ラ・ウニオンの夏侯爵

 運命の恋をしたのはあの男だった

 初めて見た瞬間から

 この男を知っていると

 五感のすべてが私に囁いた


 でも

 彼がわたしの方へ近づいてきた時

 もうわかった

 この男がいつか

 わたしを殺すと


 だから

 愛し合うことなんかないと


 あの男も知っていたはずだ

 わたしにいつか殺されると


 だから

 わたしはきっと殺す

 今度も必ずわたしの唯一の愛を殺す

 出会い続け

 殺し続け


 そしていつか


 わたしたちの出会いの前に

 わたしたちの運命の糸を

 切り離してくれる獣が


 現れて


 わたしたちはやっと抱き合える

 そして初めて本当の明日が見える



       周 暁敏ギョウビン「理想郷を訪ねて」より「運命の恋」







 カイエンが御者席のガラの失踪に気づいた時。

 ガラはジェネロたちのいる国境の城門側と、リベルタの街へ続く道を隔てる内壁の門の上に潜んでいた。

 幸いなことに、内門から続く城壁の上には警備兵の姿はない。大方、国境の警備兵は、城壁と城壁の間に押し込められたジェネロたちを抑える部隊と、リベルタの街の方へ向かったカイエンたちを迎える部隊に分かれて動いているのだろうと思われた。

 カイエンの馬車とパコ・ギジェンの馬車、それにシーヴと女騎士二人だけが内側の門に誘導され、同時に城門は閉ざされた。

 ガラは、ジェネロたちフィエロアルマと分離される、と認識した瞬間にくぐったばかりの内側の門の上へ飛んだのだ。

 巨躯でありながらも、獣そのままに身の軽い彼には造作もないことだった。

 瞬時に彼の代わりに一人の男が内門の上から降ってきて入れ替わった。

 ガラがそうしたのは、一つ前の国境の城門をくぐる前、馬車を街道に走らせていた時から、彼の遠くまで見通せる目には見えていたからだ。

 国境の城門から続く、長城ムラジャ・グランデの城壁の上にいた、二人の警備兵が。

 彼らをガラが認めた瞬間に、彼ら二人は合図をよこした。

 仲間としての合図を。

 ガラにはそこまで見えなかったが、もともと、城壁の上の警備兵は本来はもう少し人数がいたのだ。だが、今は二人しかいない。

 どうしてか。

 他のシイナドラド人の警備兵を静かに倒し、警備兵の制服を奪って二人が入れ替わったからだった。



 ザラ大将軍エミリオは、この旅に際し、兄のザラ子爵に己の「影使い」四人をつけた。

 彼らは旅の前にカイエン以下、主だった者たちにとは顔見せを済ませている。彼らの任務と動き方についても、これは彼らの主人であるザラ大将軍から一言あった。

「彼らは一切、表に出ずに大公殿下の一行より常に先へ先行させます。何かありました時には連絡の用を担います」

 と。

 そして、ガラを含めた警備関係者には彼らとの連絡方法についての綿密な打ち合わせも行われていた。

 だから、彼らの姿をこの旅の間に、一行の中に見る事は出来なかったのだ。

 彼ら四人、エステ、オエステ、スール、ノルテ、つまりは東西南北を名乗る影使いは、ザラ子爵とサパタ伯爵とともに、カイエンたちに先行していたからだ。だが、ベアトリア国境からカイエンたちに合流したザラ子爵たちの中に彼ら四人の姿はなかった。と言うより、彼ら四人はザラ子爵のそばに居ながら、サパタ伯爵には気がつかれないよう隠密のまま進んできていたのだから。

 カイエンたちと合流したザラ子爵は、影使い四人を密かに先行させた。

 だから、彼ら四人は先にシイナドラド国境へ至り、そして密かに密入国していたというわけだ。

 そういう用のために、ザラ大将軍エミリオは彼らを兄である子爵につけたのであるから、彼らの仕事は順調に進んでいたと言えるだろう。

 その四人のうちの二人を、ガラは国境の城門の上に見、その指示に従ったのである。

 影使いたちが、国境の門へ到達する前に連絡してこなかった理由は分からない。

 で、あるから。

 カイエンがリベルタの街の広場で、己の馬車の御者席にいるはずのガラを目で探した時、彼の姿はもうそこにはなかった。

 ガラと入れ替わった影使いの一人も、広場に入り、馬車が停止させられた瞬間を狙い、これは着ていたフード付きの外套を即座に脱ぎ捨てて周りの警備兵たちの中へ紛れている。そのまま御者に化けていた方がいいのはわかっていたが、彼にはしなければならないことがあったからだ。

