ベアトリアの赤い城 2

「あっという間にもうすぐ、九月だねえ」


 そう、マテオ・ソーサがヴァイロン相手に言ったのは。

 それはちょうどカイエンたちの一行がベアトリアの首都、フロレンティアで奇妙な歓迎の晩餐に招かれていた頃だった。

 ハーマポスタールの大公宮のそのまた奥の後宮。

 今、大公のカイエンの居住区との間にある、青銅の大扉は開かれたままで、そこを守る女騎士もいない。それはもっともなことで、この宮の主人たるカイエンは留守。そしてその警護を担う女騎士のシェスタもナランハもついて行ってしまったからだ。

 大公が男性で、後宮に残るのが寵姫たちならばそんなことは起こりえなかったが、現在の大公は女のカイエンで。

 そして、今、大公の留守を守っているのはなんだか変な組み合わせの男たちであったから。

 カイエンの留守中、彼女の部屋は閉め切られていたので、ヴァイロンはカイエンの馬車の御者兼いろいろ画策係としてついていった、ガラの部屋を使っていた。もっとも、そこはもともとは男妾としての彼に与えられた部屋だったので、正しい主人が戻ってきたとも言えないことはなかった。

 そして、もう一人の住人とは大公軍団顧問のマテオ・ソーサである。

 彼ら二人は毎日、大公宮の使用人食堂で晩飯をとった後、部屋へ引き取っていた。

 この日、とっくに日が暮れてから戻ってきたヴァイロンは、食堂でイリヤと教授と一緒になった。

 カイエンの留守中の大公軍団の業務責任の全てを担っている、団長のイリヤは多忙だった。この頃ほとんど自分の宿舎の部屋には帰りたくとも帰れず、大公宮の使用人食堂で遅い夕飯を済ませてから、また大公宮表の自分の執務室へ戻ることも多かった。

 だが、この日は珍しく早く仕事を切り上げることにしたらしく、晩飯後は自分の寝床へ帰って行くつもりらしかった。

「まーね。訓練生の配属先も決まったしさあ。俺は今日は自分ちで寝ます。……だーれも待ってない部屋でも、まあ自分の部屋なんだよね。あそこが一番よく寝られるのよ」

 その頃、トリニたち春の訓練生の訓練は無事終了し、彼らはそれぞれの配属先で働き始めていた。

 怪しげな美男子なのに、三十路の近づいた今まで未だ独り者のイリヤは、大公宮の敷地の中にある隊員の宿舎に住んでいるのである。団長である彼の給料からすれば、街中の一軒家にも住めただろうが、それでは大公宮への行き来にかかる時間がもったいないのだ。それほどに団長の彼は忙しかったのだ。

 この日はその上に、晩飯中に教授が余計なことを言ったこともあった。それが彼の疲労を倍増させ、自分のねぐらへと帰らせたのかもしれない。

「君、そろそろ身を固めちゃあ、どうなんだね」

 食後の珈琲を飲みながらそう言った教授に向かって、イリヤは盛大に顔をしかめて見せた。

「何かと思えば、今さら何言ってくれるの。このせんせーはあ?」

「仕事もできてそんなに見栄えもいいんだ、いつまでも一人暮らしの宿舎へ戻ることもあるまいに」

 教授がそう言うと、イリヤはわざと渋い顔を作った。

「あのさあ。そのトシまで独りもんのせんせーが、俺に、そんなこと言えるの?」

 なんだか怪しい雰囲気になってきたので、二人の間に座っていたヴァイロンは無言のまま珈琲をすすった。このいろいろと難しい二人の会話に口を挟むほどの馬鹿ではない。

「君と私じゃ、持って生まれた素質が大違いだろうに。……完全にしくじった私だから言うんだよ」

 前に教授は、初めて会ったイリヤに言った。

(私とあなたはよく似ていますよ。相手構わず口がよく回るし、嫌味っぽいし、にやにやしながら言いたい放題、話し方がねちっこい。自分は頭がいいと自惚れているとてつもない自信家だ。まあ、自信の裏には仕事の結果という評価もあることはあるのですがね。そしてワルぶって見せても、それはポーズだ。ついでに言えば、完璧主義で、他人に仕事を任せられない。なんでも先走って用意してないと不安な小心者。……それに多分、母親と確執があったから女性不信だ。どうです、似ているでしょう?)

