ゴルカの高い空 1

 失われた故国の名を叫ぶとき

 我らの心は揺れる

 我らの心が迷う

 血の中に伝わってきた呪いと希望がせめぎ合う


 だが

 終わった歴史は戻ってはこない

 歴史の流れは河と同じ

 逆流することはあっても

 それは一時の時代の迷い


 流れる河が必ず海を目指すように

 時代も変わらない

 だがこの河の行き着くところを見られる者はいない

 大海は見えない

 大海は遂に人の目に映らない


 それでもいいと

 私たちは目指す

 激しく吹く風に逆らって

 この河の行く末を目指す




    周 暁敏ギョウビン 「理想郷を尋ねて」より「戻っていく道はいらない」 







「子爵様」

 大公カイエンのシイナドラド訪問の護衛の任にあるシーヴが、並んで馬上で進んでいたザラ子爵ヴイクトルに話しかけたのは、ベトリア領内を出てネファール王国に入り、首都ゴルカまであと少しとなった時のことであった。

 国内にあまり標高の差がないベアトリアを出ると、パナメリゴ街道はやや上向きとなる。

 ベアトリア、ネファール国境では一行に先立って、シイナドラドのサパタ伯爵とザラ子爵が出て行くと、係官も兵士も「委細承知」という顔で、あっけないほどに簡単にカイエンたちの一行を通した。

 それから数日。

 ネファールの首都ゴルカはやや標高が高いところにあるので、街道を進むに従って気温が下がってくるのが、誰にも感じられてきたところだった。

「どうしたね」

 弟のザラ大将軍よりもなぜか若く見える、ザラ子爵は焦げ茶色の目をシーヴに向けた。

 弟のザラ大将軍は、糸杉のようなまっすぐな姿が印象的な軍人で、顔の彫りが深く、鷲を思わせる厳しい容貌には隙がない。髪も目も、もともとの焦げ茶色が灰色に変わりつつあり、体格の良さを除けばちょっとアキノに似た印象がするのだが、兄のヴィクトル・ザラ子爵は姿勢のいいのは弟と同じだが、髪には白髪がほとんど見えない。

 子爵家の当主らしく、口ひげを蓄えた容貌は弟の持つ鋭さのないぶん柔らかく、年齢相応に落ち着いて懐の大きさを感じさせた。

 体格も大将軍に上り詰めた弟よりも、むしろ大きく見える。

 だが、武器を持って対峙すれば、弟のザラ大将軍の方は兄を一撃で倒せるほどの武勇を持つことに間違いはないだろう。糸杉のようにしっかりと伸びた体躯は無駄な肉ひとつない節制の賜物なのだ。

 この二人の兄弟は母親が違う。

 そのことは、子爵を後ろ盾にして大公宮へ奉公に上がるまで、ザラ子爵家に世話になっていたシーヴは他の使用人から聞いて知っていた。

 アキノと同じ、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身で前代子爵の妾だったのは、弟のエミリオ・ザラ大将軍の母親だ。

 ここにいる、ヴィクトル・ザラ子爵の母親は貴族出身の正妻である。

 それでも、二人の兄弟はとてもよく似ていた。

 外見もそうだが、性格の方も似ていたと言えるだろう。

 ヴィクトル・ザラ子爵は弟が見つけてきたこの厄介な存在、シーヴこと本名シヴァ・ラ・カイザ。ハウヤ帝国の滅ぼした国の血を引く者を自分の身内として迎え入れた。

 拾われた頃のシーヴはまだ十にもならない子供だったが、その彼に教育を与え、騎士として立てるだけの武術を教え込んだのは、ヴィクトル・ザラ子爵その人である。その上でカイエンのいる、その頃はまだアルウィンの生きていた頃の大公宮へ送り込んだのも、ザラ子爵だ。

 当時、カイエンは十三歳。たぶん一つ年上のシーヴは十四だった。年が近かったこともあって、シーヴはその時から大公軍団に所属しつつもカイエンの護衛という特殊な任務に就くことになった。

