黄金獣の焦燥

 七月。


 その年の七月はその初めから、ヴァイロンにとっては心穏やかでない日々が続いていた。

 皇后のお茶会に呼ばれて行ったカイエンが、第四妾妃の起こした皇后暗殺を危なく防いだ事件。そして、帰ってきたカイエンの靴には毒のかすった痕がついていた。猛毒の塗られた凶器が彼女のすぐそばを掠めていったのだ。

 そして、シイナドラドの使者がもたらした、大公カイエンへの皇太子の婚礼への招待。それに付随してきたシイナドラド第二皇子の婿入りと言う縁談話だ。

 カイエンに縁談。

 シイナドラドの第二皇子が婿入りするとあれば、第一に候補に上がるのは皇后の皇女で第一皇女のオドザヤであるが、彼女はすでに皇太女になっている。彼女が女帝になることは典範の改正で認められたが、彼女の皇配となるとまた話は別だ。

 十三代皇帝のおりに皇女に従兄弟の大公子が娶され、大公子が皇帝として即位した例はあるが、これは前の皇帝の甥が即位したのであるから男系相続であり、オドザヤが外国の皇子を迎えて即位したらそれは女系相続となってしまう。

 それに、シイナドラドに招待されたのは大公のカイエンで、見ようによっては第二皇子の縁談はカイエンが相手、とも受け取れるのだ。

 だが、祖先を同じくする「友邦」とはいえ、外国の皇子が、元は皇女とはいえ皇帝の家臣である女大公に婿入りするというのも、おかしな話だ。

 カイエン本人は「行けばわかるだろ」と、去年の騒動で身につけた「開き直りヤケクソ為せば成る」的思考で捉えているようだが、ヴァイロンの方は到底納得できてなどいなかった。

 改めて考えるまでもなく、彼とカイエンの間柄というのは公式には大公軍団という組織の頂点と、その部下、でしかない。

 去年の春、皇帝の沙汰によってありもしない嫌疑をかけられ、帝国軍フィエロアルマの将軍から大公カイエンの「男妾」に落とされる、という屈辱刑を受けた彼である。

 その後、事件の収束をもって皇帝はヴァイロンを元の将軍位に戻すと言ったのだが、彼はそれを断った。

 あの時の気持ちを一言で言うことはできない。

 獣人の血を引くものの定めとして、ヴァイロンはカイエンを生涯の「番つがい」として認識していたこともある。あの時、フェロスの毒の塗られた毒針を受け、獣化しそうになった彼の精神がヒトのまま残ったのは、カイエンを己の唯一として認めていたからに他ならない。

 肉体の暴走を止めたのは彼がアキノとサグラチカに拾われた時に持っていた、あの紫翡翠「鬼納めの石」であったが、今、それはカイエンの指と耳を飾っている。

 将軍に戻れば、カイエンのそばにいることは叶わない。繋がりは切れてしまうのだ。

 だから、彼は将軍位への復帰を断った。

 それを、後悔したことはなかった。

 初めからそうだったのだ。ヴァイロンが士官学校に入ったのは、あの日、アルウィンに大公宮の裏庭で唆された日に始まったことだったから。

 もちろん、将軍になってからの生活を否定するつもりはない。彼は、己の精一杯をもって国を守ろうとしたし、その過程でトントン拍子の出世を遂げたのだ。

 だが。

 ヴァイロンはカイエンの肉体を遂に己のものにしたあの日、気がついた。

 軍人として努めてきた己の仕事に、やましいところは何もない。だが、将軍としての己に、彼自身はほとんど執着がなかったということに。

 男としてそれはどうなのか、とはもちろん思った。

 周囲もそう思っていることだろう。

 しかし、彼の本能はカイエンから離れることを認めなかった。手の届くそばにいなければならない。そう、本能で感じたのだ。

 そして、彼はそれに従った。


 カイエンが自分を新設の帝都防衛部隊の隊長に任命した時には、驚きはしたが嬉しかった。カイエンが彼の意を汲んだ上で、気を遣ってくれたことがわかったからだ。

 だが、ヴァイロンの方は、カイエンに何度も己の彼女への愛情を吐露し、訴えてきたが、カイエンの方は未だに懐疑的な気持ちを捨て切ってはいないようだ。彼女は自分への無償の愛情を、そのままには受け入れられないのだ。そうするには過酷な育ち方をしてきたから。