 と。

 イリヤもそれを思い出したらしい。

 だが、その夜、彼はそれ以上逆らわなかった。自分よりもかなり年長の教授の心配がわからないほど若くもなかった。

「そうか。……そうね。そうかもね」

 そう言うと、イリヤはおとなしく帰って行ったのだ。



「イリヤ君には余計なことを言ってしまったな」

 教授がそう嘆息したのは、後宮の彼の部屋の中庭のテラスに置かれた椅子に座ってヴァイロンと向かい合って座った時だった。

 なんとなく、それぞれの部屋に引き取って独りになるのをためらった結果、そこに落ち着いたのである。

「私も歳をとったな。言わんでもいいことをついつい、口に出してしまう」

 呟くように言うと、教授は自分の居間の棚から琥珀色のロン酒の瓶を取り出してきた。砂糖黍から作られた安い蒸留酒だが、その中では琥珀色のものはやや高級だ。

 二つのロマノグラスのカップにそれを注ぐ。テーブルの上のランプの光が映えて美しい。

 カイエンがいないので、サグラチカかヴァイロン、または教授のそばにくっついている猫のミモが、どこからともなく現れて教授の膝にのった。ミモはなかなか律儀な猫で、夜寝るときはヴァイロンか教授のところかどちらかで寝るのである。

「一杯だけ、付き合ってくれ給えよ」

「先生」

 ヴァイロンがなんだか心配そうに、夜の星空の下でも光って見える翡翠色の目を向けると、教授はうん、うんとうなずいた。

 ちん、とお互いの手が勝手に動いてグラスをかち合わせる。

 グラスを口元へ持って行ってから、教授はしばらく黙っていた。

 やがて口を開いた時、教授の口を出たのは意外な言葉だった。

「ヴァイロン・レオン・フィエロ。……君、ガラ君に何か言われたんじゃないかね」

 ヴァイロンははっとして顔を上げた。

「サグラチカさんが大公殿下のお部屋を閉め切ったので、こっちで寝泊まりすると言っていたが、あれは嘘だね?」

 ヴァイロンがグラスから顔をあげると、そこには静かに彼を見ている教授の顔があった。

「君がガラ君の部屋で寝むようにしたのは、彼に頼まれたからだろう?」

 一瞬、ヴァイロンはどうしようか迷った。

「そうです」

 だが、一瞬の後。ヴァイロンはもう観念してそう言った。

 教授はもう、分かっているのだと知ったから。

「やっぱりそうか。……まあ、彼にとっては交換条件なのかもしれんな」

 教授はちょっとため息を吐くと、しばらく黙っていた。

「ガラ君は君の大公殿下は自分が守ると、そう君に言ったのだろう? そして、代わりに私のことを何か言って出かけて行ったのではないかね」

「その通りです」

 ヴァイロンは思い出していた。

 あの日、カイエンたちの旅立ちの前に、ガラが言ったことのすべてを。


「お前はここで、己の番つがいに出会ったのだろう。……俺はここで第二の父に出会った。実は、このことは俺の実の父がいまわの際に言い残したことだ」


 ヴァイロンはガラの言ったこと。その告白のような一連の言葉を思い出しながら、教授に向かってぽつぽつと話し始めた。

「彼は母親の顔を覚えていないと言っていました。彼を。そのう、生まれたばかりの時の灰色狼の子のような彼を見た衝撃で、産褥から起き上がれないままに亡くなったそうで」

「でも、父親のことははっきり覚えていると言っていたな」

 教授が言うと、ヴァイロンはちょっとロン酒で己の舌を湿らせてから答えた。

「はい。お父上は落ち着いた方で、街の学校の校長をなさっていたそうです。ですから教養があり、ガラの姿を見ても他の街人のように恐れおののくこともなく、兄とともに彼を守ってくれたそうです。……あの兄弟の青い目はそのままお父上から受け継いだのだそうで」

