理想郷をたずねて

 若い日

 それは私たちが戦争をしていた頃の話

 それが

 私たちの若い日

 空は青い

 海も

 河も

 みんな、ただただ青いのだと思っていた


 そして、深く考えもせず

 私たちは歩いて行った

 列をつくって戦って

 私たちはつぎつぎに消えていった

 どんどん歩いて

 いつか行き着いてしまって

 自分の面ざしさえも失って

 自分の顔が他人の顔に

 他人の顔が自分の顔に

 変わり果ててしまっても

 気付きさえしなかった


 私たちの若い日は今

 色褪せて

 あの古い家の戸棚のなか


 遠い遠い

 もう青いところなど、どこにもない

 あのやわらかな茶色の時のなかーー





      周 暁敏ギョウビン 「理想郷をたずねて」より「青の時代」


  







 ヴァイロンが豪腕ジェネロ相手に、己の悩みを吐露していた、その頃。

 そんなことは何も知らないカイエンは、皇帝の謁見の間のひとつで、皇帝と宰相のサヴォナローラとともに、螺旋帝国の外交官たちを待っていた。

 四方の隅に控える、影のような皇帝の親衛隊員のようには闇に溶け込めないシーヴは居心地が悪そうだが、いざという時には親衛隊員たちはカイエンのためには動かないだろうから、カイエンには彼だけが頼りである。


 謁見の間の入り口で、侍従に名前を呼ばわれてから、螺旋帝国の外交官とその副官が、謁見の間に入ってきた時、その場には密やかな緊張が走った。

 二人の螺旋帝国人は、やや裾を引くほどに長い螺旋帝国の官吏の正装に身を包み、扉を入ったところから両腕を頭の位置に揃えて掲げ、正面に座る皇帝サウルや大公カイエンの顔を直接見ないようにして、摺り足で進んでくる。この作法は螺旋帝国の宮廷の作法である。

 前に会った朱 路陽の後ろを進んでくるのが、夏侯 天予だろう。しっかりした体つきで大柄な男だ。

「螺旋帝国大使、朱 路陽」

「並びに、副官、夏侯 天予」

「お召しにより、まかり越しましてございます」

 これまた螺旋帝国式に、皇帝やカイエンの座る一段高い上段の前で、両膝を揃えて跪いた二人は、顔を上げることなく名乗り上げた。

「顔を上げよ」

 皇帝サウルが平板で感情のない声で命じると、両人はゆっくりと顔を上げた。もっとも、皇帝の顔を直視することは避けている。

 へえ。

 顔を上げた、夏侯 天予の顔を見て、カイエンは心の中で感心した。

 皇帝は前にこう言っていた。最初に彼が朱 路陽の大使着任状を持って、代理としてやってきた時の印象を。   

「その時、何か引っかかるものは感じたのだ。だが、外交官ゆえそういう者が選ばれたのか、と思ってしまった」

 と。

 そして、サヴォナローラもまた、

「夏侯 天予は生粋の螺旋帝国人ではないように見えたのです」

 と言っていたのだ。

 そして、「我らにも少し似たような顔であった」、と皇帝が表現した、その顔。

 さもあらん。

 カイエンは無遠慮なほどに彼の顔をじっくりと見た。

 朱 路陽は宦官なので髭がないが、彼の顔には螺旋帝国人の成人男性らしく、髭が蓄えられている。それも、鼻の下から顎まで続く、立派なものだ。それが、彼のもともとの顔かたちの印象を変えては、いる。

