び出てきた言葉はまさしくカイエンへの宣戦布告として発せられたのだった。

 美しく化粧された顔の中で、栗色の柔らかな色の瞳だけがその色の優しさを裏切って、氷のように尖っていた。

「でも、こんなに油断のならない方だとは思っていませんでしたわ」

 優しい声音に騙されそうだ。だが、その声の紡いだ言葉の剣呑さよ。

 カイエンは二十歳の新年を、叩きつけられた宣戦布告とともに迎えたのであった。 





 ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの治世二十一年目の初春、一月十四日。

 それは、皇帝サウルの四十六歳の誕生日であった。

 ハウヤ帝国では歴代の皇帝が一月の初めに新年の宴を行ってきた。だが、皇帝サウルの御世になってからは彼の誕生日が一月の十四日であることから、新年の宴は皇帝の誕生日をも祝う宴とされてきた。

 その日。

 一月十四日の夜。

 海神宮のオドザヤの立太子式が行われた、遠く海を望む大回廊から続く大広間の奥。

 海神宮の一番奥に造られた広大な「青藍アスール・ウルトラマールの間」には、男爵以上の爵位を持つ全ての貴族家の当主とその夫人が招待された。

 大広間と同じく、青藍アスール・ウルトラマールの間にも玉座が一段高いところに置かれてはいるが、それは大広間のそれほど大仰なものではない。

 明るいランプが灯る巨大なシャンデリアの下。

 高価な、ラピスラズリから作られた青い顔料で塗られた壁と、鏡の張られた壁が互い違いに並べられた青藍の間は眩しいばかり。

 大勢の貴族が招かれたこの宴は立席形式で、各種の料理や菓子は適当に間を置いて間配られたテーブルの上に並んでいる。

 庭園へと続く窓は、冬のこととて全て閉められているが、それでもバルコニーには篝火が焚かれていた。

 上は大公のカイエンから、下は男爵家の当主までが招かれた宴ではあったが、そこは貴族社会で上から下まで無礼講の宴と言うわけには行かなかった。知己を得ない上位者には下の者は声もかけられはしない。

 だが、貴族としての位階とは別な意味でこの宴の上座、それはまさしく皇帝一家の座る玉座に近いと言う意味であったが……に佇む者たちも少数ながら居なかったわけではなかった。

 例えば、大将軍エミリオ・ザラ。彼は子爵家の次男に過ぎない。それに、宰相サヴォナローラ。彼は平民出身の神官でしかない。

 フィエロアルマ将軍のジェネロ・コロンボも平民出身だ。それ以外の将軍たちも、貴族の出身だとしても上位貴族の出身ではなかった。

 そう言う点では、皇帝サウルの治世というものは、広く平民にまで人材を求め、能力あるものは抜擢されていく、公平で開明的な時代と言えるものであった。


 宴の開会が皇帝サウルの口から宣せられてからしばらくの後。

 ここに招待された者たちにはすでに周知のことであったが、今年は皇后のアイーシャの、豪奢な宝石と衣装で着飾った姿はない。

 アイーシャはリリエンスール皇女を出産の後、錯乱状態に陥った。そしてそのまま今に至るまで正気に戻らず、医師の処方する鎮静剤を与えられて皇后宮で寝たきりの生活を送っているのである。

 その代わりと言うわけでもなかろうが、今年はいつもは後宮から出ることのない皇帝の妾妃たちが、その皇女たちとともに皇帝のそばに控えていた。

 それには理由があった。この宴の最初に、皇帝によって妾妃たちの産んだ皇女たちの未来が宣せられたからである。

 皇子フロレンティーノを産んだ第三妾妃のマグダレーナの姿もあった。さすがにまだ生後二ヶ月にもならぬ皇子は連れて出ていない。

 第四妾妃の星辰セイシンは、去年の後宮での皇后襲撃事件以降、後宮に軟禁中のため、もちろんそこには出ていなかった。

 皇帝サウルの横には、皇太女のオドザヤが皇后の代わりに座り、その周りをカリスマとアルタマキアの二人の皇女、そして妾妃たちが囲んでいる。

 オドザヤ以下、皆がそれぞれに新年と皇帝の誕生日を祝う宴にふさわしい華やかな装いに身を包んでいる。その様子は美しく、また高貴な女たちが居並んでいるだけに、煌びやかで冒しがたい気品に溢れていた。

