ゴルカの高い空 2
ネファール王女ラーラを母に持つ、ハウヤ帝国第二王女カリスマを、ネファール王国の次期女王に。
カイエンはちょっとの間だけだが、頭が久しぶりに真っ白になった。
何も知らされずに出国させられた。皇帝やサヴォナローラにまたしても馬鹿にされた、ということへの怒りも勿論、ある。
カイエンがこのことをこの国へ来てから知ることになるだろうということは、彼らにはもう織り込み済みのことだったのだろう。それがどうにもならないほどに悔しかった。
だが、冷静な方のカイエンが言う。お前は未だ十九の小娘にすぎないではないか、と。そういう考えを巡らせることができるようになっただけ、去年以前の彼女よりははるかに成長していたのでは、あったが。
それでも悔しいとこには変わりはない。これはどうにもならない感情だ。
次に考えたのは、カイエンが何も知らずにこの国に来たことは、今のこのカイエンの沈黙、そして今この顔に浮かんでいる表情からジャンカ国王には暴露ばれたかもしれない、ということだ。
どうするべきか。
だが、カイエンはすぐに悟った。
パコ・ギジェンがくっついて来ているからには、ここでカイエンがボロを出すことなど、皇帝や宰相は承知の上なのだ。彼らはそれもいいと思っているか、もしくはここで、カイエンがジャンカ国王相手にボロを出すことまでも彼らの計算には入っているのだろう。そう気がつけば忌々しいことだ。
カイエンはもう焦るのを止め、目の前のジャンカ国王の祖母だという、女王カリスマ一世の肖像画をもう一度、見上げた。
カイエンには絵の心得がある。絵を見れば心が落ち着いた。そういう意味ではこの部屋はうってつけの場所だった。
最初に見たのは正面を向いた、王冠を戴いた肖像画だが、そのすぐ横には馬上の姿を描いた肖像画もあった。馬に乗りやすいような詰襟の服を着込み、首元には柔らかなスカーフが緩やかにたなびいている。そちらは王冠を戴いておらず、緩やかに結った黒髪には何の飾りもない。
二枚ともに、年齢は三十になるかならないか、という年齢だろう。
どちらかといえば丸顔で、柔らかい曲線を描くバラ色の頬、まっすぐに伸びた意志の強そうな濃い眉が印象的だ。その下の目は潤んだような黒目がちな眼差しでこちらを見ている。口元には有るか無きかの微笑みが浮かんでいるように見えた。絵に描いたようなネファール美人だ。それも自信に満ちた最上級の貴婦人である女王の顔の。
つまりは権力を持ち、それを己の裁量で使いこなしている偉大な美しい女の肖像だった。
カイエンはカリスマ皇女の顔を知っているが、目元などは似ているといえば似ている。だが、カリスマは瓜実顔で未だその祖母ほどには印象的な顔ではない。その点ではカリスマはその母に、そしてその兄のジャンカ国王に似ていた。
それでも、カリスマの名はこの彼女には曽祖母となる女王から受け継いだものなのか。
カイエンはもう、考えてもしようのないことを考えるのは止めていた。肖像画を見ているうちに頭が冷えてきたようだ。
ジャンカ国王の王太女となってハウヤ帝国皇帝の娘であるカリスマ皇女がこの母の祖国ネファールへ戻り、いずれはその支配者となる。
では、現在このネファールの王太子となっている、ジャンカ国王の異腹の弟クマールはどうなるのか?