 獣人の血を引く男には子はできないとされているから、ガラの血の源は母親ということになる。だが、あの夜でも光る真っ青な目は父親から受け継いだものだったのだ。

「そのお父上は、あのご兄弟のように体格に恵まれた方ではなく、どちらかというと……」

 ヴァイロンが教授の痩せた、白茶けた顔色を見ながら言いかけると、教授は話の後を継ぎ足した。

「脆弱な方だったと」

(私のような)

 教授は言わなかったが、言わなくてもヴァイロンにはそう付け足すのが聞こえるようだった。

「はい。そのお父上はガラが十の時に病で亡くなったそうですが、その時、たまたまガラだけが枕元に付いていた時に、真面目な顔で彼の手をとって、こう言い残したそうです」

 一瞬のためらい。

 だが、ヴァイロンはもう言わないわけにはいかなかった。 

「……私の死後。大人になってから、お前はもう一度父に会うだろうと、そう言ったそうです」

 教授は薄い灰色の目を見開いた。

「お前の生みの父はここでいなくなるが、お前はまた人生の父に巡り会う。その人に会えば、お前にはすぐに分かる、と」

 ヴァイロンは一度、言葉を切った。

「その第二の父は、これから起こる動乱の時代を流れる大河の真ん中を泳いでいく方である。その方は時代の変わり目に現れる、役割を担った偉大な方々の一人であるから、常にその側にあってそれを助けるようにと、そうおっしゃったそうです」

「それから……」

 なぜかヴァイロンは言い淀んだ。

「ガラにも理由は言わなかったそうですが、『このことはフェリシモには話してはいけない』とも言われたと。当時、もうサヴォナローラ殿はアストロナータ神学校に入っていたそうですが」

 フェリシモ。

 それは今は神官となり、サヴォナローラと名乗っている兄のことだろう。 

 なるほど。

 そして、去年、ガラは兄のサヴォナローラに命じられて大公家にやってきた。

 そこにマテオ・ソーサもまた、宰相サヴォナローラに引き寄せられるようにしてカイエンに紹介され、大公軍団の顧問としてやってきたと言うわけだ。


「そうか」

 教授の、カイエンのそれよりも白っぽい灰色の目が暗く陰った。

 ガラの兄、宰相となったサヴォナローラの存在とその思惑に何か特別な意図がないかと疑ったのだろう。

 だが、それを証明するようなはっきりした事柄は見出せなかった。二人の兄弟の父は、あえてガラだけがいる時にそのことを言い残したのだから。そして、兄には話すなとまで言っているのだ。

「買いかぶりだがなあ。すでにこんな歳になった私がこれからの人生で出来ることなど、たかが知れている。だが、私自身も大公殿下にお会いしてから、なんだか感じていることがある」

「それは?」

「私たちがこれから大公殿下と共にたどっていく道は、間違いなく歴史の中を潭潭たんたんと流れる大河の真ん中だということだよ。時代が恐ろしい勢いで変わるところに私たちは立ち会って、河の流れの行く末に責任を持っているのではないかということだ。なんだか未だに信じられんがね。それでも私はもう分かっているようだ。この、大公宮に呼ばれた時から」

 ヴァイロンは己も知らずに体を震わせた。

 歴史に責任を持つ。

 そんなことは考えたこともなかったからだ。

「ヴァイロン・レオン・フィエロ。君の場合には私以上にことは重大だぞ。おそらくは大公殿下こそが、このハーマポスタールを守られる方だと私は感じている。君はその横に常にあって、大公殿下がこの世でのすべての義務と職務を果たされ、安心してこの世を離れるその時まで、それを見守らねばならないのだから」

