リベルタの陥穽
パナメリゴ大陸で一番古い国はシイナドラド皇国だと言われている。
その歴史は数千年を遡り、シイナドラドでは外世界からやってきたと伝えられる、天来神アストロナータ神が唯一の神として信仰されている。
古の時代にはシイナドラド皇王がアストロナータ神を体現するものとして国を支配していたのだという。
だが、大陸に他の国々が台頭し始め、王国を名乗る国々が出現した頃。
各国にはそれぞれの土着の信仰が形を成した神々の神殿が建てられた。
そうして台頭してきた、周囲の国々との戦争や同盟の歴史を経て。
シイナドラドでは、地上の獲るか獲られるかの生々しい政治と、星の彼方、外世界への扉の向こうからもたらされる真理を担うこと、その二つを一人の皇王が担うことへの疑問を投げかける声が上がった。
そして、数十年の攻防を経たのち、政教は分離された。
そして新たに定められたのが、シイナドラドの
星教皇は時の皇王の兄弟姉妹、または子女から、「ある条件」に合致した者が選ばれるとされているが、長い年月、誰が現在の星教皇であるのかは皇王家の秘密とされてきた。
星教皇になったものは「アストロナータ神の五感をこの世に伝える者」としての教皇名を与えられる。これは、一般のアストロナータ神官が出家し、修行を終えて一人前の神官として認められると同時に、俗世の名を捨て、新しい名前を名乗るのと同じである。
ゆえに、歴代の星教皇の俗世での名前、つまり星教皇である皇子皇女の名は一般国民には全く知らされることはなかった。知らされるのはその教皇名だけ。
星教皇は年に何回か、皇王とともに皇都ホヤ・デ・セレンの大神殿のバルコンに立って国民に祝福を与えるが、その時にもその顔は仮面の向こうに隠されたままだ。
もちろん、上位貴族の中には星教皇が誰なのか、知る者も少なくない。
だが、それを口にするのは最大のタブーとされて来た。
そして、歴代の星教皇の中には、俗世の人間として結婚し、一家をなした者もあったといわれている。そうなればその配偶者も事実を知ったに違いない。
つまり、星教皇となった皇子皇女は俗世の身分とともに、アストロナータ神の代言者としての別人格を持つのである。
せっかく政治と宗教を分離したのに、なぜ星教皇は二つの人格を持たねばならなかったのか。
それは、誰が現星教皇かは公表しないことと定められし故にであった。もし、皇王家の誰かが不自然に生涯独身を貫けば、それだけで彼ないし彼女がそうではないかという推測が成り立ってしまう。
誰が星教皇かを世に対して秘密とする以上、星教皇には「表の顔」も必要であったのだ。
それでは、政教分離と言いながら、皇王と星教皇を兼ねることも可能なのではないか。
政教分離による星教皇の成立、という歴史的な事実とは矛盾する実態。
だが、それは事実である。
実際に、二つを兼ねていた皇王もあったと言われている。
なぜか。
それは、星教皇を選ぶにあたっての決まりが「ある条件」に合致する皇王家の人物、であったからである。
「ある条件」、それは皇王家の皇子皇女なら誰でも当てはまる、といった性質のものではないのだという。
時代によってはその条件に当てはまる者が複数いることも、または一人もいないこともあったという。それ故に仕方なく皇王と星教皇を同一人物が務めざるをえなかったこともあったと言われている。
それほどの、星教皇になるための資格となる厳しい「ある条件」。
それは、実は政教が分離された古の時代には「その条件」を満たす皇王家の皇子皇女が複数名いることが普通であったのが、時代が下がり、皇王家の血が薄れていくに従って、「その条件」に当てはまる人物が生まれてくる割合が激減したからなのだという。
そんな中、シイナドラドを出て、大陸の西の端にあったラ・カイザ王国を滅ぼし、新しくハウヤ帝国という国を建てたサルヴァドール皇子はその時のシイナドラド皇王ドメニクの弟だったが、彼は時の星教皇であったとも言われている。