「あの」

 自分の方へまっすぐに向けられた、ザラ子爵の焦げ茶色の目にちょっとたじろいだようなそぶりを見せたシーヴであったが、一息入れてから彼はひとつ一つ、確かめるようにして話し始めた。

 大公宮へ上がってからはあまり子爵家へは戻らなかったシーヴは、この旅が始まるまではほとんど子爵と話す機会はなかった。旅に入ってからは話す機会はいくらでもあったが、ほとんどが業務的な話し合いでしかなかったのだ。

「あの。子爵様は今度のこの大公殿下の旅について、どうお思いなんですか」

 目を上げたシーヴの胡桃色の視線を、子爵はしっかりと受け止めた。

「……そうだね」

 二人の横に馬を進めているジェネロにも、この話は聞こえていたが、賢明な彼は知らん顔を貫いていた。おそらくはカイエンの乗った馬車の御者に化けているガラにも聞こえてきただろう。ガラの耳は人の何倍も鋭い。

「シイナドラドって国についてもよくわからないことばかりで。今度のことは皇太子の結婚式への御出席のためと聞いておりますが、たぶん殿下が呼ばれた理由はそれだけじゃないんですよね?」

 ザラ子爵は、ちょっとだけ顎を引いてうなずいた。だが、その口から出てきた言葉は直接、シーヴの質問に答えるものではなかった。

「それか。それなら、もっともな質問だ。君にとってはね」

「俺にとっては?」

 シーヴはちょっと首を傾げた。なんだか、はぐらかされているような気がする。

「そうだよ。私はね、十四の時に君を大公宮にやった時、じきに戻ってくるかもしれないと思わないでもなかったんだ」

「そうですか?」

 ザラ子爵は、彼の言葉を聞いて、気の抜けたような返答をしたシーヴの顔を、覗き込むようにして見た。

「君ももう、知っているだろう。君を大公宮にやったのには幾つもの思惑が絡んでいたことを」

 シーヴの出自は、ハウヤ帝国に滅ぼされた古の王国へ遡る。

 そして、彼を保護したザラ子爵家には、獣人国と蟲を持つ人々へ繋がる血筋を受け継いだエミリオ・ザラがいた。

 一方で、当時の大公宮には蟲を持って生まれてきたカイエンが、執事としてはアキノ夫妻がいたのだから。

 そんなこと事をヴィクトルの目の色から察し、それについて考えながら、シーヴは考え考え、言葉を選んだ。だが、シーヴの答えは子爵の質問に直接、答えるものではなかった。

「……カイエン様のお父様のアルウィン様には、なんと言うか……ええと、飼い猫をかわいがるみたいな感じで良くしてもらいました。最初はカイエン様の護衛ってことで、大公軍団に籍を置く話じゃなかったと思うんですが、すぐに大公軍団の隊員にもしてもらって……そのことでしょうか」

 ザラ子爵はちょっとの間、黙っていた。

 シーヴの答えがかなり斜め上を行くものだったのを責める気配はない。彼にはシーヴの言いたいことがわかっていたらしい。もっとも、傍で耳をそばだてているジェネロにとっては神官か学者同士の問答のようで、首をかしげるしかなかったが。

「……なるほど。アルウィン様は君を最初から認めていたんだね。ああ、ああ。そうだよ。あの方は一筋縄ではいかない方だった。だが、君をかわいがっていたと言うなら、その心持ちに間違いはないだろう。猫可愛がりでもね。そういう点ではわかりやすい方だったね。……ふむ、だから君は帰ってはこなかったというわけか。結果としては我々の思惑通りに事は運んだんだから、君に感謝しなければならないな」