 ヴァイロンはその言葉に衝撃を受けた。その大きな手からまっすぐに、ロン酒のグラスがすとんとテーブル上に落ち、危うい均衡でもって倒れも割れもせずに落ち着いた。

「……見守る?」

 マテオ・ソーサはちょっと眉をしかめて、痛ましそうにヴァイロンの翡翠色の目を見た。

「君ももう、どこかからか聞かされて知っているのではないかね? 古の獣人たちの寿命は人間よりも長かったことを。私は本でも読んだことがあるし、アキノさんからも聞いたよ。かのプエブロ・デ・ロス・フィエロスでの伝承をね。アキノさんは獣人の血を引く村の長老たちを覚えているそうだ。彼らは皆、齢百を超える年齢まで生きていたそうだ。それを聞けばなんとなく推測できるじゃないかね。寿命は獣人に劣るが、繁殖力の方は人間の方が強かったために、後からこの世界にやってきた人間がこの世界を支配する事になったのではないかと言うことが。だから古の獣人国は衰退し、今では私たち人間の国々がこの大陸を支配しているのだと」

 ヴァイロンの目の前で、卓上のランプがじゅう、と音を立てて炎がふわっと明るくなった。

「……後からこの世界へやってきたとは? どうして、そんなことが分かるんです?」 

 ヴァイロンはまだ見たことがないが、アキノから話は聞いている。プエブロ・デ・ロス・フィエロスにあるという古の碑。そこに残された獣人国の記録。それらが彼の頭の中で今、繋がろうとしている。

「そうとも。そうとしか考えられないよ。だって、身体的に人間よりも優れている獣人たちが先に衰退したんだよ。それには理由がなければならない。人間がいなかったら今でもこの世界の国々は獣人の国々だったはずだと思わないかね? 彼らの繁殖力が弱かったとしても、彼らはその分長命なのだから。人間がこの世界に現れたからこそ、獣人国は衰退したのだよ」

 教授は続けた。

「もっとも、他の推測も成り立つよ。獣人国の遺構はこのハウヤ帝国の北方、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの周辺にしか見つかっていない。まあ、他の場所のものは時代と共に破壊されたのかもしれないが。大昔は人間の版図と獣人国の版図が遠く離れていたかして、おたがいに交流がなかったからだとも考えられんことはないね」

 教授の頭の中では、一気にいろいろな思考が組み合わさり出したようだった。

「そうそう。大公殿下やアキノさんの体の中にある、あの『蟲』と言われる寄生器官もそうだ。あれも獣人国とおそらくは関係がある。あれは人の体内にしか棲めないようだ。アキノさんが言うには獣人の血を引いていた長老たちで、蟲を体内に持って生まれたものはいなかったそうだ。蟲を宿して生まれる者は、プエブロ・デ・ロス・フィエロスの周辺出身の人の血の中に突然、現れる。……大公殿下の場合にはその血のもたらされた源は不明のままだが……」

 カイエンの場合には、母であるアイーシャの里方にわずかに血が繋がっているとしかわかっていない。その薄い血が、なぜカイエンの歩行に支障をきたすほどの大きさの蟲を形作ったのか、それは今のところの謎である。

