空が、落ちてくる

 「おい待て!」

 馬車の窓から首を出したカイエンと、馬上で叫んだジェネロの間で。

 内側の城門が無情に閉ざされてすぐ。


 ジェネロは馬上から周りの様相へと目を巡らせた。同じように、危険な気配を感じて興奮した馬を抑えながら、ジェネロの方を見ていた二人の副官に目配せする。

 イヴァンともチコとも、先年までのベアトリアとの国境紛争中ずっと一緒だった。彼らにはジェネロの気持ちがすぐに飲み込めたらしい。

 浮き足立つフィエロアルマの兵士たちをまとめ上げるべく、副官二人は素早く動き出した。そこは統制のとれた軍隊である。

 彼らを包囲するためだろう、一直線に並んで盾で体を守りつつ、長槍を掲げて四方から向かってくる警備兵たちを見ながら、隊列をまとめにかかる。フィエロアルマの精鋭のみならば早いが、これは外交使節の行列だ。荷駄を運ぶ馬車もある。

 それでも、今回の使節では荷駄の運搬までもフィエロアルマの軍人が担っていた。

 実は、それをジェネロに直接、指示したのは大将軍エミリオ・ザラその人であった。聞いた時には「そこまでするのか」と驚いたジェネロだったが、事がこうなってみればザラ大将軍はさすがに慧眼の士だったといえよう。

「……。…………!」

 ジェネロの喉から、アンティグア語ではない言葉が短く発せられる。

 それはフィエロアルマの士官以上のみが解する特別な符丁だった。戦場で敵に悟られずに兵を動かすための方便だったが、それがこの際にも役に立った。

 四方から向かってくる盾を手にした歩兵の槍衾の中、フィエロアルマの隊列が真後ろへ回転し、そのまま入ってきた国境の城門へ向かって戻り始める。後ろから迫ってきていた槍衾の一軍は一番少なかった。大公の馬車をシイナドラド側に残したまま、警護の軍勢が後ろへ引き返すとは考えていなかったのだろう。

 もちろん、なるべく警備兵達を殺すなとも伝えてある。

 その様子を確かめながら、ジェネロが探していたのはザラ子爵の姿だった。

 彼は指揮者と思しき軍人と役人の方へ馬を進め、何やら交渉中だったはずだ。

 幸運なことに、ザラ子爵の方も交渉を放り出してジェネロの方へ動こうとしているところだった。だが、子爵はシイナドラドの国境警備の指揮官と交渉するべく、馬を降りてしまっていた。

 ザラ子爵の周りのシイナドラド警備兵が、彼を拘束しようと動く。

 ジェネロは単騎、そこへ向かって駆けた。この辺り、考えるよりも早く体の方が動いている。

 何か叫びながら押し寄せてくる警備兵たちを、腰から鞘ごと抜いた長剣で馬上から払いのけていく。外交使節としての道中に、槍だの戟だのを馬に装備して進むわけにはいかないから、持っている一番長い獲物は長剣だった。

 それも、剣を抜き払って切りつけるわけにはいかない。カイエンとパコ・ギジェンの馬車と奸計をもって引き離されたからといって、それを理由に人死にを出すわけにはいかなかった。下手をすれば国家間の戦争のきっかけにもなりかねないのだ。

「邪魔なんだよ! このボウフラどもめ!」

 警備兵たちは、本当にただの国境警備兵であるらしく、その動きは軍隊の精鋭と比べれば練度が低く、ふわふわと頼りない。飛び道具が出てこないのもありがたかった。まあ、こう彼我が接近していては矢を射かけてくることは難しいだろうが、馬上のジェネロ達には遠矢で射かけられるのは危険だった。