ネファール王ジャンカに子がないことは、カイエンももちろん、この旅の前から知っていた。近隣の国の継承問題を知らなくてはどこの国でも上位貴族は務まらない。ましてや彼女は大国ハウヤ帝国の大公なのだから。
だが、現在、ジャンカ王の年の離れた異母弟である王弟クマールが王太子に立てられている以上、それは国王納得の上で次期国王と見做されているという認識を、自然に疑いもせずに持っていたのだ。これは一人カイエンのみならず、諸国の共通した認識だったはずだ。
「そんなこと、急に聞かされてもなあ……」
そっと口元を抑えて、不満そうに言ったカイエンの様子を、ジャンカ国王はもっともだという目で見た。
彼もカイエンがこの
「そうでしょうな。私も、この決意を口に出したのは、今年の初め、お国のサヴォナローラ宰相の遣わされた、皇帝陛下の使者に対してだけですから」
カイエンは、横にすました顔で立っている、パコの顔を嫌味ったらしく見てやった。
「そうなのかぁ?」
そう質すカイエンの前で、ハウヤ帝国皇帝サウルの内閣大学士フランシスコ・ギジェンは、生真面目に深く深くうなずいて見せた。
「……さようにござります。このことはすでに皇帝サウル陛下も内々にご承認になり、宰相サヴォナローラ様の名により決定されております。実は私が大公殿下の随行に加わったのは、この件についての密書をジャンカ国王陛下にお渡しするという任務があったからでもございます」
よどみなく答えるパコの顔は、ベアトリアで怯えていた時の様子が芝居に見えるほどに落ち着き払っている。小憎らしいほどだ。
「ザラ子爵たちは知っているのか」
カイエンのその問いに、パコは用心深く答えた。
「ザラ子爵は油断ならない方ですし、お若い頃から外交畑を泳ぎ渡って来られた猛者でいらっしゃいます。なんとなくはご存知なのでは? 皇宮にはザラ大将軍の手の者がかなり入っておりますし」
カイエンは実際のところ、歯噛みしたい面持ちだった。では、ザラ子爵は知っていたと思っていいだろう。だが、軍人のジェネロたちはもちろん、こんな政治的な話は知らされておるまい。彼らはそんな状態でカイエンにくっついて異国へやってきているのだ。
「クソ坊主どもが!」
この時、カイエンにはこの旅にこのパコ・ギジェンがついてきた理由の一つが、はっきりとわかった。そして、その事実にむかついた。
つまりはカイエンという十九歳の大公は、未だ皇帝や宰相に全権を委ねられる存在にはなり得ていないということだ。それが今、ジャンカ国王の前であからさまに暴露されたというわけだ。
クソったれが! 馬鹿にしやがって。
カイエンとて、己の未熟は大いに自覚している。それでも、この扱い方には腹が立った。
目だけで人が殺せるならば、この時、カイエンの灰色の目の中に宿った怒りの炎はパコ・ギジェンをあっという間に取り巻いて焼き殺しただろう。
だが、実際のカイエンの目にそんな物理的な力などあるはずもなく。
もう、カイエンが何も知らずにこの国へ来たことは、ジャンカ国王にばれた。だからカイエンは容赦なく罵った。ジャンカ国王に皇帝や宰相とカイエンの間にある溝を露呈することになるが、それとてもサヴォナローラたちには承知済みのことだろう。
「……恐れ入ります」
顔だけは殊勝に見せたパコはそれでも頭を下げては見せた。
その瞬間、カイエンは自分でも意識しないまま、すっと手が伸びてしまった。この旅の中で、パコという眼鏡で臆病だが職務には忠実そうな神官に好意を持ち始めていたからだろう。
その手はパコの頭に載っかった、褐色で筒型のアストロナータ神官の帽子を片手で吹き飛ばした。顔面を殴打しなかったのまでが彼女の弱さだった。己の至らなさを知っているカイエンにはパコの顔面をぶん殴ることまではできなかった。
だがその行動の裏になったのは己の未熟、皇帝や宰相に一人前の大公としては未だに認められていないという事実に、反抗しきれなかったことに他ならない。それでも悲しいことに、ハウヤ帝国ハーマポスタール大公カイエンという人間は、そういうところではあまりにも己の技量を客観的に認めることが出来る人間だったということだ。
「ふざけんな! わかったような顔しやがって! 何もかも計算ずくですってか! 私がここでいくら醜態を晒してもお前が取り繕えば何とでもなるって言うんだな!」
決めつけたカイエンへ、パコは帽子のない頭を下げたままに言ってのけた。