「おや。話がちょっとそれてしまったな」

 教授は穏やかな顔に戻っていた。

「そうか。ガラ君にはそんな過去があったんだね。それでなんだか私の後をくっついて回っていたということか。納得がいったよ。君がここに押しかけてきた理由もね」

 彼はあまり面白くもなさそうに、くつくつと笑った。

「この歳になって、あんな大きな息子ができるとは思わなかった。諦めずに長生きはしてみるものだね」

 そして、グラスに残ったロン酒をぐっと一息に煽ると、ヴァイロンの方を見て諭すように低い声で囁いた。 

「ガラ君や君は、私や大公殿下、それにあの宰相殿も去った後の世界に残るはずなのだ。かわいそうな気もするが、君たちこそが『歴史の証人』になるのだよ」

 ヴァイロンはもう、声も出なかった。


 マテオ・ソーサが自分の寝室へ消えて行った後。

 ヴァイロンはランプの油が切れて暗くなったテラスに、しばらくの間残っていた。夜目の効く彼には不自由はない。

 ヴァイロンは教授の声を遠いところで聞いていたような気持ちがしていた。

 カイエンのいない世界。

 そこに取り残される自分を想像することなど、急には出来はしなかったから。






 一方。

 ベアトリアの首都フロレンティアの赤い王城では。

 カイエンたちが席に着くと、音もなく現れた侍従たちによって豪奢なテーブルの上の銀の杯に真っ赤なワインが注がれた。

 さすがに子供、それも未だ幼児と言っていいマグダレーナの二人の子、オスカルとルクレツィアの前のこれはグラスには果物、おそらくは葡萄の果汁にレモンやオレンジなどの果肉を細かく切って入れたものが供された。

 カイエンたちは己の前の銀の杯に満たされていく赤い色を静かに眺めていた。

 銀の杯。

 子供達の前のグラスとは違う、古い時代に使われていた代物である。

 ハウヤ帝国では貴族以上の食卓ではグラスが使われるのが普通になっている。それはこのベアトリアでも同じはずである。

 だが今宵、カイエンたち客の前の杯だけが、銀製だった。

 見れば、チェチーリオ国王とフェリクス王太子の前に置かれていたのはグラスだった。

(なるほどねえ)

 カイエンとザラ子爵はそっと顔を見合わせた。

 銀製の食器は毒に反応するとされてきた。だが、全ての毒に対して反応するわけではない。

 それでもカイエンたちハウヤ帝国からの客の食器だけを銀製にしたのには訳があるだろう。

 皇帝サウルの後宮、アイーシャの茶会で第四妾妃の星辰が起こした皇后暗殺未遂事件。

 あの時、星辰の簪に塗られていた毒は、螺旋帝国の附子とベアトリアのカンタレラだったという。もちろん、螺旋帝国でもハウヤ帝国でもそれらの毒は手に入るだろう。

 だが、カンタレラが使われたこと。そして星辰が尋問で「この事件は第三妾妃のマグダレーナと図って起こしたもの」と言ったことで、カイエンたちはベアトリア滞在中の注意点としてこの「毒」をしっかりと意識してきた。

 ベアトリアといえばカンタレラ、と言われるほどに有名なのが過去、ベアトリア王宮で繰り広げられた政権闘争で用いられたというこの毒なのだ。

 チェチーリオ国王は先王の次男で、確か腹違いの兄の後を襲って国王になっている。先王は病死とされているが……。

 そういうわけで、カイエンの供にザラ子爵が選ばれたのには、若い頃にベアトリアに駐在していたことと共に、ベアトリア王宮でのこういった場の作法に明るいということもあったのである。

 このことは当然、ベアトリア側もわかっている。

 だからこそ、カイエンたち三人の杯だけを銀製のものにして見せたのだろう。

「失礼致します」

 ザラ子爵はそう言うと、大胆にもカイエンの前の銀杯を手に取り、卓上のランプに透かしながら液体の色や香り、そして杯の飲み口の周囲を仔細に調べ始めた。

 カイエンは目を丸くしたが、ベアトリア国王と王太子は別に驚いた風も見せない。

「ザラ子爵は相変わらずですな」

 チェチーリオ国王は笑ってその様子を見ている。

「お若い頃、この王城へ来られた時もそんな風でしたなあ。ハウヤ帝国の方は疑り深い。……まあ、そんな国民性があの強くて粘り強い軍隊を作るのでしょうな」

 嫌味半分ではあるが、気を悪くしたそぶりが見えないのがかえって不気味である。

「子爵様、俺のも見てくださると助かりますなあ」

 その様子を見ながら、こう言ったのはジェネロ。彼も普通の神経ではなさそうだ。

 カイエンは最初の乾杯の前からこれでは、この先どうなるのかと気が遠くなった。この歓迎の宴の様相を見てから、もともとなかった食欲は皆無になったが、この調子なら何も食べずに食べたフリだけで済ませても問題なさそうだ。ザラ子爵の大げさなパフォーマンスのおかげでそうすることへの抵抗も無くなった。彼の行動にはそう言う意味もあったのだろう。