 ザラ子爵ヴィクトルは思い出していた。

 カイエンの実父、アルウィンという男を。

 どこか心のタガが外れていたあの男。だが、束縛し、自分のものとしてかわいがる形でしかなかったが、あの男にも「愛情」、もしくは「愛着」というものは、あったのだろう。

 その愛情の範疇に、カイエンもシーヴも等しく入っていたと言うわけだ。

 おそらくは、妻だったアイーシャも、あのヴァイロンまでもが、同じように。

「すまない。話を逸らしてしまった。次の質問だ。シーヴ、君にとっての大公殿下はなんだね? もしくは大公殿下にとっての君とは?」

 シーヴにとって、この質問こそ謎かけのようだった。そんなことが、今度の旅の目的に関係があるなんて彼には思えなかったから。

 彼は、一瞬だけカイエンの乗っている馬車の方を見てから、はっきりと答えた。

「カイエン様は俺のお仕えする方です。俺は大公軍団の一員ですが、それを超えて一生、後を追っていく方です。カイエン様にとっての俺は……そんなこと、考えたこともなかったです。何かな。年が近いから、最初からなんでも話してくださってたし……」

 シーヴは大公宮へ上がったばかりの頃を思い出してみた。

 アキノに連れて行かれて紹介された時から、カイエンは気さくな態度だった。それは、父のアルウィンがカイエンと彼を同じような感じで可愛がっていたからかもしれなかった。父の中で自分と同じような扱いをされている者、という認識がカイエンにはあったのではないか。

「では、カイエン様はお前の終ついの主人だというのだね?」

 子爵にそう聞かれたシーヴは、ぐっと詰まった。彼の中で抵抗するものがあったからだ。

「それはちょっと、違いますね。子供の頃からそばにいるからかな。なんとなく妹みたいな気がしているんです。こんなこと、俺が言うのはいけないことなんですけど。そうじゃなかったら、これもまた大きな声じゃ言えないんですけど、幼馴染みたいな? アルウィン様は俺もカイエン様もあんまり区別してなかったみたいでしたしね。いえ、もちろん身分が違いますから日頃のお食事とか、お勉強の時やなんかは別で、家族と同じじゃないんですけれども」

 シーヴは言いながら自分でもわからなくなって来たので、口をつぐんだ。

「シーヴ。君は実に賢明だ。十四の時から一緒にいて、大公殿下との間に築いたものが兄妹のように親しい『友情』だったというのだね?」

 シーヴは心底、びっくりして子爵の顔を見た。

 友情。

 そんな言葉で意識したことはなかったから。

 シーヴは自分でも引き攣っているな、と思う顔をザラ子爵へ向けた。ある疑問が湧いてきたからだ。

「まさか、子爵様はそうじゃない場合も考えていたというわけですか? 俺はそういう目で殿下を見たことはないと思っていますけど」

 うん。ない。

 見事なまでにない。シーヴは確信を持って心の中でうなずいた。

「もちろん、そうだろうね。君はその点、未だあまりにも清廉な少年のままだ」

 ザラ子爵ヴィクトルは、まっすぐにシーヴの胡桃色の目を覗き込んだ。それは彼の若さを揶揄するような、馬鹿にしたような目つきではなかった。

「だが、皇帝陛下が去年、あの沙汰を下さなかったら、今頃、どうなっていたかはわからないね」


 あの沙汰。


 それは、シーヴには考えなくてもわかった。

 ヴァイロンが将軍位を剥奪されカイエンの男妾に落とされた、あの事件だ。それを行った皇帝サウルのあの沙汰だ。

 苦い気持ちでその事実を思い出した、シーヴとジェネロ、ガラの耳に、ザラ子爵ヴィクトルの低い声がゆっくりと流れ込んでくる。

「大公殿下という方には、あの悪魔か魔天使のようだったアルウィン様のかけた、幾重もの魔法がかかっている。だから、あの方の魔法にかけられた者たちにとってのカイエン様は、『己の未来を牽引する馨かぐわしき糧かて』とでもいうものに当たる存在なのだろうね」


 アルウィンに魔法をかけられた者。

 それは誰だ? 誰だ?