「わかっておられないのは殿下でございます。すでにこのことはハウヤ帝国皇帝陛下が決められたこと。それをご存知なかったのは皇帝陛下の殿下への信頼の度合い、つまりは殿下の不見識ゆえでございます」
カイエンは、怒りのあまり声を失った。そんなことはとっくにわかっている。だが、それをこの男は、他国で、それも国王の前で言うのか。カイエンのなけなしのプライドさえもが、この言葉で打ち砕かれた。
だが、彼女は頭の中の冷静な部分では理解していた。こいつがこう言うなら、もうジャンカ国王はここにいないのと同じだぞ、と。
カイエンは声を、喉の奥から振り絞った。
「……不見識か。そうだな。不見識結構。……それではシイナドラドでも同じようにこの私を不見識のままにして、話を進めて欲しいものだな」
カイエンはこの言葉をかなりのヤケクソ的心情の中に言ったのだが。
だが。
それに対するパコの返答は、なぜか歯切れが悪かった。
横で、ジャンカ国王が慌てた顔つきで何か言いかけたが、話題がネファールからシイナドラドの方へずれたので、結局何も言えずに黙ってしまった。カイエンの口調の乱暴さにも驚いたようだ。
「……そちらに関しては、ちと、お話の質が違っておりますようで」
「なにぃ!?」
気色ばむ、カイエンの肩をついと止める手があった。
「……ギジェン殿。それはどういうことかな?」
カイエンが振り向くと、上の方にジェネロの厳しい顔があった。
「えっ? コロンボ将軍? どうしてここに?」
そう言ったパコだけではなく、カイエンも、ジャンカ国王も、すみで控えていた国王の侍従も驚いた。
ジェネロがそこまでついてきていたことに、誰一人として気がついていなかったのだ。
ジェネロは厳つい顔をしかめた。
「どうしてじゃねえよ。何だかおかしな雰囲気だから子爵さんに目配せしたら、『ついてけ』って顎で言われたからよぉ、くっついてきただけだよ。……ここの王宮の警備はなってねえな」
ジェネロはカイエンの真後ろに、仁王立ちに立って、不機嫌そうな目をパコに向けた。
「おい、今話してたヤバそうな話の細かいことはもう、こっちの国王陛下との間でまとまってんのか?」
パコは人形のように首を縦に振った。
「そ、それは、もう、はい。大公殿下がこちらのお国を出られましたらすぐに、と決めてございます」
カイエンは言ってもしようがないとは分かっていたが、一応、聞いた。
「まさかはないつもりだろうけれども、もし失敗したら、私たちは国へ帰れなくなるんじゃないのかな?」
ジャンカ国王は王太子に定めた異腹の弟を廃嫡するつもりだろうが、失敗すればジャンカ国王の方が弑逆され、クマール新王によって裏でジャンカ国王とともに事態を画策していたハウヤ帝国の大公など、この国を通過できなくなるだろう。
「皇帝陛下、宰相閣下のなさることに、まさかはございませぬ。この国にも、アストロナータ神殿はございます。こちらの王弟クマール様のお側にはすでに味方を騙った神官どもが張り付いております。それでもまさかの場合には、シイナドラドから北方の国々を通り、帰国いたします手筈も出来ております」
ハウヤ帝国からパナメリゴ街道を通って最短距離を行けば、ベアトリアとメファールを通過することになるが、遠回りでも北周りをすれば、ハウヤ帝国の北方の自治領を通って帰還できる。ただ、それにはパナメリゴ街道を通る倍以上の時間がかかるだろう。
「ああ。そう」
カイエンはもう、何も言いたくなかった。
居心地悪そうにしているジャンカ国王に慇懃に頭を下げて、カイエンは部屋に下がることに決めた。
だが、国王に連れて出てきた宴席に一度、戻らないわけにはいかない。王弟クマールのそばには駐在大使のエンゴンガ伯爵がくっついていたが、それでも不審に思われるのはまずかろう。
カイエンとジェネロは国王にくっついて宴席に戻り、しばらく歓談したのちに下がった。
時間も、ネファール的には貴族の女性が起きていて男性と共に宴席にいる時間ではなくなっていたし、カイエンは本当に疲れていたので演技の必要もなかった。
パコは立場上も宴席に残り、ザラ子爵もそっとうなずいて宴席に残った。これならカイエンなどいなくとも、問題なくことは運ぶだろう。
カイエンたち一行の宿舎に当てられている宮殿へ、ネファール王宮の侍従によって案内されていく一行は、総勢五人。
杖をついてゆっくり進むカイエンの真後ろには、護衛騎士のシーヴ。彼はカイエンとパコ・ギジェンがジャンカ国王に連れられて出て行くときから心配して見ていたのだが、戻ってきたときのカイエンの顔を見ると、すぐにそばにやってきた。
