第四話 枯葉

のばす腕(かいな)に血管青く

 人の子よ今日に生まれて明日へとのばすかいなに血管青く

 しあわせな今を時代を抱いているしんなりとして暖かい腕

 同じ時刻む鼓動を抱き合わせ生きていこうよ腕を貸すから



     アル・アアシャー  「即興詩のための覚え書き」より





 それは、ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの治世二十年目の年の暮れ。

 十一月二十五日に皇子フロレンティーノが、十二月九日に皇女リリエンスールが誕生してしばらくしたある日のことであった。

 帰国してすぐに倒れた大公カイエンが、病身をおして皇宮へ赴き、皇女リリエンスールを養い子として大公宮へ連れ帰ってから十日あまりが過ぎていた。

 ハウヤ帝国フィエロアルマ将軍、ジェネロ・コロンボは一つの覚悟を胸に大公宮の表の公式な入口の前で馬を降りた。

 その顔は厳しく引き締まっていたが、大公カイエンの警護としてのシイナドラドへの往復は、強壮な身体を持った武人の彼にもなにがしかの疲労を与えたのであろう。

 その強運と死地に命を拾う才能から、豪腕といわれた男の顔は急に老けたように見え、精彩を欠いて見えた。

 彼が名乗るまでもなく、彼の来訪を待っていた大公宮表の侍従が駆け寄って、彼の漆黒の軍馬、ウラカーンの轡を取ろうとする。

「おお。ちょっと待ってくんな」

 ジェネロは軍馬としても巨大なウラカーンのこれまた体とおなじ真っ黒な目を見て、言い聞かせた。

「ちょっと行ってくるからな。……大人しく待っててくれよな」

 侍従がちょっと驚いた顔で、生真面目な顔で馬にお願いする将軍様を見ている。

「……すまなかったな。こいつは一筋縄じゃ行かねえ馬だからよ」

 侍従にはジェネロの本意は伝わらなかったが、彼は曖昧にうなずいて、ウラカーンを引っ張っていく。元は前のフィエロアルマ将軍だったヴァイロンの馬であったウラカーンは、ジェネロが言い聞かせなければそう簡単には引っ張ってなどいけない馬である。

「さあて、と」

 すでに訪問のおもむきは相手に知らせてあるが、それでも気持ちは重かった。

「謝っても、弁解してもしょうがねえし。まな板の上に乗っけられて行くっきゃねえよな」

 そっと呟いた声は、ジェネロの案内に立った、表の侍従の中では上位のベニグノの耳へは届かなかった。


「よう」

 それでも、ジェネロは彼の執務室の前へ連れてこられ、扉が開かれればもう、いつもの人をくったような雰囲気を取り戻していた。心の中の懊悩はその顔つきにも態度にも見て取れなかった。ジェネロはわざとそうしたのだ。相手が躊躇しないで済むように。

 その部屋に入るのは、確か三回目くらいだった。

 あまり広くもない部屋だが、正面に大机が置かれており、その向こうにその大机が小さく見えるような大男が立っていた。

 それは、ヴァイロン・レオン・フィエロ。

 ジェネロの前にフィエロアルマ将軍だった男だ。

 そして、今はこのハーマポスタール大公の帝都防衛部隊の隊長。そして、女大公のたった一人の男だ。

「ここに来るのが遅くなってすまなかった。……報告だのなんだので引っ張り回されててな」

 今、言ったことは事実だ。

 カイエンの警護を終えた彼は、ザラ子爵ヴィクトルとともに、シイナドラド行きの後始末で忙殺された日々を送っていた。

 カイエンが帰国するなり倒れたことは勿論、聞いていた。そしてその理由も、カイエンの警護責任者であった彼にはクリスタレラを出る前にアキノから聞かされていたことから推測できたが、それでも今日まで体が空かなかったのは事実だ。

 なのに。

 この心の底が氷で満たされたような、おぼつかない心持ちはなんだろう。言い訳を思いつかなかったために、ここへ来るのを無意識に遅らせて来たのではないかと、自分を責める気持ちは。