だが、ハウヤ帝国初代皇帝サルヴァドールは、己の新しい国に、故国の宗教であるアストロナータ神殿を建て布教させはしたが、一方で、彼は彼の滅ぼしたラ・カイザ王国の時代からこの地にあった土着の神殿をそのまま存続させた。
そればかりか、彼はハウヤ帝国の首都ハーマポスタールを「海神の街」と称した。
彼の子孫の一人がアストロナータ神殿に深く帰依するまで、ハウヤ帝国皇帝家の神は海神オセアニアであったのだ。
サルヴァドールがそのような方策をとった理由はいろいろと推測されている。
広大な版図を支配するには、土着の神々を全否定することはできなかったというのが定説となっているが、彼の本心を伝える資料はない。
彼が元は祖国シイナドラドの星教皇であったとすれば、彼のしたことはあまりにも現実的で、地上の支配に熱心すぎはしなかったか。
シイナドラドの星教皇。
それは千年以上もの間、秘密裏に引き継がれてきた、天来神アストロナータの代理人の名前である。
それはシイナドラドの皇王家の血を引く者の中から、「ある条件」に合致した者から選ばれるその時代に唯一の存在である。
周
それはもう九月の終わり。
帝都ハーマポスタールでは、カイエンたちはもうすでにシイナドラド国境の港町、リベルタへ入り、シイナドラドの首都ホヤ・デ・セレンへ順調に到着しているはずと思われていた時期であった。
ハウヤ帝国の帝都ハーマポスタールの上空はすでに秋の空になっていた。
皇帝サウルの執務室の窓の外では、そろそろ、緑の木々の葉の色も褪せてきていた。朝夕には長袖の服の上へ上着を羽織りたくなるような陽気になってきている。
そんな庭の様子を見るともなく見ながら、宰相のサヴォナローラが皇帝の部屋へと入ってきた。
「ネファールの駐在大使、エンゴンガ伯爵からの急使が着きましてございます」
皇帝の横で秘書としての役割をこなしているはずの内閣大学士のフランシスコ・ギジェンは、カイエンについて旅の上にあるために代わりを勤めている神官が、すっと脇へ下がる。
ハウヤ帝国宰相サヴォナローラは、大公カイエンがシイナドラドへ向かう前の準備として、その通過路の要所に人員と軍馬を配置し、迅速に帝都ハーマポスタールまでの連絡がつくように取り計らっていた。
連絡は人馬の連携によって昼夜を徹して走らせる方法の他に、この頃、実戦配備されつつあった硫黄と硝石を使った火薬を使った連絡や、古式蒼然とした狼煙での連絡も使われることになっていた。事前に様々な事態を想定していたサヴォナローラによって、合図の方法もあらかじめ通達されていたのである。
この方法は別に今回初めてサヴォナローラが思いついたことではなく、昨年までの国境紛争の戦争中にも使われていた方法であった。サヴォナローラがした新しいことは、それを国内だけではなく国外、それもシイナドラドのすぐ手前のネファール王国の街にまで伸ばしてのけたという一点においてである。
だが、人から人へと、昼夜休むことなく街道を走り続ける急使とはいえ到着には幾日かの日にちがかかっている。
「どうなった?」
皇帝サウルは、それまで見ていた書類を脇において、顔を上げた。
「王弟クマールを反逆罪で投獄、近日中に処刑とのことです」
サヴォナローラがそう言いながら、一通の書状を恭しく卓上に置くと、皇帝はそれを開いて読み流した。
「うまくいったな」
読み終わって、己の宰相の方を見た顔はいつもの通の無表情ではあったが、声はやや興奮しているようだった。
それはそうだろう。ネファールの王太子であった、王弟クマールがいなくなったとあれば、計略通り、彼の第二皇女のカリスマが王太女になるのだから。
