ベアトリアの赤い城 1
赤い焼き瓦の屋根が続いているの
その下の壁は白くて窓枠は黒
王宮も神殿も、町屋の続く大通りも、
街じゅうがその同じ色で飾り立てられて
まるで赤と白の薔薇が咲き誇ったよう
文化沸き立ち
男も女も陽気に街中を行く
あそこが私の故郷
そしてあなたの故郷
花の都フロレンティア
いつか帰りましょう
あの街で幸せになりましょう
お母さまとあなた
二人の国を創りましょう
アル・アアシャー 「繰り返す時の処刑場にて」より「フロレンティーノ」
カイエンたちの一行が、ベアトリアの首都、フロレンティアに入ったのは八月の終わりのある日の午後のことであった。
カイエンたちが帝都ハーマポスタールを発った時、それから国内の街々へ入った時には沿道に民が並んで歓迎したが、ベアトリアでは様相を異にしていた。
考えてみるまでもなく、先年までベアトリアとは国境紛争を続けており、その結果としてハウヤ帝国側は領土をリオ・デ・モラドの向こうまで広げたが、これはベアトリア側からすれば「敗戦」に他ならない。
実は、国境紛争の発端は数年前にベアトリア側がハウヤ帝国側へ侵攻してきたたことだった。
当時までにハウヤ帝国はベアトリアの東に位置するネファールとの間に友好条約を結んでおり、その結果、皇帝サウルの元へ、ネファールの王女ラーラが妾妃として嫁いできていた。
そのために国土の東西を抑えられた格好になったベアトリア国王、チェチーリオは焦った。そのために彼は東西の国境へ軍を進め、威嚇する方策を取った。
これはネファール側では功を奏し、ネファールは国境線上の街の幾つかをベアトリア側へ明け渡した。ネファールはベアトリアと同様の小国で、国力もそう変わらない。それにネファールの明け渡した街々は、数十年前まではベアトリア側だったところであったから、ネファール側としては軍を派遣しはしたが、そう積極的に守る気持ちがなかったのだ。
このパナメリゴ大陸での言語は全て基本的には同じアンティグア語だが、民族は違っている。
ネファールは新しい領土の民との軋轢に苦しんでいたところだったので、租税の上がりを失っても損は少ないと判断したのだ。
だが。
ハウヤ帝国側の反応は苛烈だった。
皇帝サウルの代になってから、領土拡大の野心は抑える方向にあったハウヤ帝国であったが、外部からの進攻には敏感だった。
皇帝サウルはフィエロアルマ、ドラゴアルマの二つの軍を投入してこれに対処した。軍事力においてはハウヤ帝国側が圧倒的に勝っていた。だが、ハウヤ帝国側はこの頃には騒乱の収まっていた、国土の北部や南部を接する国々への再度の侵攻の意思がないことを示すためにも、ベアトリア側への積極的な侵攻は避けたいところだった。
積極的に領土を取りにかかれば、その隙に他の周辺諸国が立ち上がるかもしれない。そうなれば厄介ということもあった。
そのためにこの国境紛争は国境近くの街を取ったり取られたりという、時間と人命ばかりがいたずらに失われる不毛なものになっていった。
その間に、皇帝サウルは他の周辺諸国に働きかけ、不可侵条約を取り付けてから、ベアトリアの料理にかかった。
この数年の間にトントン拍子の昇進を果たしたのが、ヴァイロンである。
カイエンは知らないが、ヴァイロンの昇進には後ろ盾であるアルウィンの意向が働いていたことは言うまでもない。
……そういう経緯のあった相手の国である。
カイエンたちも、暖かい出迎えが待っているなんぞとは思ってもいなかった。
国境紛争とはいえ数年続いた戦争である。両国、それも負けた形となったベアトリア側の被害の方が多かったのだ。
去年、ベアトリアの王太子フェリクスが非公式にハウヤ帝国を訪れ、妹の王女を皇帝サウルの後宮に、という話を持ってきたのも、言わば戦後処理の一環としてであり、ベアトリア側には不満や反対の声も多かったと聞く。
