彼女の旅立ちへ向かってすべてが募る

 あなたを守りたかった

 すべての苦痛から遠ざけたかった

 それは私には過ぎた望み


 世界を相手に、この街を守ろうと立ちふさがったあなたを

 完璧に守れるものなどいるはずもなく

 何よりもあなた自身がそれを望んではいなかった

 あなたは星の女神で

 この街を永遠に守護する星の運命を担う唯一人

 私はその横にあなたの死まで控える

 たった一頭の獅子


 だがそれは

 恐らくは私の生まれたその日から

 決まっていたこと

 あなたのそばにいること

 それ以上の幸福はどこにもない




     アル・アアシャー 「黄金獣の懊悩」より。







 結局、新生螺旋帝国大使、朱 路陽は第四妾妃が後宮で起こした皇后暗殺未遂事件については無関係の立場を貫いた。

 宰相のサヴォナローラも、第四妾妃の供述には裏付けがない上、彼女が螺旋帝国から連れてきた女官も拷問に屈しない現状ではそれ以上の追求もできなかった。

 夏侯 天予があの佩玉を故国へ持ち帰ったと言う主張にも、彼とその母、周 曉敏ギョウビンの新皇帝との関係を持ち出されては、とりあえずは沈黙せざるをえない。少なくとも夏侯 天予の母、新皇帝の師匠筋だという周 曉敏の存在は、彼の持っていた書物が証明している。木活字の本は偽造もできるだろうが、その証明もその場では出来はしなかった。

 あの場でそこまで追求されることを予測し、「母のものと称する書物」まで用意してきたとなれば、もはや太刀打ちのしようがなくなってくる。

 つまりは、サヴォナローラとしては、螺旋帝国に送っているハウヤ帝国の外交官に確認させる他はなかった。

 螺旋帝国の外交官たちが下がっていった後、サヴォナローラは皇帝とカイエンの前で、さらなる捜査を誓った。

「あの夏侯 天予が、尋常でない速さで螺旋帝国との間を往復してのけたのは確かです。そして、確かに往復したのであれば、その跡が道筋に残っているはず。すでに細作をパナメリゴ街道と東への航路の中継地となる港に放っております。必ず、裏を取ってみせます」



 そして、カイエンは丁度、昼食の時間に大公宮へ帰ってきた。

 出てきたアキノに、イリヤとトリニに暇ができたら顔を出すように伝えてくれと命じてから自分の食堂へ回る。

 そこまでカイエンに付いていたシーヴは、一旦下がって大公宮の奥の厨房のそばの使用人達の食堂の方へと向かった。毎日、カイエンの護衛を務めている彼だが、身分は大公軍団の班長格で決して幹部ではない。と言うよりは平の隊員のすぐ上だ。その彼がカイエンの護衛を務めているのは彼の個人剣技の腕もあったが、後ろ盾がザラ大将軍であるために最初から身内扱いであったことが大きかった。

 そういうシーヴは食事は大公宮にいれば、奥の厨房側の使用人の食堂で摂っていた。

 使用人達がほぼ一斉に食事を摂るのは朝食だけで、昼食と夕食は各々別である。昼間は皆が一斉に休むわけにはいかないからだ。

 であるから、昼食と夕食は厨房の小僧が暇そうならそれに盛らせるか、忙しい時間帯なら各々が鍋や戸棚から取って、用意された木の盆に乗せて食堂まで運ぶことになっていた。

 そういうわけで、シーヴが食堂に入って行った時、たまたまそこにいたのは数人だけだった。


 大公宮の使用人といっても、上は執事のアキノから下は厨房の小僧や厩舎の手伝いまで、様々である。であるから広々とした食堂にはこれまた、大公に直接顔を見せる「御目見え以上」と、それ以外の「御目見え以下」の別があった。こればっかりは昔から決められていることで、カイエンが開明的な主人だと言ってもそこまでは変わってはいない。