何かあった。
それは、もう何年もカイエンのそばについている彼にはすぐに分かることだった。
なんか意図してないことをやっちゃって、自己嫌悪の顔だなあ。
シーヴの見立てではカイエンの顔はそうだった。
彼は席を立ったカイエンの杖をついている反対側の右手をとって、一緒に歩き始めた。カイエンの手はなぜか汗ばんでいて、それなのに冷たかった。
カイエンが国王に挨拶して立ち上がったのをしおに、シーヴは立ったのだが、気がついて見ると後ろには三人のでかい男がくっついてきていた。
ジェネロ・コロンボ将軍。
チコ・サフラ副官。
イヴァン・バスケス副官。
武官ばかりがヘタれた顔でくっついてきている。
彼らにとっては、今宵の宴席は決して楽しいものではなかったということだろう。
「なあ殿下あ」
歩きながら、カイエンの後ろにくっついていたジェネロが口を開いた。
「なんだ」
カイエンの声はそっけない。
「むかついてんだろ?」
シーヴはあの肖像画の間でのことを知らない。だが、何かあったことは感じていたのではっとした。ジェネロの副官の二人も同じようだ。と言うより、副官の二人はジェネロのカイエンへの口調の乱暴さに驚いたのかもしれない。
「うん。むかついているな」
カイエンはジェネロの口調の乱暴さなど気にした風もない。そして、その答えははっきりしていた。
「俺も同じですよ。こんな時になんですけど、こんな気持ちじゃ、この先あの内閣大学士さんとにこやかに旅なんて出来そうもないですから、ぱーっとやってさっきのことへの怒りはとりあえず忘れませんか」
そう言うジェネロの口調は丁寧なものに戻っている。
カイエンは立ち止まった。
「忘れた方がいいだろうか」
ジェネロははっきりと答えた。
「俺も長いこと軍人やってますからね。文官どもの勝手な策略には何度もしてやられてます。その度に俺たちはなんのために命はったんだって思うんですよ。それでも俺たちゃしょせん帝国軍人ですわ。戦うのが仕事で、政治的なあれこれには文句なんか言えません。それでも、してやられた事実は忘れられませんや。でも、そういう怒りは忘れた方がいいんですよ。今後のしこりになったら、勝てるもんも勝てなくなりますからね」
「勝てなくなるか」
「ええ。俺たちの仕事ってのは最後は所詮、勝ち負けですからね。むかつく文官の野郎どものやることも勝利に繋がるなら我慢した方がいいんです」
「我慢するのは忘れることとは違うぞ」
振り返りもしないままカイエンが指摘すると、後ろからジェネロのちょっとおどけた声が聞こえてきた。
「我慢は体に悪いですから、忘れたふりをするんですよ」
「そうか。……ではどうやって忘れる」
カイエンはもうなんとなく、ジェネロの答えがわかってはいたが、聞いた。
「さっきも言った通り、思いっきり、飲むんでさあ」
やっぱりそうか。あまりにも安直な気がするが、それが彼らのやり方なのだろう。
その時、カイエンの頭の中をあのアイーシャのことがよぎらなかったわけではない。
アイーシャはカイエンという体の弱い、蟲を宿して娘を産んだことに耐えられず、忘れるために酒にすがりついた。そしてそれ以降の人生を酒漬けになっている女。旅の前にオドザヤに聞いたところでは、
(……お酒を召し上がると人がお変わりになるのです。ご自分の愚痴ばかり。嘆いては人に当たり散らして)
いるのだという。
だが、仲間と飲んで忘れようという、この提案はそれとは違うのだろうと思えた。
カイエンがうなずくと、ジェネロは明るい声で言った。
「無礼講でね!」
ジェネロには、カイエンを貴婦人扱いする気持ちは無いようだった。それもカイエンには嬉しかった。
皇帝や宰相にはないがしろにされた。だが、こうしてともに旅に出た男たちには、一応ながらも一人の人間として認められている。それが嬉しかったのだ。
カイエンたちは彼らが宿舎にあてがわれている宮殿ではなく、フィエロアルマの面々があてがわれた離宮の方へ歩き始めた。
案内の侍従に、カイエンの部屋で待つアキノたちへの伝言を頼むと、侍従はちょっと躊躇したが、カイエンが命じるとおとなしく従った。
フィエロアルマの兵士たちがあてがわれた離宮は、カイエンのあてがわれた宮殿からは一番近い。二千の兵士や随行員、それに兵馬であるから、離宮の厩舎もいっぱいで、離宮に入りきれない一般兵士は離宮の庭に野営していた。