 わかっている。

 俺は約束したのに。

(よく分からねえが、きっとあの人こそが、この先何があろうとこの街を守ってくれる人だ。俺はなんでか知らねえが、それだけはもうわかった。……もしかしたらこの先、この街がこの国じゃなくなるような時代になってもな。この街を、俺の家族を守ってくれるのは大公殿下だ。そして、ここにいる奴らはそれを助けるに違いねえ。だから俺はあの人を守るよ)

 大見栄を張って。

(あんたの『唯一』は俺が守る。だから、大将。俺の留守の間、俺の家族はあんたたちに任せたぜ)

 そう、言って旅に出たのに。

(俺は、こいつの『唯一』を守れず、その肉体と精神が傷付くのを傍観してるしかなかった)

 妻からは留守中にヴァイロンが何度か、仕事の合間に彼女の店を訪ねてくれた、と聞かされた。

 もう、たまらなくなった。

 ジェネロはシイナドラド国境で解放された直後のカイエンの憔悴ぶりに驚いた。走って逃げてきた体を受け止めた時の軽さ。

 そして、帰国途中のカイエンはもはや気力だけで故郷へと向かっているという冒しがたい雰囲気を纏っていた。

 クリスタレラの大城で、執事のアキノに聞かされたカイエンの体に起きたことの事実は、彼を打ちのめしたのだ。

 勿論、ジェネロは男だ。女のカイエンの本当の痛みなど理解出来はしない。理解できるとも思ってはいない。それほどに彼は傲慢ではなかった。

 だが、彼には妻と二人の子供がいた。妻という女を通して、なんとなく理解していたこともあった。

(女ってのは、体の内側で世界を感じている生きもんだ)

 女は守る時には、背中を見せて守るべきものをかばう。無意識に守るべきものを腹のなかへ入れようとするのだ。

 いつも、体の正面を世界へ向けて、外側の強さで立ち向かっている自分たちとは違うのだ、となんとなく分かっていた。

 だから。

 堪らなかった。

 カイエンはその大切な内側の世界に、一生持っていかなければならない辛い傷を受けてしまったのだから。

 だから。まだ、ヴァイロンが何も言わないうちに、ジェネロはもう耐えられずにおのれの胸を激しく叩きながら、彼の元へ迫っていた。

 彼の顔をまともに見ることさえ出来はしなかった。

「……言い訳はしねえ。いや、出来ねえ。だから、好きなようにしてくれ。いや、これを言っちゃあ俺が卑怯だ」

 帰国してから、何度考えてもヴァイロンに言うべき言葉はわからなかった。

 だから、今も分かってなどいない。激情が言わせるままに口が動いているだけだ。

「すまねえ。俺は自分がどうしたらいいのかも分からねえ。何十日もずっと考えてきたのにな。……俺は卑怯者だ。でも教えてくれ。俺はどうしたらいい? どうしたらあんたの痛みを俺に移すことができる?」

 何を言っているんだ。

 ジェネロは自分でもそう思った。

 ヴァイロンの痛みを自分に移す?

 そうじゃねえだろう、と心の中の自分がたしなめる。

 彼にはカイエンの痛みも、ヴァイロンの痛みも、引き受ける術などない。だが、それでもそうでも言うしかなかったのだ。

 どん。

 いつの間にか、前進を続けていたジェネロの体はヴァイロンの執務机に勢いよくぶつかっていた。

 その時。ゆっくりと、黒い大公軍団の制服を隙なく着たヴァイロンの巨躯が机を回り込んで近づいてくるのが感じられた。ジェネロは我知らず身体中に震えが走った。

「……大丈夫だ」

 なのに。

 真横にやって来たヴァイロンは、ジェネロの肩にそっと手を置いた。

 今度こそ、ヴァイロンの顔を見上げたジェネロの目に映ったのは、すでに落ち着いた色の翡翠色の瞳だった。顔はやややつれていたが、表情は穏やかだった。

「カイエン様は大丈夫だ。もう、お体も回復へ向かわれている。お心の方も、色々とお迷いはあられたが今はもう落ち着いて来られた」

 ジェネロはヴァイロンの静かな声に驚いた。

 自分だったら、そんなに落ち着いてはいられないと思い込んでいたからだ。

 だってそうだろう。

 自分の唯一である女が、他の男の子供を妊娠して戻り、それが流産して流れるのに立ち会ったのだ。どうしたって誰をか、何をかを恨み、憎む気持ちを簡単には整理できないはずなのに。何も出来なかった自分を許せない気持ちだってあったはずなのに。