 厨房の小僧にその日の賄いメニューを盆に並べてもらったシーヴが入って行ったのは、勿論、「御目見以上」の方の食堂だ。

 大きな古い木の長テーブルがいくつも並んでいる。

「あれっ」

 その中でも一番窓に近い、明るいところにシーヴがよく知っている顔ぶれが三人、座っていた。

 その特徴的な三人を避けるようにして他の使用人達は隅の方で遠慮がちに食事を摂っている。

「おやあ?」

 シーヴが気がつくのと一緒に向こうもこっちに気がついたらしい。

「イリヤさん、大公殿下がお探しでしたよ。……こんなところにいたんだ。もう、アキノさん表の侍従に取り継いじゃっただろうなあ」

 シーヴはちょっと考えたが、もうしょうがないと思ってイリヤの隣に座ることにした。見れば、そこの三人も食事を始めたばかりのようだ。

「殿下も今、お食事中ですから、イリヤさん食事が済んだら俺と一緒に来てくださいね」

 シーヴはそう言うと、盆をテーブルに載せ、それから正面に座る二人にも挨拶した。

「こんにちは。お疲れ様です。どうしてまたお三人が一緒に?」

 イリヤの隣に座ったシーヴの前に座った二人は、見事な凸凹を形成している。 

「知らんよ。……午前中の講義が終わってから、ここへ来る途中でガラ君に会って、一緒にここへ来たら、この男がきれいな女中さんにちょっかいを出していただけだ」

 教授はトマトと玉ねぎのクリームスープにスプーンを突っ込みながら、嫌そうに言った。

 その横では、小柄で枯れた彼とは正反対のでかい男が鶏の胸肉の丸焼きにナイフを入れている。シーヴも厨房で見たが、今日のメインは丸焼きの鶏で、四つに切り分けたのが大きな鉄の天板に載っけられて並んでいたのだ。ガラの皿の上の鶏肉は半羽分ぶん近くあるように見えた。

 こっちはちょっと顎を引いて挨拶したきり、黙っている。

「ひどーい。今日は現場から戻ってこられたから、久しぶりにちゃんとした時間に、ちゃんとした食堂でちゃんとした昼ごはんが食べられるんで、ちょっと浮き浮きしてただけじゃん。せんせーと違って、俺は滅多に昼ごはんを昼に食べられない過剰労働の幹部なんですよー!」

 そう言いながら、口に放り込んだのは鶏肉の付け合わせの、揚げてから赤ワインから作った黒酢で和えた野菜だ。

「あー。ハイメのおっさんは賄いまで気配りできているねー。疲れた体にお酢が効くぅー」

 大公宮の料理長は賄いに金はかけないが、気配りはかけているのである。

 ちなみに、このハウヤ帝国では一般市民の食事で一番重たいのは昼食とされている。貴族階級ともなれば晩餐会などもあるから、決まってはいないが、民衆の生活ではそうだ。


「そうですか」

 シーヴは先にレモンの入った水で喉を湿らせてから、塩気の強い山羊のチーズで和えたパスタにフォークを入れた。チーズ以外には黒胡椒がかかっているだけだが、その黒胡椒が効いていて旨い。

「でー? またなんかあったのー?」

 こっちは麦酒セルベサのグラスを傾けたイリヤが聞いてきた。

 シーヴはちょっと周りを見てから、小声で答えた。教授やガラが聞くぶんには問題ない。

「実は、大公軍団で螺旋帝国の外交官官邸へ捜査に入ることになりました」

 聞くなり、三人の顔が引き締まった。

「なにそれ。外交官特権はどうなったのよ?」

「殿下が来月にはシイナドラドへ行くことになったのはご存知ですよね。それで、シイナドラドの使者が螺旋帝国の外交官官邸から出てきた件で、宰相から問い詰められた大使が、『あの者共は、押し込み強盗と同じでございます!』って言ったんですよ。旧王朝とこの国との交渉ごとの文書を持ち逃げされたって。それで、被害届けを出したら、って宰相が嫌味っぽく言ったら出すって言ったんです。だから、うちで捜査しなきゃならなくなったんですよ」