 結局、カイエンは乾杯はしたものの、飲み口に口をつけるかつけないか、というところで中身は飲まずに済ませた。ザラ子爵やジェネロも同様らしかった。

 子供のオスカルとルクレツィアはさすがに一人で食事は出来ず、それぞれのそばには侍女が控えていちいち助けている。それにしてもおしゃべり一つしないで大人しく食事を摂っている姿は、これが普通の家庭の子供であったら異様に映っただろう。

 だが、カイエンはそう感心してもいなかった。と言うのも、彼女自身の子供の頃もそんな感じだったからだ。貴族階級の子供といえばわがまま放題と思われがちだが、実際には厳しい両親や乳母に囲まれ、子供の頃から躾けられる彼らは人前、それも他人の居る前で騒いだりはしない。ほんの子供の頃から、彼らは周りの大人たちの様子を伺う術を身につける。わがままを言っていい相手、言ってもいい場面をちゃんとわかっているのだ。

 カイエンたちの前の前菜の皿が、ほとんど手をつけられぬままに下げられた頃。

 それまで黙ってワインを飲み、皿の中身に舌鼓を打っていた国王が口を開いた。

「大公殿下、そちらでは皇后陛下とマグダレーナの二人が懐妊中と伺いますが、産み月はいつ頃ですかな」

 カイエンはその質問は当然予期していたので、すらすらと答えることができた。

「お二人とも、十一月の中旬から下旬と伺っております。私もこの旅を終えて急ぎ戻れば間に合うだろうと思っております」

「おお」

 それを聞くと、チェチーリオ国王は大げさに顔をほころばせて見せた。

「去年、サウル皇帝陛下がこのフェリクスが持って行った縁談をお断りになり、出戻りのマグダレーナをご指名になったと聞いた時には驚きもしました。子を置いて外国へ行かねばならないマグダレーナを不憫に思いもしましたが。……このように早く、両国の新たな時代の礎となるべき子を授かるとは、あれの運もまだまだわかりませんなあ」

 チェチーリオ国王の言い方は、まるでマグダレーナの産む子が皇子だと決めつけているかのようだ。

 確かに、アイーシャの産む子が皇女で、マグダレーナの産む子が皇子であったら。

 ハウヤ帝国の次の皇帝は現在、皇太女であるオドザヤを飛び越えてその皇子になるのかもしれないのだ。

 カイエンがそんなことを考えていると、王の隣で優雅に食事していた王太子フェリクスが口を挟んできた。

「そうそう。少し前にこちらへもハウヤ帝国駐在の者を通じて話が聞こえましたが……皇帝陛下の後宮で野蛮な事件が起こりましたそうですね」

 この話も、カイエンたちには予想済みだった。あの星辰の起こした皇后暗殺未遂事件には箝口令が敷かれてはいたが、ベアトリアの駐在大使はおそらく嗅ぎつけているだろうと想像していたからだ。

「ええ」

 カイエンは精一杯優雅に微笑んで、フェリクスの顔を見た。

 今宵の彼の顔は、以前見た顔とは全く違う人のようだ。あの時とは違って、自分の国の自分の王城に居るという安心感もあるのだろう。それにしても気弱そうな表情はかけらも見られず、マグダレーナと同じ栗色の目がきらきらと熱を帯びて輝いている。