「えっ?」

「……カイエン様がリリ様を連れて来られたのも良い方に働いた。あの子は……なんとも力強い感じがする。あんまり泣かないし、泣いてもものすごく元気でな。……あんな子をここでこれからずっと育てなければならないんだから、俺もカイエン様も戸惑い迷っているような余裕はないんだ」

 ジェネロも、カイエンが皇后アイーシャの産んだ皇女の養育を任されたことは聞いていた。下々では色々と憶測もあるようだが、ジェネロくらいの身分になれば裏事情も入ってくる。アイーシャが出産後に錯乱し、未だに元に戻らないことも知っていた。

「おい、まさか……?」

 ヴァイロンはジェネロの目をまっすぐに見て、うなずいた。

「リリ様のご養育には、俺も関わらせていただけるらしい。うれしいことだ。こんな俺にも小さな腕を伸ばして笑ってくれるように見えるのだ。……お顔もカイエン様が赤子の時はこんな様子だったのかと思うと、本当に可愛らしくてな。いや、リリ様をカイエン様と同じに見ているわけではないぞ」

 ジェネロは相槌を挟むことも出来なかった。

「それに、カイエン様と、一緒になってから初めて腹の底から分かり合えたような気がする。そう言う意味では、今度のことも悪いことばかりではなかった」

 ジェネロは心の中で、あっけにとられていた。

 なんなのだ、この男の前向きさ加減は。

「……化け物か、あんた」

 心の声が口から出てしまったが、もう追いつかない。

「いいや」

 そっとジェネロの手を取って、机の前の椅子に座らせながら、ヴァイロンは言った。

「ここまでに到るまでの俺は、情けないものだった」

「聞いてくれるか?」

 机の向こう側に座ったヴァイロンへ、殴られるくらいでは済まないだろうと悲壮な覚悟でやって来たジェネロは、ただただうなずくしかなかった。



 あの、運命の日。

 十二月九日。カイエンの二十歳の誕生日であるはずのあの日。 

 大公宮へ帰り着き、ヴァイロンとサグラチカを見るなり。

「ごめん。ごめんなさい。本当にごめんなさい……」

 カイエンは顔をぐしゃぐしゃに歪めてそう言うと、サグラチカとヴァイロンに疲れ果てた体のすべてを投げ出して、意識を手放してしまった。

 ヴァイロンもサグラチカも、ガラからカイエンの陥った深刻な状況は聞いていた。

 だが、カイエンが二人に「ごめんなさい」と言った理由は分からなかった。

 今回の事態は非力なカイエンにはどうしようもなかった事態であり、謝られる理由などないと思ったからだ。

 だがそれでも、倒れてしまったカイエンをヴァイロンは迷うことなく彼女の寝室へ運び込んだ。

 サグラチカはすでに控えさせていた大公宮の奥医師を呼びに行かせ、そしてカイエンの馬車のすぐ後に到着した、クリストラ公爵家の侍医の方は自分で案内して来た。

 カイエンを子供の頃から診ている奥医師も、クリストラ公爵家の侍医も、昏倒したカイエンを見ると難しい顔をした。

 二人はヴァイロンやサグラチカを部屋の隅に下がらせて診察し、その後低い声で相談していたが、診立てはすぐに一致したらしかった。

 彼らの診立て通り、カイエンはその夜のうちに激しい腹痛を訴えて覚醒した。すでに処置の準備を済ませていた医師らは的確に処置を行い、小康を得たカイエンは再び、意識を失った。