 螺旋帝国の正装には黒い官帽が含まれるから、髪の色はその下にほとんど隠されて見えないが、その色は褐色よりはやや茶色に近いようだ。目の色までは見えない。

 肌の色は螺旋帝国人の血を思わせてやや黄色味がかった象牙色。

 だが、まっすぐにの伸びた眉の形、切れ長なまぶた、神殿のアストロナータ神の彫像のような、整ってはいるが面白みのない顔は。

 カイエン自身と、すぐ横に座っている皇帝サウルにも共通するものではないか。

 そっと横の気配を探れば、皇帝もまた同じ印象を持ったことがなんとはなしに察せられた。



「お呼びした用向きはすでにご存知でしょうね」 

 サヴォナローラが問えば、すぐに朱 路陽が答えた。

「第四妾妃としてお召しになった、かの旧王朝の皇女の起こした事件のことでございましょうか。それならば、新王朝の臣である我々には関わりのないことです」

 その声は落ち着き払っている。これはもう十分な釈明を用意していることだろう。

「そうですね。それもございます。ですが、それだけではございません」

 サヴォナローラはすまして答えている。

 今日も、褐色のアストロナータ神官の衣装に身を包んだ長身は威圧的な影を落としている。

「もう一つ、このハウヤ帝国といたしましては重要な理由がございます。そちらの方は、ご承知でしょうか」

 朱 路陽は彫りの深い、整った顔をうつむけたまま、しばらく黙っていた。

「……シイナドラドの者共のことについても、我らは何も申し上げるとことはございませぬ」

 そして、そう言い切ると、朱 路陽はきっとして顔を上げた。まっすぐにその目がサヴォナローラを見る。

「あの者共は、押し込み強盗と同じでございます!」

「はあ?」

 カイエンは思わず、小声でつぶやいてしまった。意味がわからない。

 カイエンの声は幸いに聞こえなかったようで、朱 路陽は早口で話し始めた。憤慨しているのか、顔がみるみる赤くなる。演技ならば相当の役者だ。

「確かに、あの者共は我らの外交官官邸へ入り、そして出て行きました。……出て行く時に、旧王朝『冬』とこのハウヤ帝国の間に交わされた交渉の文書をすべて持ち去って!」

 サヴォナローラは眉をしかめた。

「まさか本当に、シイナドラドの使者が押し込み強盗を働いて行ったとおっしゃいますか」

 朱 路陽はぎりぎりと歯を鳴らした。

「お疑いはもっとも! しかし、それが真実なのですから致し方ございません! 忌々しい!」

「そんなことを我々が信じるとでも?」

 サヴォナローラはそう言ったが、朱 路陽はそのまま頭の血管が切れてぶっ倒れそうな顔つきのまま、同じことを繰り返した。

「それが真実なのですから致し方ございません!」

 はあ。

 カイエンにも聞こえたのだから、皇帝にも聞こえたであろう。サヴォナローラは大仰にため息をついた。

「わかりました。では、今からでもいいですから、被害の届けでもお出し下さい。……この国に科とがはないですが、それでも帝都で起きた窃盗事件ですから。こちらの大公殿下のお仕事になるでしょう」

 えええ。

 カイエンは、慌ててサヴォナローラの方へ向き直った。誤りは即座に正さねばこちらが危うくなる。

「おい。外交官官邸内の事件は、私の大公軍団の管轄外だぞ!」

 これは言っておかなければならない。外交官特権というやつがあるのだ。相手が、そんなことは熟知しているはずの宰相殿であっても。 

「そうですね、大公殿下のおっしゃる通りです。それで、朱 路陽どの。……どうなさいますか。届けが出れば、こちらの大公殿下の配下が捜査に入ります。証拠が見つかるやもしれません。そうなれば、私も皇帝陛下も納得できるのやもしれません。ですが、それは出来ぬとあれば、今のお話は信用するわけには行きませんね」

 真っ青で酷薄な目が、朱 路陽をじっとりと見た。

「わかりました」

 そしてなんと、朱 路陽はうなずいて見せたのである。

 今まで、旧王朝時代からハウヤ帝国側には見せたこともないだろう、官邸の中を捜査させるというのだ。

 やれやれ。

 カイエンはこの狸芝居を苦々しく反芻した。

 つまりは螺旋帝国側は、シイナドラドとの関係を明確に否定したということだ。本当かどうかはともかく。

 シイナドラドの使者が螺旋帝国の外交官官邸へ入ったのは押し込みで、このハウヤ帝国と旧王朝の交渉内容を記した書類を盗み去り、それからこの皇宮にやってきて、使者の赴きを伝えていったということ。それが新生螺旋帝国側の認める事実なのだ。 