 イリヤは甘ったるくて端正な顔をしかめた。

「あー。つまり売り言葉に買い言葉、というか、狐と狸の化かし合いってことー? 捜査なんてしたってなーんにも出ないに決まってるじゃん。あっちで適当に荒らされた後とか残して準備してるんだろうし。……猿芝居の尻拭いってことですかー?」

 ぷんぷんと大げさに頭を振ってみせたイリヤは、ナイフとフォークを放っぽり出して指で鶏肉を引裂き、口に放り込み始めた。あまり良い行儀とは言えない。

「そうですけど、殿下は悪くないですよ」

 シーヴは口を尖らせて、カイエンを弁護した。皇帝や宰相のそばで聞いていた彼には、その場の空気が見えている。

「そなことはわかっています!」

 そう言うと、イリヤは今度はトウモロコシのパンをちぎって口に放り込む。

 そして、次にイリヤの口をついてでたのは違う事柄についての質問だった。

「そうかあ。殿下と言えば、もう来月だなあ。で、もう、殿下の警護は決まったの?」

 シーヴは内心で舌を巻いた。今日、さっき皇宮で聞いてきたことを、もう尋ねられたからだ。

「それなら、先ほど聞いてきました。……フィエロアルマのジェネロ・コロンボ将軍です」

「へー」

「ほう」

「……」

 ガラは無言でうなずいただけだったが、何がしかの感情はあったことはなんとなく、伝わってきた。

「で、お前は一緒に行くの?」

 シーヴにはもちろん、それがシイナドラド行きのことであることはすぐに分かった。

「まだ、何も聞いてませんけど、俺は殿下の護衛ですから、ついていくことになると思います」

「そうだね。……警護が決まったとなると、大公家からも誰が随行するのか決めなければならないね。アキノさんはもう、考え始めているだろうが」

 教授がそう言うと、イリヤが残りを引き取るように言う。

「フィエロアルマの方とも打ち合わせが必要なんじゃない?」 

「そうですね」

「ジェネロ将軍かあ。まー、順当ではあるんだけど。ねえ」

 三人の頭に浮かんだのは同じ人物の顔だったに違いない。一番、カイエンの側に付いて守りたいと思っているのだろう男の顔だ。 

 それからしばらくの間、三人は何も言わずに食事に集中していた。


 ほぼ同時に食事が済んで、皿が空になった時。

 シーヴはイリヤと教授、それにガラの顔を一通り見渡してから、改めて口を開いた。

 さっき思い出した顔と関係のあることだった。

「あのう。実は俺からみなさんに、ご相談事があるんですが……」

「えっ。なーに」

「何かね」

「……」 

 そこでシーヴが周りを見ながらこそこそと囁くと、根が親切なおじさんとおにいさん達三人はぐっとうなずいてくれたのであった。




 こうして、イリヤの方はカイエンに呼び出される前に、もう己の新しい面倒臭い仕事、螺旋帝国の外交官官邸の捜査について知らされたのだが。

「めんどくさいなー。何を見つけたことにして、何は見つけなかったことにするのか、その加減が分かんないんですよねー。俺、嫌だけどしょうがないんで宰相さんとこ行って聞いてきます。それからおっぱじめた方が無駄が無さそうですから」

 カイエンの前でそう言ったイリヤは捜査を始める前に、サヴォナローラのところへ行きたいから、カイエンの名前で使いを出しておいて欲しいと言い残して、通常業務へ戻って行った。

 一方、トリニの方もその日の夕方にはカイエンの前に現れた。訓練が終わってすぐに来たのである。

 後宮での事件は外部には全く漏れていない話だから、トリニは驚いたが、カイエンと教授の話を聞くと、しっかりとうなずいた。


 そして、すでに七月も中旬となったある日のこと。

 カイエンがトリニに、あのお茶会での皇后暗殺未遂事件の折の第四妾妃の身ごなしについて検案させるに当たっては、あの現場に居合わせた面々から、身分を問わず六名が大公宮へと呼び出された。