 警備兵たちの方も、これ以上、事を大事にする命令は受けていないように見えた。

 ジェネロの長剣は、この旅の前に新しく誂えたものだった。どうしてそうしたのか自分でもわからなかったのだが、それまでの愛用の剣よりも長く調整させていた。

 まだ、手に馴染んではいないが、その長さがここではものを言った。

「どきやがれえ!」

 圧倒的な力技で、ジェネロは馬上から警備兵たちの槍の先を払い、ザラ子爵の面前まで迫っていた。

 驚愕に見開かれたザラ子爵の焦げ茶色の目と、ジェネロの灰色がかった緑の目が合ったと同時、ザラ子爵はジェネロに腕を掴まれて宙に持ち上げられ、そのまま彼の馬の後ろに乗せられていた。

 そのまま、ジェネロの乗った馬は国境の城門へ向かった友軍の方へ一目散に駆ける。

 その頃には、夕日が西の海へ落ちようとしていた。


 ジェネロの馬は、去年の春、ヴァイロンがあの嵐のような騒動で将軍位を失った時に彼から受け継いだものだ。

 ジェネロは固辞したのだが、ヴァイロンは、

「もう、将軍として戦さ場に立つことはないだろう」

 と言い切って、己の愛馬をフィエロアルマに残して去ったのだ。

 あのヴァイロンの巨躯を乗せて戦場を走っていた馬である。地獄の炎に焼かれたように真っ黒な馬で、軍馬としても馬体が大きく、凄まじいばかりの強さと速さを誇っていた。

 名は、ウラカーン。大嵐という意味だ。 

 ジェネロは譲られた当初、なんどもこの馬に背中から叩き落とされた。ヴァイロンの後を受け継いで将軍にはなったが、この馬に認められないのではどうにも格好がつかんなあ、と情けなく思ったものだ。

 だが、そのウラカーンも何度背中から振り落としてもヘラヘラと笑っているジェネロに根負けしたらしい。と言うよりは、もうヴァイロンは戻らないと悟ったのだろう。

「コロンボ将軍、君、どうするつもりだね?」

 大火に焼かれた熾火をまとったような、漆黒のウラカーンの巨大な馬体が迫り来るのに恐れをなしたのだろう、シイナドラドの警備兵達の壁が崩れ去っていく。

 その様子を見ながら、肩の後ろから声をかけてきたザラ子爵へ、ジェネロはまっすぐに前を見たまま、答えた。

「とりあえず、あの国境の城門を突破してから考えましょうや。……さすがは大将軍だ。ザラ様はこんな事態も想定に入れていらっしゃったようですぜ」

「エミリオが!?」

 弟の名前を口にしたザラ子爵ヴィクトルを乗せて、ウラカーンは一気に国境の城門へと迫っていた。

 そこでは、すでに先着しているフィエロアルマの兵士達が大活躍の最中だった。

 見事な分業で、身軽なものはさっさと城壁の上へ登り、城門の開閉を担う警備兵達をなぎ倒して、城門に降りた扉を巻き上げるべく動いている。一方で、城門の前では警備兵をなぎ倒した兵士達が、斧を手にして扉を破壊し始めていた。壊せるものは壊せる時に壊しておこうとでもいうのだろうか。彼らの動きには容赦がなかった。

「開きますよぉ〜」

 城門へ達したジェネロとザラ子爵の上から、ジェネロの副官、チコ・サフラの声が落ちてきた。なんだか楽しそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