結果的に未婚の妹王女ではなく、皇帝サウルの要望で出戻りの姉、マグダレーナが妾妃として嫁ぐことになったが。
カイエンの一行が国境を超えると、そこにはベアトリア国軍が待ち構えていた。人数は少ないが司令官を含め、兵士たちの顔つきは固い。
それらに先導されて、入った首都フロレンティアだったが……。
赤い屋根と白い壁、黒い窓枠で上から下まで統一された美しい街ではあったが、そこには迎える民衆の姿はなく、家も店も扉を閉ざして静まり返っていた。
カイエンは先行していたザラ子爵ヴィクトルに聞いたが、今日はカイエンたちが王城に入るまで沿道の店の営業が停止されたのだという。もちろん、市民による不測の事態を避けるためである。
「緊張するな……」
カイエンが、そっと馬車の分厚いカーテンの隅から表の様子を伺っていると、側からアキノとルーサがカイエンの袖を引いた。
「殿下。危のうございますから、御身を引いて下さいませ」
「そうだな」
カイエンの馬車の左右には将軍のジェネロと護衛のシーヴ、それに女騎士たち二人が馬上で従っているが、どの顔も固く引き締まっていた。
後ろの馬車では、パコが小さくなっているだろう。彼の馬車のそばにはザラ子爵の馬が進んでいる。
「フロレンティアの王城は赤い大理石でできていると聞いているが、これでは見られそうもないな」
カイエンが残念そうに言うと、アキノが慰め顔に答えた。
「ここでのご滞在は二日でございます。コロンボ将軍もザラ子爵様も、殿下のお側を離れないとおっしゃっておられます。私とルーサも気を引き締めて参りますので」
「うん」
カイエンは静まり返った街の様子をそっと伺いながら、初めての感覚に腹の奥が痛くなるような気持ちがしていた。
悪意。
いや、悪意と言ってはフロレンティアの市民に失礼だろう。
彼らはカイエン個人に害意を持っているのではない。
それは根本的にはベアトリアの領土の一部を奪ったハウヤ帝国への反発心だ。
だが、今ここでその矢面に立たされているのはカイエンに他ならなかった。
カイエンたちの一行がフロレンティアの王城へ入ると、王城の門は固く閉ざされた。
それからは、先行していたザラ子爵とシイナドラドのサパタ伯爵が全て案内した。ベアトリア側から出てきたのは、国務大臣のジラルディ・サクラーティ公爵。
彼は中年の目立たない男で、それでも国務大臣らしくカイエンに礼儀正しく慇懃な挨拶をし、今宵は歓迎の宴が国王主催で開かれること、明日は休んで頂き、明後日の朝に出立していただくとの予定を淡々と述べた。
フィエロアルマの兵士たちの宿泊の手はずも、ザラ子爵たちによって決められており、カイエンには何もすることはなかった。
赤い王城の中は、中の壁は薔薇色の大理石で、床は深い茶色の石で覆われていた。
カイエンたち、カイエンとアキノ、ルーサ、パコ、女騎士のシェスタとナランハ、シーヴ、それにジェネロとザラ子爵。そしてパコとジェネロ、子爵の従者たちが案内されたのは、王城の中の独立した一角だった。
「ここはこの王城のどの辺りだ?」
カイエンが廊下を歩きながら、なんとなくそばを行くザラ子爵に聞くと、彼は小さい声で答えてきた。
「外国からの賓客のために用意されている離宮でございます。滅多に使われることのない場所だそうで、王城の中では西の端に当たるようでございます」
「フィエロアルマの皆はどこに?」
「ご心配なされませんように。彼らもまた、この西の端に近い場所に野営させております」
カイエンはちょっと驚いた。
「野営させているのか?」
ザラ子爵ヴィクトルは、ちょっと難しい顔をした。
