姉妹たちが始まる

 悲しいことには

 この世界には考えてもしかたのないコトがある

 考えるたびにどんどん、生きているのが嫌になってしまうようなコトが


 いくら努力しても分かり合えない人と人

 それなのに、拠所ない事情と関係に、お互いに縛られていて

 別れて左右に行っちまうコトができない

 お互いに愛し合っているのか、憎しみ合っているのか

 そんなことを考えると

 生きていることの根底が崩れ始めてしまうんだ


 それでも、みんななんとかやり繰りして生きている

 なのにさあ

 それが出来なくて自分をダメにしてしまう者の

 なんて多いことか


 薄気味の悪い愛と憎しみの絆にハサミを絡ませて

 いつまでも悩んでいるだけの頑ななポーズ

 ギシギシ軋む筋肉と骨格のたわみ

 そろそろ、降り積もったいろんなものを吹き飛ばせ

 ハサミは腐った縄目を切り裂く頃合いだよ


 それが出来なかったら

 そのハサミはいつかお前の心臓に刺さる


 そうなる前に

 その絡んで腐った絆をぶった斬れ




    アル・アアシャー 「切れ味のいいハサミを持っておけ」






 時はやや遡る。


「だって、だって。あの子は私をかばって!」

 まだ明るいランプの光の漏れる部屋の窓から、甲高い、やや常軌を逸したような女の声が響く。もっとも、その部屋は整備された美しい広い中庭に面していたので、他の部屋まで言っている内容までは伝わらなかっただろう。

 それは、あのお茶会で第四妾妃の星辰が皇后暗殺事件を起こした、その日の夜であった。もうとっくに晩餐もすんだ時刻で、空はとっくに真っ暗になっていた。

 そこは、皇后アイーシャの住む後宮の皇后宮の居間で、苦虫を噛み潰したような顔の皇帝サウルとアイーシャ以外の人影はなかった。

 アイーシャの腹心のジョランダ・オスナの姿もない。

 アイーシャの居間の家具は、豪奢好みで赤い色を好んだ彼女の趣味に合わせ、濃い薔薇色の布地の張られたソファの腕木は金の箔押し。テーブルの足も金色で、上面は細かい彫刻の中ほどを掘り下げて、そこに色ガラスを埋め込んだものだった。色ガラスで描かれた意匠も薔薇だ。

 皇帝サウルは落ち着かなげにその薔薇色のソファにかけ、隣のソファに座ったアイーシャの様子を見ていた。

「……いいかげんにせよ。一人よがりな思い込みはやめんか。……カイエンのしたことは結果に過ぎぬ」

 だが、アイーシャは簡単には一度思い込んだ考えを変えたりはしない。

「でもあの子。あの子は足が悪いのに、飛び出してきて……。あの女を倒して、踏みつけにして……私をかばったのでないのならなんなのです?」

 皇帝サウルはアイーシャに聞こえないように舌打ちした。

 あの子は足が悪いのに。

 体の中に蟲を宿して生まれたために足の悪い娘を産んだことに耐えられず、その娘も最初の夫をも捨て去って、今まで二十年近くも顧みなかった女が何を言うのか。

「さあな。本人にもわかっていなかったようだぞ」

 事件の後、オドザヤミルドラや、デボラとともに事件の聞き取りをされたカイエンの様子ではそうだ。

「では、では。あの子は何か変な考えがあって……?」

 さすがに妊娠してからは酒量が減ったようだが、それでも感情の安定しないアイーシャの思考は、ぽんぽんと飛ぶ。今度は一転してカイエンが、何か思うところあって行動したのだと思ったらしい。

 皇帝サウルは内心、げんなりとしながら言った。

「愚かな。それほどくねくねとものを考えるような娘であったら、去年のような騒ぎは起こさずにさっさと排除しておるわ。まあ、そうでなければもっと早くから使いようがあったかもしれぬがな。だから、カイエンのあのわかりやすい正直馬鹿な頭に、あの刹那、変な考えなど浮かぼうはずがない。あれはアルウィンとは似て非なる頭の持ち主だ」