「私もたまたまその場に居ましたので、よく存じております。マグダレーナ様にはなんの危険もございませんでしたよ」

 実際、あの時のマグダレーナはやっと安定期に差し掛かった妊婦であるにも関わらず、落ち着き払って眉ひとつ動かしてはいなかった。

「事件を起こしたのは螺旋帝国の皇女と伺っております。まったく恐ろしい輩が入り込んでいましたものですね」

 ちくちくと、フェリクスの言葉がカイエンを刺す。

「そうですねえ。でもまあ、その恐ろしい輩は私が自ら取り押さえましたのでご心配なきよう」

 カイエンも負けずに言い返した。言っていることに嘘偽りはないので、気楽なものだ。

「まあ、皇后陛下とマグダレーナ様のご懐妊で、ハウヤ帝国も安泰ということになるでしょう」

 カイエンが、『いちいちチクチクうるせーなお前、いい加減黙れよボケ』、という台詞を押し包んだ笑顔でフェリクスを見る。

 その顔を見て、それまで大人しく座って聞いていたジェネロがぐほっと喉の奥で変な音を立てた。彼にはカイエンの表情の殺気が読めたらしい。

「そうそう」

 カイエンはそこで思い出したように、用意してきた話を始めた。

「実は、マグダレーナ様からお手紙を預かってきております」

 それを聞くと、チェチーリオ王の顔色が変わった。

「なんと。そんなお心遣いを!」

 カイエンはこのシイナドラドへの旅に出る前に、皇宮の後宮の第二妾妃のラーラと、第三妾妃のマグダレーナのところへ挨拶に行っていた。

 それぞれの故郷を通るのだ。安全にそこを通過するためにも、彼女たちの意向を伝える用意はあった。二人とも、社交辞令的な物言いと顔色での応対ではあったが、それでも二人とも手紙は書いてよこした。それもなかなかに長い手紙を。 

 もちろん、封をする前にこの手紙は検閲されている。ハウヤ帝国の中枢の秘密を外に出すわけにはいかないからだ。暗号文の可能性もあったから、不自然な記述がないかも念入りに確認されている。皇宮にはそれが専門の係官も居た。

 カイエンが優雅に絹の布で巻かれた書状を取り出し、それを開いて中の優美な茜色の封筒を国王に渡す。

「読んでもよろしいでしょうかな」

 受け取った国王は、封筒をそばの侍従に渡した。その侍従が合図すると部屋の外からそれ用のナイフを盆に載せた別の侍従が入ってきて、封を開け、中を確かめた。

 カイエンもその手紙の中身は聞いていた。

 それは何の変哲もない内容で、近況とこの度の懐妊のこと、家族、特に残してきたオスカルとルクレツィアの様子を気遣ったものだ。

「お子様たちへの贈り物も言付かって来ております」

 チェチーリオ国王の様子を見ながらそう言うと、カイエンはザラ子爵に合図した。

 このためにこの部屋の外には執事のアキノが控えているはずだった。

 ザラ子爵が会釈して席を立ち、贈り物の包みを持って戻ってきた。

 それらは大きな包みではなく、中身はおそらくはマグダレーナが手ずから作ったと思われる手の込んだ刺繍の小物と、きらびやかな色で装丁された絵本だった。

 このフロレンティアも芸術と文化の都として有名だが、書物となるとこのパナメリゴ大陸では東西の果て、螺旋帝国とハウヤ帝国の印刷技術が優れていた。何社もの読売りが日刊で発行されているのも、ハーマポスタールだけだ。 

「ほら、オスカル、ルクレツィア、お前たちからもお礼を言いなさい」

 さすがに嬉しそうに贈り物を手に取った子供達へ、国王が促す。

「たいこうでんか。ありがとうございます」

「おかあさまによろしくおつたえください」

 二人の子供達がこの宴で初めて発した言葉には、子供らしさのかけらもなかった。恐らくは何度も練習させられて来た言葉なのだろう。

 同じような子供時代を過ごしたカイエンは、ちょっと痛ましげに子供達を見ていた。大人になり、去年の騒動以降、様々な人間関係にさらされてきたカイエンにはもう分かっていた。この子たちはまだ盲目のままだ。まだ、大人に支配された子供のままなのだと。