 この言葉を耳にしたシーヴは一瞬、己の心臓が止まった気がした。では、ザラ子爵ヴィクトルは知っているのだ。アルウィンとカイエンに関わる、何がしかの真実への手がかりを。

「それは去年、一旦はあのヴァイロンの手に落ちた。……だが、それだけでは時代は流れて行かないのだろう。平穏に一生を終えるには、カイエン様は、大公殿下はあまりにも多くの運命を背負っていらっしゃるのだ。今度、シイナドラドの持ってきた難題も恐らくはそういうことだ。大公殿下という方の『存在』をどういう形かは知らないけれども欲する者が、かのシイナドラドにもいたということだよ」

「えっ」

 シーヴは子爵の話した事によって引き起こされた、いろいろな感情の渦のために引き攣った顔の中で、まだ動かすことのできる目だけをザラ子爵ヴィクトルへ無理やりに振り向けた。

「じゃあ、アルウィン様のせいで、シイナドラドにも殿下を……する者がいるとおっしゃるのですか?」

 シーヴは肝心なところをはっきり言うことができない自分にいらいらした。

 そんな様子を見たのか見なかったのか。ザラ子爵の焦げ茶色の目は揺るぎもしなかった。

「そうだろうね。何せ名指しで殿下を呼び寄せて来たのだからね。これはもう、あのアルウィン殿下にも完全には予測できなかったことだろうて。……いや。あの方なら予想出来ていたのかもしれないね。恐らくは種を蒔いたのはあの方なのだから。それにしても、いかにあの方でもこの事態の進む速さはやや意外なのではないかねえ」

 くく、と嗤ったザラ子爵を、シーヴは恐怖の眼差しで見ているしかなかった。子爵は悪魔だのなんだのと呼びながら、決してアルウィンを恐れてはいないのだ。

 彼にわかったことはただ一つ。

 それは傍で聞いていたジェネロやガラにも同じだった。

 ジェネロにはアルウィンの絡んでいる下りはあまりよくわかっていなかったが、そんなことは瑣末なことに思えた。


 もう、事態は動いているのだ。

 今の己の立ち位置を揺るがせることはできない。

 そして、彼らの立ち位置の真ん中にいるのは。


 ハーマポスタール大公、カイエンなのだ。


 自分は簡単には揺るがない。彼らは皆が皆、そう信じていた。老若あっても国の中枢を担う人物のそばにいて、一人前の仕事をしようという男たちだ。それが普通だろう。

 いや、彼らが揺らぐことはもう出来ないことだったのだ。

 それは、カイエンの護衛騎士としてのシーヴ。

 それは、カイエンを熱愛するヴァイロンの友人として、そしてハウヤ帝国の将軍としてのジェネロ。

 それは、帝都に残してきた第二の父親の代わりに、カイエンを無事にハーマポスタールへつれ戻らねばならないガラ。

 その誰にしても同じだった。

 雁字搦めの人間関係の中。それは、もはや己の持たされた定めだった。揺るがずにカイエンの流されていく運命が巻き起す時代についていくということは、すでに確定された己の未来なのだと、彼らは改めて思い知らされたのだ。




  

 そして、九月も中旬に差し掛かる頃。

 カイエンの一行は、無事にネファールの首都、ゴルカの王宮に入った。

 やや高地に位置するゴルカの中心街の街並みはささやかな広さでしかなくて、ハーマポスタールにも、ベアトリアの首都フロレンティアにも及ぶものではないが、そのぶん歓迎の様子は暖かく、土色の街並みの中に極彩色の寺院の並ぶゴルカの街の人々はカイエン一行を歓声を持って迎えてくれた。

 ゴルカの初秋の真っ青な空の下、まっすぐに王宮へと向かうカイエンたち。

 街の高台の崖に張り付くように建てられた王宮では、ネファール国王ジャンカとその王妃、それに現在のハウヤ帝国ネファール駐在大使のエンゴンガ伯爵が出迎えた。

 先のベアトリアにもハウヤ帝国の大使はいたのだが、彼は完全に蚊帳の外に置かれ、主に野営していたフィエロアルマの世話係をさせられていたらしい。さすがにそれとは違う、まともな取り扱いである。