 その、皇帝一家の一段下。臣下の一として、宰相サヴォナローラと大将軍エミリオ・ザラ、そして元老院長フランコ公爵テオドロとデボラの夫妻たち、それに皇帝の妹のミルドラとクリストラ公爵、といった重臣の筆頭に立っているのは、大公のカイエンだった。

 昨年十二月九日のシイナドラドからの帰国とともに、不例を理由に一ヶ月以上も大公宮から出なかったカイエンだったが、この日の宴には姿を見せた。

 だが、その姿は一月ひとつきの養生を経てなお青白く、以前よりも一回りも痩せたように見えた。

 実際にはそこは二十歳の若さがものをいい、日常生活はほぼ通常に戻り、年明けからは大公としての仕事にも徐々に復帰していたのだが。

 カイエンは去年のシイナドラド行きの際に、あのノルマ・コントが誂えた深い深い青黒い紫の礼服に身を包んでいた。

 礼服の前面と背面が金銀の刺繍で覆われた、華やかな礼服だ。盛り上がり、岸辺へ押し寄せる、泡だつ大波を象った意匠の中に海の神の横顔が、正面に並ぶ金のボタンの横で向き合っている。

 実はこの礼服も痩せたためにやや緩くなっていたので、急いで直させたものだった。

 黒っぽい紫の髪は、この日は大人っぽく後ろで複雑な編み込みとともに結い上げられ、宝石をあしらった髪留めで止められていた。

「……殿下。あのう、もうお体は大丈夫ですの?」 

 カイエンの不例の理由を知らないフランコ公爵夫人デボラが、そっと近づいてきて、挨拶もそこそこに聞いてくる。彼女とは去年の夏の皇后のお茶会以来だから、カイエンの変わりように驚いたのも無理はなかった。

「ええ。初めての長期の旅行で疲れがたまりましてね。帰国早々に気が緩んでしまっただけですので。もう、大丈夫ですよ。ご心配させてしまいましたね」

 本当の理由は言えるはずもない。だからカイエンは今日の挨拶は全てこれで済ませる気だった。

「大丈夫よ。この子は生まれつき、あっちやこっちが悪いのだから。そんな子を遠いシイナドラドまで行き来させた皇帝陛下がお悪いの」

 そう、横から言いながら近づいてきたのは、ミルドラだった。こちらはカイエンの体に起こったことも熟知しているから、助け船のつもりで声をかけてきたのだろう。

「おやおや。信用がありませんね」

 カイエンがミルドラの方へ振り返ると、ミルドラは扇で口元を隠しながらカイエンの杖をついていない方の右腕を支えるように立った。今日はミルドラも重厚な色と意匠のドレスに身を包んでいる。

「デボラ様。先ほどお聞きになられたでしょう? 大公殿下はこの春にはご結婚になるのですよ。お元気でなくてはいけませんわ」

「そ、そうですわね」

 デボラは自分のことでもないのに、わずかに頬を薔薇色に染めた。

 この宴の開会の宣言の後、皇帝サウルはいくつかの新年早々の発表を行ったのである。

 それは、大公のカイエンにシイナドラドの第二皇子を婿に迎える、という縁談話から始まったのだ。

「先ほどの陛下のご発表は、驚くことばかりで……」

 デボラが言うまでもなく、それらは会場を埋めた多くの貴族たちには初耳の重大事項の発表だったのだ。

 カイエンは如才なく、そばを通りかかった侍従から飲み物を取って、ミルドラとデボラに渡した。さっそく一口飲んで、喉を湿らせたデボラは己の驚きをそのまま口にしていく。

「カリスマ皇女殿下が、ネファール王太女として、ご用意が整い次第ネファールへ行かれるなんて。こんなこと、今までになかったことですわ。私もう、驚いてしまって」

 善良そうなデボラの驚きの顔を見ながら、カイエンは心のうちで苦い思いを噛み潰していた。

 ネファールの前の王太子だった王弟のクマールが廃されたのは、カイエンたちがネファールを去った直後だったと言う。ネファールでその謀を聞かされていたカイエンには、ただただ苦々しいだけだった。

「それに。アルタマキア皇女殿下もお母上の故郷である、スキュラ公国の後継としてお立ちになられるご予定とは、私などが言うのは僭越至極でございますけれど、皇帝陛下には驚かされるばかりでございますわ」