 カイエンたちには分からなかったが、国境の城門でガラに合図した二人も今頃は警備兵に紛れて、そちらはそちらでジェネロたちに接触しているはずだった。

 カイエンたちの馬車の馬が薬を嗅がされ、そのままリベルタの街へ向かって失踪していくのを見送ったガラは、残った影使いの一人が自分に接触してくるのを待った。

 国境の長城ムラジャ・グランデの上にいた二人。そして内門で自分と入れ替わってカイエンの馬車の御者になった一人。

 影使いは四人。それ以外にもう一人いるはずだった。だからそいつが接触してくるはずだった。彼から情報を得ない限り、ガラは今いる内門の城壁から外へ行くべきか内へ入るべきか、判断がつきかねた。

 やがて。

 ガラの鋭い耳は、リベルタの街側から投げられた小石の音を捉えた。

 その小石の投げ方も、ハウヤ帝国を出る前に取り決めた通りで間違いない。

 ガラは音もなく内側の城壁の中へ飛び降りた。

 すぐに、一人の気配が近づいてくる。

「状況は」

 ガラが低い声で囁くと、相手はフードの影からガラを見上げてきた。

 ガラにもザラ大将軍の影使い達四人の区別は難しい。兄弟でもあるまいに、特徴のない平凡すぎる顔立ちの東西南北は己の特徴のすべてを消し去っているのだ。

「悪い」

 影使いの一人の声もガラがやっと聞き取れるほどに小さい。

「すまない。国境を越える前に伝えられなかった。国境の外の街道にはシイナドラドの影使いどもが潜んでいたから」

 ガラはうなずいた。

「お前らはバレてないか」

「もちろんだ」

 影使いは表情も変えない。

「こっちにもシイナドラドの影がいるか」

 ガラは周りに神経を張り巡らせていたが、今のところ、反応はなかった。

「影は大公殿下の方へ向かった」

「お前達はもう、リベルタへ入ったか」

 ガラが聞くと、影使いはうなずいた。

「リベルタはラ・ウニオン侯爵領だ。この侯爵が厄介だ。名前はドン=フィルマメント・デ・ロサリオ、聞いてるな?」

 ガラはもちろん、兄のサヴォナローラから聞いていた。彼は顔の筋一つ動かさずに答えた。

夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ

「そうだ」

「なぜ、奴らはフィエロアルマを大公殿下から切り離した?」

 ガラも影使いの一人も、無駄口は一言もきかなかった。

「この先の道筋には、軍人には見せられないものが多すぎるからだ」

 この答えを聞いて、ガラは少し黙った。

「前にグラシアノ大公が訪れた時にはこんなことは起きてない」

 グラシアノ大公は、カイエンの大叔父に当たる先先代の大公だ。

 彼は今のシイナドラド皇王の結婚式参列のために、このシイナドラドを訪れている。

「では、その後に始まったのだろう。恐らく現在、この国は軍事国家として特化している」

 影使いは落ち着いている。

 ガラの真っ青な目がぎらっと光った。

「何を見た?」

「リベルタの先、ラ・ウニオンの城下町までしか見ていないが、トーチカが道沿いに。シイナドラドが他国に面している方へ続く街道には全て配されているとみていいだろう」

 トーチカは兵を伏せておく場所で、飛び道具を備えて防御するための場所だ。外国と交戦中でもないシイナドラドにそれがあるのは不自然だった。

「内戦でもしてるのか?」

「わからない。しかし、国民の自由な移動は制限されているようだ。街道には関も設けられている」

 ガラは少し考えた。

「それをフィエロアルマには見られたくなかったというわけだな?」

 影使いは黙ってうなずいた。

「わかった。お前達はどうする?」

「国境の長城ムラジャ・グランデにいた二人はジェネロ・コロンボ将軍とザラ子爵様に接触する。指示があればどちらかが連絡に来るだろう。シイナドラドの外にいる宰相様の手の者にも知らせねばならない」