 いろいろと含みの多かったベアトリアでの滞在とは違い、同盟国での滞在は快適なものになりそうであった。


 到着の夜には、王宮上げての歓迎の宴が開かれ、カイエンたちは異国情緒あふれる宴に陶然と酔った。

 パナメリゴ大陸は西の果てのハウヤ帝国から、東の果ての螺旋帝国に続く。だが、はっきりと線が引けるわけではないが、東西の文化的な線引きをするとしたら、このネファールとそして隣のシイナドラドの辺りであるとされている。

 ベアトリアまでの椅子とテーブルの文化とは違い、ここネファールでの祝宴は床に敷かれた絨毯や、床を掘り抜き、大きなクッションで形作ったソファに座ったところで始まる。

 料理も一人一人の前の膳か、床に敷かれた絨毯の上に置かれるのだ。

「さあさあ、どうぞこちらへ」

 王宮の広間に案内されたカイエンたち。

 本来のネファールの作法では未婚の婦人の横に男が座るようなことはないのだが、カイエンは大国ハウヤ帝国の大公であり国賓であったから、その席はネファール国王ジャンカの横に用意されていた。

 一方で、ネファール王妃の姿はない。ジャンカ国王には一人の子もおらず、腹違いの弟クマールを王太子として置いている。

 王弟クマールの方は、ジャンカ国王を挟んでカイエンの向こう側に居並んだ、この国の重臣たちの筆頭に座っていた。

 外国からの国賓を迎える公式な宴席ということもあるが、国王の後宮の住人の姿は全くない。と言うよりも、官女以外の貴族の女性の姿は、全く見られなかった。

 この辺りの文化や習慣は大陸の西側では見られない習慣である。ちなみに東の果ての螺旋帝国では庶民にはそんな習慣はなく、貴族階級の場合には、女性が同席する場合には、御簾の後ろに座ると言われている。

 ジャンカ国王とカイエンの二人が壁を背にして座り、カイエンの隣にはザラ子爵と駐在大使のエンゴンガ伯爵。ハウヤ帝国の貴族の位階はエンゴンガ伯爵の方が上だが、ザラ子爵は昔この国の駐在大使をしていたことがあり、また単純に年上でもあったのでエンゴンガ伯爵は何かにつけてザラ子爵を立てていた。

 これには、ザラ子爵の弟であるエミリオ・ザラが帝国の大将軍の地位にあったことも影響していただろう。子爵家の妾腹の次男であっても、ザラ大将軍は今やハウヤ帝国の武官の長なのだ。