 アルウィンから毒素を抜き去って、代わりに正直正義開き直り馬鹿を詰め込んだらああいう人間になるだろう。

 最近は毒の代わりに、「大胆不敵なるヤケクソ」とでも言えるような抜け目のなさだけは身につけたようだ。

 どっちにしろ、アルウィンの「支配」が解け、目が見えるようになって初めてカイエンは大公としての様々な重みを引き受けた。だから、カイエンは大公として役に立ちそうだと彼が判断できる者になれたのだ。

「いや! その名前を私に聞かせないで。そうよ。あの子はアルウィンにそっくり! 今日もわざとあんな黒くて汚い服でやってきて……」

 アイーシャの思考はまたしてもよそに飛んでしまった。

「ああ、そうだわ。あの子、ああして私をかばって私に取り入るつもりなんだわ! なんて勝手な子なの!」

 アイーシャはとうとう、勝手極まる結論に一人で達して叫び声を上げ、皇帝はいらいらと座ったまま、足を踏み鳴らした。

「いい加減にせんか! そもそも、お前もカイエンも、お互いに母娘などという甘い感情は持っておるまい。生まれてすぐにカイエンを捨てたお前をあの娘が許していないことは、去年の春までろくにこの皇宮へ来ようとしなかったことからも分かっていただろうに」

 皇帝サウルがそう言っても、聞いてなどいないアイーシャは再び叫んだ。

「ああ、いやだ。せめてこのお腹の子はあんな顔をしていないように祈らなきゃ!」

 あんな顔。

 その顔こそが、生まれてくる子が男だった場合には求められるのだということを、彼女はまったく知らなかった。知ろうともしなかったのだ。その点では、同じく妊娠中の第三妾妃のマグダレーナの方がはるかに事の重大さを理解していたと言えるだろう。



 その時。

 二人のいる部屋のすぐドアの外にやってきた者がいた。

 皇太女のオドザヤである。

 昼間の事件の後、己の新しい住処である皇太女宮へ戻った彼女ではあったが、アイーシャの様子が気になってご機嫌伺いに来たのである。

 後宮を出て自分の宮を外に持った彼女ではあったが、アイーシャの影響下から完全に抜け出せたわけではなかった。

 彼女は、恐ろしい事件のあった後に顔も見せなかったと言ってアイーシャに責められることを予想し、嫌々ながらにここまでやってきたのである。カイエンはアルウィンの支配下から脱することができたが、オドザヤは未だ父と母の支配下にあったのだ。

 オドザヤは後宮の入り口までは彼女付きの女官のカルメラを伴っていたが、あえてカルメラをそこに待たせ、そして入り口の警備の女騎士の案内をも断ってやってきた。理由は彼女自身もわからなかったが、心の底では母の様子を見て、大丈夫そうなら会わずに帰ってきたかったからだ。女騎士から、今夜は父が母のところへ来ていることを聞いたからでもある。

 結果的には、カルメラや女騎士を連れてこなかったのは幸いだった。

 オドザヤはアイーシャの居間の扉の前で、アイーシャの叫ぶ声を聞き、思わず扉に耳をつけた。

 そして、皇帝サウルの言葉を聞いてしまったのである。


「えっ」

 オドザヤは自分の耳を疑った。

(そもそも、お前もカイエンも、お互いに母娘おやこなどという感情は持っておるまい。生まれてすぐにカイエンを捨てたお前をあの娘が許していないことは、去年の春までろくにこの皇宮へ来ようとしなかったことからも分かっていただろうに)