 そうそう。

 カイエンは心の中で反芻していた。

 ネファールでカイエンが想像していた通り、皇帝サウルはアルタマキアの方も、母親の故郷の後継として立てる計画を実行しようとしているのだ。

 カイエンは横目で皇帝の方を見た。皇帝サウルは玉座を立ち、皇太女のオドザヤを連れて、主だった貴族たちの方へ歩いていくところだった。

「そうねえ」

 カイエンの横で、ミルドラがカイエンの代わりに答えた。

「兄上の油断ならなさには、本当に驚き入るばかりですわねえ。皇女達を無駄なくお使いになって……」

「はあ」

 デボラはうなずいたが、その目はそっとある人物の上へ注がれていた。

 カイエンとミルドラはその目線を追い、そして納得した。

 デボラの目線の先にいたのは、オドザヤだった。

 今日のオドザヤはいつにも増して美しい。それはそのそばに母であるアイーシャの華美な姿がないことによっても際立っていた。

 深い深い青、この青藍の間の青藍アスール・ウルトラマールと同じ色のドレスを隙なく纏った優美な姿。それは今が盛りの金色の薔薇のように高貴で冒しがたい美しさだ。

 腹違いの妹二人が他国の後継として目されている今。このハウヤ帝国の後継であるはずのオドザヤはもう十八になる。

 本来ならば、帝国の友邦であるシナドラドの皇子との縁談は皇太女であるオドザヤにこそふさわしいように思える。

 だが、その相手に決まったのは大公のカイエンだった。

 この決定はデボラ以下、多くの貴族たちには疑問の残るものなのだろう。

 だが、オドザヤの次にデボラが見つめた人物が、彼女たちの疑問の遠回りな答えになっているのも確かだった。デボラの視線の先にある人物は、深紅の重厚な布地のベアトリア風のドレスをまとい、まるで今日ここに居ない皇后のように堂々と振舞っている。

「……兎にも角にも、ハウヤ帝国の未来は安泰ですわね。……マグダレーナ様にフロレンティーノ様がお生まれになったのですから」

 デボラたちはもちろん、カイエンがシイナドラドで星教皇に即位させられたことは知らない。それでも、皇帝サウルに皇子が生まれたいま、シイナドラドの皇子を皇太女のオドザヤに娶せることが出来ない理由はなんとなくわかるのだろう。

 帝国は安泰。

 それは薄皮一枚の安泰なのだということは、誰にももう、わかっていることなのだ。

 皇太女のオドザヤが結婚し後継を設けるべきなのか、それとも、皇子フロレンティーノの成長を待つべきなのか。

 今の時点ではその明確な回答はない。

「そうですわねえ」

 カイエンの横で、裏の裏まで知っているはずのミルドラが微笑みながらうなずいた。

「これだけは言えますわ。……波乱の時代がやってくると。それだけはね」

 カイエンはミルドラの剣呑な言い方に、はっとしたが、デボラにはミルドラの真意はわからなかったようだった。



 そうして。

 いつの間にか、カイエンは一人でバルコニーへ向かって歩いていた。

 顔見知りの者たちには一通り、挨拶を済ませたはずだ。

 カイエンのような上位貴族は、このような宴ではあまり飲み食いはしない。礼を失さない程度の飲み物は口にするが、食べ物には手を出さないものだった。だから、カイエンもほとんど食べ物は口にしていなかった。

 宴はすでに歓談と社交の時間に入っており、人々は誰かの紹介を得て、少しでも上位の者の知己を得ようと躍起になっていた。

 大公であるカイエンに話しかけたい者もいただろうが、カイエンの周りに人がいない今、紹介もなく近づいて来られる者はいなかった。

「ふう」

 侍従の一人に、バルコニーへのガラス扉を開けさせて、カイエンは一月の夜の寒い外気の中へ出て行く。

 ヴァイロンあたりが見たら、慌てて止めただろうが、ここに彼は来られない。

 実際のところ、華やかな大公の正装の上に、同じ青黒い紫の毛織に毛皮の縁取りのついた重厚なマントを羽織っていたカイエンには、一月の夜の外気もそれほどに寒くはなかった。むしろ暖炉に轟々と火の燃える室内は暑くて頰が火照るほどだったのだ。  