「最初は王城の外に宿舎を用意するとのことでした。それを断って殿下のお側に野営させるよう、取り計らいました」
カイエンは灰色の目をちょっと瞬かせた。
「……そんなに危険なのか」
聞けば、ザラ子爵は左手に杖をついて歩くカイエンの右肘をそっと支えるように抑えながら、小声で言った。
「用心してしすぎることはございません」
そうか。
この子爵の小声からすると、壁に耳ありというやつらしい。カイエンの大公宮にもそういう部屋はあるから驚きはしなかったが、あまりいい気持ちはしない。
カイエンは離宮の中へ案内され、アキノやルーサとともに入りながら、暗澹たる気持ちを抑えることができなかった。
離宮は午後のまだ日の高い時間だというのに、日があまり射さない。周りが高い壁で囲われているせいだ。
「では、失礼致します。……ご用がありましたらそこの呼び鈴でお呼びください」
そう言うと、案内してきた侍従はさっさと下がっていってしまった。
いつの間にか、シイナドラドのサパタ伯爵もいなくなっている。
ザラ子爵がため息をついて、カイエンに説明した。
「あのシイナドラドの伯爵は別の部屋に控えるそうです。今宵の晩餐会にも出ないと言っております」
「なんだよそれ」
うそ寒い思いで立ちすくんでいるカイエンの後ろから、ジェネロの不満そうな声が聞こえた。
「こんなところじゃ、安心して寝られやしねえ。まだ外で野営の方が気が利いてるぜ」
もっともだと思いながら、カイエンたちはみんな連なって、一番大きい居間に入った。
そこは大公のカイエンの居室に当てられているらしく、奥の扉の向こうには天蓋付きの大きな寝台が見えた。
離宮には、これと同じようないくつかの寝室と居間の続き部屋があり、一行はその部屋に適当に別れて滞在することになりそうだった。
パコはカイエンの横で棒立ちになっており、ジェネロやシーヴも鋭い目であたりの様子を伺っている。
アキノとルーサ、それに女騎士のシェスタとナランハたちはシーヴに目配せしてカイエンを預けると、素早く離宮の部屋を調べるために出て行った。
それを見送ってから、ジェネロはちょっと考えた。
「おい、取り敢えず、ちょっとその辺、調べようぜ。最悪、今夜と明日一日、どっかの部屋でみんな集まってた方がいいかもしれないからな」
ジェネロが小声で言うと、シーヴと従者たちが従った。
壁や床、椅子やソファ、寝台までいちいち叩いて調べ始める。
そんな光景は初めて見るカイエンとパコは、なんとなく顔を見合わせた。
「大公殿下。私は今、ちょっと後悔しております」
正直なパコはそう言うと悟りを持っているはずの神官の癖に、褐色のアストロナータ神官の服を震わせてカイエンの後ろに隠れるようにした。
「おいおい、あんたそれでも男かよ」
そばのソファを検分していたジェネロが呆れて言うと、パコはそっちを見もしないできっぱりと言ってのけた。彼なりの覚悟はしているようだ。
「わかっております。宰相様からも言われてきております。いざという時には、このパコ・ギジェン、大公殿下の盾となって星の彼方、外世界へと旅立ちます覚悟は持ってきております」
星の彼方、外世界とは彼の信仰するアストロナータ神の生まれ故郷とされる場所である。この世は苦界であり、そこでの修行を終えたアストロナータ神官は栄光の外世界へ『帰れる』とされている。
「そうかい、そうかい」
ジェネロは相手をするのが馬鹿らしくなったのか、検分を終えたソファを指し示した。
「大公殿下、ギジェン殿、子爵様も。取り敢えずこちらへお掛け下さい」
カイエンはぼうっと突っ立っているうちに足が疲れてきていたので、喜んでそれに従った。
パコとともに、ソファに収まったとき。
カイエンとパコは叫び声をあげそうになった。