 ガラはうなずいた。

「俺と、大公殿下について行っているはずのエステはシイナドラド国内で大公殿下より先に進む。お前は大公殿下のお側になんとか潜り込め」

 影使いの茫洋とした記憶に残らない顔の中で、目だけが光った。

「出来るな?」

 ガラははっきりと顎を引いた。

 ガラの脳裏に浮かんだのは、マテオ・ソーサの顔、カイエンの顔、そして最後にかすめたのはヴァイロンの顔だった。

(お前はここで、己のつがいに出会ったのだろう。……俺はここで第二の父に出会った。実は、このことは俺の実の父がいまわの際に言い残したことだ)

 自分がヴァイロンに言った、あの言葉。

 自分はカイエンを守る、だからお前はマテオ・ソーサを守ってくれ、ガラはそう、ヴァイロンに言ったのだ。

 だが、それだけではない。

 ガラにはカイエンという存在を守らねばならない理由も、確かに、あったのだ。


「もちろんだ」

 言うなり、ガラが動こうとすると、影使いがそっとそれを止めた。

「言っておくことがある」

「なんだ?」

「俺は、夏の侯爵、ドン=フィルマメント・デ・ロサリオの顔を見た」

「……」

 それで? というようにガラが促すと、影使いは一瞬、迷ってから言った。

「顔は似ていない。だが、やつはお前と同じ濃い灰色の髪をして、お前と同じその真っ青な目を持っていた」

 これにはさすがのガラも、すぐには返事が出来なかった。

 その一瞬の隙に、影使いの鋭いナイフがガラの心臓の真上に当てられていた。恐ろしいまでの早業だ。

「……驚いたか。ならばいい」

 ガラの前の前で、ナイフが影使いの手元に引っ込んで消えた。

 驚かなかったら、ガラは心臓をひと突きにされていただろう。

「俺はザラ大将軍閣下の影だ。宰相の弟のお前がこちら側に通じていたら殺さねばならない。だが、今はまだその時ではないようだ」

 まだ返事のできないガラの前で、素早く一礼すると、もう影使いの姿はそこから消えていた。


 


  

「おやあ。殿下の馬車の御者がいませんね」


 リベルタの広場。

 そこに面した市庁舎から出てきた夏の侯爵マルケス・デ・エスティオは、自分の馬車の御者台を見上げて絶句しているカイエンへ揶揄するような言葉を浴びせかけてきた。

「では、あれは殿下の影でしたか」

 カイエンは夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ方へ、ゆっくりと顔を巡らせた。両脇を支えているアキノとルーサはカイエンを支える反対の手に短剣を抜きはなった。

 彼らを守るように周りに三角形をなして立った、シーヴと女騎士のシェスタとナランハは馬車が止まると同時に腰の剣を抜き、厳しい顔で周りをねめつけている。

 内閣大学士でアストロナータ神官のパコはカイエンの後ろで小さくなっており、彼の馬車の御者は馬車の上で固まっていた。

「影? 知らんな」

 カイエンは本当にガラと影使いが入れ替わったことを知らなかったので、その声は自信に満ちていた。

 ガラが消えた。

 それはつまり、今のこの事態に彼は巻き込まれていないということでもある。まだ事態は流動的だとカイエンたちにはわかっていた。

「デ・ロサリオ侯爵。これはどういうおつもりかな?」

 夕日は完全に海の向こうに落ちていた。

 カイエンは市庁舎の入り口に灯されたランプに照らされた、夏の侯爵の顔を見上げて聞きただした。

「私を警護の者たちから離して、どうするつもりか? こんなことをして、ただで済むとは……思っておらんだろうな。ハウヤ帝国との間に隙を作りたいのか? いや、このまま私を国へ返すつもりはないのかな? そうならそれで火種となろうが」

 そうなのだ。

 こんなことをした後に、カイエンたちを帰国させればハウヤ帝国とシイナドラドとの国家間の関係は剣呑な方向に一直線に進むだろう。

 皇帝サウルは国境紛争の終わった隣国ベアトリアの第一王女を第三妾妃に置き、己の第二皇女を次期ネファール女王にする計略を進めている。シイナドラド側がそれに気がついているとすれば、ここで大公のカイエンとハウヤ帝国の精鋭フィエロアルマの一部を抑えることには意味があるのかもしれない。