 まさに、狐と狸の化かし合い。

 カイエンは笑い出しそうになった。



「では、お話を戻しましょうか」

 だが、全然めげていない様子のサヴォナローラは朗らかにさえ聞こえる声で、話題を変えた。

「第四妾妃、玄 星辰様の起こした事件についてですが、あの方、本当にそちらの旧王朝『冬』の遺児なのでしょうねえ。あの方を妾妃にと望んだのは確かにこちらでございますが、まさか偽物の皇女を押し付けたのではないでしょうね」

 そう言いながら、サヴォナローラは皇帝やカイエンの座る壇上から階きざはしを降りた。

「私は直接、見てはいませんが、こちらの大公殿下や皇女方、そこにおられた貴婦人方や警備の女騎士まで、皆が口を揃えて言っているのです」

 サヴォナローラは跪いている朱 路陽の真横に立ち、長身を折り曲げて顔を覗きこむようにした。  

「第四妾妃様の身のこなしは、まるで、ああいうことに慣れた者のようであったと」

 朱 路陽は黙って聞いている。この問いに答える気はないようだ。

「事件の概要はご存知でしょうね」

 サヴォナローラがかすかに眉を寄せてこう聞きただすと、さすがに朱 路陽は返答した。

「毒を塗った簪を使い、皇后陛下を弑し奉ろうとしたと聞いております」

「それなら、こちらの問いにお答えなさい。……あの皇女は本物の皇女ですか」

 朱 路陽はじろり、と宰相を睨み上げた。

「あなた様には以前、このお部屋でお話いたしましたはず。あの狂った皇子皇女のこと。あの者共があの連続殺人事件に関わっているに違いないこと。お忘れではありますまい」

 カイエンは思い出していた。

 あの時、皇帝やカイエンの前で、朱 路陽は言ったのだ。

(左様。それならば、申し上げましょう。犯人はあの皇子か皇女のどちらか、または二人ともに相違ありません)

と。

「それでは、あの皇女、星辰様は本物の皇女に相違ないとおっしゃるのですね」

 朱 路陽はしっかりとうなずいた。彼の後ろに控えた副官の夏侯 天予もうなずいたように見えた。

「ご存知のように、私は元は旧王朝の後宮の総管太監でございました。ですから皇子皇女方のお顔も存じております。皇子、天磊 テンライ様はあなた方によって天来神の神殿から『青の天空修道院』へ直接送られましたから、お顔を確認いたしてはおりませんが、皇女の方はこちらで後宮入りの装束などもご用意いたしましたので、そのお引渡しのおりにお目通りをいたしております」

 なるほど。

 あのお茶会の時、星辰は螺旋帝国の豪華な衣装に身を包んでいた。

 着の身着のままで頼 國仁先生らに故国を連れ出された皇女が、ああした衣装を何着も持ってこられたとは思いにくい。

 だが……あの身のこなしは?