「もともと、ジャンカ国王は異腹の弟君クマール様との間に隙があったそうですし、クマール様は我が国との関係をないがしろにし、シイナドラドとつながりを持とうと画策なさっていたという事実もございます。国王はクマール様より、同腹の妹君であるラーラ様と仲の良い兄妹であったとも聞いておりましたから、上手くいくと考えて立案致しましたが」
この計略の立案者はどうやら宰相のサヴォナローラであるらしかった。
「それでもジャンカ王は、よくも姪のカリスマを次期女王に立てる気になったのものよ。姪とはいえ、カリスマはこのハウヤ帝国の皇女だぞ。……ハウヤ帝国の傀儡となるのは目に見えておろうに」
皇帝サウルの言い方は、自分が仕掛けておいてひどいとしか言いようのない言い草だったが、それが事実でもあった。ジャンカ国王の偏った妹への愛情がなかったら、こんな無茶は通りはしない。
「ジャンカ国王派の貴族へはエンゴンガ伯爵を通じて、適当にばらまかせておきましたから、概ね一枚岩の対応であった様子です。ネファールは小国、このハウヤ帝国との交易の優先権をちらつかせれば、城下の大物商人たちの気持ちも、おいおい定まりましょう」
機嫌が良くなった皇帝サウルに向かって、サヴォナローラも微笑んだ。
「ジャンカ国王の祖母、カリスマ一世はネファール初の女王として立たれ、諸国からの技術や文化の流入に積極的であり、国を富ませ、このハウヤ帝国との同盟をも決めたお方。そのお方と同じ名の女王なら民衆もついてくる、とも考えたのでしょう」
サヴォナローラの言葉をうなずいて聞きながら、皇帝サウルは顔を引き締めた。
「カイエンはうまく立ち回れたのかな」
彼はネファールを通ってシイナドラドへ向かうカイエンに、このことを何も話していない。それにはもちろん彼なりの理由があったのだが、それでも心配というか、危惧はしていたらしい。
「それについても報告にございます。そもそも、この謀りごとは大公殿下のシイナドラド行きが決まる前から動いていたことです。大公殿下がその実行のまさに寸前にネファールを訪れるなど、計画外の出来事でございましたから」
サヴォナローラはちょっと息をついた。
「ネファールの前に通過するベアトリアで、万が一にもこのことが露見してはいけませんので、大公殿下には黙っておりました。ですが、なかなかに上手く動かれたようでございます」
サヴォナローラの冷徹な顔に、ほんの少しだけ微笑みのように見えるものが掠めて過ぎた。彼なりに、カイエンの成長を願ってはいるらしい。
「大公殿下は宴席にて、カリスマ様がジャンカ国王によく似ておられると吹き込んでおられたそうです。この度の
そう言うと、サヴォナローラは苦笑いした。
「さすがに大公殿下も、ご自分が何も知らされていなかったことには大層、ご立腹だったことでしょうね。それにしても、上手くおやりになったようでございます」
「あいつはまだ嘘が下手だからな。顔に出るといけないと思って、何も知らせずに行かせたが」
「大公殿下はご自分の器を過小評価なさる方ですから、きっとご自分の不徳の致すところだとお思いになられたことでしょう」
サヴォナローラはちょっとだけ気の毒そうに言った。だが、この顔をカイエンが見たら、ものも言わずに殴りかかっていたかもしれない。
「まだ十九の娘にこんな謀りごとの全権を任せるわけにはいくまい。そんなことは、あれにもすぐに納得出来よう」
サヴォナローラは皇帝の声の調子がやや変わったように思い、ちらりと皇帝の顔色を盗み見たが、そこには何の変化も見て取れなかった。
「そうだとよろしいのですが」
ちょっと皮肉そうに呟いたサヴォナローラの言葉を、皇帝は黙殺した。
「そうか。ではカイエンはネファールでうまくやってきたというわけだな。カリスマは確かに母親そっくりだ。ジャンカ王にもそれは似ておろう。歓迎の宴席の話題としては上々だ。カイエンめ、異母弟とはいえ、廃太子するとなれば決断が鈍るかも知れなかったジャンカ王の背中を上手く押してくれたわ。……エンゴンガは具体的なことの流れについては、なんと言って来ている?」