 母娘。

 誰と誰が。

 いいえ、お父様ははっきりおっしゃった。

 音もさせずに、その場にずるずると崩れたオドザヤの耳に、追い打ちをかけるような父の声が聞こえる。

「……アルウィンはもう死んだ。お前が大公妃だったなどということは、もはや過去の忘れ去られた出来事だ。そうでなくては困るのは他ならぬお前だろうに!」

 アルウィン叔父様。

 大公妃。

 そうだ。

 カイエンおねえさまはずっと大公宮でお育ちだった。

 お祖父様の最晩年にお生まれになった皇女で、産みのお母様も亡くなられたので、独身のアルウィン叔父様のところで育てられたって。

 そう、今の今まで、疑うこともなく信じていた。

 おかしい。その話のおかしいところが急にはっきりする。と言うよりも、おかしなことだらけだ。

 なぜアルウィン叔父様は四十近くまで独身のまま、お亡くなりになったの。

 なぜ長兄で皇帝であるお父様ではなく、大公のアルウィン叔父様がおねえさまを育てられたの。

 お祖父様レアンドロ皇帝のお子様はファナお祖母様のお産みになった年の近い三人と、兄や姉とは親子ほども年の離れた、名前も知らない妾妃の子のカイエンおねえさまだけ。

 オドザヤも覚えていた。

 彼女がまだほんの子供だった頃、たまに皇宮にやってきた時のアルウィンとカイエンの様子。

 あんなにそっくりで。

 はっきりと親子の様子であったのに。

 お父様とミルドラ叔母様、それにアルウィン叔父様は御髪の色は少し違っていたけれど、よく似ていたから不思議にも思わなかった。でも、その中でも一番、おねえさまに似ている者と言ったら。

 それは明らかにアルウィン叔父様だ。

 面長だが、ほんの少し顎の張った感じのあるサウルとミルドラと比べて、アルウィンはやや華奢な面輪だった。カイエンはそちらに似ているのだ。

「ああ」

 声にならない声で呻くと、オドザヤは崩れた体を音もなく起こして黙って立ち上がった。

 そのまま、暗い廊下を足音をさせないように細心の注意を払いながら歩く。

 後宮の入り口に控えた二人の女騎士に軽く顎を引いて挨拶しながら、こう言うのも忘れなかった。

「……お母様はなんだか興奮なさっておられるようだったから、今日はお会いせずに帰ります。お母様が気になさるかもしれないから、私が来たことは黙っていてちょうだい」

 女騎士たちは黙って深く頭を下げた。彼女たちも、アイーシャのご機嫌が激しく変わることはよく知っていた。下手に「皇太女殿下がいらっしゃいましたが……」などと報告すれば、やぶ蛇な結果になることも。

「は」

 女騎士たちの返事を聞くと、オドザヤは後宮の大扉を出た。

 そこに待っていたカルメラを連れて歩き出す。

 その様子にはもう、先刻の動揺は露ほども見られなかった。

 そうして、オドザヤは静かに後宮を出、己の新しい住処である皇太女宮へと戻って行ったのであった。


 



 一方。


 休みの日に皇帝と宰相から呼び出され、それをバカ気力で乗り越え、帰ってからも教授に報告してからやっと眠れた日の翌日。

 カイエンは仕事を午後からにして、ゆっくり起きた。

 ヴァイロンの方は早朝からいつものように出て行ったようだが、彼女はそれに気がつくこともなく眠っていた。昨日の夜に決めたことだが、軍団長のイリヤや、治安維持部隊隊長の双子のマリオとヘススたちへは、どうせ朝礼で会うのだからヴァイロンが話すことにしてある。

 イリヤあたりはまた盛大に嘆いていることだろう。

 何せ、八月の頭から十一月終わりにかけて、大公軍団一番上である、大公が不在になってしまうのだ。

 事実上、大公軍団のすべての支配はイリヤが行うことになる。

 まあ、今までも実務の方はイリヤがすべてやっていたのも同然で、カイエンは大きな懸案……去年の連続殺人事件のような……のみの対応や決定、書類上の決済や署名をしていたわけだが、「副大公」などという地位がない以上、それもイリヤの仕事になるわけである。