 カイエンの疑いは顔に出ていたのだろう。朱 路陽は続けて言った。

「あの方は星辰様に間違いありません。しかし、星辰様に簪を使った暗殺を行えるような武道や、暗器の使用などの嗜みがおありだったかどうかは……」

 分からないということか。

「総管太監であったあなたでもご存知ない?」

「はい。皇子皇女の教育は御生母が取り仕切っておられましたので、詳しくは。何せ、あの女狩り以降、お生まれになった皇子皇女は数多おられましたから」

「では、あの凶器の簪も、そちらでご用意なさったものですか」

 カイエンの思考を読んだように、サヴォナローラが聞く。彼は同時に背後の親衛隊員へ合図した。

 影のように控えていた親衛隊員の一人が出てきて、布に包んだものを、さっとサヴォナローラと朱 路陽の前で広げた。

 中にあったのは、色とりどりの簪。

 カイエンにも見覚えのあるあの凶器となった二本の簪だけではなく、おそらくはあの日、星辰の髪を飾っていたすべての簪が並んでいた。

 朱 路陽は一本、一本の簪を目で確かめた。

「間違いございません。これらは私どもで用意したものでございます。ですが、毒の方はいっこうに心当たりがございませぬ」

 サヴォナローラも、彼らが星辰の持っていた毒のことを認めるとは思ってもいない。すべては星辰の後宮入りの折の検査を怠ったこちらに落ち度があることなのだ。

「よろしい」

 うなずいて、サヴォナローラが手を振ると、親衛隊員は素早く簪を包み直し、元の場所へ戻っていく。

「では、あの一人だけついてきた螺旋帝国人の女官は?」

 もう、朱 路陽も落ち着いていた。

「あれは皇女殿下の亡命に従ってきた者です。私には見覚えのない顔ですから、元はお目見え以下の宮女だったのかも知れません」

 お目見え以下、とは仕える主人に直接、顔を見せることのない使用人のことである。

「そうですか。では、こういうことですね。あの皇女は本物。あの装束や簪はあなた方が用意したもの。しかし、あの女官はご存知の者ではない」

「その通りです」

「よろしい」

 再び、深くうなずくと、サヴォナローラは急に顔をカイエンの方へ向けてきた。

「それでは、大公殿下」

「うん?」

 カイエンが鷹揚に受けると、彼はそれまでの厳しい顔をやや緩めた。

「殿下のところに螺旋帝国の武人を父に持つ隊員がおられるというお話でしたね」 

 トリニのことか。

 カイエンはゆっくりと、慎重に話し始めた。

「そうだったな。私の部下にカク 赳生キョウセイと言う螺旋帝国の武人を父に持つ隊員がいるのだが、その者に確かめれば、第四妾妃のあの時の尋常ならぬ身のこなしの裏にある、武道だかなんだかの性格や種類がわかるのではないかと思うのだ」



 カイエンの言葉に対する返答には時間がかかった。

 朱 路陽も夏侯 天予も、カイエンの言葉を聞くなり、こればかりは本物の驚きを顔に浮かべて沈黙してしまったからだ。  

 これはさすがのサヴォナローラにも、皇帝サウルにも予想外だったようで、二人もまた無表情のまま黙っている。

 やがて。

 口を開いたのは、朱 路陽だった。

「大公殿下には今、赫 赳生と仰せになりましたか?」

 彫りの深い、学者のような顔が驚きに覆われていく。

「ああ、そう言ったが」

「おお」

 カイエンの答えを聞くと、朱 路陽と夏侯 天予は顔を見合わせた。

 カイエンは二人のその様子から、トリニの父親が常人つねびとではなかったであろうことを知った。 

「まさかとは思うけれども、赫 赳生とは有名な武人だったのか」

 そう聞けば。

「……どうして大公殿下がその名をご存知なのですか」

 朱 路陽は目を見開いた。それきり、言葉が出ないらしい。

 カイエンはもう一度、但した。

「有名な武人だったのか?」

「赫 赳生は旧王朝時代、五指に数えられる武人として若くして将軍の地位にあったこともある者でございます。しかし、北西の隣国を併合する際に軍の命令に叛き、出奔してよりは行くえ知れず。……まさかこちらのハウヤ帝国に来ていたとは。しかし、しかし、大公殿下、殿下は今、『武人だったのか』とおっしゃられました。……では、赫将軍はもう?」