 それはしょうがない。カイエンはヴァイロンの気持ちを、きちんと受け止めてはくれているのだから、それで良しとするしかないのだ。今は。

 ヴァイロンは今、それ以上を望んではいなかった。

 そこへ勃発したのが、大公としてのカイエンの「結婚の可能性」である。もう十九にもなるのだから、世間的には遅いくらいだ。

 今回のシイナドラドからの話が、カイエンを相手に目したものでなかったとしても、大公という高い地位にいる彼女が今後、結婚する可能性は大いにある。

 ヴァイロンがあのまま将軍に返り咲いていたとしても、将軍という身分であっても、女大公の配偶者として認められることは難しかっただろう。

 帝国軍の一将軍が大公の夫となれば、去年の騒動を思い出すまでもなく大公と帝国軍の一角が強く結び付くことになる。これでは皇帝を最高司令官とした帝国軍の規律が保てない。

 そして、今。

 現実の彼の今の身分は帝国軍の将軍という皇帝の直臣ではなく、大公の私設部隊の隊長。つまりは部下である。

 女大公の愛人であることは出来ても、配偶者になることはどうだろう。大公の位が世襲でないこと、先代のアルウィンが平民のアイーシャを一時とはいえ大公妃にしていたことは彼に味方するように見える。

 だが、アルウィンや皇帝サウルが平民のアイーシャを配偶者に決めたのは、歴史的に極めて異例のことで、結婚までには家族や周囲のみならず貴族たちからも猛反対があったと聞いている。あのミルドラさえ反対していたというのだから。

 国民からは平民のアイーシャが皇后に冊立されたことは歓迎された。だから彼女の現在の権勢は国民の支持あって築いたものなのだ。

 それはさておき。

 カイエン本人は去年の騒動もあって、今まで自分の結婚ということまで考えが及ばなかったであろう。

 もし、カイエン本人が強く望めば、ヴァイロンを配偶者にすることも出来るのかもしれない。だが、それは政略結婚の可能性がない場合に限るのではないか。

 今、この時。

 カイエンと身分の釣り合った結婚話が持ち込まれたら。

 それが、大公である彼女が断ることが出来ないものであったら。

 自分はそれを認めることが出来るだろうか。

 ヴァイロンは焦燥する己の気持ちを抑えるのに必死だった。 

 大公としてシイナドラドへ赴くカイエンに、彼は付いていかれないのだ。

 あのまま将軍に返り咲いておれば、と思ってもそれはもう考えても仕方のないことだ。今の彼は大公軍団の帝都防衛部隊の隊長であり、外国へ赴く大公に随行出来る身分職分ではないのだ。