 そして一昼夜。

「カイエン様!」

 薄眼を開けたカイエンにヴァイロンが呼びかけると、カイエンはよく見えない、と言うように灰色の目をさ迷わせたが、すぐに答えてくれた。

「うん」

 一瞬で、カイエンにはわかったらしかった。

 この時の覚悟を、クリスタレラからの旅の間中、繰り返して来たのだろう。ヴァイロンはカイエンの体と心の痛みを思うと、自分が泣き叫びたいような心持ちだった。

 彼が丸一日、ずっと握っていたカイエンの手はぐったりとしたままだったが、この時、その土気色の細い手に力が戻って来た。

 ヴァイロンの背後から近づいてくる医師たちに気がついたのだろう。

「うん。わかった」

 カイエンはもの言いたげな医師たちを制して、先に言った。

 医師から起こった事実を聞きたくなかったのだと言うことが、ヴァイロンにはなんとなく理解できた。

 これは、カイエンが自分を守るために言った、精一杯の言葉だと。

 彼女は、永遠に失われた存在のことを、もう理解していると。

「もう、大丈夫だ。……たぶん」

 ヴァイロンの目をまっすぐに見て、気丈にそう言うカイエンを見ると、堪らなかった。

「丸一日以上、昏睡状態であられたんですよ」

 ヴァイロンは自分の顔が引き歪むのを自覚しながら、やっとそれだけ言えた。

「そうか」

(心配させたな)

 カイエンの声には、ただ一つ、ヴァイロンへの気遣いだけがあった。

 恨み言も、悲しみも、そこには感じられなかった。

 正直、ヴァイロンには理解できなかった。

 フィエロアルマの警護を失い、アキノたちとも引き離され、たった一人で連れ去られて、シイナドラドの第二皇子にいいように弄ばれて妊娠したというカイエン。それだけでも狂うような苦しみだったはずだ。それは、憔悴しやつれ果てた体を見れば一目瞭然だった。

 それなのに、どうして。

 この時。

 ヴァイロンの心に、シナドラドの第二皇子への嫉妬心と激しい憎しみがなかったと言えば、嘘になるだろう。

 先に帰国したガラから事情を聞いた時から、周囲には見せなかったが、ヴァイロンの心は火を噴いていた。

 彼の唯一を汚し、激しく傷つけた相手に対して燃え上がる地獄の炎のような、熱いが、昏い気持ちで。

 だが、カイエンからはそいつへの憎しみは感じられなかった。それが理解不能だったのだ。

 それでも、心のどこかでカイエンの心の一部は、分かっていた。

 彼女には、もう終わったことにしたいことなのだと。きっと、この悲しみと苦しみの思い出は生涯忘れることはないだろうけれども、流れて消えた命とともに、カイエンは区切りを付けようとしているのだと。

 次の日から、ヴァイロンは夜だけカイエンの見守りをすることになった。

 さすがに大公不在で四ヶ月がたった大公軍団治安維持部隊の隊長の仕事は放り出せなかったから。

「では、頼みましたよ」

 カイエンの夕食が済んだのち。仕事から戻ったヴァイロンに引き継ぐ時、彼の養母でもあるサグラチカは、ヴァイロンの目をひた、と見据えて言った。釘を刺したのだ。

「……お話をするのは構いませんが、カイエン様のお心を乱すようなことはいけませんよ。……本当にお辛いのはカイエン様なのですからね」

 と。

 寝室に入ると、カイエンの寝台の横にだけランプが灯されており、カイエンはいくつもの大きな枕に体をもたせ掛けて薬湯の入ったカップを口に運んでいた。もう、一日でかなりしっかりとしてきているのに、ヴァイロンは驚いた。

 医師たちはカイエンの体は相当に衰弱しているけれども、患者の気力が思ったよりしっかりしているので安静と体に優しい食事、それに心の安寧を心がければひと月程で普通の生活に戻っていけるだろうと言っていた。