頭の上で、小さな音がしたと思ったら、大きな影が目の前へ音もなく落ちてきたからだ。
「ヒッ」
壁に耳があることは悟っていたので、カイエンとパコは感心にも自分で自分の口を抑えた。ザラ子爵は驚いてもいない。
「なんだ、お前か」
ジェネロが言うまでもなく、目の前に落ちてきたのはガラの巨躯だった。口を抑えたまま天井を見れば、天井の模様の入ったはめ板が何枚か外れている。
クリスタレラでは城には上がってこなかったガラだったが、今回は違うらしい。
御者に扮している時のフードを取り、濃い灰色の髪をあらわにして、いつものように貴族の従者のような服装だ。真っ青な目だけが、狼のような顔の中でぴかぴか光っている。
「もう上の方の目は大丈夫か」
ジェネロは検分の手を止めずに聞く。その横でシーヴも顔を緊張させている。
「上の目の奴らは黙らせた。壁の中の耳のからくりは知らん。壁を壊さねば、どうにもならない」
ガラは天井裏にいた何者かは黙らせてきたらしい。
「あー、それはしょうがないからいいよ」
ジェネロは落ち着いたものだ。カイエンとパコもその頃には落ち着いてきた。
「チコやイヴァンの方はどうだ?」
ジェネロは野営しているはずの部下たちのことを聞いた。
それに対するガラの答えは、そこにいた皆の動きを一瞬、止めさせた。
「包囲されている」
「えっ」
ジェネロとザラ子爵だけがふん、とその事態は予測していたらしくうなずいた。
「そうだろうね」
ザラ子爵は落ち着かせるように、ソファに座ったカイエンの肩にそっと手を置いてから言う。
「それじゃあ、この離宮も同じだろう?」
「王宮の近衛兵だから、フィエロアルマと比べれば練度はそう高くなさそうだ」
「そりゃあ、そうだろうさ。それでも気色悪いな」
「フィエロアルマを城の外でなく、近くに野営させたのは賢明だった」
「チコとイヴァンはどうしてる?」
「何も知らない顔を作って、大声で気の抜けた会話をしながら、荷物はほとんど解かないで備えている」
「いつでも動けるな?」
「そう言っていた」
ジェネロとガラは余計なことは言わずに話を先に進めていく。
ここも包囲されているようだ。
「ふむ。まあ、こっちにはマグダレーナ様がハーマポスタールにいるのだからな。極端なことはしないだろうが」
そう言ったのは、ザラ子爵。
カイエンとパコは顔を見合わせた。
カイエンは今、ベアトリア王宮に捕らえられた格好だが、それは向こうも同じなのだ。このことは帝都を出る前にも論議されたことだ。
マグダレーナがハーマポスタールに居る以上、極端な事件は起こらないだろうが、ある程度の陰険な駆け引きがあることは予想されていた。
「でもまあ、こっちの覚悟は見せておいた方がいいかな」
カイエンがちょっと考えてから、そう口を挟むと、ザラ子爵とジェネロが不思議そうな顔でカイエンを見た。
「今夜の歓迎の宴とやらだよ」
カイエンがひそひそと自分の考えを言うと、ヴィクトルもジェネロもパコもちょっと考えてからうなずいてくれた。カイエンの考えは悪いアイデアではなかったようだ。
ちょうど、他の部屋の検分を終わって戻ってきた、アキノやルーサ、女騎士の二人も、話を聞くと緊張した顔でうなずいた。ルーサとザラ子爵、それにジェネロの従卒たちが慌ててそれぞれの主人の荷物の入った皮張りの箱に向かって走った。幸いに、「それ」が入っている箱は一番大切に扱われ、常に最初に宿舎に運び込まれていたものだった。
そして。
それからカイエンと子爵、ジェネロの三人は、はそれぞれの部屋を決め、各々そこで歓迎の宴に備えて衣服を整えた。
迎えに来たベアトリアの侍従は、カイエンの姿を見て目を見開いて驚き、後ろに続くザラ子爵とジェネロの姿にも目を見張ったが、黙って彼らをベアトリア国王の待つ広間へと案内した。