これだけの人間が宿泊するとなれば、泊める王宮の側の負担もかなりのものだろう。糧食についてはもちろん、ハウヤ帝国側が負担しているが、それでも泊まる場所の準備や片付けはネファール王宮側の負担となる。
「どこへ行く?」
宮殿を出たところで、カイエンたちに屋根の上から声がかかってきた。
カイエンは驚いたが、他の三人は気配に気がついていたらしい。
「あ、ガラさんだ」
シーヴの間抜けな台詞を聞くまでもなく、カイエンの目の前にガラの巨体が降ってきた。
カイエンはヴァイロンで慣れてはいるが、やっぱりでかい。それなのに音をほとんど立てないところはさすがだ。
「おお」
ジェネロはガラともこの旅の間にかなり打ち解けていた。彼の開けっぴろげで明るい性格はこういう点ではヴァイロンよりも将軍に向いていたかもしれない。
「今日はみんなで朝まで飲むことにしたんだよ。丁度よかった、お前も大公殿下が心配だったらついて来な」
それを聞くと、ガラは無言で一行に従った。
離宮に着くと、そこは人いきれでわき返っていた。
「チコ、イヴァン、お前らの部屋に案内しろ」
鮮やかな青いネファール風の衣装をまとったカイエンをマントの影に隠すようにしながら、ジェネロが命じる。
チコとイヴァンは黙って一行を離宮の奥へ案内する。将軍のジェネロがいるので、兵士たちは怪訝な目を向けてきたが、チコやイヴァンが首を振るとさっさと自分たちの業務に戻る。よく訓練された軍隊であることがそんなことからも見て取れた。
着いたところは池に張りだしたテラスのある一角で、宮殿の中のような華美な装飾はないが、風情のある部屋だった。池には真っ白な睡蓮の花が咲き乱れている。
「いい部屋だな」
カイエンが言うと、みんながうなずいた。部屋は広く、二つの寝台だけでなく絨毯の上には幾つかの木製の椅子やクッションが置かれていて、歓談もできるようになっていた。
「チコ、お前、酒もってこい。もう宴で結構食ったからつまみは適当でいいや。殿下はあっちのテラスが気に入ったみたいだ。それ、椅子だのなんだの運んじまえ」
ことここに至って、チコもイヴァンも女性の、しかも高貴であるはずの大公殿下のカイエンが飲み会に付き合うことに異論を挟むことは諦めたらしい。
カイエンがシーヴに手を取られて突っ立っているうちに、男たちの手でテラスに即席の宴席が設けられた。
低い椅子の一つにクッションが置かれたのに、カイエンは座らされた。部屋から絨毯が引っ張られてきた上に低いテーブルが置かれ、チコの持ってきた酒瓶が置かれる。カイエンが座ると同時にチコのあとを追ったシーヴが不揃いながらも金属の杯を人数分持ってきた。自分がこの中では若輩者かつ身分も低いことを自覚している彼らしい、気の利く判断だった。
酒瓶と杯、それに簡単なつまみが到着すると、ガラも黙ってそれらをテーブルの上に並べ出した。これもよく気がつく男のようだ。
ジェネロはその様子を見ながら、自分は絨毯の上にクッションを敷いてその上に胡座をかいた。
「おう。いいじゃねえか。その酒、ベアトリアから持ってきたのか」
「そうですよ。あんたが言ったんじゃないですか。ワインはやっぱりベアトリアだって」
ジェネロよりも年嵩のイヴァンがそう言って、ワインの瓶を置く。
「ネファールの酒も抜かりなく用意してますよ。この国は友好的だから、いくらでも酒は注文できそうです」
これはチコ。彼はネファールの強い米の蒸留酒と、白く濁った発酵酒を並べた。
イヴァンとチコが座ると、ささやかな「むかついたこと忘れましょう宴席。それも朝まで」が開始されることとなった。
「
カイエンの横にはシーヴとジェネロが座った。ガラはシーヴの向こうに座っている。チコとイヴァンは最初は居心地が悪そうだったが、乾杯とともに気を取り直したらしい。
「ジェネロ、なんかあったんだな」
それまで事情もわからずについてきていたイヴァンが難しい顔で聞くと、ジェネロは苦虫を嚙み殺したような顔つきでうなずいた。無言だが、もう一人の副官のチコも、今日の夜空のような深い紫がかった青い目を光らせている。
「あったんだよ。ごめんな。こうやって付き合わせちまってるけど、それについては言えねえんだよ。まー、ここの大公殿下もむかついたことだって言えばわかるだろ?」
イヴァンとチコは顔を見合わせた。四十過ぎと二十四、ずいぶん年の違う副官同士だが、軍人としての感覚は同じである。