 バルコニーには篝火が焚かれているので、冬の庭の様子もはっきりと見え、それほどに寒さも感じなかった。

 カイエンは久しぶりの公式行事で人疲れしていた。だから、バルコニーにもたれてしばらくぼうっと冬の明るい星空を見上げて放心していた。

 しばらくして。

 バルコニーへ続くガラス扉の開く音で、カイエンは我に返った。

 振り向いた目に映ったのは、意外な人物の姿だった。

 第三妾妃マグダレーナだ。

 彼女も御付き一人連れていない。

 深紅のベアトリア風の天鵞絨地の重厚なドレス。だが、胸元だけは大胆に開けられていて、豊満な胸に緑玉エスメラルダの連なった首飾りが眩しい。

「ごきげんよう。大公殿下、しばしのご同席をお許しいただけますかしら」

 言葉は上位者へのお願いだが、その話し方は押し付けがましく強引だった。

 皇帝に初めての皇子を与えたお腹様の権勢を、すでに彼女は行使しようとしてるようだ。

「これはこれは。第三妾妃様には、大公風情に何か御用でございましょうか」

 相手の押し付けがましさに対応した返答をしつつ、カイエンは顔を向けた。マグダレーナの顔を見るのは、去年の夏のあのアイーシャのお茶会以来である。

 あの時も、懐妊したばかりのマグダレーナの顔は健康的な美しさではち切れんばかりだったが、今宵の彼女の顔もまた、別のもので満たされて麗らかだった。

「こうして二人だけでお話しさせていただくのは、初めてでございますわね」

 すたすたとカイエンの前に歩いてきたマグダレーナは背が高い。こうして見て見ると、背が高いだけでなく、体もまた豊満で満ち足りていた。

 カイエンがおのれを省みるまでもなく、去年の帰国以来、衰弱した体を休めていたカイエンとは正反対な女だった。二十六の女盛りの体が匂い立つようだ。

「大公殿下には病み上がりと伺っておりました。……本当かと疑っておりましたけれど、今日こうしてお会いして本当にお体を壊しておられたと合点がいきましたわ。そんなお顔の色でこんな席においでになって大丈夫ですの?」

 カイエンはちょっと目を白黒させた。

 マグダレーナとは一対一で話したことなどない。なのに、マグダレーナの言いようには確かにカイエンの体調への気遣いが感じられたからだ。

「……ありがとうございます。もう、一月ひとつき療養いたしましたし、医師も床払いを認めてくれましたから、大丈夫なのですよ」

 カイエンがそう言うと、マグダレーナはちょっと忌々しそうに唇を歪めた。

「そうですか。……大公殿下はご身分のわりに開けっぴろげで、なんだか子供のようなところがおありだから、思わず母親の目で見てしまいますわ。……忌々しい」

「はあ?」

 六つしか年の違わない女に「子供のようだ」と言われたカイエンは、目を瞬かせた。

「いいのです。そんなことはどうでも。……こうして機会が得られたからには大公殿下に申し上げておかねばならないことがありますのよ」

「はあ」

 背の高いマグダレーナを見上げるようにして、カイエンがそう言うと、マグダレーナの雰囲気がすっと冷たく変わるのがわかった。ついさっき、カイエンの体調を気遣っていた同じ女とは思えない変わりようだ。