 場所はカイエンの表の執務室が選ばれた。

 まずは、公爵夫人のミルドラとデボラ。二人とも夏の社交シーズンなので帝都に滞在中だったので呼び出された。

 それに、オドザヤたち皇女の代理も兼ねて、女官長のコンスタンサ・アンへレス。それにあの時、警備に当たっていた後宮の女騎士の中から、三名が選抜された。これは別々の方向から見ていた熟練の女騎士が選ばれたのである。

 カイエンによって、皆の紹介と、トリニの紹介がされた後。

 カイエンやミルドラ、デボラ、それにコンスタンサは見たことは見ていたが、自分でその身ごなしが再現できるわけではないから、まず最初に見たままの印象をそれぞれに身振り手振りを交えて語ることにした。

「わたくし、もうびっくりしてしまっておりましたから、なんだかよく覚えておりませんで……」

 最初に不安そうにきょときょとしていたのは、フランコ公爵夫人のデボラだった。彼女と女騎士の三人は、大公宮自体が初めてだから緊張していた。

「あら。しっかりなさってくださいませよ。じゃあ、思い出せるように質問して差し上げるわ。いい。第四妾妃は一番、皇后陛下からは遠い席に座っていたわね。一番、皇后陛下のそばに座ってたのは私とカイエンよ。あなたたちのいた場所はどこ? それで、まずは第四妾妃が急に席を立ったのよね?」

 ミルドラがデボラを助けるように、聞き始める。

 カイエンは叔母に感謝したが、思いついて付け足した。

「待ってください。席を立つ前におかしな動作はしませんでしたか」

 カイエンは席に着いてからは隣の皇后に気を取られていたから、見ていないのである。

 すると、コンスタンサがそっと片手を上げた。

「私、見ておりました。席を立つ前にあの方、なんだかお衣装の裾の方を気にしておいででした」

「あっ」

 カイエンを含めた何人かの喉から声が漏れた。

「そうだ。あの衣装は裾が細くて長かった。お茶会の最初に挨拶した時は、歩きにくそうに小股で歩いていたっけな! でも、立ち上がって走り始めた時にはそれがふわっと」

 カイエンも思い出した。

「広がって見えました!」

 皆が一斉に言う。

「あの、お衣装の裾にはいくつか切れ目が入っておりました。抑えつけました時に見ましてございます」

 最後に、こう証言したのは取り押さえた女騎士。

「じゃあ、コンスタンサが見たのは、始めは細い形に仮に縫い付けてあったお裾を動きやすくするために……」

「糸を切ったんですわ!」


 そんな風に。

 皆が意見をいい始めると、デボラも思い出してきたらしい。

 カイエンは皆に確かめながら、星辰が立ち上がる前から順に、動きの重点を項目立てした。

 そして、それをトリニの前でカイエンが自ら、大公宮の表で使っているのを持ってこさせた、捜査用の黒板に石筆で書き留めた。

 それから、それに合わせて一人一人が自分の見たことを話し始めると、それはかなり詳細な内容になっていく。動きを手真似する者もいた。

 それをカイエンが黒板にわかりやすく書いていく。字だけでは分かりづらいが、カイエンの他に手真似を図にできるような絵心のあるものがいなかったのだから彼女が書くしかしょうがない。