 カイエンは答えるしかなかった。

「ああ。すでに亡くなったそうだ」

 トリニの話では、父は母と相次いで亡くなったという。

 それを聞くと、朱 路陽はそっと顔を俯けた。

 それにしても。

 驚いたことに、トリニの父親は元、将軍閣下だったということらしい。

「なるほど、そうか」

 カイエンがちょっとサヴォナローラの方を見ながらうなずくと、サヴォナローラもまた、そっとその顎おとがいを引いた。

「では話は早い。その者の子が私の軍団の隊員になっている。その者になら、あの第四妾妃の身ごなしの所以がわかると思うか?」

 朱 路陽はぎゅっと目をつぶった。

 その様子は、老練な宦官のようでもなく、また丁々発止の場面を切り抜けるのが仕事の外交官のようでもなかった。

「赫 赳生の子となれば、その武勇は疑いもございませぬ。その者の目は誤魔化せますまい」

「そなた、赫 赳生を見知っているのか」

 カイエンが問うと、朱 路陽は深く、深くうなずいた。

「もう、二十五年、それとも三十年近い昔になりましょうか。私はまだ宮城に上がったばかりの平の宦官でしたが、あの時、史上最年少で将軍になられたカク将軍のお姿ははっきりと覚えております。平民出身のお方と聞きましたが、お姿の端正な方で、小刀で切り上げたような眼差しが清廉そのものの、戦神の化身のような方でした」

 昔のその光景をここにいる皆に見せたい、とでもいうように、朱 路陽の目が彷徨う。

 頼 國仁先生によれば、トリニは父にそっくりだという。確かに、彼女の顔立ちは清廉で穢れのかけらもない。

 トリニは女としてはかなり大柄だから、その父はさぞや勇猛であったことだろう。

「そうか」

 そんな男が西の果てのハウヤ帝国まで流れてきて、生まれたのがあのトリニなのか。

「では、私はその者に第四妾妃のあの折の行動を検案させることとする」

 カイエンがそう言って言葉を切ると、それまでずっと黙っていた皇帝が、初めて口を開いた。

「夏侯 天予とやら」

 皇帝サウルはもはや朱 路陽など見てさえいなかった。

「そなた、螺旋帝国人というが、両親のどちらかからシイナドラドの血を引いておるのではないか」

 皇帝はその疑問を晴らすために、なんの策も弄そうとはしなかった。

 時間の無駄だと思ったのだろう。

 カイエンもまた、夏侯 天予の顔を見た。

 似ている。

 こうして長時間、顔をお互いに晒していれば。その相似は髭の有無や皮膚の色の違いでは覆いかくしようもない。

 三人も揃っては、なおさらだ。

 凍りついたような沈黙。

 その最中、朱 路陽ががくりと頸を落とした。 

「はい」 

 それをしっかりと目に入れてから、夏侯 天予が口を開いた。

 この謁見の間に現れた時の名乗りの時にも思ったが、その声は皇帝やカイエンの父であるアルウィンに似て聞こえた。

 顔の骨格が似ているのだ。声さえも似ておかしくない。

「仰せの通り、私の父親はシイナドラド人でございます。私は螺旋帝国人の母親との間に生まれた庶子で、父と別れて国へ帰った母によって螺旋帝国で生まれました。そしてそのまま、母のもとで育ちました」

 はっきりと言って、顔を上げたところを見れば、目の色も茶色ではあったが灰色がかって見えた。

「父の名は」

 皇帝の声は冷ややかなままだ。

「母によれば、父の名は、ドン=フィルマメント・デ・ロサリオと申したそうです」

 デ・ロサリオ、とはシイナドラドの貴族階級の姓であろう。

「天予という名は、父の名をそのまま螺旋文字の読み方に直したものか」

 ドン=フィルマメントのドン、は「神の恩寵」、フィルマメントは「天空」の意味である。

「その通りでございます。父は私に名前を与えられませんでしたので」

 カイエンとサヴォナローラは皇帝の頭越しに顔を見合わせた。では、彼は父に認知されなかった庶子というわけだ。

 だが、これだけ皇帝やカイエンに顔が似ているということは、そのドン=フィルマメント・デ・ロサリオという男はシイナドラドの貴族の中でも皇家に近い血筋なのだろう。

「ですから、私は螺旋帝国で育ちました。父の国へ行ったことはございません」

「夏侯、という姓の方は母親のものか」

 皇帝は聞くのをやめない。

「いいえ。母が言うには、父はシイナドラドでは『夏の侯爵(マルケス・デ・エスティオ)』という呼び名を持っていたそうで……それと螺旋帝国にある夏侯という姓が合うので、私の姓としたそうです」