「おう! さっさと開けろや畜生!」

 ジェネロが叫んだとき、ギリギリと音を立てて、城門が開き始める。

「突破ぁ!」

 その声に、城門の破壊活動に従事していた兵士が、果敢に城門の外へ飛び出ていく。国境とは言っても、ネファール側の検問所は街道の今少し先の街の中にある。

 城門を出たところは、いわばネファール、シイナドラド国境間の「緩衝地帯」とでもいうべき場所だ。カイエン達がリベルタの港を望んだ丘の上まで、人家などは全くない。

 だから、城門の外にシイナドラド兵士が潜んでいる可能性は大いにあった。

 だが。

 城門の外には伏せられた兵士の姿はなかった。

「駆け抜けろ!」

 ジェネロの掛け声を待つまでもなく、フィエロアルマの一行は門の向こうへなだれ出て行く。

 荷駄を積んだ馬車も例外ではなく、一行はリベルタ港を望む丘の上まで駆け戻った。

「大公殿下は大丈夫だろうか」

 やや並み足になったウラカーンの上で、ザラ子爵は心配そうに後ろを振り返った。

「さあねえ。でもまあ、俺たちがもろともに捕まるよりはマシだったんじゃないですか」

 ジェネロの答えは、ややぶっきらぼうに聞こえた。彼とて想いは子爵と同じである。それでも、将軍として最善の対応をしようとしただけだ。

 そうして。

 周りを見渡せる場所から、周囲を見回して伏せられた兵のいないことを確認し、ネファール側の丘の下までジェネロ達が降りたとき。

「!」

 ジェネロはハッとしてウラカーンを止めた。

 前足を大きく振り上げて、その場に止まったウラカーンの前に、すでに暗くなりつつある空の下、湧き上がってきたように、一人の男が立っている。


「ノルテではないか!?」

 ジェネロの肩越しに、ザラ子爵が叫んだ。

 ジェネロもその呼びかけを聞いて、すぐにその男の正体がわかった。

 ザラ大将軍エミリオが、その兄につけた、四人の影使い。

 東エステ、西オエステ、南スール、北ノルテの四人である。

 その一人がここにいるのだ。

「いかがした。報告せよ」

 ザラ子爵が促すまでもなく、男、ノルテはウラカーンの前に跪いた。

 ジェネロとザラ子爵はその場で馬から降りた。

 ジェネロの周りに集まってきたフィエロアルマの精鋭達も息をのんで見守る。

「子爵様、エステは大公殿下の馬車に先立ち、シイナドラド側で待機しておりました。今頃は大公殿下とともに街の中へ入っておるはず。オエステも密かに後を追っております。スールはこの先のネファール国境の街、あちら側の検問所のあるシャルダへ先行し、町長とネファール国軍の指揮官に話をつけておるはずです。かの街には宰相様の手配した者共もおりますので、事は最速でハーマポスタールまで伝わる手筈です」

 よどみなくしゃべるノルテの話は、頼もしいものだった。さすがはザラ大将軍の手の者だけの事はある。

 サヴォナローラがハーマポスタールからハウヤ帝国国内、ベアトリア、そしてネファールまで連絡用の網を敷いていることは勿論、ジェネロ達も知っていた。早馬や狼煙、使える全ての方法でもって、この事態の報告はハーマポスタールまで走るだろう。

 ジェネロはそっと一人でうなずいた。 

 エステとオエステはカイエン達に付いているらしい。そしてシャルダへ走ったのはスール。

 となると、目の前の影使いはノルテということになる。

「……さすが子爵様、区別がつくんだ……」

 ジェネロは密かに呟いて、国境の城門を開け、一番最後に殿で付いてきたはずの副官のチコ・サフラに睨まれた。もっとも、チコだって四人の区別など付いていなはずだ。

「シイナドラド側の影使いは?」

 ザラ子爵は周りを見回しながら問うた。もう、あたりは薄暗くなろうとしている。だが、まだここで灯りをつけるわけにはいかなかった。

「私どもが来たときにはおりました。それでこの事態をお知らせに戻ることが出来ませんでした。申し訳ございません」

「いい」

 ザラ子爵はノルテの謝罪を遮った。それどころではない。

「今は?」

「大公殿下の馬車とともに内側の城壁の中へ下がっていっております」

「お前もシイナドラド国内へ入ったのか?」

 そう聞かれると、ノルテは仲間の一人がガラに話したのと同じ内容を告げた。シイナドラド国内の街道沿いに設置された砦トーチカの事、国民の移動が制限されているらしいこと。