 だが、医師たちの危惧はカイエンの体の方よりも、一見して落ち着きすぎている精神状態の方にあるらしく、何度も「お心を刺激するようなことは無いように」と繰り返していた。

「ああ」

 ヴェイロンを見ると、カイエンは微笑みを浮かべようとして失敗したような表情をした。彼が夜の間、看病することはサグラチカから聞いていたはずだが、その表情は意識を取り戻した昨日と違って揺らいでいた。目も、視線を合わせることなく茫洋と泳いでいるようだ。

 ヴァイロンは二人だけになったせいだとすぐに気がついた。昨日までは二人きりになることはなかったのだ。

 飼い猫のミモが寝台の足元で寝ているが、この際、彼を数える必要はないだろう。

「サグラチカ様を呼びますか」

 ヴァイロンが聞くと、カイエンは首を振った。

「大丈夫だ。私がサグラチカを下がらせたのだ。……お前の方こそ」

 どうやら、サグラチカはヴァイロン一人に任せるのを躊躇していたのを、カイエンが下がらせたらしいとヴァイロンは気がついた。

 だが、そこまで言って、カイエンは黙ってしまった。飲み終わった薬湯のカップをぎゅっと握りしめている手の関節に力が入り、ぶるぶると震えているのに、ヴァイロンは気がついた。

 まさかとは思うが、そのままカップを握りつぶしそうな気がして、ヴァイロンは早足でカイエンのそばへ歩いた。

「あっ」

 カップを受け取ろうと伸ばした手が、カイエンの手に触れると、カイエンはびくっとして手を引っ込めた。カップはカイエンに掛けられている布団の上に落ちたが、空になっていたので布団を汚すことはなかった。

 ヴァイロンはカップを拾って、寝台の横のテーブルへ置いた。だが、カイエンにかける言葉が出てこない。

 昨日、カイエンが意識を取り戻した時、ヴァイロンは彼女の手を握っていたが、カイエンはそれを振りほどこうとはしなかった。

 となれば、今のカイエンのこの様子はやはり二人だけになったからなのだろう。

 自分が怖いのか。

 ヴァイロンはまず、そう考え、次に他の可能性にも気がついた。

 今のカイエンには自分を性的な目で見る可能性のある、若い男自体が怖いのかも知れない、と。

 そういう者に触れられるのが耐えられないのかも知れなかった。

「カイエン様……」

 驚かさないように、少し離れて、低い小さな声で問う。

 しばらく待つと、枕にもたれたまま、項垂れて長いまつ毛を閉じていたカイエンがきっと顔を上げた。

「ヴァイロンには、早目に、き、聞かなければいけないと、クリスタレラからの旅の間もずっと思っていたのだ」

 まともにヴァイロンと目を合わせてきたカイエンの灰色の目は据わっていた。

「こ、こんなことになって。その、お前にはどうしてやったらいいのかと」

 ここまできて、さすがのヴァイロンにもカイエンの言い始めたことの行き着く先がおぼろげに見えてきた。だが、まさかとも思って黙っていた。

「私に触れるのは嫌なんじゃないか? いや、それより先に、もう、将軍には戻してやれないし、この先、どうしたらいいのか……」

「えっ?」

 ヴァイロンは思わず、驚きの声を発してしまったが、カイエンはそれに気がつかずに続けた。

「普通は、そうだろう? 他の男にその、抱かれた女なんて嫌だろう。私の場合、それだけじゃなかったし……。だから、そうならお前はもうここにいる必要も、ないし。でも、将軍にはもう戻れないんだし。私はどうするべきか、相談しないといけないと思っていたのだ」

 ヴァイロンは心の底からびっくりしていた。

 普通の男ならともかく、彼はカイエンの言うようなことは思ったこともなかったからだ。

 獣人の血を引くヴァイロンにとってカイエンは、おのれの唯一である、つがいの相手であったから。その体を自由にした上に傷つけ、心をも傷つけた相手に対して怒り、憎みこそすれ、カイエン本人への忌避の心は本心から存在しなかったのだ。

「だからその、早めにお前の気持ちを聞いておいた方がいいだろうと、思って」

 そこまで聞いて。

 ヴァイロンは思い出していた。

 カイエンがシイナドラドへ行く前、ジェネロにカイエンの気持ちが分からない、と相談した時のことを。

(大公殿下は偉いよ。普通でもそんな物分りのいい従順な女、そうそういないぜ。お姫様ってこと考えると、ちょっと普通の女じゃねえような気さえするわ。……あんたは、はっきり『愛してる』って言われないから不安なだけだろ?)