 夏の侯爵マルケス・デ・エスティオ

 カイエンは何か意味のある称号なのかと思って、皇帝とサヴォナローラの気配を探ったが、二人からの反応は特になかった。

「では、そなたの父はシイナドラドの侯爵か」

 夏侯 天予は苦笑いした。

「存じませぬ。今も昔も、かの国は鎖国状態でございますゆえ」

 確かに、カイエンたちとて皇帝サウルたちの産みの母、ファナ前皇后がいない今、シイナドラドの貴族社会の様子さえ知る術がないのだ。

 ここまで聞いて、皇帝は話を変えることにしたらしい。

「そなた、あの佩玉を持って螺旋帝国へ帰り、早くもこのハーマポスタールに戻り来たと聞くが、それは本当か」

「往復半年は早すぎるように思われます。……螺旋帝国までの道程は、間に砂漠も大きな山脈もない、シイナドラドまでの道程とは違いますから」

 サヴォナローラもまた、己の持っている疑惑を隠すつもりはないようだ。

「本当か、とは私が本国まで戻ってはおらぬというお疑いでしょうか」

 夏侯 天予の方も、挑戦的な目つきで皇帝を見た。

 皇帝は怒りもせずに淡々と続ける。

「そもそも、螺旋帝国現皇帝、馮 革偉の大事の品を、そこの元総管太監ならばともかく、そなたごときが持ち帰るというのがおかしくはないかということだ」

 お前は誰だ。

 カイエンはそう聞いている皇帝サウルの声が聞こえた。

 それは、夏侯 天予も同じだっただろう。


「なるほど。お疑いの元はそういうことでございましたか」

 彼は不敵な顔つきでうなずいた。

「しかたがございません。それではお話させていただきます。……私の母の名は周 暁敏ギョウビンと申します。国ではまあまあ有名な詩人です。女流詩人というやつです。で、普通にお話致しますとちょっと話は長くなりますが、そこを短く言いますと、その母が今の皇帝、馮 革偉のまあ、なんですか一種の師匠筋に当たるのでございます。……母の若い頃の話をしてもよろしいでしょうか。そこに私の生まれることになる事情も含まれておりますので」

 螺旋帝国ではすでに有名な詩人であり、後に、この時代の歴史を編んだ詩集「革命夜話」を書いて、螺旋帝国の歴史に不動の名を残し、詩聖と呼ばれる女性だが、この時、このハウヤ帝国でその名を知るものはなかった。

 それでも、皇帝は話を続けることを許した。

「ありがとうございます。母は若い頃から、普通の娘の枠には到底おさまらない女傑だったそうで、子供の頃は女だてらに学者になると言って勉学に励み、大きくなってそれが無理だと知るなり家を飛び出して諸国行脚を始めたそうです」

 カイエンは同じ女として、びっくりした。そりゃ、女傑だわ。というか、どうやってそれが実現出来たのかが知りたいくらいだ。

 夏侯 天予はなかなかに話がうまい。

 その証拠に、皇帝サウルも文句を言わずに彼の話を聞いていた。

「まあ、そんなに世間は甘くないですから、いろいろとひどい目にもあったそうです。それでも悪い奴に売り飛ばされもせず、のうのうと旅を続けたというのは息子の私も不思議に思うような強運でございます。……まあ、その旅の様子も母はしっかり旅日記として出版しております。そんな母が若い頃に潜り込んだのがシイナドラドだったそうです」

「それが本当なら、とんでもない冒険家の女性ということになりますね。鎖国中の国に潜り込むとは」

 サヴォナローラが冷たい声で相槌を打った。話の半分も信じていない顔つきだ。

「私もどうやって入ったのか、その詳細は知りません。さすがに本にも書けなかったようです。鎖国中の国、というのでなんとしても入ってみたくなったそうで。……無鉄砲というより、蛮勇でありましょう。そこでまあ、とっ捕まって出会ったのが父だったそうで、しばらく父のところに匿われている間に私が出来たと、そういうことだそうです」