「ヴァイロン?」

 自分の思いに沈んでいた彼は、愛する者の怪訝そうな声で我に返った。

 その日、カイエンは皇帝の呼び出しで螺旋帝国の外交官、朱 路陽とその副官、夏侯 天予テンヨが皇宮へ上がってくるのに立ち会うため、出かけるところであった。

 ヴァイロンはそれを見送ってから自分の仕事にかかろうと、カイエンと護衛のシーヴの後に付いて大公宮裏の大玄関へ出てきたところだった。

「どうした? なんだかぼうっとして」

 かすかに眉をしかめて、カイエンが見上げてくる。他者の様子をよく見て、よく気配りできるところは彼女の美点の一つである。

「いいえ、なんでもありません。お気をつけて行っていらっしゃいませ」

「そうか」

 それでもなんだか合点がいかない、という顔でカイエンは大公家の紋章付きの馬車に乗り込んだ。

 それを見送ってから、ヴァイロンはゆっくりと自分の大公宮表の執務室へ向かった。


 部屋の扉を開けて中に入った途端に、ヴァイロンはそこに懐かしい顔を見つけて驚いた。

「ジェネロ!」

 現フィエロアルマ将軍の彼とは去年、マテオ・ソーサを帝都防衛部隊に迎えたらどうかと言うために彼がやってきて以来である。

 元はヴァイロンの副官だった男だが、年齢はすでに三十路に入っており、妻も二人の子もある一家の主人でもある。

「よう、大将」

 時間など流れていないような顔つきで、昔と同じ呼び方でヴァイロンを呼ぶこの男は、今日もにこにこ笑い、飄々として見えた。

 ヴァイロンの執務机の前に勝手に椅子を持ってきて座っている、この図々しい客は軽く片手をあげて挨拶した。

 あまり身なりに構わない男だから、平時に帝国軍人が着る深緑の制服に身を包んではいるが、顔には無精髭が生えているし、茶色の髪もボサボサだ。それでも灰色がかかった緑色の目はきらきらと元気がいい。

「どうした?」

 ヴァイロンが机越しに自分の椅子にかけると、ジェネロ・コロンボはすっと笑いを引っ込めた。

「あのなあ」

 ちょっと言いにくそうにしていたが、ジェネロはすぐにきっと顔を上げ、まっすぐにヴァイロンを見た。

「来月の大公殿下のシイナドラド行きの警護責任者、俺に決まったわ」

 ヴァイロンはすぐには返答ができなかった。

 カイエンの出発は八月の初旬が予定されている。護衛は帝国軍からとは聞いていたが、それがもう決まっていたか。

 黙ったままのヴァイロンをどう見たのか、ジェネロはその油断のならない性格でヴァイロンの気持ちもとっくに察していたらしい。

「あんたが将軍に戻ってたら、とは思うけどな。……言っても今更しょうがねえし。決めたのは皇帝陛下と宰相とザラ大将軍閣下らしいが、まあ、俺ならあんたの気持ちがわかるだろうって言うのもあったんじゃねえかな」

 ヴァイロンはやっと声が出た。

「そうか」

 その様子に気がかりそうな視線を送りつつ、ジェネロは続ける。

「俺が責任者で、フィエロアルマの中から精鋭を選別して警護に当たる。とは言っても、シイナドラドなんて行ったことがある奴はいないからな。途中で通るベアトリアとネファールのことを考えて、そっちに詳しい奴は入れるつもりだけど。装備の方は、これからザラ様とも話し合って決めるよ」

 ジェネロはちょっと黙ってヴァイロンの様子を見ていたが、やがて決意したように言った。

「あんたの気持ちはわかっているつもりだ。去年、将軍に戻れたのに戻らなかったこともな。大公殿下になんかあったら、あんたに生きたまま首根っこひっこぬかれて、ぶち殺されてもしょうがねえってこともだ」

 ヴァイロンはちょっとびっくりして、ジェネロの顔を見た。いつも決して揺るがない翡翠色の目が自信なさげに揺らいでいた。

 その様子をじっと見ながら、ジェネロは首を振った。

「俺もカミさんと息子、娘がいるからな。このハーマポスタールは安全だとは思っちゃいるが、家族になんかする奴がいたらただじゃすまさねえ。家族になんかあった時に俺がそこにいなかったらと思うと、たまらない気持ちになるよ」

「そうか」

「そうだよ」

 ジェネロは一回、目をつぶってからヴァイロンをまっすぐに見た。

「俺は知ってたよ。あんたと初めて会った時から、あんたがずーっと誰かのことを思い続けていたことをさ。それが誰なのかは去年の騒動が起きるまではわからなかったけど。今はわかる。大公殿下はあんたのすべてなんだよな」