「あー。またなんか俺たちの知らないところであったんですね。察するところ、あの内閣大学士さんですか?」
これはチコ。なかなか鋭い。
「そうそう」
ジェネロは早くも一杯あけながら言った。
「あいつ自体はそう害のないやつみたいだが、上にはあの宰相閣下が乗っかっているからな」
カイエンはそれを聞きながら考えていた。このシイナドラドへの旅で自分に求められていること。それは完全にはあの皇帝サウルにも、宰相のサヴォナローラにも理解できていないことだと自分は思っていた。
今でも基本的にその認識は変わっていない。シイナドラドがカイエンを指名して皇太子の婚姻の場に呼び出してきた、その本当の思惑は、未だ謎のままだ。
だが、ベトリアでのことはともかく、ここネファールでは明らかに自分の知らない事実が進行中だった。
それは皇帝サウルの娘をその母の母国とはいえ、他国の女王にするという大事業。それは異腹の弟よりも同腹の妹への思いが強かった、あのジャンカ国王の気持ちにうまくつけ込んだのだろうが、よくも考えたものだ。
だが、それを知ってみれば事はそれだけでは終わらないのではないかという疑惑が心に持ち上がってくる。
皇帝サウルにはまだ皇女がいる。
第一皇女のオドザヤは皇太女に立てられている。これも、第二皇女のカリスマをネファールの女王にと画策していたとすれば、うなづける事実だ。
現在、皇后のアイーシャと第三妾妃のマグダレーナが懐妊中だが、その子が二人とも女子であった場合にはオドザヤが女帝になる可能性が高まる。そうなれば同盟国のネファールの女王が、父を同じくする妹であるということが意味を持ってくる。
そして、ハウヤ帝国にはまだ皇女がいるのだ。
第三皇女のアルタマキアだ。
彼女の母は北方の自治領スキュラの公女であるキルケ。
カリスマをネファール女王にと画策しているなら、アルタマキアもまたスキュラ公国の次代の支配者に見立てられているのではないか。
それに懐妊中の第三妾妃のマグダレーナの子。それとて未来のベアトリアの支配者に見立てることは可能なのだ。
恐ろしい。
悲しいかな、未だ十九のカイエンにはまだそこまで未来を動かしたいという気持ちも用意も何もない。用意がないというよりも未来を変えようという、支配者の多くが持つ確たる欲求が、彼女には未だないのだ。
だが、伯父である皇帝サウルにはそうした欲求があり、あの宰相サヴォナローラにはそれを受けて助けるに足る用意がある。それはつまりは彼らが未来を己の欲求通りに変えられると思っているということだ。そして何よりも、「そうしたい」という欲望を持って生きているということ。
つまりはカイエンにはない野望を持っているのが、皇帝サウルや宰相サヴォナローラのような人間なのだということだ。
そして、彼らに大公として一応は認められているカイエンは、今はその道具でしかない。
「なんてことだ」
カイエンは思わず、声に出していた。
「えっ?」
横で、シーヴが驚いたように杯をおいて、カイエンを見てきた。黙って飲んでいたガラもカイエンの顔を見た。
「……恐ろしいな。時代を自分で、自分のいいように変えようとしている人、そして変えられると信じている人たちというのは。だが、彼らの野望のために利用されるということを考えねば、こちらも考えなばならない。彼らと違う、私たちが求める新しい時代を作るためにはどうしたらいいのか。それを考えもせずに彼らに踊らされるのは……」
カイエンは、自分に集まる五対の男たちの目を感じた。
「……彼らに踊らされているだけではいけない。いや、彼らが連れてくる時代が我々にとってもいい時代ならそれでもいい。しかし……」
カイエンは続けた。
「もしも、そうならなかったら、私は立ち上がらなくてはならない。私が大切に思う人たちのために。私の手の届くところにいる人たちと一緒に生きていくために」
どうして、そう言えたのか。それはカイエンにもわからなかった。実際、カイエンにはまだ己の未来への深い考えなどなかったのだから。彼女の口が自動的に動いて、そういう言葉を吐いたのだ。
「なるほどねえ」
その時、ジェネロの落ち着いた声が部屋に響き渡った。戦場で雄叫び、命令を下す将軍の声だ。それは大きな声でなかったのに、皆の耳に響き渡った。