 カイエンの側には将軍のジェネロ、内閣大学士のパコ、それにジェネロの副官のチコとイヴァン、末席に護衛騎士のシーヴが座っていた。

 シイナドラドのサパタ伯爵は、この国での宴にも出席していない。

 それで失礼に当たらないのかとも思うが、鎖国中のシイナドラドとしてはベアトリアともネファールとも国交はないという建前なのであろう。

 今夜の宴は打ち解けたものと聞かされており、衣装もネファール側が各自に用意してくれたので、皆が皆、緩やかなネファール風の衣装をまとっていた。

 この日、カイエンが着ていたのは鮮やかなコバルトブルーに金糸で刺繍された絹の、巻き付けるようにして着るネファール貴婦人の衣装であった。

 ネファール国王、ジャンカはこの年齢四十。

 皇帝サウルの第一妾妃のラーラは彼の同腹の、それもたった一人の妹であるということであった。

 カイエンはもちろん、ラーラを見知っている。その娘のカリスマも親しい間柄ではなかったが会ったことは何度もあった。

 その二人と、目の前のジャンカ国王は雰囲気がよく似ている。 

「よく似ておられますね」

 乾杯の時、ネファール名物の米の蒸留酒を花を浮かべた氷水で薄めたものを勧められたカイエンは、それを気持ちよく飲みながら、横のジャンカ国王の顔を見ながら話し始めた。

 ザラ子爵から、

「今日の宴は、少々羽目を外されても大丈夫かと思います。そばには私どもも控えておりますし」

 と事前に言われていたので、ベアトリアでの時とは違って心も軽かった。

 カイエンとて大公宮で時期大公としてアルウィンの監督のもとに育てられたのだから、こういう場合の話の進め方はわかっている。

 カイエンと国王の座っているのは分厚い絨毯とクッションの上で、背中にはちゃんと背もたれも用意されている。

 カイエンたちの前には、料理とは別に取り皿や杯を置くための膳が用意されていたので、カイエンは一旦、自分の杯をそこへ置いた。すると、官女がすかさず現れて料理を取り分け、カイエンの膳の上へ並べ始める。

「この度の旅に出る前にも、ラーラ様とカリスマ様にはご挨拶させていただきましたが、彫りが深いところも、目元の印象的なところも、よく似ていらっしゃいます」

 カイエンが重ねてそう言うと、ジャンカ国王は目元をほころばせた。この話題は図に当たったらしい。

「恐れ入ります」

 ジェンカ国王はそう答えると、嬉しそうに顔をほころばせた。

「妹とはもう、あれが嫁いでいった十五、十六年前から会ってはおりませんが、そんなに似ておりますかな」

 彼は手にした蒸留酒の杯を一気にあおった。浅黒い顔色に目の大きい、彫りの深い顔立ちだが、漆黒の髪と黒目がちな目の色がしっとりと落ち着いて見え、目の周りのなんとも言えない愛嬌のある様子が親しみ深い国王だ。

 カイエンはそんな風に思ったが、ふと視線を感じて宴席の向こう側を見ると、これは国王にはあまり似ていない王弟の王太子が黙ってカイエンたちの様子を観察していた。

 もし、国王と王弟のクマールとどちらが美男子かと聞かれたら、答えは王弟のクマールになるだろう。だが、クマールの表情にはどうしてか余裕がなく、やや茶色い目が癇性に細かく動くのが気になった。

「ええ。特にその大きなお目元の優しくて暖かい感じがよく似ておられます。……カリスマ皇女はお母様にそっくりでおられるので、なんだか初めてお会いした感じがしませんね」

 王弟の気になる様子は、ひとまず置いておくことにしたカイエンは充当な着地点に話を着地させたが、ジャンカ国王の反応はややカイエンの予想とは違っていた。

「お国のカリスマ皇女は、そんなに私どもに似ておりますかな?」

 ジャンカ国王はにこやかな笑みのまま、カイエンに聞いてきた。ちょっと意外な気がしたが、カイエンは素直に答えた。

「そうですね。カリスマ皇女はほとんどネファールの方といっても違和感がないですね。お衣装などもお母様のラーラ様同様、ネファール風のものを身につけていらっしゃることもあるのでしょうが」

 カイエンは酒だけではなく、香辛料の効いたネファール料理に舌鼓を打ちながら答えた。

 カイエンだけでなく、ハウヤ帝国でも港町であるハーマポスタールの住民は、各国の料理に馴染んでいる。もちろん、ハウヤ帝国独自の料理も多いが、移民の数が多いので世界各国の料理屋が軒を連ねる街の住人の舌は許容力が大きい。

「そうですか。妹は今もネファール風の服を……。それは皇帝陛下のご不興を買ったりしていませんでしょうか」

 国王は当然の質問をしてきた。

 なるほど、普通ならばそうかもしれない。

「そうですね。その点は私もちょっと不思議に思っておりましたが、第一妾妃のラーラ様も、第二妾妃のキルケ様も、そうそう、今度新しくいらしたベアトリアのマグダレーナ様も、皆様、お国風を貫いておられます。まあ、皇后陛下はハウヤ帝国の方ですから……あれですが」