「大公殿下、あなた様は本当に厄介な方ですのねえ。ええ、それはもう去年から分かっておりました。でもね」

 そして、次にマグダレーナが言った言葉はその変わった空気と同じく、冷たいものだった。

 衣装と同じ真っ赤に塗られた唇から飛び出てきた言葉はカイエンへの宣戦布告のように聞こえた。

 美しく化粧された顔の中で、栗色の柔らかな色の瞳だけがその色の優しさを裏切って、氷のように尖っていた。

「でも、ここまでに油断のならない方だとは思っていませんでしたわ」

 優しい声音に騙されそうだ。だが、その声の紡いだ言葉の剣呑さ。

「なんのことですか?」

 カイエンが聞くと、マグダレーナは真っ赤な唇を盛大に歪めて見せた。

「リリエンスール皇女のことです。皇后陛下がああなられたとはいえ、まさかこんなに早く手を打たれるとは思っていませんでしたわ」

 ああ。

 カイエンはやっと合点した。

 リリを引き取って養育することになったことを言っているのだとわかったからだ。

「私、もう知っておりますの。皇帝陛下には皇帝陛下にそっくりの後継が必要だと言うことを」

 続いて、マグダレーナが言ったことにカイエンは驚いた。

 驚きとともに、マグダレーナへの認識を即座に改めた。

 では、この女はもう知っているのだ。

 皇帝サウルまで続く、歴代の皇帝たちの持っていた、シイナドラド所縁の顔形の歴史を。

 無言のままのカイエンへ、マグダレーナは話し続ける。

「残念なことに、私のフロレンティーノは、皇帝陛下よりも私によく似ていますわ。それでも、皇帝陛下の唯一の皇子であることは確かですけれどもね」

「はあ」

 カイエンも、フロレンティーノ皇子がマグダレーナと同じ、栗色の髪と瞳を持って生まれてきたことは聞いていた。

「なのに。皇后陛下のお産みになったリリエンスール皇女は、大公殿下にそっくりだと言うではありませんか! 違うのは片目が琥珀色なだけだと!」

 マグダレーナはカイエンの顔をまっすぐに見た。

「知っております。皇帝陛下や大公殿下、そしてクリストラ公爵夫人のそのお顔こそが、このハウヤ帝国の後継には必要だと言うことは! なのに、皇太女のオドザヤ様も、私のフロレンティーノも、そのお顔を持っていない。……だから、リリエンスール皇女こそが本来の後継の資格をお持ちだと言うことも」

 カイエンはびっくりした。

 マグダレーナは去年のカイエンのシイナドラド行きと、星教皇即位の件で判明したシイナドラド由縁の歴代皇帝の真実は知らないはずだ。

 なのに、彼女がここまで推測していたとは。

「でも、これも知っていますわ。表向きにはもうオドザヤ殿下が皇太女に立たれており、私にフロレンティーノが生まれたいま、リリエンスール皇女に次期皇帝の目がないことはね」

 カイエンは、やっとの事で一言返すことができた。

「何を、言っておられるのです。私がリリエンスール皇女のご養育を申し出たのは、次の大公として……」

 次の大公になれるのはリリしかいないから。

 それだけなのに。

「ああ! そんな綺麗事はたくさんですわ!」

 カイエンの目の前で、マグダレーナは抑えた声ではあったが、嘆きの叫びをあげた。

「そうそう。……大公殿下。この度はシイナドラドの第二皇子とのご婚約、おめでとうございます!」

 そして、マグダレーナの朱唇から次に飛び出してきた言葉は、これまた極めて現実的なものだった。それは、マグダレーナという女が極めて現実的な視点から物事を見ていることをはっきりと表していた。

「このハウヤ帝国の友邦である、シイナドラドの皇子を婿に迎えられる大公殿下。リリエンスール皇女の養育を任された大公殿下。そして、それを全て容認なさった皇帝陛下。……では、皇帝陛下はフロレンティーノの将来をどうしようとなさっておられるの? なぜ、私は子供たちと引き離されてこのハウヤ帝国へ連れてこられたの? どうして妾妃などにされたんですの!」

 マグダレーナの言いたいことは、カイエンにも理解できた。

 だが、それはマグダレーナとアイーシャがほぼ同時に懐妊する前の時点での話だ。カイエンにエルネストとの縁談が来る前の話だ。

「マグダレーナ様、どうか落ち着いて」

 カイエンはマグダレーナの方へ手を伸ばしたが、その手は乱暴に払われた。

「分かっております! 大公殿下に悪意などおありにならないことは、私にも分かっているのです。あなた様はそういう方ですわ。それはちょっとお噂を聞いただけでも確かなこと! ですが、私にはもう、このハウヤ帝国の妾妃である私には、フロレンティーノしかありませんのよ! 今夜はそれをお伝えしたかっただけですの。大公殿下が皇后腹のオドザヤ皇女やリリエンスール皇女にお味方するであろうことは、もうはっきりと分かっておりますもの!」

 カイエンにはもう、言葉もなかった。

 今の話し方だと、マグダレーナはカイエンとオドザヤが異父姉妹で従姉妹に当たることは知らないようだった。それでも、彼女はカイエンをオドザヤの陣営の筆頭と捉えているのだろう。

 カイエンがどう言葉をかけようか、迷っていた時だった。

 二人のいるバルコニーへ続くガラス扉が開かれたのは。

 そこに立っていたのは、年齢三十前後のベアトリア風の衣装を身にまとった一人の男の姿だった。

「マグダレーナ様、どうかお心をお鎮めくださいませ」

 優雅な仕草でマグダレーナの前で跪く男へ、マグダレーナは驚きながらも、ほっとした顔つきをした。

「ああ、ナザリオ。あなた、もうこちらへ来ていたのね」

「はい」

 ナザリオと呼ばれた男は、カイエンの方へ向くと、跪いたまま、深々と礼をした。聡明そうな褐色の目に柔和な顔立ち。だが、その表情にはなんだかひやりとするような気配が見えた。