皇帝は己にちっとも似ていないカリスマのことを自ら皮肉るようにそう言うと、話の先を促した。
「はい。エンゴンガ駐在大使はうまく王弟派の貴族の注意を逸らすのに成功していたようですね。それに、王弟クマールにはかの国のアストロナータ神官が張り付いておりましたから、クマールはすっかりアストロナータ神殿に帰依していたと聞いております。ネファールでもアストロナータ神への信仰はなかなかに盛んです。ですから神殿の後ろ盾があるご自分が、まさか廃太子されるとは思ってもおられなかったのでしょう。……カイエン様は次期国王の件では驚かれてはいらしたものの、ネファールを出るまで、ジャンカ国王とは打ち解けて話されていたそうです。まあ、……多少の憂さ晴らしはなされた様子ですが」
それは、あのジェネロの副官たちの部屋での飲み会を指しているのであろう。
それにしても、アストロナータ神殿の繋がりの強固さと、その行動のえげつなさはどうだろう。神に仕える神官とはいえ、今やパナメリゴ大陸すべての国々へ浸透している宗派の力は侮れない。
アストロナータ神殿、そして神官たちへの恨みをのんで死んでいったであろう王弟クマールへの思いなど、サヴォナローラの落ちつきはらった声音からは微塵も感じられなかった。
「そうだな。あれでも、それくらいには臨機応変に対応できる柔軟さは身につけ始めたということかな」
そこで、カイエンのことはそれで終わり、とばかりに皇帝サウルは言葉を切り、先ほど侍従が置いていった茶のカップを取り上げた。
「娘どもが我に似ておらんのが、変なところで役に立ったわ」
これには賢いサヴォナローラは返答を控えた。事実は事実だが、皇帝の本心は推し量れない。
サヴォナローラの無言をどう捉えたのか、そこで、皇帝サウルはふと、話を変えた。
「カイエンはそろそろシイナドラドの首都に入る頃か」
「そうですね。配置したものからもおいおい、連絡が入って参りましょう。……シイナドラド国内へ入るとそれも厄介になってまいりますが」
「さすがのアストロナータ神殿も、シイナドラド国内となるとつながりが切れるか」
揶揄するような皇帝の言い方にも、サヴォナローラは落ち着いた声で答えた。その顔は真面目で、真剣に危惧していることがいくつもあるようだった。
「はあ。かの国のアストロナータ神殿というのは、古くからその地その地に根付いた神々の神殿を認めた上で、その中の有力な一つとして成り立っている他の国々のものとは違います。……シイナドラドのアストロナータ神殿は『唯一の神殿』でございます。天来神アストロナータ神はかの国では『唯一の神』でございますから」
「それでも教義はそう変わらんだろう」
まぜっかえした皇帝へ、サヴォナローラはうなずきつつも付け足す。
「それはそうですが、今となっては、宗派が違うということになるのです。……あちらでは国家唯一の宗教。その頂点には、かの『星教皇』がおります。星教皇はシイナドラド皇国の祭祀全てを司る権力者と聞いております。『星教皇』を頂点としたかの国のアストロナータ神官の階位は歴然としており、他国の神官である我らが食い込む隙間がございません」
このハウヤ帝国の第一代皇帝サルヴァドールはシイナドラドの皇子であったたため、この地に己の故国の宗教であるアストロナータ神殿を建て、布教させた。だが、彼はどうしてだか、彼の滅ぼしたラ・カイザ王国の時代からこの地にあった数多の土着の神殿をそのまま存続させたのだ。
「まあ、いい。出来ぬものは仕方ない。前回、大公グラシアノが現在のシイナドラド国王の結婚式に赴いたときにも、シイナドラド国内に入ってからは心細い思いをなさったということだからな」
大公グラシアノとはアルウィンの前の大公で、皇帝サウルの父である先の皇帝レアンドロの弟で、サウルには叔父にあたる。