 それから、腕に覚えのある女騎士三名は、己の見たままをなるべく忠実に演じてみせた。

 それを見ながら、また各自がそれと己の見たものとの差異を述べ、トリニはそれを皆、辛抱強く聞いていた。

 髪から簪を引き抜く時の手の向きから、トリニは細かく皆にただした。

「簪を持った時の手? 順手と逆手って何? ああ、それならその逆手って方だったわ」

 いちいち、簪に見立てたペン軸を使ってトリニは確かめる。

 すべて見聞きし終わった後、ちょっとの間考えてから、トリニは皆の前でカイエンを皇后に見立てて、幾つかの動きを実演して見せた。

 それを集約して、最後に彼女が演じて見せた動きは五つ。

 実際のところ、女騎士以外のカイエン、ミルドラ、デボラ、そしてコンスタンサにはその違いはほとんどわからなかった。

 だが。

「あっ」

 四つ目が始まってしばらくすると、女騎士の三人が声を上げた。

 簪に見立てたペン軸を逆手に握ったトリニが刃の向きを確かめるようにペン軸を握り直す。それからすうっと前傾姿勢になった時にはもう、走り出していた。その走り方が気になったらしい。

 だが、何か言いかける女騎士を止めて、トリニは五つ目までをすべて見せた。

「どうでしたか。どれか似ているものがありましたか」

 すべて終わって、黒板の前の椅子にトリニがふわりと座ると、すぐに女騎士たち三人が争うように答え始める。

「四つ目です! 簪を抜いてから握り直したところ、それから走り方。あの足の運びです。実は、現場に残っていた足の跡はあのようにつま先だけの跡だったのです!」

 カイエンたちは目を見張った。

 さすがは武術をもって仕事をしている女騎士たちである。

「そうですか」

 トリニはうなずいて、カイエンの方へ向き直った。

「最後に、一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「うん」

 カイエンがうなずくと、トリニは皆の方も見ながら言った。

「その第四妾妃様は私のように大きい方ですか、それとも大公殿下のように小さい方ですか? 私は一度、お目にかかったことがありますが、その折には椅子にお座りになったままでしたので、背丈がわからないのです。それから女騎士の方々、その方のお身体の筋肉のつき方はどうでしたでしょうか。……こちらもお目にかかったときには螺旋帝国風のゆったりして、糊付けのかかったお衣装でしたので、細身、としかわかりませんでした。動いてくだされば、筋肉の動きは多少なりとも見えたのですが」

 なるほど。トリニはあのアストロナータ神殿での会談で、星辰を見てはいる。

「星辰は背の高さは普通だな」

 カイエンは自分の頭の上へ手をやった。

「大きな髷を結っていたから、もっと大きく見えたが、このぐらいだろう。履物は……どうだったか」

「私、お履物を見ましたわ。螺旋帝国風の刺繍された布の靴で、それも踵の低い靴でした!」

 さすがは女で、デボラはそれははっきり見ていたらしい。

「そうですわ。髷を差し引いても大公殿下よりはお高かったですが、コンスタンサよりはやや小さかったように見えました」

 こっちはミルドラ。

 コンスタンサは無言で立ち上がった。糸杉のようにまっすぐな姿勢の良い彼女の背はカイエンやミルドラ、それにデボラよりは明らかに高かった。

 そこへ、トリニが立ち上がってコンスタンサに並ぶと、皆がほうっと息をついた。

 女としてはかなり大柄なトリニはコンスタンサよりもさらに背が高かった。

「女騎士の方々、私はこの通り、その螺旋帝国の妾妃様よりもかなり長身です。それでも、先ほどの中では四つ目が一番似ていますか」

 そうトリニが聞くと、女騎士たちはしっかりとうなずいた。

「はい。動きに間違いはございません。確かに第四妾妃様の背丈はコンスタンサ様よりやや低いくらいでした。そして、お身体つきの方ですが」

 女騎士の中で、一番年嵩の女が落ち着いた声で話し始めた。

 その声には、トリニへの静かな尊敬の念があった。

 先ほどの皇后襲撃の再現を見ただけで、トリニの持つ能力が理解できていたのだろう。

「トリニさんとおっしゃいましたね。あなたの身体能力には感服いたしました。大公殿下の軍団はあなたのような方を迎えられて、本当に幸いでございます。あなたの恵まれた体躯、体の筋肉のつき方、その均衡、柔らかい体から繰り出される柔軟で無理のない動き。重心の確かさ。全てが最強と思われます。……申し訳ございません。職務中でありますのに、自分の思いなど……」