「子供ができてからシイナドラドをほっぽり出されたのか?」

 カイエンが眉間にしわを寄せて聞くと、夏侯 天予はぶんぶんと首を振った。

「いいえ。母はまあ、そういう人なので、父のことはなんら恨んではおりません。私がお腹にいるのに気がついたのは自らシイナドラドを抜け出してきた後だそうで、それからは行脚も冒険も中止して、私を育ててくれたのです」

「それで?」

 息を吐く夏侯 天予に向かって、皇帝の低い声が催促した。彼の軽い話し様は気に食わなかっただろうが、話の中身の方には興味があったのだろう。

「はい。それで、国に帰りまして収まったのがたまたま、今の皇帝、馮 革偉一家の近所だったのです。当時はまだ女狩りの始まるずっと前ですから、一家四人、仲良く住んでいたそうです。皇帝は私よりもやや年長ですので、少年の頃から母の営む塾へ出入りしておりまして、それが皇帝と私の関係なのです」

「つまり、新皇帝の師匠筋があなたの母親、ということですか」

 サヴォナローラが聞くと、夏侯 天予はしっかりとうなずいた。

「さようです。母は学者になりたかったくらいなので学がありますし、諸国を遍歴したので外国の事情にも詳しかったからでしょう。今は女流詩人で名をなしております。その頃は母の塾で文芸雑誌を出したりしていたそうで、それに若き日の皇帝も参加していたそうです」


 馮 革偉は、本名ではなくて、その時の筆名なのですよ。


 だが、その事実だけは夏侯 天予も話さなかった。

「そういうわけで、私は今の我が国の皇帝の起こした革命にも参加いたしました。ですから、あの佩玉のことも存じておりますし、あれを持ち帰る任務に就くだけの信頼もいただいていたわけです」


 なるほど。

 そう言って、納得してしまえるだけの物語ではないか。

 そうは、カイエンも感じた。

 だが、なんの証拠もない話だ。

 そこまで考えて、カイエンはふと、思いついたことを口にした。

「なるほどね。それほどお国では有名な女流詩人の母上とあれば、今も手元に母上の詩集なり、なんなり持っておろうな」

 カイエンがそう、柔らかい声音で聞くと、皇帝とサヴォナローラの気配が変わるのがわかった。上手くやれたようだ。

「どうです? 私も皇帝陛下も、そこの宰相も皆、お国の螺旋文字を読むことができる。ぜひ、母上の作品を見せていただきたいものだが……」

 カイエンがそう、言い終わると同時に、夏侯 天予は官服の懐に手を入れようとした。

 部屋の四隅の親衛隊員と、カイエンのすぐ後ろに立っているはずのシーヴが動く。

 殺気が謁見の間の中に渦巻いた。皇宮へ入るときに身体検査を受けてはいるはずだが、懐に手を入れるのはいかにもまずい。

 夏侯 天予は駆け寄ってきた親衛隊員の突きつけた剣の前で、すんでのところで手を止めた。

 前に跪いている朱 路陽が真っ青な顔で叱りつける。

「何を考えているのだ! その手を下ろせっ!」


「よい」

 カイエンの横で、皇帝の声が聞こえた。

「親衛隊員、その者の懐の中のものをこれへ」

 だっ、とばかりに親衛隊員が夏侯 天予を囲み、手足を抑えつける中、一人が懐から一冊の糸で綴じた冊子を取り上げた。


 その冊子は螺旋帝国の荒い繊維の紙に、螺旋文字の木活字で印刷されたもので、親衛隊員が掲げた表紙の文字は。



 「理想郷を尋ねて    周 暁敏・著」




 その文字は、奇しくもその場にいた三人のハウヤ帝国人皆の目に焼きついた。

 理想郷。

 それは、ハウヤ帝国の名前の由来である。

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