 カイエンもこれから歳を重ねていく中で忘れてしまうのかもしれない。

 だが、この時のカイエンはまだ覚えていた。

 つい先年まで、父のアルウィンの呪縛の中にあった自分を。

 子供だった頃の自分を。

 子供達の横で国務大臣のサクラーティ公爵が、曖昧な微笑みを浮かべている。マグダレーナの子が皇子であれば、彼の孫である次期サクラーティ公爵のオスカルの父違いの弟がハウヤ帝国の皇帝となる未来もあり得るのだ。


 そうして。

 その後は剣呑な話題が上がることもなく。

 最初は危なげな均衡の中に始まった宴は、円満な雰囲気の中に終わりを告げた。

 最初に、もう眠くなった子供達が下がり、チェチーリオ国王が宴の終焉を告げる。

 国王と、それにサクラーティ公爵の見送る中、カイエンたちは広間を出た。王太子のフェリクスはカイエンの後を送るつもりなのか、一緒に部屋を退出した。

 次の間にはカイエンの執事のアキノが静かに微動だにしない姿で待っていた。

 それへうなずいて、カイエンとザラ子爵、それにジェネロが歩き出した時。

「大公殿下」 

 一歩、前に出て来たフェリクスの口から発せられた言葉が、まっすぐにカイエンにぶつけられた。

 カイエンはフェリクスが一緒に広間から出てきた時から、なんとなく予測していたので慌てることなく静かに振り返った。

「父はごまかせたようですが、私はごまかされませんよ。大公殿下」

 燃える炎を宿した栗色の瞳。

 だが、振り返ったカイエンの灰色の目にも炎はあった。遠回しな言い方が気にくわなかったこともあった。

「なにを?」

 無表情でぞんざいな口ぶりで答えたカイエンを、フェリクスは意外そうな目で見た。

「姉の子が皇子で、皇后陛下の子が皇女であったとしても、大公殿下が姉の側につくことはないということです」 

 はあ?

 カイエンには「たら、れば」で考える習慣がなかった。だが、フェリクスはそういう習慣を身につけていたらしい。

 だが、フェリクスの言いたいことは、わかった。

「それは、私が元はハウヤ帝国民である皇后陛下のお生みになる子であるという出自を重んじて、そちらの肩を持ち、皇帝位相続の法を軽んじるだろう、ということですか?」

 だってそうだろう。皇子が生まれてもそれが皇帝となることを阻むだろう、と言われているのだから。

 フェリクスがどこまでカイエンの立場、実は前の大公であるアルウィンの娘であり、現在の皇帝は伯父、皇太女のオドザヤは異父妹、今度生まれるアイーシャの子は異父兄弟で従兄弟にあたるという事実のどこまでを知っているのかはわからない。

 だが、形式的な事実だけでもカイエンは皇帝サウルの異母妹で、オドザヤには叔母にあたる。

 それだけの知識でもフェリクスのように、カイエンが他国の王女である妾妃の生んだ男子ではなく、外戚のない皇后の生んだ嫡子である皇太女や皇女たちに与するだろうと考えるのが普通なのかもしれない。

「違いますか?」

 カイエンが畳み掛けると、フェリクスはちょっとたじろいだ。

 その様子では、カイエンと皇帝一家との本当の関係を全て知っているわけではなさそうだった。

 黙って固まったフェリクスをそこへ置いて、カイエンは歩き始めた。生産的な返答など期待できないことを悟っていた。

 ザラ子爵とジェネロも黙ってそれに続く。 





 翌々日の朝。

 カイエンたちの一行は、静まり返ったフロレンティアの街を後にパナメリゴ街道を一路、東へと向かった。

 目指すのはそう遠くではない。

 ネファール王国の首都、ゴルカ。

 ネファールは小国なので、そこまでの道程は十日というところだ。

 ゴルカからパナメリゴ街道は海沿いに続き、九月中にはシイナドラド領の港町、リベルタに入る予定である。

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