 すべて。

 ヴァイロンは思い出していた。

 あの時。あの微笑み。あの古い噴水のある明るい白い庭。青いハチドリが極楽鳥花に群がる庭で。

 自分が出会った運命を。

 あの白い庭ですべてが始まったことを。

「そうだ」

 ヴァイロンははっきりとうなずいた。

「カイエン様は俺の唯一。他に代わりになる者はない」

 ヴァイロンは恐ろしい目つきでジェネロを見た。戦場で敵を鏖殺している時の目つきと同じだった。

「俺を笑うか」

 見られただけで殺されそうな翡翠色の一撃を、ジェネロは平然と受け止めた。

「笑わねえよ。俺にはもう息子も娘もいるからさ、カミさんが唯一じゃねえんだけど、それでもわかるよ。息子や娘はいずれ、俺から離れていく。残るのはカミさんだけだってこともな。まあ、いつかカミさんが俺を見限るかもしれねえ。もしかしたら俺自身がカミさんを裏切るかもしれねえ。でも、今、今の俺はそう思ってる」

 ヴァイロンの中で、何かが弾け、それからすとんと体の中心に落ちた。

「そうか」

 それだけがやっと言葉になった。

「それでも、俺は不安なんだ」

 ヴァイロンは初めて、カイエンとこういう関係になって初めて、他人に己の心情を暴露しようとしていた。

「カイエン様の中での俺はどうなんだろうか、と、俺はずっと、ずっとそれが気になって仕方がないんだ」


 ジェネロは理解した。

 この大きな、立派な男が。

 己の気持ちには揺るがない自信のある男が、ただ一つ、心悩ませ続けてきたことが。

 ジェネロから見れば、ヴァイロンは未だ、十近くも年下の未熟な若い男なのだ。

「そうかあ。そうだろうなあ」

 ジェネロはヴァイロンの執務机の上に、上体を伸ばしかけた。

「いいねえ。もう付き合って一年にもなるのにまだわかんねえのかあ。厄介な相手に持っていかれちまったなあ」

 ジェネロはカイエンに会ったこともない。

 噂に聞いているだけだ。

 なんだか後宮に、目の前の元将軍閣下のみならず、宰相の弟だの、あのマテオ・ソーサ元教授だのを囲い込んでいるという齢十九の女大公殿下。足の悪い、陰では「足萎え公」とも言われている女大公。

 でも、その人となりに関する噂は、そんなに悪くはない。

 事件現場に立ち会う大公殿下を目撃した者も大勢いる。不自由な体で陰惨な事件現場にやってきて、捜査を指揮する姿は概ね、好意的に受け取られていた。前の大公まではそんなことは滅多になかったからだ。

「つまりは、あんたはあんたが大公殿下を愛しているほどには、愛されている自覚がないってことだね」

 ジェネロは回りくどい性格ではなかったので、ばさっと指摘した。

「俺も聞いているよ。去年のは皇帝の命令で、大公殿下は哀れにも男妾を押し付けられ、無理やりに初夜まで追い込まれたんだって?」

 ヴァイロンはジェネロから目をそらした。

「その通りだ」

「……嫌がられて抵抗されたのかい」

「いいや」

「じゃあ、一応は合意の上で、つつがなくそういう関係に落ち着いたんだろ」

「そうだ」

「それ以降も、大公殿下とはそのう、普通の恋人同士みたいな感じでやってるんだろ?」

 ヴァイロンはちょっとの間、黙っていた。

「俺が求めた時だけは」

「はあ?」

 ジェネロは急に、いやな予感がしてきた。

「俺が求めた時には応じてくださる。でも、カイエン様から望まれたことはない」

 応じてくださる。

 それならそれで、いいんじゃないの。嫌がってるわけじゃないんだから。

 そもそも、大公の方はいきなりこの男と寝なさい、と皇帝から命令されて嫌がりもせずに最後まで応じているのだ。そうなった後も要求されれば与えているとなれば、元からヴァイロンに、多少の好意は持っていたのではないか。