(あんた幸せもんだわ! 愛されてるよ! 自信持ちなよ)

 ヴァイロンはジェネロの慧眼に脱帽する思いだった。

 同時に、大公宮へ帰って来たカイエンが、ヴァイロンとサグラチカを見るなり、

「ごめん。ごめんなさい。本当にごめんなさい……」

 と、顔をぐしゃぐしゃに歪めてそう言った理由にも思いが至った。

(あれは、このことへの謝罪だったのか……)

 カイエンは今度のことで、自分を責めに責めているのだということをヴァイロンははっきりと悟った。


「殿下が、そのようなご心配をなさる必要は全くございません」


 また項垂れてしまったカイエンへ、はっきりとそう答えると、カイエンの痩せ細った肩がびくりと震えた。

 驚かしてはいけないとは思ったが、口下手な自分が言葉を重ねても埒が明かないと思ったヴァイロンは、大きな手を伸ばしてその肩をそうっと引き寄せた。触れてみると、見た目よりももっと痩せていることが分かり、ヴァイロンは唇を噛み締めた。

 帰国した日に寝室へ抱いて運んだが、あれは緊急の場合だった。

 意識して、四ヶ月ぶりにカイエンの体をおのれの腕の中へ完全に入れて、そうっと抱きしめると、腕の中でカイエンの痩せ細った体が細かく震え始めた。

(やっぱり、男に触られるのは、怖いのか)

 はっとして、体を離そうとすると、カイエンの手がヴァイロンの着ている大公軍団の制服の腕をつかんで来た。

 夜着の袖がまくれて露わになった、白茶けてか細い、不健康そのものの腕。薄い半分透けた皮膚の下に、真っ青な血管が透けて見える。子供の腕のように見える腕だったが、つかんだ力だけは異様なほどに強かった。

 そして、カイエンはヴァイロンでなくとも驚愕するようなことを言って泣き崩れた。


「ご、ごめんなさい。……こんな失敗は、もう、これからはしないから。だから、私の側からいなくならないでくれ。お願いだ」


 この言葉は、ヴァイロンがずっと抱き続けてきた「不安」を全て溶かしてしまう凄まじい力を持っていた。カイエンが彼を欲しているという、それは告白だったから。

 暖かくほころんだ心の中で、しかしヴァイロンはカイエンの言った一つの言葉が引っかかった。

 失敗?

 今度こそ、ヴァイロンは声を大にして抗議したくなった。

 そうじゃないだろう!

 ヴァイロンだけではなく、全ての人がそう言うだろう。

 だが、ハウヤ帝国の大公という重責にあるカイエンにとっては、シイナドラドの陥穽に嵌ったという事実の全体は確かに「失敗」なのかも知れなかった。

 その夜、ヴェイロンは初めて、子供のように泣くカイエンを見た。

 これからはこんな泣き方はさせない、そう思った。だが、彼一人では大公であるカイエンを守りきれないことは今度のことで身にしみていた。

 黙って、泣き続ける彼女をそっと抱きながら、ヴァイロンは改めてカイエンの負っているものの大きさに思いを馳せるしかなかった。




「すごいな」

 ジェネロはヴァイロンの話を聞くと、驚愕の顔つきで目を丸くした。

「殿下、すごいな。女らしいんだか男みたいなんだかよくわかんないけど、真っ直ぐだな。駆け引きも何にもないんだな。まさかそんなこと思い詰めながらクリスタレラからこっち、旅してたとは考えもしなかったわ」