「グラシアノ殿下の日記は拝見いたしました。ファナ皇后にいろいろとお聞きになってから出立なさったはずのグラシアノ殿下でさえ、シイナドラドへ入られてからの文には緊張され、また驚かれている様子が伺われました。その……いろいろと、予定と違うこともあったそうですね。当時のレアンドロ皇帝陛下もずいぶん気を揉んだと文書に残っておりましたが、当時はこちらにファナ皇后がいらっしゃいましたから……」
ファナ皇后は皇帝レアンドロの妻で、皇帝サウルやクリストラ公爵夫人ミルドラ、そしてカイエンの父のアルウィンの母だ。そしてシイナドラドの皇女である。つまりは前回はこちらに人質がいたということだ。だが、今回はそういう者はいない。
「いささか、心配にはなってまいりましたね」
サヴォナローラの真っ青な目に、少しだけ危惧の影がさした。
彼とて、あの春の嵐の事件ではカイエンに、
「我ら兄弟、これより、ハーマポスタール大公、カイエン殿下に忠誠を尽くします」
と、言ってのけたのだ。今の彼は皇帝サウルの宰相ではあるが、その心情の底には違った思いも、確かに、あった。
「そのためにザラ子爵も、お前の弟も、フィエロアルマの精鋭共やら、ギジェンだのもつけているのだ。大公家からは執事のアキノ自らついているそうではないか」
サヴォナローラの複雑な心情を推し量ったわけでもないだろうが、皇帝の言葉は慰めるような響きを持っていた。
「向こうは第二皇子をこっちへ婿によこそうとしているのだ。その相手かも知れんカイエンをどうこうすることもあるまい。それに、向こうは皇太子の結婚式のために呼んでいるのだ。そうそう剣呑なことも起きまいて」
そうでしょうか。
皇帝サウルの顔をじっと見た、サヴォナローラの頭の中にその時浮かんだ顔。それは、どうしてだかは彼にもわかりはしなかったが、己の弟、彼と同じ青すぎる青の目を持つガラの逞しくも毅然とした顔だった。
そして。
一方、カイエン一行は。
「殿下ぁ〜。見えてきましたぜぇ」
ネファールの首都、ゴルカから再び馬車に揺られて、時は九月の中旬になっていた。九月の終わりと聞いているシイナドラド皇太子の婚礼にはぎりぎりの日程になりつつあった。
一行は足を速め、やっと海沿いを進んでいた街道の先に、シイナドラドへの唯一の入り口、港町リベルタが見えてきたのだ。
時は、もう夕刻で、秋の夕日が真っ青なラ・ウニオン海の向こうへ落ちようとしていた。
「おお」
いい加減、馬車に揺られる旅にも慣れてきたカイエンである。もう揺れに酔うこともなく、馬車の窓から顔を出した。
カイエンの馬車の周囲は将軍のジェネロ、ザラ子爵ヴィクトル、それに護衛騎士のシーヴ、それに女騎士のシェスタとナランハが囲んでいる。
ゴルカから先の街道沿いでの宿泊は、ほとんど野営と変わらなかった。カイエンやザラ子爵たちは街道沿いの最も大きな旅籠に泊まりはしたが、それは大きな民家、というくくりから一歩も出ないもので、カイエンにとってはなかなかに刺激的な体験であった。
旅籠の離れという、一番いい部屋に通されはしたものの、壁は土壁に漆喰を塗っただけのもので、寝台もなんとなく傾いでいるといった具合だった。湯浴みのための部屋もなく、カイエンは寝室でアキノやルーサが母屋から汲んできた湯で身を清めた。お湯を持ってくるまでには、かなり時間がかかったから、お姫様のカイエンでもそのお湯汲みの手間が想像できた。
最初は驚いていたカイエンだったが、すぐに「これは面白がったほうがいいな」と気持ちを切り替えた。こう言っては街道の住民に失礼だが、彼女にとってはこういう宿泊は所詮は「通り過ぎるもの」なのだ。それならば、それをじっくりと体験して忘れないことがハウヤ帝国大公の彼女に出来る最善のことだろう。
「あれがシイナドラドの入り口の、リベルタって街ですぜ」
見れば。