 そして、リベルタの所属するラ・ウニオンの領主が夏の侯爵マルケス・デ・エスティオであること。カイエン達は彼の手に落ちたであろうこと。

 聞くなり、ジェネロの顔もザラ子爵の顔も厳しさを増した。

「では、カイエン様達との連絡はもうつかないか……」

 エステとオエステがそばに見えないように付いているはずではあるが、カイエン達の周りにはシイナドラド側の影使いも戻っているという。簡単には国境のこちらまで連絡に戻っては来られまい。

「いいえ。私がこれよりシイナドラド側へ戻り、大公殿下へ密かにこちらの状況をお知らせいたします」

「出来るのか」

 ザラ子爵は不安そうだ。

 だが、ノルテの返答は驚くべきものだった。

「私とスールは長城ムラジャ・グランデの上から、大公殿下の馬車の御者に化けていたガラに合図いたしました。あやつの目なら見えると踏んだのです。さすがにあの男でも内側の城門との間での騒ぎの間は馬車を離れられませんでしたが、フィエロアルマと分離され、内側の門をくぐる時にオエステと入れ替わりました」

「入れ替わったあ?」

 ジェネロが思わず、といった風に口を挟む。

「あいつ、やっぱ化けもんだなあ」

 ガラは見た目からしてそうだが、目の前の冴えない、全く人の記憶に残らない平凡すぎる顔の男、ノルテ達も化けものではある。

「では、ガラは自由に動いていると言うのだな」

 ザラ子爵はもう落ち着きを取り戻していた。それでも心が逸るのか、腕組みをした腕の上で片手が踊るように動く。

「わかった。お前は戻ってガラに連絡せよ。こちらはこの先のシャルダで布陣する」

 布陣。

 ザラ子爵はそう言った。

 ジェネロ達、フィエロアルマ達の顔が引き締まった。

「ジェネロ、君たち何日であの長城ムラジャ・グランデを攻略できるかね? 事こうなれば、向こうにも早々に領主様の侯爵様の軍勢が到着するだろう。そうなると、さっきみたいにはあの城門も突破できまい。まあ、実際に攻略できずとも、あちら側に圧力をかけられるような装備でもって相対するだけでいいんだが」

 ジェネロは目をぱちくりさせた。彼の頭の中で今、考えていたことと子爵の言うことがきれいに一致したからだ。

「はあ」

 彼は一息、ついてから答えた。

「それなら、早いと思いますよ。ネファールのシャルダって街は小さな町でしたし、今はシイナドラドと争っているんでもないから、あんな城塞攻略用の武器なんかないでしょうけど、さすがに木材とかはあるでしょうからね」

 そこまで言うと、ジェネロは黙って控えていたノルテに向かって手を振った。

「お前はもう、わかっただろ? いいからもう戻れ。ガラにちゃんと伝えるんだぞ」

「承知」

 ノルテの方も、ザラ子爵へ丁寧に礼をするなり、街道をシイナドラドへ向けて走り去っていく。その姿は森の中へあっという間に消えてしまった。

「工兵を連れて来てるんですよ」  

 ノルテを見送るのももどかしく、ジェネロは子爵に説明した。同時に手振りでフィエロアルマの軍勢にシャルダへの移動を命じる。

 気が急くのもあって、ジェネロの言葉遣いがだんだん怪しくなってきた。

「あの影使いの奴らはそれも重々、承知しているはずなんで、大丈夫でさあ」

「工兵?」

 不思議そうな顔で見るザラ子爵へ、ジェネロはウラカーンへ乗るように促した。完全に暗くなる前にシャルダの街へ入りたかったのだ。

「ああ、こいつは子爵様が俺たちより先に、あのシイナドラドのサパタ伯爵と一緒に先行することになったんでね。万が一を考えて子爵様には秘密にしてあったんです。大公殿下たちにもね。あ、アキノって執事の爺さんは知ってたはずです。……だから、今初めてお話することになって申し訳ありません」