 女騎士は自分のトリニへの感嘆の感情を、若い娘のように表に出してしまったことを恥じたらしい。

「大公殿下、あの第四妾妃のお身体つきは柔軟ではあるものの、筋力はそれほどでもなく、我らにも遠く及ばぬものでございました」

 トリニって、すごいんだな。

 カイエンは女騎士の手放しの賛辞を聞いて、改めてトリニの女としてはしなやかでたくましい体を見た。

 そうだよなあ。

 トリニの長身には、あのヴァイロンにも通じる堅牢さがある。ヴァイロンの筋肉の量には遠く及ばないにしても、その体はより柔らかくしなやかだ。ヴァイロンがその圧倒的な体躯で受けるところを、トリニはしなやかな体躯で受け流すのだろう。

 全く武術には門外漢のカイエンにも、そう思えるほどに。

 羨ましい。

 そうは思うが、あまりに自分とは違うので、実感は伴わなかった。

 人間とはこういうものである。

「わかりました」

 トリニは結論を得たようだ。

「第四妾妃様は確かに螺旋帝国のとある体術を学んでおられるようです。ですが、お身体の練度はさほどではなく、それゆえに速さと鋭さを欠き、大公殿下の体を張った阻止をかいくぐることは出来なかったものと思われます」

 体を張った阻止。

 そうなのか。

 カイエンは隣に座ったトリニの顔を見た。

「大公殿下が、お杖を振り上げられず、突きに使われましたのは不幸中の幸いだったかと思います。彼我の距離がほとんどなかったことも。それでも、手練れのものの襲撃であったなら、それをかいくぐることも、払い退けることも可能でしたことでしょう。投擲するという手もございました」

「そうか」

 投擲。

 あれを投げられていたら、それはカイエンの体に突き刺さったことだろう。

 カイエンは身震いしたが、トリニは決然とした目で言い切った。

「第四妾妃、星辰様は螺旋帝国で『からす』と呼ばれている武術をおさめられているようでございます。ですが、手練れではございません」

 カイエンは周りを見回してから、聞いた。

「鴉、とはなんのための武術か?」

 トリニの答えは、そこにいたすべての者の声を奪った。

「鴉自体は民間でも多く学ばれている地味で地道な武術の一つです。元は自分を守るための武道なのです。そのために体力のないものでも己を守れるように工夫されたものです。動きは実践的で、効果の高いものです」

 カイエンは気がついていた。

 星辰の母は、民間の出だ。

 その母に心得があったのかもしれない。

 トリニは一拍置いてから続けた。

「私も父から最初に学んだのはこの『鴉』です。己一人の身を守るにはこれ以上のものはないからです。ですが、これを攻撃に使うとなると、話は違って参ります」

「どう違うのだ?」

 カイエンの声は、なんだか乾いた喉から出るしわがれた声になった。

 他の皆も、息を詰めて聞いている。

「街中で人の生活に混じって生きる、鴉。その攻撃は己を守るための必死の攻撃です。まずは攻撃の対象に恐怖を感じていなければなりません。つまり、何がしかの恐れを抱いていない相手には使えないのです。つまり、鴉という武術は恐れを知らぬ武人の使うようなものではないのです。弱き者のために考えられた、『恐怖を力にする』という前提のものなのです」

 では星辰はアイーシャを恐れていたのか?