 大公軍団は大公の私設部隊という建前だから、例えば、大公に次ぐ大貴族のクリストラ公爵や、元老院のフランコ公爵に一時的に変わってもらうこともできない。

 カイエンの不在中は宰相に呼び出されて皇宮へ行くのも、イリヤの仕事だ。

 平民出身で帝国軍軍人崩れのイリヤには嫌な仕事だろう。


 話を戻そう。

 今は七月の始めだが、九月の下旬にあるという、シイナドラドの皇太子の婚礼に間に合うには、余裕を持って八月の上旬には出発する必要がある。


 この大陸の西の端にあるハウヤ帝国から、シイナドラド皇国までは陸路と海路の両方が使える。

 ハーマポスタールには港があるが、シイナドラドの南西部にも港があるからだ。

 パナメリゴ大陸を西から東へつなぐパナメリゴ街道はハーマポスタールが起点だが(東の果ての螺旋帝国では、東側こそ起点と称しているのは言うまでもない)陸路をベアトリア、ネファールと、その周辺の小国は通らずに大国の首都のみを通過して南下し、シイナドラドの手前で、南のネグリア大陸との間に広がるラウニオン海へ出る。そして鎖国中のシイナドラドが唯一開いている港町、リベルタに入り、そこを抜けるとまた内陸へ戻って東の果ての螺旋帝国まで続くのだ。

 先年までのハウヤ帝国とベアトリアの国境紛争中も、パナメリゴ街道の周辺は戦場にはならず、往来が可能だった。国境での厳重な検問はあったが、街道周りの国境線が書き換えられることはなかった。

 それは往来が途絶えることが、両国の不利益に大きく与するからである。

 戦争によって隊商の運ぶ物資の行き来が途絶えれば、戦争どころではなくなるのだ。

 シイナドラドが鎖国する前には、その首都ホヤ・デ・セレンまで街道は伸びていたのだが、今ではその部分は外国人の往来ができない。

 海路の場合には、ハーマポスタールから陸づたいに補給しながらシイナドラドのリベルタまで進むことになる。そこからパナメリゴ大陸とネグリア大陸の間の海を伝ってパナメリゴ大陸側に戻り、陸づたいに航海を続ければ、螺旋帝国までの航路も開けている。

 だがこの場合、南方の小国の港に立ち寄る必要が生じる。

 また、海にはそれらの小国に上がりを貢いで黙認されている、海賊が出るのだ。

 ハウヤ帝国の国内の港付近にも海賊が出るため、ハウヤ帝国にもそれを取り締まる海軍というものが存在する。もっとも、帝国軍とは違い、今まで大きな国家間の戦争に従軍したことはない。

 そのためにハウヤ帝国海軍の軍人とはたたき上げの船乗りたちのことであり、その性格は大公軍団のそれに近かった。

 つまりは平民の有象無象の集まりなのである。

 そういうハウヤ帝国海軍の船でシイナドラドの港に入れるか、となると話が難しくなる。カイエンの護衛を乗せていくことにも問題があるだろう。途中で海賊と遭遇した場合には船団が崩れる心配もある。

 そういうこともあり、サヴォナローラの話では過去の例で大公たちがシイナドラドへ赴いたときも、その旅程は陸路だったのだという。

 なるほど、陸路ならば通る国はベアトリアとネファールだけであり、現在は国境紛争も収まっておるので都合がいい。

 旅程もシイナドラドまでなら陸路の方が安定していて早く着ける可能性が高かった。

 それでもシイナドラドの首都までは余裕を持たせれば、一ヶ月半はかかるだろう。

 個人が金に糸目をつけず、早馬を乗りつぶしながら行けばもっと旅程は短縮できる。あの螺旋帝国の外交官の副官、夏侯 天予などはこの手を使って螺旋帝国までの行き来を半年ほどでやってのけたのだろう。