街道は小高い丘のような場所を通っており、目線の下にリベルタの港が見えた。
街の手前には森が広がっており、見えるのはリベルタの港と、街の中心部と思しき華やかな屋根の家々が並ぶ瀟洒な町並みだけだ。
停泊している船は漁船と思しき船ばかり。それでも大船が停泊することもないことはないのか、石造りの桟橋が長く伸びているのが見えた。
いよいよだ。
丘の頂上を過ぎると、もうリベルタの街は見えなくなり、代わりに街の手前に見えた森が広がり始める。
カイエンは身震いしたくなるような心持ちだった。
鎖国を続けているシイナドラド。
そこへの入り口が見える。
カイエンという存在を中心に考えれば、それは祖母であるハウヤ帝国皇后ファナの故郷である。
だが、それは全く未知の国。
カイエンが生まれるのと入れ違いにファナは亡くなったので、カイエンはシイナドラドのことは何も知らない。
父のアルウィンも、伯母のミルドラも、ファナから何もその故郷の話は聞いていなかったらしい。
カイエンはクリスタレラでミルドラに聞いたのだが、ミルドラもシイナドラドのことは何も知らなかった。
「ああ。そうねえ。そう言われてみれば、私はシイナドラドのことはなーんにも聞かされてないわねえ。きっとお母様、話さないようにしてらしたんでしょうねえ。そう考えると、お母様って窮屈な生活をしてらしたんでしょうね。娘の私から見ると、落ち着き払っていらっしゃったけれど、あれも演技だったのかしらねえ。そうねえ。お母様に顔が一番似てるのは兄上だけど、性格の方はアルウィンかしらねえ。とにかく本心を見せない方でしたよ」
なるほど、それではアルウィンが一番似ていると言えるんだろう。
カイエンはみるみる近付くリベルタの街を、複雑な思いで見守るしかなかった。
それまでのベアトリア国境、ネファール国境とは、シイナドラドとの間の国境は趣が変わっていた。
パナメリゴ街道のネファール、シイナドラド国境には、長い長い石造りの壁が連なっていたからだ。
「ははあ。これがかの有名な『
馬上のジェネロの感嘆を聞くまでもなく。
それは、きっぱりと、それも無情に、国境線を示して海から地平線の彼方まで伸びていた。
鎖国して百年ほどになるシイナドラド。
山や川で国境が区切られている場所以外の、他国との国境を接している平地には石を積んだ壁が巡らされているとは聞いていた。
カイエンたちはここで思い出すべきだった。
この街を望むあの小高い丘からは、この石造りの壁が森に隠れて見えなかったことに。あそこからこの壁が遠くまで伸びている様子が見えていれば、彼らはきっと用心したはずだったのだ。
少なくとも、間違いなく軍人のジェネロたちは何らかの危険な感じを抱いたはずだ。
だが、もう今や目の前にそれは迫ってしまっていた。
その壁に開けられた城門。
それが、鎖国中のシイナドラドへの唯一の入り口だった。
カイエンたちの一行は城門の前でやっと停止した。すぐに現れたシイナドラドの国境の警備兵。
カイエンたちの一行が視界に入るや否や、その城門は開かれた。
城門は大きいものではなく、馬上の人間や馬車が辛うじて通れるほどの大きさだ。それはこの国境の通行の厳しさを如実に表していた。
「ハウヤ帝国大公殿下のお着きー」
城門周りに声が響き渡り、ぞろぞろ現れた警備兵がカイエンたち一行を中へと誘う。
そして、一行が通過すると同時に、城門はきっぱりと閉じられた。
その時、ジェネロたちフィエロアルマの面々は、遅まきながらいやな予感に襲われた。
戦争時なら、いくらなんでもこんな稚拙で単純な罠には入って行くことなどなかっただろう。
だが、彼らは外交使節だった。それがこんな扱いを受けるとは思っていなかったのが、彼らの油断であった。
「!」
ジェネロは危険を意識するよりも早く、フィエロアルマの面々に停止を命じた。