「大将。ちょっと聞いてもいいかな」

「うん?」

「大将は今、大公殿下の後宮のお部屋に住んでいるのかい」

「いや。最初はそうだったが、今は殿下のお部屋にいる」

「……ということは、大将は今、大公殿下と毎日、同じ部屋で寝んでいるっつーことか」

「そうだ」

 なるほど。そうなると、ほぼ市井の一般の夫婦と同じである。貴族社会では夫婦の寝室が別なことも多いそうだから、大公という身分からすれば例外的なことなのかもしれないが。

 この事実からしても、かなり親密な仲になっていることがうかがわれる。

 一方的に求愛しているだけではそうはなるまい。何せ相手は大公殿下というお貴族中のお貴族様だ。

「じゃあ、あんたが求めた時、大公殿下は応じるしかないってことだな? 気分が乗らないとか、体調が悪いとか、ご機嫌が悪かったりして拒絶されることもないのか?」

 ジェネロが見ている前で、ヴァイロンはしっかりとうなずいた。

 そして、ちょっと考えてから付け足した。

「しつこくするな、とお叱りを受けたことは、あった」

「えっ」

 ジェネロはちょっと驚いた。

 それすごい。

 相手は何せ女とはいえ、元は皇女様の大公殿下である。

 だがヴァイロンの話しようでは、お叱りがあったとはいえ、それは一応、応じてくださった後のことだったようだ。

 どのくらいの頻度かまで確かめる気力はないが、二十四の、他に女っ気のない、強壮な男が、己の唯一に決めた女に求める頻度だ。女の側がしつこいと感じてもしょうがないだろう。

 ジェネロは思った。

 ……これは、嘆くべきは病弱だと聞いている、大公殿下の方なんじゃないか。体格だってかなり違うだろう。というか、大人と子供みたいなもんだろう。ヴァイロンにとっては普通の行為でも大公殿下の方には結構、辛いのでは。

 ジェネロは不遜なことだが、小柄な大公殿下をヴァイロンの巨躯が押し倒している光景を想像してしまった。そしてすぐに納得できた。これはキツい。誰って、大公殿下の方がだ。

 これはむしろ、ご病弱な大公殿下が、愛人の求めによく応じておられますね、って褒めてあげたい。

 どんなんでも、愛がなくちゃできないでしょ、それ。それもこのハーマポスタールを支配する大公殿下がだぜ。

 それまでジェネロはヴァイロンをかわいそうに思っていたのだが、ここで考えが百八十度変わった。

「あんたさ」

 声までも剣呑なものになってきた。

「馬鹿だな」

 袈裟懸けに一刀で切り捨てちまおう。もう。

「えっ」

 えっ、じゃねえよ。

 ジェネロはおもむろに煙草を取り出すと、さっさと火をつけ、ふーっと煙をヴァイロンの顔に吹きかけてやった。至近距離からだ。

「大公殿下は偉いよ。普通でもそんな物分りのいい従順な女、そうそういないぜ。お姫様ってこと考えると、ちょっと普通の女じゃねえような気さえするわ。……あんたは、はっきり『愛してる』って言われないから不安なだけだろ?」

 ヴァイロンはしばらく動かなかったが、やがてうなずいた。

 やれやれだ。

 ジェネロは言い聞かせるようにゆっくりと、区切りながら言った。

「女ってのは素直じゃないの。男にははきっちり言葉で示してくれって言うけど、自分はなかなかはっきり言わない複雑怪奇な生き物なの。それでも態度でわかってあげなくちゃいけないの! 今まで聞いた話で判断すれば、大公殿下はあんたをちゃんと受け入れているし、わがままも言わないし、信じられないくらい物分りがいいよ!」