 と、なれば。

 これはカイエンたちを返さないつもりなのかもしれなかった。

 だが、そこまでする目的がわからなかった。そこまですれば、さすがに皇帝サウルも黙ってはいないだろう。

 そもそも、カイエンたちはこの国の皇太子の婚礼に招かれてやってきただけなのだから。

 今までは先祖を同じくする「友邦」としてお互いを立ててきたが、それが危うくなりかねない。

「おやおや。弱い犬ほどよく吠えると申しますが、殿下もそれですかね。そんなに強がって見せなくとも取って食ったりはしませんのに」

 だが、カイエンの問いに対する答えはしたたかな中年男の嘲笑でしかなかった。

 これは、彼らにはこの事態を収める腹案がとっくに用意されていると見るべきだろう。

「うるさい!」

 カイエンが反射的に怒鳴ると、横からアキノがそっと呟いて、カイエンの腕を掴んでいる手に力を込めた。

「カイエン様、ここはお静かに」

 カイエンはアキノの老いた、だが鋭く尖った表情を一瞬、見た。その顔は険しく、青い目はカイエンを見てはいたがその奥の頭脳がものすごい速さで回転し、現状を分析していることが見て取れた。

 わかっている。こちらはたった八人。それもシイナドラドの警備兵に周りをびっちりと囲まれている。カイエンは静かにアキノに向かってうなずいて見せた。彼女の頭の中は嵐のようだったが、それでも冷たく冷えた部分が確かにあったのだ。

 だが、カイエンは黙らなかった。目の前の真っ青な目の男の嘲笑とその言葉には彼女個人に対する悪意があった。それをそのままには出来なかったのだ。

「弱い者が強い者の前で、恐れ震えたまま黙っていたらどうなるのだ。強者にされるがままではないか。弱い者は黙って従えというのか。そもそも、強いから吠えぬのではない。弱いからこそ吠えるのではないか!」

 言いながら、カイエンはアキノとルーサの手を振り払った。

 歯ぎしりするような思いで、黒檀の杖を広場の石畳にきつく突き、相手を睨みつける。

 カイエンにもこの場をどう切り抜たらいいのか、その算段などありはしなかった。

 だが、ガラが消えているということは、まだすべての道を塞がれたわけではないのだということだけはわかっていた。

「おやおや。弱い者が吠えて何が変わると言うのです? 強者の心証を害するだけでしょうに」 

 カイエンに面と向かってそう言うと、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ黙ってカイエンの方へ歩んでくる。

 シーヴたちが動こうとしたが、その鼻先に警備兵たちの槍の矛先が突きつけられた。シーヴも女騎士の二人も、主な装備は今、手にした剣だけだ。シーヴの個人的な技量はかなりのものだし、女騎士の二人もその他大勢の警備兵などに遅れをとるようなことはないだろうが、それで殺せるのは目の前の数人、多くとも十人と少しだけだろう。その後は周囲を取り囲む、人数に勝る警備兵たちの長い槍がものを言うだろうから。

 いくら優れた技量を誇っても、長柄の戦斧だの戟だのでもない限り、集団の構える槍衾の進行を防げはしない。広場を囲む店々から弓で狙われていれば、空中からも攻撃を受けるのだ。

 そんな中。

 動けないシーヴたちの前で、精鋭らしい体の大きい警備兵に守られて歩いてきた夏の侯爵マルケス・デ・エスティオは、その顔に嘲笑を張り付かせたまま、カイエンの突いている杖を蹴り上げてきた。

 さすがのアキノとルーサも、相手がそんな手荒な行為を大公であるカイエンへ向けてくるとは予想できなかった。

 そして、右足の効かないカイエンは左手の杖にかなりの体重をかけている。


「あっ」


 カイエンは小さな叫び声だけ残して、いとも簡単に石畳の上へ転がされた。

 これまでの人生で足のことで嫌な思いをしたことは数多あったが。

 こんな事態は初めてだった。

 大丈夫な方の左足で踏ん張ろうとしたのだが、それさえ許されない速さと強さだった。

 自ら転んだのならば、それほど勢い良く転ぶことはない。だが、きつく地面に突いていた杖を力任せに払われたのだ。

 この日も、カイエンはすっかり「旅の衣装」となっていた大公軍団の黒い制服を着ていたのだが、その制服の膝を最初に石畳に打ち付け、次に左腕の肘が続いた。それで勢いが止まり、顔を石畳に打ち付けずに済んだのだけが幸いだった。