 ジェネロもウラカーンに乗り、シャルダへ向けて走り出した。

「ザラ大将軍のご命令で、この外交使節団には工兵が兵士に紛れているし、工作器具も荷駄に積み込まれてるんでさ。槍なんかも刃と柄を分解して積み込んで来てるんです」

 ザラ子爵は弟の顔を思いながら、渋い顔でうなずいた。自分だけのけ者にされていたのは業腹だが、老獪な弟の用心も理解できた。

「これは外交使節団ですからね。目立った兵器は運べません。でも、工兵は荷駄の馬車を守らせてる感じで歩かせてりゃあいいし、工兵の使う工具も荷駄に乗せて運べます。ザラ大将軍閣下は、本当にまあ、恐ろしい方ですねえ」


 一行は星空が見え始めた頃にはシャルダの街へ戻っていた。昼過ぎにリベルタへ向かって出発した時には歩かせていた、兵士に化けた工兵たちを荷駄の馬車に乗せて走ったので、倍以上の速さで戻れたのだ。

 シャルダの街の、町長の屋敷と町役場の前の広場は今や、煌々とした灯りに照らされ、フィエロアルマの兵馬が溢れていた。

「イヴァン、お前、ネファールの役人に話つけてこい。ありったけの木材、供出させろ。それと、野営すっから場所の算段もな」

 ジェネロは時間をいっときも無駄にはしなかった。

「チコ、足りなかったら工兵にその辺の木、伐採させて破壊槌と投石機作らせろ。槍と弓箭隊の用意もだ。射手が足りなかったらネファールから引っこ抜いてこい」

「えー。ネファールがそんなの協力できないって言ったからどうするんです? ここ、国境ですよ。それも他国の!」

「いやだなんて言わねーよ」

 そう言うと、ジェネロはイヴァンの後ろから、町役場の方へずんずんと歩いていく。ハッとしたようにザラ子爵がその後を追った。

「おーい。スールいるかぁ」

 先に入っているはずの影使いをでかい声で呼ぶ。

「君、シイナドラドと今すぐ戦う気か。大公殿下のご無事を確認せんことには何も始められんぞ」

 あっという間に戦闘準備に入ったジェネロたちの様子に、ザラ子爵は焦るしかない。長年、外交畑で仕事をしてきた彼には戦う前にいくつもせねばならない段階的な交渉と言うものがあるのだ。

(実際に攻略できずとも、あちら側に圧力をかけられるような装備でもって相対するだけでいいんだが)

 そう、ジェネロに言いはしたが。

 どうやら、子爵の考えた陣容とジェネロの考えたそれにはやや、隔たりがあったようだ。

 だが、ちょっと振り返ったジェネロの顔は真顔だった。殺気立ってはおらず、固く冷えていた。

「ことと次第によっちゃあね。……俺たちゃ、ハウヤ帝国のフィエロアルマだ。シイナドラドのふやけた野郎どもなんぞにそうそう馬鹿にされちゃあいられませんよ」

 その後に続いた言葉は、彼の口の中で消えてしまい、ザラ子爵には聞こえなかった。

「大公殿下に何かあったら、俺はもう生きちゃ国に戻れないんだしなあ……」

 そんなことがあったら。

 あのウラカーンの本当の主人に会わせる顔がない。

 いや、自分自身が許せないだろう。

 ハーマポスタールに残してきた家族ともお別れだ。

 そこまで考えたら、なんだか目の奥がしょっぱくなってきた。歴戦の軍人、将軍閣下と言ったって、心の中身は普通と同じなのだ。

「ちくしょうめが」

 ぐいっと顎を上げて夜空を見上げると、真っ黒な空に満天の星が光っていた。こんな空は深夜まで街の灯りが灯る、ハーマポスタールではなかなか見られない。だが、戦場ではいつもこんな空が広がっていたっけ。