それは、国境の城門の先に、もう一つ別の城門が控えているのが見えたからだ。カイエンたち一行はふたつの城門の間の狭い場所に閉じ込められる格好になっていた。
だが、それを抗議する間もなかった。ジェネロは歯を噛んだが、相手が危害を加えようとしているわけでもないのに、配下に命令を出すことはできなかった。
シイナドラド側の国境警備兵は腰に剣こそ差していたが、服は制服で隊列を作っているわけでもない。
ジェネロの様子を見て、ザラ子爵がさっと動き、警備兵たちの指揮者を探した。彼は指揮者と思しき軍人と役人の方へ馬を進め、何やら交渉に入った。だが、一向に埒があかない。
カイエンは馬車の窓から何か言おうとしたが、厳しい顔のジェネロやシーヴはそんな彼女に首を振り、馬車の窓を閉めさせた。
そこから先は大変だった。
厳しい検問が開始されたからである。
ザラ子爵はなおも責任者らしい役人と話していたが、その後ろで警備兵達はてきぱきと仕事を進めていった。
まず、一行は馬車とフィエロアルマの隊列とに二分され、カイエンやパコ・ギジェンの馬車は簡単に中の様子と荷駄を調べられて通過できた。
だが、その他の荷駄の馬車やフィエロアルマの軍馬や馬車はそうはいかなかった。追い縋ろうとする彼らに、警備兵の集団が押しとどめようと群がってきたからだ。
ジェネロの馬に、かじりつくように取り付いた、幾人もの国境警備兵。
気がついた副官のイヴァンとチコが己の武器に手を伸ばした時にはもう、遅かった。
気がついた時、カイエンとパコ・ギジェンの馬車は内側の城門の中に押入れられてしまっていた。だが、後続の部隊はまだ検問が終わっていない。
「おい待て!」
馬車の窓から首を出したカイエンと、馬上で叫んだジェネロの間で。
内側の城門が無情に閉ざされた。
やられた。
それだけは一瞬のうちに理解できた。
だが、もう取り返せない。
すでに内側の城門は閉ざされ、カイエンたちは手際よく分断されていた。
カイエンという一行の頭を抑えられてしまっては、残されたジェネロたちは勝手な動きができない。そこまで考えられた陥穽なのだった。
カイエンとパコの馬車と共にリベルタの街へ入れたのは、シーヴと女騎士のシェスタとナランハ、それにその馬だけだった。
役人と交渉を続けていたザラ子爵もジェネロ達と一緒に、今は内側の城門の向こうだ。
そこに止まろうとしたカイエンの馬車の馬の鼻面に、飛び出てきたシイナドラドの警備兵が何かをかがせた。途端に馬は飛び上がるように走り出す。
そうなればもう、御者に化けたガラにも手に負えなかった。
カイエンたちとて用心はしていた。だが、国境を越える、まさにその瞬間に仕掛けられるとは想定していなかった。これは戦争ではない。だから、問題が起きるとしても、全ては皇都ホヤ・デ・セレンに入ってからだろうと思っていたのだ。
そして、走り続けて着いたのは、リベルタの街の市庁舎の前の噴水のある小さな広場だった。港からはやや離れているらしく、潮の香りはごくかすかだ。
これまた大勢のシイナドラド軍人と思しき男たちが、荒ぶる馬を抑えにかかる。
その手に何かの薬剤を浸した布が握られているのが、馬車の中からも見えた。それを嗅がされた馬はあっという間もなく静まった。
全ては周到に準備されていたことだった。
広場に人気は全くない。
「やりゃあがったな!」
カイエンは怒りのままに、馬車の扉を内側から、まともな左足で蹴って開けた。
ここで怖気付いてしまったらいけない、と心の中で何者かが彼女に忠告していたのだ。もう、自分たちは罠にかかってしまった。だが、罠の中で怯えていることは出来ない。
馬車の中にはアキノとルーサがいたが、それを止める者はなかった。皆が皆、「してやられた」という思いの中で怒りを抑えていたからだ。
「ようこそ、シイナドラドへ」
そう言って、カイエンの馬車の扉の前に出てきたのは、あの、この旅の間じゅう、どこかに隠れていたサパタ伯爵だった。いつの間にやら、カイエンたちと同じくリベルタの街中へ入っていたらしい。