 つまりは。

 カイエンは生まれて初めて、力づくの暴力によって地面に叩きのめされたのだった。

 かなりの勢いで左半身を石畳に叩きつけられ、すぐには起き上がることも出来ない。

「カイエン様!」

 カイエンを助け起こそうとした、アキノとルーサ。

 だが、彼らの両腕を警備兵たちが掴んでカイエンから遠ざける。


「!」

 それを見ていたシーヴの、いつもは穏やかな胡桃色の目が火を吹いた。

 ものも言わずに周りを取り囲む警備兵を押しのけて、カイエンに近寄ろうとする。

 彼の剣先で、血飛沫が舞い、何人かの兵が地に這った。

 長槍を持って進んできた一群さえも、槍の先を切り払われて崩れ出す。

 日頃見せたことのない、殺気立った顔でなおも剣を進めるシーヴ。

 だが、そこまでだった。

 石畳の上で、やっと上体を起こしたカイエンの首元に、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオが抜き放った剣が突きつけられたからだ。

「動くな!」

 シーヴは剣を持ったまま、動きを止めるしかない。

 血走った目でカイエンの方を見る。

 そのシーヴへ向かって、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオは冷酷に顎をしゃくった。

「その若造を殺せ。たかが護衛だ」

 それを受けて、シーヴへ向かって殺到した警備兵たちの槍と剣が、シーヴの上に降り注ごうとする。


 その瞬間。

 カイエンは自分が何をしようとしたのか、わからない。

 転ばされ、石に叩きつけられた痛みも感じなかった。


 カイエンは己でも意識しないままに、まだ左手に掴んでいた杖と右腕にありったけの腕力を込めて立ち上がっていた。

 その勢いで、首元に突きつけられていた剣が滑り、カイエンの首ではなく左の頰のあたりを掠め、ざっくりと切り裂いたが、その痛みさえ感じなかった。

「やめろ!」

 カイエンの声は低く、だが地響きのようにその場の皆の体を伝わっていった。

 その小さな体からこんな大声、それも戦場で相手を威嚇するような大音声が出てきたとは誰も信じられなかっただろう。

 その異様な声音に、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオも一瞬、気を飲まれたように動きを止めた。

「やめろ」

 今や、石畳の上に斜めに立ち上がったカイエンだけを、皆が見ていた。

 その土気色の左頬に一本の血の筋が走り、すぐに傷から膨れ上がるようにして、真っ赤な血が溢れ出した。血はそのまま、カイエンの頬から顎へ、それから首から胸へと流れ落ちていく。

「いやあああああ。カイエン様!」

 普段は冷たい無表情を貫く、女中頭のルーサが、引き攣るような悲鳴をあげた。だが、両腕を屈強な警備兵に抑えられているので、身動きが取れない。

 アキノは黙ったまま、そっと左右の警備兵の様子を伺っていた。


「やめろ」

 カイエンは三たび、言った。

「私の家族を傷つけるな」

 そして。

 灰色に光るカイエンの目の光が、夏の侯爵の真っ青な目に突き刺さった。

「好きにするがいい。ここではお前の力が上だ。だが、私の家族を傷つけることは許さない」

 その時、その場のすべての人間の目が、カイエンを注視したまま止まっていた。



「そこまでにしなよ」


 そこへ。

 凍りついた空気に投げかけられたのは、新しい登場人物の声だった。

夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ、あんたの負けだなあ。こいつはいいや。これでなくっちゃな。ハーマポスタールの大公殿下たるもの、こうじゃなくっちゃなあ」

 パン、パンパンパン!

 戯けた拍手とともに、そこに現れた男の方へ、カイエンはゆっくりと首を巡らせた。

「誰だお前?」

 その問いは、目の前で凍りついている夏の侯爵マルケス・デ・エスティオへもした問いだったが、今度の方がどすが効いていた。

 カイエンは市庁舎のランプに向かって立っていたので、ランプを背にした相手の顔は見えなかった。

 見えたのは、ヴァイロンやガラほどではないが、かなり背の高い男の影絵だった。

「俺?」

 影絵は答えた。


「俺はあんたの未来の夫になる男だよ。ハーマポスタールの大公殿下。俺はエルネスト・セサル。とんだ大騒ぎになっちまったが、まあ、よろしく頼むぜ」


 これが、ハウヤ帝国ハーマポスタール大公カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタールと、シイナドラド皇国第二皇子エルネスト・セサル・デ・ドラドテラとの出会いであった。

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