「大公……殿下、そのお衣装は」
カイエンが広間に入っていくと。
そこには、チェチーリオ国王と王太子のフェリクス。それに国務大臣のジラルディ・サクラーティが控えていた。
チェチーリオ王も、フェリクス王太子もすぐにカイエンの着ている衣装に気がついた。さすがに王族である。
「それは……まさか」
王族ゆえに、カイエンがその衣装でこの場所へ現れた異常さに気がつかずにはいられなかったのだ。
内面の感情を簡単に顔に出すことのないよう、教育されてきた王と王太子ではあったが、それでも彼らは驚きを態度に出してしまっていた。それほどに意外な装いでカイエンたちは現れたのだ。
カイエンが着ていた衣装は、この旅の目的のために特別に誂えられたものであった。
作者はあの、ノルマ・コント。
彼女にとっても、この衣装は初めて手がける大仕事で、皇宮の図書館で先例を調べ、大公宮に残る歴代大公のそれを引っ張り出してきて調べ。
そして何度も大公宮へ調整に赴いてきて出来上がった代物なのだ。
それは、ハーマポスタール大公の大礼服。
それも、国内での儀式……例えばあのオドザヤの立太子式に着たものよりもさらに大仰な代物だった。
伝統に則った上で、ノルマ・コントの新しい発想で作り上げられたそれは、シイナドラドで行われる皇太子セレスティノの婚礼に出るときのための衣装であった。
カイエンの大叔父に当たるグラシアノが、現シイナドラド皇王バウティスタの婚礼に出席したときの衣装に法り、しかも女のカイエンが着ることを考慮して意匠を凝らした渾身の作であった。
それは、一見しただけでも重々しく、重厚で煌びやかであった。
様式としてはカイエンが普段着ている大公軍団の制服に似ているが、細かいところが全然違う。
まずは色で、上着も、その下の細身のズボンも深い深い青黒い紫。
その上着の前面と背面が煌びやかな金銀の刺繍で覆われている。
異様なのは、他国のそれが多くは草花紋や大鷲などの鳥、または獅子などの意匠であるのに対し、カイエンのそれは「海と海神の文様」とでもいうべき意匠であることだ。
盛り上がり、岸辺へ押し寄せる、泡だつ大波を象った意匠の中に海の神の横顔が、正面に並ぶ金のボタンの横で向き合っている。
襟は高い詰襟。
そこにも金銀の流水紋が流れるそれの上からは、白いレースの襟が覗く。
そして、それから続く肩には大仰に見えない肩章。普通と違うのは、肩章から下がる房飾りが藤の花の房のように優雅な曲線と長さで腕から胸元まで散っていること。それと袖口に覗く真っ白なレース。
カイエンの大叔父、グラシアノの大礼服と大きく違うところは、上着前面の長さだ。
後ろが鳥の尾のように長く、先が割れているのは同じだが、カイエンのものは前面も長く、膝のあたりまで流水紋が続いている。
それによって、小柄なカイエンが実際よりも大きく見える効果があった。
靴もいつもとは違っていた。
大公軍団の制服の場合に合わせるのは黒革の
大礼服の胸には斜めにかけた綬章に数々の勲章が光る。
「国王陛下、王太子殿下、今宵はお招きありがとうございます」
そう、にこやかに艶のある声で言うカイエンの後ろに立つ、ザラ子爵、ジェネロ、パコの装いもまた。
ザラ子爵はハウヤ帝国の有爵者の大礼服。それも新調されたもので、カイエンと同じく煌びやかな刺繍に覆われた胸元には多くの勲章が並ぶ。その中には過去、外交官としてこのベアトリアに駐在していた折にこの国から贈られたものも入っていた。
その装いは、弟のザラ大将軍によく似たがっしりとした体格の子爵によく似合っており、威厳に満ちて見えた。
並んでいるジェネロの大礼服は将軍の大礼服だ。それはザラ子爵の有爵者の大礼服と違い、礼服の前面を飾る刺繍はない。それだけに深緑の天鵞絨の上に並ぶ勲章がかえって目立って見えた。衿と肩章にはフィエロアルマの将軍を示す「野獣」の意匠が施されていた