 カイエンにはとっさには理解できないことであった。

 カイエンはわからないことはとりあえず、脇に置いておくことにした。

「わかった。では、旧王朝の皇女である星辰がその『鴉』を身につけている、ということは間違いないな?」

「間違いありません。ですが、実践に至ったのはこの度が初めてかと。動きには迷いの跡がはっきり見えます」

 トリニの答えは、カイエンにはなんとなく納得できた。

 では、星辰は何らかの理由で、あの時初めてに近い状況で、『鴉』の攻撃の体術を使い、アイーシャに襲い掛かったのだ。

 カイエンはこの話を宰相に伝えるべく、頭の中で螺旋文字の文書を練り始めた。

 どうせ自分は、来月にはシイナドラドへの旅路につく。

 それ以降のことは、すべてがあのサヴォナローラの仕事だ。  


 



 そして。

 その日が来た。

 それは、七月の二十八日。

 夏の盛りに差し掛かった、暑い暑い日であった。 

 夕暮れに差し掛かった名残の夕日が、大地をオレンジから紫色のグラデーションに照らしていた。

「あっちいなあ」

 その頃の彼の毎日は、大公殿下のシイナドラド行きの随行の話で開けてくれていた。

 ハウヤ帝国軍フィエロアルマ指令、将軍ジェエロ・コロンボは大公宮の奥の馬車だまりで馬を降りた。

 すぐに駆け寄ってくるお仕着せ姿の馬丁に愛馬を任せて見上げるのは、大公殿下の大公宮。

 表からは入ったことがあるが、この裏の大公私邸の入り口から入るのは初めてだ。

 表の玄関とは違って、この裏の私邸の玄関はなかなかに情緒ある佇まいだ。

 馬車周りの石畳も選び抜かれた美しい石で覆われており、それに夏だからかしっとりと打ち水がされている。

 ぐるっと回ったところにある玄関のランプは乳白色のロマノグラス。柔らかい光が照らす玄関には薔薇色の大理石が敷かれていた。

 扉も、真夜中には閉められるであろう青銅の大扉の内側の木の扉は、重々しい、飴色の美しい彫刻扉だ。

「へええ」

 ジェネロがさすがの威容に感心した時、彼の背後で勇ましい馬の雄叫びが聞こえた。

(なんだよ)

 そう思って振り返れば、見慣れた顔が愛馬から降りるところだ。それも、二人。

「うっせーぞ。静かに降りろやボケ」

 思わず汚い言葉が出てしまい、周りを見回したが、大公宮の使用人たちは慣れているのか、平気の平左だった。

「ああ。すみません将軍。ちょっと遅れました」

 慌てた様子で愛馬を馬丁に委ねてこっちを見たのは、副官の一。

 チコ・サフラだ。

 ヴァイロンと士官学校の同級生だから、まだ二十四の若造だが、若くしてここまで上がってくるだけあって頭と体のバランスが凄まじく取れた男である。真っ黒な髪に珍しい紫がかった青い目が印象的な知将でもある。確か、実家は男爵家かなんかだったはずだ。もっとも、若くして将軍にまでなったヴァイロンの後ろ盾が大公家だったことと同じく、彼にも有力な後ろ盾があったことは確かだ。

「いやあ、参ったなあ」

 反対側で馬から降りるなりため息をついたのは、もう一人の副官だ。

「どうしたよ」

 親切ついでに聞いてやれば、返事も間が抜けている。

「こんな所に呼びつけられるのは初めてだからねえ。入り口がわからなくて、大公宮の周りを何周もしちゃったよ」

 そう言ってぼやくのは、イヴァン・バスケス。

 顔面の真ん中を額から鼻の脇、唇の上まで縦に真っ二つにする古傷が目立つ、四十がらみの豪傑だ。

「うふふ。ばかだなー。俺の話、ちゃんと聞いてないからだよ」

 ジェネロが言うと、顔面真っ二つがにやあ、と笑った。去年の春まではまだ二十代の若い将軍の下で、それがいなくなってからも十近くも年下の将軍の下で働く彼の性格は実のところ、その外見とは違って穏やかだ。

「いいんだよお。ちゃんとたどり着けたんだからあ」

 ジェネロは部下二人を従えて、大公宮の奥玄関へと足を踏み入れた。

「たのもーお! って、もう待ってたか」

 ジェネロたち三人の前、大公宮の奥玄関にすっと現れて頭を下げたのは一人の老境に入った男だ。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 そう言って、顔を上げたのは老練な大公宮の執事、アキノの顔だった。

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