 ジェネロはぼけっとした顔のヴァイロンの肩をどかっとどやしつけた。

「あんた幸せもんだわ! 愛されてるよ! 自信持ちなよ。わかったよ。大公殿下の警備は俺がこの命をかけて引き受けるから、安心しな」

 そこまで言われても返答できないヴァイロンを、ジェネロは哀れみの目で見た。

「あー。あんたみたいな天才でも、年齢相応なんだなあ。俺、なんだか安心したわ」

 そう言うと、ジェネロ・コロンボは呆然とした顔つきのヴァイロンをそこに残し、さっさと席を立って、部屋を出て大公宮を後にした。

 彼としても、一ヶ月もせずに大公殿下のシイナドラド行きの警備体制を整備するには時間が足らないほどだったのである。






 カイエンの方は、シーヴを連れて、皇宮の皇帝の謁見の間に向かっていた。

 いつぞや、あの佩玉の事件で朱 路陽が呼び出された、あの部屋である。

 今回も、すでに正面の一段高いところに皇帝が座り、横に宰相のサヴォナローラが控えていた。

 サヴォナローラの立つ位置と皇帝を挟んで反対側に、椅子が置かれているのも同じだ。

 だが、今日は皇帝の前にひざまづいている人物の姿はなかった。

「大公殿下」

 カイエンが部屋に入ると同時にサヴォナローラが声をかけてきた。カイエンが座るのも待てないという様子だ。

「螺旋帝国のお二人はすでに控えの間で待たせております」

「そうか」

 皇帝に丁寧に礼をしてから、カイエンは皇帝の隣の椅子に座り、シーヴはカイエンの後ろの壁に控えた。部屋の四隅には親衛隊の将校の姿がある。だが、皆が皆、影になったかのように気配がない。

「先日の後宮での事件の、その後の進展をお知らせしなければなりません」

 そう言うと、サヴォナローラは皇帝の横に立ったまま、カイエンの方へ体を向けた。皇帝サウルは一言も発せず、前を向いたきりだ。

「第四妾妃は後宮の内牢に監禁中です。自殺されては困るので厳重に拘束しています。供述の内容は最初と変わりません。ガラからお聞きになった通りです。螺旋帝国人の女官は親衛隊の方で拘禁中です。こちらも自殺の危険があるので厳重に拘束しております。拷問しましたが、そういう訓練を受けた女と見えて、薬にさえ反応いたしません。まあ、それで第四妾妃がただの人質になるつもりで後宮に入ってきたのではないことは、はっきりしました」

 そこまで言うと、サヴォナローラは一旦、口を閉ざした。

「前王朝の皇女だというのは間違いないのか?」

 カイエンがマテオ・ソーサの言っていた疑いを念頭に置いて質問すると、サヴォナローラだけでなく、皇帝の表情も動いた。カイエンがそういう質問をするとは思っていなかったのかもしれない。

「それについては、マテオ・ソーサ先生と入れ替わりに士官学校へ入れたお二人を呼んで聞きただしました」

 頼 國仁先生と馬 子昂シゴウはかなり厳しい尋問を受けたことだろう。

「それで、答えは?」

「お二人は皇女皇女の母君である方はご存知だったそうで、間違いなくその方から託されたのだから、間違いはないとのことです」

 なるほど。皇子皇女の顔を、市井の文人である先生たちが直接に見知っていたとは思えない。

「皇子皇女方とその母君というのは似ているのかな?」

 カイエンが思いついて聞くと、サヴォナローラはうなずいた。彼もその点はしっかり質したのだろう。

「殿下もお会いになったのでご存知と思いますが、あの皇子皇女はよく似ておられました。頼 國仁先生が言うには、お二人ともに母君の面影があるそうです。まあ、これも証明できることではありませんが」