 この空が落ちてくる時、そんな日はまだまだ先の事にしておきたかった。







 ジェネロたちが長城ムラジャ・グランデの城門を開けてネファール側へ逃れ出た頃。

 カイエンは市庁舎から現れた、一人の男と向き合っていた。

 と言っても、市庁舎の灯りを背にした男の顔は、カイエンの方からは見えなかった。

 男がまだ若く、そしてかなりの長身と体格の良さを持つことは、声とシルエットでわかったが、それだけだ。

 カイエンは石畳に打ち付けた肘や膝、そして夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの押し付けていた剣で切られた左頬の痛みも感じてはいなかった。左手に握った、銀の持ち手のついた黒檀の杖を石畳に突き、彼女はやや斜めに傾いだ姿で、背中にシーヴと女騎士の二人をかばうようにして、ただただそこに立っていたのだ。

 すでに怒りの表情の消えた顔の、左の頬から真っ赤にしたたる血を、石畳にまで振りまきながら。灰色の目だけを爛々と光らせて。

 シーヴに向けられた夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの、

「その若造を殺せ。たかが護衛だ」

 と言う言葉を聞いてからの記憶も定かではなかった。

 だが、目の前の影絵の男が言い放った言葉はまっすぐに心に刺さってきた。

「俺はあんたの未来の夫になる男だよ。ハーマポスタールの大公殿下。俺はエルネスト・セサル。とんだ大騒ぎになっちまったが、まあ、よろしく頼むぜ」 

 この事態を混ぜっかえすように手を叩きながらの、大げさな登場。

 そして、その名乗った名前は。

 エルネスト・セサル。

 それはこのシイナドラドの第二皇子の名前である。

 そして、皇太子の結婚式への大公カイエンの出席とともに、ハウヤ帝国へもたらされた入り婿の縁談話にあった名前だ。

「こんな出迎え方をされて、どう、よろしくしたらいいのかな」

 カイエンは自分の口が勝手に言葉を紡ぐのを、驚くこともなく聞いていた。

 去年の春、皇帝サウルに呼びつけられた時も、こんな風に口が勝手に動いて喋っていたっけ。

 頭を上げることさえ出来ぬまま、カイエンは自分の口が勝手に動き、返答しているのを遠いところで聞いていたものだった。

 意外なことだが、こういう追い詰められた状況では体が勝手に動くのに任せている方が、はたから見ると落ち着き払って見えるのだ、ということが経験的に彼女にはわかってきていた。だから、カイエンの心の中は、己の口が動くのと同時に冷静さを取り戻しつつあったのである。

 カイエンは、やっと気がついて、己の左頰を伝って流れ続ける血潮に右手をやった。

 べっとりと、真っ赤な血が手のひらに塗りつけられた。女というものは、毎月もっとたくさんの血を流しているものだから、カイエンもその血の色と量にあまり驚きは持たなかった。普通の貴族のお姫様なら、その血の出所が己の顔である、という点で泣き叫んだのかもしれないが、カイエンにはあまり己の体に付けられる傷に対する拒絶感がなかった。

 生まれた時から体の中には蟲があり、右足の歩行に支障があった。そのせいで転ぶことも多く、階段などで転んで、傷口を縫わなければならないようなひどい怪我をしたこともあった。その傷はまだ彼女の足や腕に残っている。

 実を言えば、顔に傷を負うのも初めてではなかった。

 幼い頃、暖炉のそばでバランスを崩し、暖炉の火除けの角に額をぶつけたことがあり、その跡はまだうっすらと額に残っていた。

 己の血だらけの右手を黙って見つめているカイエンを、周囲のすべての目が驚きをもって見ていた。

 カイエンはふと気になって、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの顔を探した。

 それは、彼女の立っているすぐ左側に見つかった。彼の顔には先ほどまでの蔑みの表情が残っていたが、見開かれた真っ青な目はカイエンを見たまま動かすことが出来なくなったかのように、凍りついていた。さすがにこういう事態までは想定していなかったのだろう。