ネズミのような顔にわざとらしい微笑み。
それを見ただけで、カイエンはゾッとした。
このサパタという男は、このリベルタで待ち構えている陥穽を知りながら、ハーマポスタールからベアトリア、そしてネファールを通って今までの道のりを黙ってついてきていたのだ。
落ち着き払った声が憎らしい。
カイエンが馬車から降りようとすると、横からアキノとルーサの二人がさっさと先に降り立った。二人ともにカイエンが見たこともないような厳しい顔つきで、眉も目もつり上がって見えた。
傍に、馬から降りたシーヴと女騎士の二人が並ぶ。
パコも一人で真っ青な顔をして、自分の馬車から降りてきた。
皆、怒りと心配で顔が引きつっていた。
「どういうつもりだ!?」
アキノとルーサに手を取られて、夕暮れの紫色の光に照らされた広場に降りたったカイエンは、左手に握った黒檀の杖を振り上げて、その石突きでサパタをまっすぐに指しながら怒鳴りつけた。
だが。
サパタ伯爵はその場で恭しい礼をとったたまま動かない。
カイエンたちは異様なその姿に、引き込まれるようにサパタが頭を下げている、その方向を見た。
そこにあるのは田舎の市庁舎の入り口だ。
「おやおや、これはまた、元気な大公殿下でいらっしゃいますなあ」
その時、市庁舎の入り口の扉が開かれた。
もう、あたりは紫色の夕闇に沈もうとしている。市庁舎の中にはもう、ランプが灯っていた。
その、暗いオレンジ色のランプに照らされたホールからから聞こえてきた声。
カイエンたちは弾かれたようにして声の主のいるであろう方を注視した。
そうさせるだけの力が、その声にはあったのだ。
「誰だ? お前!」
声だけは元気な大公殿下の、体に似合わぬ太い大声を浴びせられた相手は、落ち着き払っていた。
「いらっしゃいませ。ハウヤ帝国の大公殿下。ようこそリベルタへ。……リベルタは我が領地、ラ・ウニオンの入り口でございます」
男は一旦口を切った。
「……ラ・ウニオンの領主、ドン=フィルマメント・デ・ロサリオと申します。どうか、お見知り置きを……」
そこまで聞いた、カイエンの灰色の目が大きく見開かれた。
ドン=フィルマメント・デ・ロサリオ。
それは、あの螺旋帝国大使副官、夏侯 天予の父親と聞いた名前である。
「お見知り置きを……これから皇都ホヤ・デ・セレンまでのお供を致します。よろしくお願い申し上げます」
そう言って、深々と、いやらしいほどに丁寧かつ優雅に礼をしてきた男。
年齢は四十代の後半というところだろう。なるほど、やや若いがあの螺旋帝国人とシイナドラド人の混血であると主張していた、夏侯 天予の父親と言ってもおかしくはない年齢だ。
彼の母親である周 暁敏が密入国したのを保護したとかいう侯爵である。
濃い灰色の髪はやや癖っ毛で、それを綺麗に後ろへ撫でつけ、青白い顔には顎のあたりにだけ短いひげが蓄えられていた。顔立ちは端正だが、あまり特徴のない顔だ。記憶に残りにくい顔とでも言おうか。
カイエンがハッとしたのは、こちらを見た彼の両眼の色だった。
それは、青すぎる青。
昼間、街道から見た、ラ・ウニオン海のような、混じり気のない真っ青な青だった。
青すぎる純粋に真っ青な目。
それを持つものをカイエンは二人、知っている。
思わず、カイエンは降りたばかりの馬車の御者席を見た。
ガラ。
彼とその兄、宰相サヴォナローラの持っている、青すぎる青の目と、夏の侯爵の目の色は同じだったからだ。
だが。
カイエンはこのリベルタに入ってから、何度目かの驚きに己の目が信じられなくなりそうだった。
御者席は空だった。
御者に化けていたはずのガラの大きな体は、そこから煙のように消え失せていた。
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