「大公殿下。俺はあんたに初めてあった時から、感じてたんだ。あのヴァイロンを連れて行っちまった女がどんな女なのか興味があったしね。……あんたは決して賢くはないな。まあ、それはあんたがまだ若いこともあるし、あの皇帝だの宰相だと比べての話だよ。だけど、あんたは正直だし、それに誰に対しても公平だ。何よりも若いからな。世の中のありように疑問を持ったら、そのままにして長いもんにグルグル巻かれて行っちまったりはしないんだな。そこが救いだよ」
「おい、ジェネロ……」
年嵩のイヴァンが、カイエンへの不遜な言いように驚いて心配そうに口を挟むのへ、ジェネロは大丈夫だというように手を振った。
「いいんだよ。この人の前で隠し事する必要はないんだ。……それはもう、俺にはわかってる。殿下、あんたに俺が望むことはただ一つだけだ。それはあんたにも異存はないと思う」
カイエンは、このジェネロの言いように驚きつつも、感じていた。
これは、きっと次の始まりへの提言だ、と。
去年の春の嵐で彼女の身に起きた事ごと。あれも始まりだった。あれは、カイエンが大人の一人の大公としての自覚を持てるかどうかを試された試練だったと言えるだろう。それに合格しなかったら、利用価値のないカイエンは皇帝や宰相に捨て去られていたはずだ。
では、今、ジェネロが言おうとしている始まりは。
それは、ハーマポスタール大公カイエンとしての彼女の人生の始まりだ。
カイエンの領地。それはハウヤ帝国ではない。その首都、ハーマポスタール。そしてそこに住む人々。
それが彼女が大公である限り、第一に守らねばならない彼女の領地なのだ。
「あんたは守る人だ。ハーマポスタールという街を守らなければならない人だ。ハウヤ帝国じゃない。いや、あんたがハーマポスタールを守る過程でハウヤ帝国も守る事になるのかもしれん。だが、それは枝葉の事だ」
ハーマポスタールを守る人だ。
カイエンは初めてその言葉を聞いた。
「勝手な事を言うけどさ。俺の家族はハーマポスタールにいるんだ。あんたの大切な人たちもそうだろう。あんたはそういう当たり前の事を忘れちゃいけねえ」
だが、それを聞いたカイエンは疑問を口にした。
「それはそうだ。だが、私はハウヤ帝国皇帝の臣下だ。それを超えた事はできない」
ジェネロはふうっと息を吐いた。そして、ぐいっと透明なネファールの蒸留酒を飲み干した。
「ははあ。それだよ。それ。……それがあんたのいいところだよ。くそ真面目なんだ。それで損する事が多いだろうな。それで今度もあの皇帝だの宰相だのにいいように利用されてるんじゃないかい。でも、今のあんたはそれでいいんだ。あんたには変な驕りがない。卑屈さもない。いつも起こった出来事を受け入れて、己を律して全て飲み込んで前に進んで行っている。……俺はもうヴァイロンに言ったんだ」
ヴァイロンに言った……カイエンはちょっと驚いた。彼はそのことについて何も言っていなかったからだ。
「あのさ」
その後に、ジェネロが口にした言葉は、その場の全員を凍りつかせる事になる。もっとも、チコとイヴァンはもう、あのヴァイロンの誕生日の宴でそれを一度、聞いた事があったが。
「大公殿下、あんたはあんたの領地ハーマポスタールって街に真実、必要な人だ。よく分からねえが、きっとあんたこそが、この先何があろうとハーマポスタールを守ってくれる人だからだ。俺はなんでか知らねえが、それだけはもうわかっているんだよ。だから大公軍団があるんだ。だから大公軍団は大公の私設部隊としてあるんだろう。……だから、もしかしたらこの先、あの街がハウヤ帝国じゃなくなるようなすごい時代になっても。ハーマポスタールを、俺の家族を守ってくれるのは大公軍団の持ち主である大公殿下、あんたしかいないんだ。そして、あんたの周りの奴らはそれを助けるに違いねえ。確かに今、俺たちは帝国軍人だが、それも考えてみりゃあ、永遠にそうだと決まったもんじゃないしな。……そうじゃねえか、お前ら?」
カイエンは声が出なかった。
このジェネロという男は、軍人、将軍ではなくて預言者なのか。
いや。
違う。
彼は見えてしまうのだ。彼はきっといろいろなことが普通の人々よりも見える人間なのだろう。
何が見えるのか。
カイエンがそこまで考えた時、意外にもガラの声が彼女の思考を遮った。
「そうか。あんたもそうやって呼び寄せられた一人なのだな」
ガラ以外の視線が力任せに引っ張られたようにガラの顔に集まった。彼がここで発言するとは誰も思っていなかったから。
「俺の話をしよう。俺の父は死ぬとき、あの兄には決して言うなと言って、俺にだけ言い残した事があった」