 ジェネロは座っている椅子から崩れ落ちそうな気がした。

「失敗って……。殿下がそれなら、俺はどうなるんだよ。首切りものじゃねえか」

 今回のことで、皇帝サウルはカイエンはもちろん、ジェネロやザラ子爵、それにパコ・ギジェンにも責任は問わないと内々に知らせが来ていた。

 シイナドラドの国境での揉め事は「シイナドラドのサパタ伯爵の責任」として交わした約定書で一件落着していたからだ。

「そうだな」

 珍しく、面白そうに笑うヴァイロンを見て、ジェネロは帰国以来おのれを苛んで来た憑き物が落ちたような気がしていた。

 そして。

「あんたがそうして俺を責めないで生かしておいてくれるってんなら、俺も考え方を変えて生きていかなくちゃな」

 そう言った、ジェネロの顔には表情が無くなっていた。

 それを見た、ヴァイロンの顔からも笑みが消えた。

「俺でも感じるんだけどよ、この先、俺たち軍人も戦闘馬鹿じゃいけねえな。今度のことでも、ザラ大将軍の入れ知恵がなけりゃあ、もっと事態は悲惨だっただろうし」

「そうだな」

「皇后腹のオドザヤ皇女が皇太女に立たれた年の終わりに、あのベアトリア王女の第三妾妃に皇子様のご誕生だ。これは揉めるぜ。シイナドラドからはあの背後に誰か隠れてそうなクソ皇子が来るんだろうし、あの国自体もおかしな雲行きだ。その上、カリスマ皇女はネファールの王太女になるんだ。ネファールを挟んでる、ベアトリアやシイナドラドを刺激するだろうな。……くわばらくわばら」

 どう考えても、この先に揉め事の種はいくつもあれど、安寧への予感は皆無だった。

「どうやら、今度も拾った命だ。信じられる人間を周りに増やさないと、足元すくわれる時代になりそうだし、もっと賢くならなきゃな」

 真面目な顔で言い切ったジェネロは立ち上がり、最後にやや小さな声で言ってから立ち去った。

「でもよ。俺はもう決して大公殿下に失敗はさせねえよ」

 と。








 同じ頃。


 シイナドラド国内、皇都ホヤ・デ・セレンの郊外に建つ、瀟洒な館の中で一つの会合が持たれていた。

 薄暗い窓のない部屋の中、客として来て待たされているのは、この国の第二皇子であるエルネスト・セサルだった。

 カイエンたちが見たら、ああやっぱりと思っただろう。

 その部屋は壁紙も床に敷かれた絨毯も、天井の壁画も、すべてが紺色だった。

 そして、壁紙の柄は桔梗カンパヌラ。暖炉を囲む意匠までが紺瑠璃色のガラスモザイクだ。

 その、一面紺色の上に、鈍い光沢の金色の家具が置かれていた。家具の方はすべてが金。暗い金色から青金、黄金を越えて赤金へのグラデーション。ソファの張り地はこれも紺色で、テーブルの天板も紺色の石がはめ込まれたものだった。

 部屋正面の暖炉の後ろの壁いっぱいに、アストロナータ神の天地創造の図が描かれたタピストリがかけ巡らされている。

 それを正面に見る、下座の側のソファにエルネストは座らされていた。

 あの日、ガラに左腕を切り裂かれ、右肩を噛まれた上に脱臼させられたエルネストである。左腕は普通にソファの腕木に載せられていたが、右側の方は肩からずっと動かないように添え木を当てて首から吊っていた。