「大公殿下、お初にお目見えいたします。ジラルディ・サクラーティが次男、モンテサント伯爵ナザリオと申します。この度、ベアトリア大使として、着任いたしました」

 カイエンは身の内をぞわぞわとした何かが通り過ぎていくのを感じた。

「ベアトリア大使?」

「はい。現在は母方のモンテサント伯爵を継いでおります。ゆくゆくは亡くなった兄の代わりにサクラーティ公爵を継ぐ予定でございます」

 マグダレーナはベアトリアのサクラーティ公爵の嫡子ラザロに降嫁し、二人の子をあげている。と言うことは、このナザリオはマグダレーナには義弟に当たると言うことだ。

 だが、その子供たちは未だ幼児だ。となれば、この次男であると言うナザリオが次のサクラーティ公爵を名乗るということもあるのだろう。

 そんな男が、今、ベアトリア大使としてハーマポスタールへ赴任して来ているとは。

「そうか。……よろしく頼む」

 カイエンにはそれしか言いようがなかったので、そう答えるしかなかった。 

 一つ、分かったことは、ベアトリアはフロレンティーノ皇子の誕生とともに早速、動き始めたと言うことだけだ。

 そして、カイエン相手に余計なことまで喋りそうになったマグダレーナを抑えるためにこのナザリオが飛び込んで来たと言うこと。

「どうか、よろしくお願い申し上げます」 

 ナザリオはカイエンへそう言うと、目でマグダレーナを促した。

 ナザリオに促されて、バルコニーから暖かい青藍の間の中へと下がっていくマグダレーナを見送りながら。

 カイエンはさすがに寒さを覚え、分厚い毛織のマントを体に引き寄せた。

 だが、様々な物思いもあって、どうしてもバルコニーから広間の中へ戻っていくことができずにいると、しばらくしてガラス扉の向こうに、見慣れた顔が二つ、やってくるのが見えた。

「これ!」

 いの一番に扉を開け、カイエンを青藍の間に引っ張り込んだのは、なんとザラ大将軍閣下だった。

「病み上がりが何やってんです? もう、ちょっと目を離すとこれだからなあ」

 後ろから半分抱き上げるようにして、大将軍閣下を助けたのは、フィエロアルマの将軍閣下。

「うん? なんともない。大丈夫だ」

 カイエンは暖かい部屋の中へ引っ張り込まれ、ザラ大将軍とジェネロに睨まれて、そう答えたが、二人はかなり前からカイエンの様子を見ていたらしかった。

「……マグダレーナ様とお話しているようだったので、ご遠慮していたが、モンテサント伯爵も加わったから慌てましたぞ」

 ザラ大将軍は、すでにモンテサント伯爵ナザリオのことも知っている様子だった。

「まあ、殿下には話そうにも隠そうにも、腹の裏などないでしょうからそっちの心配はなかったですがな」

 ザラ大将軍にかかっては、カイエンなど糞味噌である。

「ザラ様、そんなことはいいですよ、もう。それより、あああ。冷え切ってるじゃありませんか」

 さすがに人目をはばかったのか、抱えて行かれることはなかったが、カイエンの体がぐいぐいと一番近くの暖炉の方へ引っ張られていく。

 カイエンが暖炉の側の椅子に座らされた時、その周りには奇しくもカイエンに近しい人々の顔が揃っていた。

「お姉様! どこに行っていらしたの?」

「病み上がりなのに、一人でうろうろするもんじゃありませんよ」

 皇太女のオドザヤ、叔母のミルドラ。

 そして、ザラ大将軍エミリオ、フィエロアルマ将軍ジェネロ。

「どうかしましたか?」

 慌てて駆け寄って来たのは、エミリオの兄のザラ子爵ヴィクトル。

「ああー。困るんですよねえ。またぶっ倒れられちゃあ」

 小太りの体を揺らして駆けつけたのは内閣大学士のパコ・ギジェンだ。その後ろからは視線だけだが、宰相サヴォナローラもが眉を顰めて見ているのがわかる。

 フランコ公爵夫人のデボラもまた、静かにミルドラの後ろに控えていた。

 そんなカイエンたちを、遠くから冷ややかに見つめる視線があったのも事実だ。


 皇帝サウルの四十六回目の誕生日。

 その日はある意味で、歴史の区切りとなる日であった。

 ハウヤ帝国は皇帝サウルの即位以来、国境での紛争こそあったものの、内政的には安定していた。

 その、安定の時代が終わりを告げた日であったから。  


 

 そう。


 皇帝サウルが病の床についたのは、その誕生の宴の余韻の残る、一月の終わりのことだった。

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