それは去年の初めまではヴァイロンの巨躯を飾っていたものだが、今ではジェネロが史上初めてそれを身につけた者のように、しっくりと馴染んで見えた。
ジェネロは威厳に満ちた子爵の横で、いつも通りのとぼけた顔で突っ立っている。だがそれは凶暴な野獣がたまたま機嫌よく振る舞っている姿のようだった。一瞬のちょっとした気まぐれで牙を剥きそうな危うさを隠した静けさだ。
そして、アストロナータ神官のパコも、厳しい修行と教義の教育、研究を終えた神官、そして皇帝の内閣大学士としての彼の身分にふさわしい服装に身を包んでいた。
焦げ茶色のアストロナータ神官の長衣と筒型の帽子は同じだが、帽子には彼の神官としての位階を示す文様が入っている。長衣の僧服の肩からは、長い、深い青い色に銀の刺繍を施したストラが膝の下くらいまで垂れていた。
小太りで普段はそのまじめくさった顔つきがやや滑稽にも見える彼だが、今夜は丸い眼鏡の下の目までが煌々と光っているようだ。緊張もしているのだろうが、こうして衣服を改めると身が引き締まるのかもしれない。
「この度のシイナドラドへの旅の途中に、この美しいフロレンティアに滞在できますこと、誠にありがたく思っております。国王陛下には先の紛争でのわだかまりをお解きくださり、このような席を用意していただき、ありがたく、もったいなく思っております」
カイエンはとっくの昔に「非常時用ヤケクソ、バカ気力」状態に入っていたので、口上も滑らかなものだ。勝手に顔がにこやか笑いを作っており、薄化粧した頬もいつもの土気色とは違って、桃色に上気している。
その様子は、後ろに従えた三人の堂々たる様子と相まって、圧倒的な迫力として相手に対する無言の圧力となり、今、襲いかかっている。
そんなカイエンの優雅極まる挨拶をしばらく聞かされているうちに、やっとチェチーリオ王と、フェリクス王太子の顔に落ち着きが戻ってきた。
(やられた)
カイエンの挨拶が終わった時には、二人ともにカイエンの狙いを理解していた。
この大礼服に対して、ぞんざいな対応はできなかった。
カイエンたちは最高の衣装で出ることによって、相手への敬意を示すとともに、自分たちの覚悟のほどをも示したのである。
端的に言えばはったりでしかないが、カイエンたちのこの旅の目的をも示すことでベアトリア側の警戒感を冷まし、これがこれからの両国の関係改善への一歩でもあることを印象付けたのだ。
「これはこれは、大公殿下にはそのようにお気遣いいただき、我らも誠に嬉しく、また身の引き締まる心持ちでございます」
そして。
そう、すぐに返答したのは、チェチーリオ国王でも、国務大臣のジラルディ・サクラーティでもなかった。
ベアトリア王太子フェリクス。
父親とよく似たやや気弱に見える面差し。中肉中背で濃い金髪をやや長く伸ばしている。年齢は二十二と聞いていた。
だが。
フェリクスは去年、アイーシャの開いたあの「弾劾の晩餐会」でのおどおどした態度とは別人のような顔つきをしていた。それは、カイエンがあの日、マグダレーナが妾妃としてやって来た日にハーマポスタールの皇宮の海神宮の大広間でその顔に見たのと同じ種類のものだった。
瞳の中の炎。
マグダレーナと同じ栗色の目には炎が見えた。気弱そうな柔和な顔立ちの中で、目だけが違う生き物のもののように光っている。
「大公殿下、ザラ子爵、それにコロンボ将軍。どうぞこちらへ」
そう言って、フェリクスは父親の背中に優しく手を回した。
「そうだな。……大公殿下、どうぞこちらへ。何もありませんが、歓迎の席を用意させていただきました」