 それでも、シイナドラドまでとは違い、間には山脈も砂漠もある。驚異的な速さといえた。

 もしかしたら夏侯 天予本人は螺旋帝国までは行っていない可能性もある。一人の旅では休息が必要だが、あの佩玉を受け継いで何人もの人が昼夜馬を飛ばせばもっと早いのだ。

 だが、大公のカイエンがシイナドラドの皇太子の婚礼のため、帝国軍の部隊に警護されながら進むとなれば、そうはいかない。

 そもそも、大公のカイエンは馬で駆け抜けることなどできない体の持ち主なのだ。

 だから、カイエンは後、一月ほどで旅立たなければならない。


「厄介なことになったなあ」

 カイエンが自分の食堂でそんなことを、朝昼一緒の食事の終わりのお茶を飲みながら、独り言のようにつぶやいていると、なんだか慌てた様子のシーヴが食堂へ入ってきた。 

「殿下、大変です」

「どうした」

「あの、奥の玄関にオドザヤ皇太女殿下がいらしてます」

「ええ?」

 そんな約束はしていない。

 カイエンは午後から仕事の予定だから、すでに大公軍団の制服を着ている。長い上着は暑いこともあって着ていないので、白い襟と袖口にだけレースのついたシャツに黒いズボン。黒の革長靴ももう履いていた。だから人に会うのには差し支えはないのだが、相手が相手である。

 カイエンの給仕をしていたサグラチカも目を見開いている。

 そうしてカイエンとシーヴ、サグラチカが驚いているうちにも、食堂の外に今度は女中頭のルーサがやってきた。

「殿下。失礼いたします。オドザヤ皇太女殿下がお越しです。すでにお居間の方へアキノがご案内しております」

 カイエンはお茶のカップを置いた。

「お一人か」

「いえ。以前いらした時の若い女官を伴っておられます。ですが、女官は外で待つようにおっしゃって、護衛のものとともにお玄関の脇の控え部屋に」

 お付きの女官も追い出して、カイエンに会いたいと言って押しかけてきたらしい。

「とにかく、居間へ行こう」

 カイエンの方はシーヴも手招きして居間へ向かった。


 居間へ入ると、ソファにオドザヤが一人で座っていた。

 空色のきっちりした格好のドレス、それも夏なのに襟元の詰まった固い意匠のドレスを着たオドザヤは、金色の髪も簡単に後ろでまとめただけで、化粧気もない。

 それでも十分に美しいが、この様子は取りもとりあえずやってきました、と言う様子だ。顔もなんだか強張っている。

「御機嫌よう。どうしましたか」

 オドザヤの普通でない顔を見ながら、カイエンが挨拶すると、オドザヤは挨拶こそ返したものの、落ち着かなげにカイエンの後ろに控えているシーヴの顔を見た。

「何か内密のお話ですか」

 向かい側のソファに座りながらカイエンが聞くと、オドザヤはしっかりとうなずいた。

「大丈夫ですよ。この者はあのスライゴ侯爵のあれの時にも立ち会っていたでしょう。身内ですし、口は固いですよ」

 カイエンがそう言うと、それでもしばらくの間、躊躇していたのだろう。オドザヤは黙っていた。が、やがて口を開いた彼女の口から出てきた言葉は、カイエンを心底驚かせた。

「おねえさま。おねえさまは私の叔母様ではなくて、私の本当のお姉様なんですの?」

 カイエンはしばらくの間、口がきけなかった。後ろに立っているシーヴもだ。シーヴの方は大公家の身内同様だから、このことはとっくになんとはなしに知っていたから、こっちも口がきけなかった。

「どこでそんなことを聞いたのですか」

 やっとカイエンが言うと、オドザヤはふーっと息をついた。カイエンの沈黙でそれが真実であるとの確信を持ったのだろう。

「あのお茶会の日の夜ですわ。お母様とお父様のお話を洩れ聞いたのです。無作法ですけど、お母様の様子を見に参りましたら、お父様がいらしていたので、扉の外でどうしようかと思っていたら、聞こえてきたんです。私、あれから数日、いろいろ考えて……」

 考えた末に、こうして自ら確かめに来たのだ。

 ああ。

 これはもうしょうがない。

「そうですよ」

 カイエンはまっすぐに妹の顔を見ながら答えた。

「私はアルウィンとアイーシャの間に生まれた、本当は大公女だったはずの人間です」

 それを聞くと、今度はオドザヤが黙り込んだ。我慢しきれなくなったのか、琥珀色の目が潤んできたようだ。

「なんてこと」

 やっとそう言うと、オドザヤは両手に顔を埋めて首を振った。

 カイエンはいつかこんな日が来るだろうと覚悟していた。これは公然の秘密で、皇帝に近い大貴族は知っていることだ。今までオドザヤが知らずにきたことの方が不思議なほどなのだ。