 第二妾妃のキルケの故郷は、帝国北部に隣接する自治領スキュラである。カイエンの曽祖父に当たる皇帝が、北方の小国を取りまとめて自治領を作らせたもので、その辺りで産出する泥炭や石炭をハウヤ帝国に安定供給するために行われた政策によって作られた。ある程度の自治は認められているが、産出する資源の取引先はハウヤ帝国に独占されている。


「失礼ですが、サウル皇帝陛下はどのようなお顔立ちの方ですか」

 カイエンがそんなことを考えていると、前の質問の答えに納得したのか、ジャンカ国王は今度は別の話をし始めた。

 カイエンはちょっとびっくりした。

 外国へ来て、己の国の皇帝の顔立ちを聞かれるとは思っていなかったからだ。ちらっと横を見ると、ザラ子爵がそっとうなずいた。

 話してもいいと言うことか。

 カイエンは自分の顔を指差しながら、ちょっと戯けて話し始めた。

「……基本的にはこの顔ですね。私のこの顔の顎をやや張らせて、目元をちょっと緩めた感じでしょうか。目元を緩めると言っても、その分眉間に皺が寄っていますので、間違っても優しいお顔立ちではありませんがね」

 カイエンがそう説明すると、ザラ子爵もエンゴンガ伯爵も、ジェネロも彼の副官たちもシーヴまでもが、ふんふんとうなずいた。彼らは皆、近くで皇帝サウルの顔を見たことがある。

「では、妹のラーラの娘は皇帝陛下には似ていないということですな」

 ジャンカ国王はカイエンの話をよく理解したらしく、カイエンの顔を見ながらそう質問してきた。この時代、皇帝、国王と言えどもその肖像は他国にまで伝わることは稀だった。もちろん肖像画自体は存在するが、それが他国にまで流れていくには意図的な目的が必要であり、目的はあっても画家の描く肖像画というものの持つ、情報自体の正確性には保証がなかったからである。

 つまりは画家に金を握らせれば、どんな肖像画でも描かせることができるのだから。

「ええ。でも、それは他の皇女殿下たちも同じですからね」

 カイエンが口の中で独り言のようにそう言うと、上記のような事情で自分の姪にあたるカリスマ皇女だけでなく、他の皇女たちの顔も知らないジャンカ国王は驚いたようだ。

「……他の皇女方も皇帝陛下には似ておられない?」

 呟くように言う国王へ、カイエンは曖昧な微笑みで応じた。皇帝サウルの娘たちが誰一人として父親には似てないことは、あまり知られない方がいいことではあるだろう。口が滑ってはいけない。

 それからしばらくの間、宴席は臣下たちによるハウヤ帝国とネファール王国の繁栄を願う、というよくわからないがこんな宴席では必ず行われる祝辞の嵐に覆い尽くされ、カイエンも国王もそれへゆったりと対応する、という形式的な時間に入った。

 その間、料理と酒が適度に過ごされ、カイエンがもうお腹がいっぱいだな、と思った時。


「大公殿下、ちょっと酔いを醒ましに参りましょうか」 

 カイエンの隣のジャンカ国王が言葉をかけてきた。

「はあ」

 カイエンが見る限り、国王は食べる方も飲む方も周りのネファール貴族たちと比べて控えめで、酔っているようには見えなかった。 

 カイエンがなんとなく、ザラ子爵たちの方を伺った時。  

「私がお供いたしましょう」

 そう言って、気軽に立ち上がったのは小太りな内閣大学士のパコだった。彼だけが今宵も褐色のアストロナータ神官の衣装をまとっている。こればかりは宗教人として変えるわけにはいかないのだろう。

 パコだけがくっついてくると言うのに、カイエンはなんだか変な気がしたが、再度国王に促されて席から立ち上がった。もっとも、絨毯とクッションに埋もれて座っていたので一人では上手く立てず、さっさと立ってきたパコと隣のザラ子爵の腕を借りなければならなかった。