 では、真偽は曖昧なままということだ。

「先生と馬 子昂は今、どこに?」

「彼らは罪人ではありませんから、親衛隊をつけて見張らせています。窮屈でしょうが、士官学校の敷地内から出ることも禁じています」

 もっともなことだ。カイエンもまたうなずいた。

 そして、言うべきことは言っておくことにした。

「これはマテオ・ソーサ先生からの示唆なんだが、第四妾妃のあの時の身のこなしについて、私の方で検証したいのだが、いいだろうか」

 螺旋帝国人の父から、かの地の武道を習ったトリニが隊員候補生として訓練中であることを告げると、サヴォナローラは皇帝と顔を見合わせた。

 やがて、皇帝サウルが初めて口を開いた。

「……その、マテオ・ソーサという男は使えるようだな」

 皇帝の後ろで、サヴォナローラが付け足した。

「大公殿下の参謀として、うってつけの人材でございましょう」

 おいおい。

 カイエンはじろっとサヴォナローラのすました顔を睨んでやった。ここでも恩を売るのかこいつは。

「いいだろう。やってみるがいい」

 皇帝はカイエンの方を見ようともせずに言った。

「かしこまりました」

 カイエンの方も、もう慣れたものだ。

 シイナドラドへ行くための準備もあって忙しいが、やれることはやらねばならない。仕事のできない大公など、この伯父は簡単に切り捨てるだろうから。

 その様子を見るともなしに見ながら、サヴォナローラは話を元に戻した。   

「第三妾妃にも聞き取りはいたしました。この方は身重でいらっしゃいいますから、お部屋に伺ってお話をお聞きしましたが、関わりはないとの一点張りです。カンタレラが出たということを盾にして、お部屋をすべて調べましたが、不審なものは出てきませんでした。ベアトリアから連れてこられた女官はすべて女官長が立会い、女騎士に身体検査をさせました。こちらも何も出ませんでした」

 それは出ないだろう。あってもあの事件の前に始末していたはずだ。

「現在、こちらでは別の方面から探っています。それはあの螺旋帝国の外交官副官の夏侯 天予が、本当に螺旋帝国まで行き来して戻ってきたのか、と言う点です」

 カイエンはさすがだな、と感心した。彼女も夏侯 天予自身が螺旋帝国まで半年あまりで往復したということには疑問を持っていたからだ。

「この時期にシイナドラドが動いたことを鑑みると、まさかとは思いますが……」

「螺旋帝国ではなく、シイナドラドにあの佩玉を持ち込んだのかもしれないと?」

 カイエンが思いついて聞くと、サヴォナローラは首を振った。

「わかりません。調べさせはしますが、敵もそうそう跡を残しているとは思えません。あの佩玉をシイナドラドが欲しがるとしたら、その理由もわかりませんし」

 さすがの宰相殿もお手上げ、という態だった。

「今日、螺旋帝国の二人を呼ぶにあたっては、副官が確かに螺旋帝国まで往復したという証拠を提出するよう、求めています。こちらの好意で返還した佩玉ですからね。向こうもそのくらいは予想しているでしょうが」

 カイエンはサヴォナローラの顔からそっと目をそらした。

 サヴォナローラは「敵」、と言った。

 それはシイナドラドを、そしてそれに連なる新生螺旋帝国を指しているのだろう。

 今更ながら、来月にはその「敵陣」へ一人、送り込まれることが決まっている自分自身が恐ろしくなったのである。


「ああ、そうでした」

 その時、カイエンの内心など楽に慮れるはずの宰相が、冷たく付け足したことは。

「大公殿下のシイナドラドへの旅に随行する将軍が決まりました」

 カイエンは顔を上げた。

「大公殿下の随行と警護には、フィエロアルマ将軍、ジェネロ・コロンボがあたることになりました。これはザラ大将軍閣下とも協議しまして決定したことです」

 あ、そう。

 カイエンの胸の中で、この頃働き詰めの「ヤケクソバカ気力」がむっくりと立ち上がった。

「そうか。それはよかった」

 何がよかったのか自分でもさっぱりわからないままに、カイエンは答え、皇帝と同じ方向に体の向きを変えた。

「じゃあ、螺旋帝国の外交官さんたちに入ってもらったら? 話はみんな、宰相殿がしてくれるんだろうね」

 嫌味の通じない神官宰相殿の顔はもう見えなかったが、声は聞こえた。

「かしこまりましてございます」

 やっぱ、こいつはクソ野郎だ。

 そう決定してぶすくれたカイエンの後ろで、シーヴはやきもきと気を揉んでいた。

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