 だから、そうなったら言おうと決めていた言葉があった。

「ねえ。あなたは私が歳の近い叔母さんなのと、姉妹で従姉妹でもあるのと、どっちがいいの」

 カイエンがそう言うと、オドザヤは激しく首を振って顔を上げた。

「だって! こんなこと急に知りましてもどう考えたらいいのか……」

 カイエンは一応、聞いた。

「私があなたの姉だったら、お嫌ですか」

「嫌だなんて!」

 オドザヤは立ち上がると、つかつかとカイエンの座るソファの方へやってきた。そして、カイエンの膝下で崩れ落ちた。

「今まで、おねえさまとお呼びしていたのは、本当にお姉様だったらいいのにと思っていたからです。歳も近いし、おねえさまはいつも優しくて親切にしてくださったから」

 そうだろうか。

 カイエンの心の底には疑問があった。だが、オドザヤのことは好きだったし、心配もしていた。妹としてではなくとも。

「私も今まで、あなたのことを妹だとちゃんと思えてはいなかった。でも、今日からは妹ができた。ちゃんと血の繋がった、従姉妹でもある妹がね」

 カイエンはオドザヤの肩に手を置いてはっきりと言った。とうとう、この日が来たのだ。

 自分でもびっくりしたが、言った途端にカイエンの両眼から涙が溢れ出てきた。

 拭っても、拭ってもそれは止まらない。

 オドザヤも同じだった。二人はどちらからともなく、しっかりと抱き合った。 

「よかった」

 何がよかったのか、カイエンにもオドザヤにもわからなかった。ただ、これはきっといいことだから。

「よかったですねえ、殿下」 

 そう言うシーヴの目にも光るものがあった。彼には親も兄弟もいない。血の繋がった者の行方さえしれないのだ。

 シーヴは心の底から、よかったと思った。こんな秘密なんてない方がいいに決まっている。




「でも、でもどうしてお母様は、おねえさまを産んですぐに大公妃から皇后になられたんですの? そんなこと、可能なのですか」

 アキノが遠慮がちに入ってきて、茶菓を置いて出て行った後。

 オドザヤはハンカチで涙をなんども拭いながら、聞いてきた。

 オドザヤの疑問はもっともなことだった。

 カイエンは一つ、ため息をついてから話し始めた。

 自分が知っている、父やアキノ、サグラチカに聞かされた昔の話を。

 生まれつき体内にある、蟲と呼ばれる寄生器官によって圧迫され、片足の不自由な自分を産んだアイーシャが、産後の肥立ちの悪さもあって精神的に追い詰められ、酒に手を出したこと。そして、さまよい出た時に義理の兄にあたる皇帝サウルに見出され、そのままアルウィンと自分を捨て去って皇帝の元へ走ったこと。そのまま皇后に冊立されたこと。