「どうぞ」

 用意のいいことに、パコはカイエンの銀の彫刻された握りのついた黒檀の杖をさっと差し出してきた。

「うん」

 なんだかおかしな具合だったが、ザラ子爵は普通の顔だったし、ジェネロたちはネファール国軍の将軍たちと話に花を咲かせていた。

 ちらっと向かいに座った王弟クマールの方を見ると、抜かりなく駐在大使のエンゴンガ伯爵がその横に座って何か親密そうに話しているところだった。

 そうして、ジャンカ国王とパコに挟まれるようにして、カイエンが連れて行かれたのは、祝宴の大広間の外。後ろには国王の侍従が黙ってついてくる。

 床も壁も絨毯で飾られた広い廊下を通り、どこをどう曲がったのかカイエンにはわからなくなった頃。

 彼らは人気のない、金色の壁紙と壁飾りに覆われた部屋に入った。部屋に入ってすぐにわかったことは、その部屋がこのネファール王国の歴代の国王やその家族の肖像画の飾られた、特別な部屋ではないかと言うことだった。

 ジャンカ国王がカイエンを連れて行ったのは、その部屋の肖像画の中でもすぐに目につく一枚の前だった。

 すぐに目につく。

 それはその絵の大きさや飾られた位置からではない。

 その肖像画の人物だけが、女性一人の肖像だったからである。

「この方は?」

 カイエンが見上げる肖像画の女性は、王冠を戴いている。そして着ている衣装は今、カイエンが着ているようなこの国の女性が着る絹地を巻き付けるようにして着る衣装ではない。

 その人物は間違いなく女性だ。漆黒の髪は緩やかに結い上げられ、耳には耳飾りも光る。なのに。

 その女性の着ている衣装は、襟の詰まった軍服のような堅い服なのだ。それは大陸の西側の国々からの影響を感じさせた。

「これはこの国唯一の女王、カリスマ一世の肖像です。私の祖母に当たります。彼女の治世にこのネファールはハウヤ帝国との同盟を決定しました」

 カイエンは曖昧にうなずいた。その歴史的事実は彼女ももちろん知っている。

「大公殿下はもちろんご存知でしょうが、私には未だ世継ぎがおりません」

 うなずくカイエンと肖像画を等分に見やりながら、ジャンカ国王はいきなりおかしなことを言い出した。

 確かに国王に実子はいない。だが、異腹とはいえ王弟のクマールが王太子に立てられているはずだ。

「大公殿下」

 カイエンの不審そうな顔つきを気にするでもなく、国王は続ける。

「先ほどの話の続きですが。お国の第二皇女、私の同腹の妹であるラーラの娘。私には姪にあたるカリスマ皇女が、もしもこの私の後を継いで、このネファールの次期女王となると致しましたら、ネファール国民はその正統性を認めることに抵抗を持ちますかな? この国にはこうして同じ名の女王が遠くもない過去におりましたから、そう抵抗も持たないのではないでしょうかな?」

「は?」

「国民は彼女の姿形から、ハウヤ帝国の第二皇女という身分よりも、このネファールの血をより強く感じてはくれないでしょうか?」

 今度こそカイエンは口がきけなくなった。

「私には未だ子がない。私は我が同腹の妹、ラーラの娘、カリスマを次の王にと考えています。今思えば、ラーラに娘が生まれた時に祖母であるカリスマ女王の名をつけるように言い送ったのは、正しかったのかもしれません。……これはすでにハウヤ帝国駐在大使エンゴンガ伯爵を通じ、皇帝陛下へも話を通じておりますことでございます」

 そこまで聞かされても、カイエンは声も出せなかった。

 そのような話は、出国前に皇帝からも宰相のサヴォナローラからも、カイエン自身は全く、なんにも聞いてはいなかったからである。

 だが、国王がカイエンを一人、連れ出してこの肖像画の間へ連れてきた理由には思い当たっていた。

 そして、宰相サヴォナローラの腹心である、内閣大学士のパコ・ギジェンがそれにくっついてきたことの理由も。

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