はっとしたようにチェチーリオ国王が息子に微笑みかけ、それからカイエンたちへ手を差し伸べた。
「今宵は堅苦しい宴会はやめましてな。我が家族のみを集めました。」
カイエンたちは国王と王太子の指し示す、宴会のテーブルの方を見た。
そこに見たのは。
カイエンたちの衣装は、国王や王太子を驚かせたが、実は、カイエンたちもこの広間の異様さに驚かされていたのだ。
カイエンたちはとっくに気がついていた。
広間の中央に置かれた、豪華絢爛たる巨大なテーブル。
そこに座っている人物はわずかに二人。
その二人以外には誰の姿もなかった。
歓迎の宴、と言うにはあまりにも異様な光景であった。
広大な広間を覆い尽くしているはずの廷臣、貴族たちの姿は一人も見えない。
隅々まで明るくランプで照らし出された大広間。
そこには入ろうと思えば、数百人が入れるであろう。
その広々とした空間にいるのが、カイエンたち三人を入れてもわずか八人の男女でしかないのだ。
「王女たちは今年、相次いで嫁入り先が決まりましてな。その準備で王妃の里に下がっております。それゆえ、今宵はこのように少ない人数でのおもてなしとなりまして申し訳もございませぬ」
気さくな話しぶりで話す国王。
その話す内容を聞けば、王妃と王女たちをこの王城から逃し、危険から遠ざけているとでもいうようだ。実際、そうカイエンたちに疑われても仕方のない事態だろう。
だが、国王も王太子も悪びれる風もない。
左手に杖をついたカイエンの右腕を、後ろからそっと取ったザラ子爵が、すっとカイエンの横に立った。カイエンがそっと彼の顔を見上げると、ザラ子爵はそっと首を振って見せた。落ち着け、と言うのであろう。
「マグダレーナは元気にしておりますかな」
チェチーリオ国王は豪奢なテーブルの上座の右側の席に着いた。
「どうぞそちらへ」
席に着いた国王は自分の向かい側の席を、優雅に指し示した。
カイエンたちは国王の指し示す彼の向かい側の席へ向かうしかない。
その間に、王太子フェリクスが国王の隣の席に着いた。
「子が出来たと聞いてより、心配で仕方がありません」
カイエンは完全に毒気を抜かれ、ちょっとすぐには声が出なかった。
今夜の化かし合いはこれであいこだ。こちらも驚かせたが、あちらも驚かせてきたではないか。
それでも彼女はザラ子爵に促されて進み、国王の向かいの席に座った。負けてはいられない。これも外交だ。
隣に子爵、その向こうに一気に厳しい顔つきになったパコ。そしていつもは陽気な顔をしかめたジェネロが座った。こう言う陰険なやりとりは苦手なのだろう。
皆が席に着くと、チェチーリオ国王は心底心配そうな顔で、カイエンたちに最初から席に着いていた二人を指し示した。
「このオスカルとルクレツィアも母が恋しい年頃でしてな。どうか、マグダレーナの様子をお聞かせ下されませ」
「……」
「ああ」
どう答えたものか、とカイエンが考えていると、チェチーリオ国王は付け足した。
「この国務大臣のサクラーティ公爵はマグダレーナが最初に嫁いだ、ラザロの父親でしてな。この子らには祖父に当たります」
たった八人の歓迎の宴。
その席に着いて待っていたのは。
二人のまだ幼い子供たちだった。
カイエンはようやく、理解していた。
マグダレーナがこのベアトリアに残してきた二人の子供のこと。
なるほど。国務大臣はマグダレーナの舅だったと言うことか。
二人の子供達は、四、五歳に見えた。それなのに、おとなしく席に着いている。
子供達の向こうに、国務大臣のサクラーティ公爵が座った。
なるほど。
カイエンはこのベアトリアの赤い城での歓待の趣旨を、ようやく理解しようとしていた。
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