ガラの兄とはすなわち今の宰相、サヴォナローラである。
それから、ガラの話した事は、あの日、ハーマポスタールを出るときにヴァイロンに言ったことだ。
「父は俺に言った。お前の生みの父はここでいなくなるが、お前はまた人生の父に巡り会う。その人に会えば、お前にはすぐに分かる。その第二の父は、これから起こる動乱の時代を流れる大河の真ん中を泳いでいく方である。その方は時代の変わり目に現れる、役割を担った偉大な方々の一人であるから、常にその側にあってそれを助けるように、と」
カイエンはすぐにわかった。
教授が大公宮の後宮の部屋に入ったのもガラが言い出したからだし、それ以降もガラは教授の後ろにくっついているのをよく見かけたからだ。
「その第二の父というのは……教授、いや、マテオ・ソーサ先生のことだな?」
ガラはうなずいた。
「そうだ。そしてその先生は大公殿下の元に、大公軍団の最高顧問としておさまった。あの人はきっと死ぬまで大公殿下のそばで生きるんだろう。だったら、俺もそのそばにいなければならん」
しばらくの間、皆は黙っていた。
やがて、沈黙を破ったのはジェネロの声だった。
「すげえな」
ジェネロの言葉を、カイエンはやや呆然として聞いていた。
「実はさ。俺、ちょっとおかしいんじゃないかと思ってもいたんだ。なんだか自分の言っている言葉が自分じゃない誰かの言葉みたいでさ。だけど、今のこいつの話を聞いたら安心できたわ。なんだかわかんないけど、これってもう決まっていることなんだな。それで、俺がそれじゃあ嫌だったってんならアレだけど。俺も納得できちまってる。どっか気持ち悪いけど、もうしようがないんだよなあ」
「ジェネロ、あんた……」
イヴァンが気の毒そうにジェネロを見た。
「前に聞いた時も思ったけど、それって危ないぜ。マジで」
横でチコもぶんぶんとうなずいている。
シーヴはなにか言いかけたが、黙ってしまった。
彼もまた、朝にザラ子爵と話したことを思い出していたからだ。
(だが、それだけでは時代は流れて行かないのだろう。平穏に一生を終えるには、カイエン様は、大公殿下はあまりにも多くの運命を背負っていらっしゃるのだ。今度、シイナドラドの持ってきた難題も恐らくはそういうことだ。大公殿下という方の『存在』をどういう形かは知らないけれども欲する者が、かのシイナドラドにもいたということだよ)
シーヴは思った。
あまりに多くの運命を背負っているというカイエン。
そして、それについていくと、様々な出来事や経験から彼女の元へ引き寄せられ、己もそれに納得してこの先のあれこれを決めてしまっている男たち。
今日のことも、それは全てカイエンにつきまとう運命の中の一つの出来事に過ぎないのか。
だが、その過程では確実に失われる命がある。
例えばカイエンたちが去った後、この国では王太子である王弟クマールが排除されるだろう。
それは、そこにいた全ての人間にわかっていたことでは、あった。だが、今、それを止める術は今の彼らにはなかった。
「そうか。なんだか全部はわからなかったけれども、それじゃあ、これからも一緒に行くか……みんなが嫌じゃなかったらな」
カイエンがちょっと酔いの回った、困り顔でそんなことを言った時。
流れた。
ゴルカの高い高い夜空を斜めに横切った、一つの流星。
それは、そこで酒を酌み交わしていた男女の上で、光り輝いて爆発し、いくつもの破片に別れて地平線に落ちた。
その翌々日。
ネファール王国の首都ゴルカの蒼い空の下。
粛々とパナメリゴ街道を下り、ラ・ウニオン海沿いにシイナドラド国境の街、リベルタへと向かうカイエン一行。
もう一ヶ月以上を乗って揺られてきた馬車の車窓から、真っ青な高原の空を見上げる、ハウヤ帝国帝都ハーマポスタール大公カイエン。
その灰色の目に映った世界は、複雑に組み合わさったモザイクの中にいくつもの形や厚さの合わない石が組み込まれ始めている。
それは危うく、均衡を欠いた姿になろうとしているようで。だが、それでいてなおまだ十分に美しい姿で組み上がって見えた。実際にはあちこちで綻びが生じ始めているというのに。
ネファールの王弟クマールが兄王に対する反逆行為を理由に投獄され、すぐに処刑されたのはカイエンがネファールからシイナドラドへ入ってすぐのことであった。
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