 やがて。

 エルネストが入って来た側とは反対の、暖炉とタピストリのかかった方の壁にある扉から、二人の男が入って来た。

 二人ともに中肉中背で、大柄のエルネストと比べれば、かなり小さな男だ。それに、年格好も中年の男に見えた。

 最初に入って来た方が、後ろから入って来た方を先に座らせたところを見れば、後から入って来た男の方が地位が上なのだろう。

 だが、もう一人の男も上位らしい男の隣に並んで、遠慮なくエルネストの向かいの上座についた。

 シイナドラドの皇子を下座にに座らせてはばからない、この男たちは。

 彼らもエルネストも、ちょっと黙礼しただけで挨拶らしい挨拶もしない。

「ハーマポスタールの『盾』から急使が入った」

 地位が下の方らしい男の方が、くつろいだ様子で、足を組んでから話し始めた。

 『盾』というのは、ハーマポスタールにいる仲間の符丁なのだろう。

「カイエン様は、お子を妊娠なさっておられ、帰国とともに流産なされたそうだ」

 男の声は静かだったが、それを聞かされたエルネストの方は、飛び上がるくらいに驚いたようだ。

「え……っ?」

 いつもの軽口もその口からは出ては来ない。

 話している男の方は、エルネストの反応など気にもしない様子で、淡々と話し続けるのが異様だった。

「……この国から出て行かれた時からもう、かなりおやつれであられたそうだが。とにかく、カイエン様はかなりお体を損ねられた」

「そ……うなのか」

 話している男は、エルネストの反応など完全に無視していた。

「カイエン様は一ヶ月以上ものご療養が必要だとのことだ。……この責めは、当然の事ながら、あなたに取っていただく」

「……」

「それと、皇后の産んだ皇女、リリエンスール様は、カイエン様同様の紫の髪をお持ちになり、お目も灰色と琥珀色の虹彩異色エテロクロミアでいらっしゃるとのことだ。……つまり、すでに星教皇であられるカイエン様がおられ、リリエンスール様が御生まれの今、あなたには、もはや特別な価値はなくなった」

 エルネストは黙って聞いている。ソファの腕木を掴んだ手が少しだけ震えていた。

「リリエンスール様のご養育は、カイエン様がお引き受けになったそうだ。さすがは星の君であられる。先々のこともしっかりとお考えになられているのだと、私も感銘を受けた」

 男は一人で喋り続ける。

「あの国境でのことでもそうだ。カイエン様はあのような衰弱なさったお体で、お味方の方へ走り出された。あれにはあなた達もしてやられたな。カイエン様と引き換えに、ザラ子爵を人質に取り、こちらへ靡かせるつもりであったが、それも頓挫したわ。……子爵はもはやカイエン様の側から離れることはあるまいて」

 ここで男は一息ついた。

 もう一度、口を開いた時、その声の調子が変わっていた。暗く、重く、陰鬱な声に。

「……カイエン様はたとえその両手両足を無くされようと、その存在を損ねることはないが、あなたは違う」

 男はエルネストをじっと見た。

 もう一人の上位者らしい男の方は、一言も口をきかない。

 エルネストは助けを求めるようにそちらを見たが、反応はなかった。

「さあ。もう特別でなくなったあなたには、制裁を受けてもらわねばならん。……党首様はハーマポスタールへ行っても、もうカイエン様には触れられぬよう、あなたを去勢してやろうかともおっしゃったのだが……」

 男は恐ろしいことを平気な声で言ってのけた。

「……あなたはもはや特別な存在ではなくなったが、そこまでしては今後の使い道に制限が出る。それゆえ、違う方法を、との思し召しだ。ありがたく思うが良い」

 次第に項垂れていくエルネストへ、男は最後通牒を突きつけた。

「あなたが特別だった時は終わったのだ。さあ、あなたが特別だった証のどちらをここへ置いて、ハーマポスタールへ婿入りなさるか。今、ここで決めるのだ」


 しばらく、項垂れたエルネストも男も口をきかなかった。

「そうだな」

 口を開いたのは、エルネストの方だった。その声はもう、落ち着いていた。

「俺は、シイナドラドの皇王家の一員であるという証の方を捨てよう。一人のエルネスト・セサルになって、この先の人生をやってみるよ」

「了解した」

 男はそう言うと、横に座った黙ったままの男の方をちらりと見てから、紺色の部屋を出て行った。

 後に残ったのは、ただただ紺色の闇に溶けていくだけの沈黙だった。

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