 彼の顔を発見したカイエンが次にした行動は、さらに彼を驚かせた。

「……私ね、基本的にあんまり丈夫じゃないんだけど、貧血だけは縁がないんだよ。だから、こんな傷じゃあなんともないなあ」

 実際にはカイエンはかなりキレた精神状態だったのだろう。頭は冷えてきていたが、収まりきらない憤りの炎が燻り続けるのを自分で止めることができなかったのだ。

「でも、あんたも自分がつけた傷の味を知りたいだろう? どうだ。味わってみちゃあ」

 そう言うと、カイエンは自分より高い位置にある夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの髭のある顎から口元、鼻の先までへ、血まみれの右手をゆっくりと押し当て、存分に血を塗りつけてやった。

 その行動の間、カイエンの顔は無表情のままである。

「ひぇ」

 だが、喜劇じみたこの行動は相手を明らかに驚かせたらしい。

 夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの喉の奥から変な音が聞こえた。

 そして、手から、カイエンを傷つけた細身の剣ががらりと落ちる。

 他人が流す血を見ている分には何も感じないのだろうが、生の血の匂いと感触はまた別物なのだろう。

 アキノは厳しい顔でカイエンを見つめていたが、何も言おうとはしない。ルーサやシーヴ、女騎士のシェスタとナランハは驚きを顔に張り付かせて突っ立っているだけだった。


 沈黙を破ったのは、またしてもカイエンの目の前の影絵の男だった。

「あーあ。だめだよ、汚い手で傷口に触っちゃあ。早く手当てしないと、膿んだら大変だ」

 そう言うと、男、エルネスト皇子は恐れげもなくカイエンに近づいてきた。

 影絵に正面の警備兵達の掲げるランプの光が、足音から当たっていく。

 エルネスト皇子は影から出てきても黒かった。

 首元から靴まで、黒っぽい服をまとっていたからだ。

「とりあえず傷を洗おう。ドン、あんたは先にラ・ウニオン城に戻って、医師の手配をしとけ。この怖い顔の爺さん以外の皆さんも一緒に連れてっとけよ」

 怖い顔の爺さんとは、アキノを指しているらしかった。確かに、アキノの忠義一徹な顔を見るまでもなく、彼がカイエンの執事に当たることは想像できたのだろう。

 それにしても、皇子らしからぬ口調と態度である。その無造作さはあのアルウィンを思わせたが、声や体格は大いに違っているようだった。

「さあ、こっちへ来て。市庁舎にも傷の消毒の準備くらいあるだろう」

 カイエンの前の前に歩いてきた姿は、将軍のジェネロ・コロンボよりもさらに大きかった。

 そして、カイエンの目に彼の顔の全てが映る時がやってきた。

 その時、心を震わせた衝撃の正体をカイエンはすぐには理解できなかった。

 カイエンの頰の傷に押し当てられた、エルネストのハンカチ越しに伝わってきた彼の指の温度の意味も。



 エルネスト・セサル・デ・ドラドテラ。

 彼の顔は、カイエンや皇帝サウル、伯母のミルドラ、そして父のアルウィンなどと、確かに似た顔だった。シイナドラドの皇王家と、ハウヤ帝国の皇帝一家の血のつながりが、確かにそこに見て取れた。

 だが。

 エルネストの顔色は浅黒く、漆黒の波打った長めの髪に縁取られた顔は、健康そうに日に焼けていた。

 体も、カイエン達のように貴族的で弱々しいものではなかった。

 そして、カイエンが驚きをもって見つめたのは、その両眼だった。

 右目はカイエンと同じ、深い灰色。

 だが、左側の目の色が違っていた。

 そのにあったのは、深い、宇宙の虚のような闇。

 瞳と虹彩の境が分からないほどの闇の色一色の目が、カイエンの顔を映していた。


 

 嗚呼。

 空が、落ちてくる。


 星空さえも映しとるような、闇の鏡がその時、見たのは。


「やっと会えたね」


 声がカイエンの耳に届いた時、彼女は知った。

 なぜ、シイナドラドへ呼び寄せられたのか、その意味の一端を。

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