 それによって、アルウィンとアイーシャの婚姻は無効とされ、非嫡出子になりかねなかったカイエンは皇帝の末の妹として皇女になったこと。


 その時。

 そこまで静かに聞いていたオドザヤが、きっとして顔を上げたので、カイエンは少し驚いた。この酷い話を聞いて、また泣き出すのではないかと思っていたからだ。

「お母様は、そんな昔からお酒を嗜んでおられたのですね」

 オドザヤの言い方に、カイエンは引っかかるものを感じた。

「昔から……まさか今でも?」

「そうですわ。私が子供の頃からずっと。……お酒を召し上がると人がお変わりになるのです。ご自分の愚痴ばかり。嘆いては人に当たり散らして」

 そう言うと、オドザヤは日頃の鬱屈を思い出したのか、目に涙をためた。

「今はお腹に子供がおられるが、……大丈夫なのだろうか」

 カイエンには妊婦の心得などの知識はない。オドザヤとても同じだったから、しばらくそこに沈黙が流れた。

 再度口を開いたのはオドザヤだった。

「みんな、みんな、あのジョランダがいけないのです。あの女がお母様にお酒をしきりにお勧めして。お代わりを求められれば、ロン酒まで簡単に持ち込んで」

 ロン酒。

 その酒についてはもちろん、カイエンも知っている。砂糖黍から作られた蒸留酒だからアルコール度数が非常に高い。貴族でも庶民でも女性の飲み物ではないとされている。ワインや麦酒セルベサは昼食の時に飲んでも、ほどほどであれば許されるほどだが、ロン酒は別だ。夜、それも男たちが男同士で飲んだくれる時に飲む種類の酒なのだ。貴族階級ではほとんど飲まれることのない、野生的な酒である。

 それを、女の、それも皇后のアイーシャが愛飲しているとは。

 とてもではないが、表に出せる話ではなかった。

「ジョランダとは誰ですか。それに、そのことは皇帝陛下はご存知なのですか」

 カイエンの声は我知らず厳しいものになった。

「ジョランダは、ジョランダ・オスナはお母様に昔から付いている女官で、確かお母様の従姉妹に当たるのです。お母様よりも年は上で、お母様の腹心ですわ」

 ジョランダ・オスナ。

 アイーシャの従姉妹。

 カイエンの知っているところでは、アイーシャの親兄弟は死に絶えているはずだ。従姉妹がいたとは。カイエンは早急に調べてみようと思った。昔というのがこの大公宮にいた頃からならば、アキノやサグラチカが知っているはずだ。

「お父様は。お父様はもちろん、ご存知です。でも、あの荒れた様子をご覧になっても専門のお医師に診せてくださることもなくて。もちろん、お母様付きのお医師もいるのですけれど、あの人はお母様の言うなりですから。頼りにはなりません」

「えっ?」

 市井の人々の間でも酒の飲み過ぎでおかしくなった者を「あいつは酒の中毒だあ」と言うし、明らかに言動がおかしくなれば金のある家なら医師に診せるなり、酒から遠ざけるべく家人が努力するものだ。まあ、それでも治るものは少ないとは聞くから、厄介ではある。

 何よりも酒の飲み過ぎは内臓を痛めるので、長生きはできないことが多い。

 それを、皇帝ともあろうものが妻を放置しているとは。

「それは、本当ですか」

 カイエンは自分の声が冷たい響きを持っていることを意識した。

「本当です。私ではどうにもできませんから、私はもう諦めています。それに、もしお父様が専門のお医師を差し向けてくださっても、素直に言うことを聞くお母様ではありません」

 オドザヤはそう言い切ったが、その後で悲しそうに付け足した。

「私、お父様がお母様をちゃんとしたお医師に診せようとなさらないことにさえ、つい最近まで疑問を持っておりませんでした。お酒をやめていただきたいけれど、ジョランダがそばにいてはそれも無理ですから、もう私は我慢しているしかないと思っていましたの」

「それは……」

 カイエンはオドザヤの、未だ語らぬ物語の悲惨さを感じ取った。

「最初は嫌でしたけれど、私、皇太女になって良かったと思っています。お母様のそばを離れて、あの鬱陶しい後宮を出て皇太女宮に住むようになってから、急に目が覚めたんです。いろいろなおかしな事に気がつけましたわ」

 そう言うと、オドザヤはソファから立ち上がった。

「おねえさま。ああ、これからは本当の意味でおねえさまと呼べますのね。私はもう大丈夫です。だって、おねえさまがいらっしゃるのですもの。去年、あんなに嫌なことや大変なことがあったのに立ち直って、立派に大公の任を果たしておられるおねえさまがいてくださるのですもの」

 カイエンはなんだかむず痒いような心地になった。 

 そんなに立派なおねえさまじゃないのに。

 ヤケクソに身を任せ、開き直って生き始めただけなんだから。


「そうだわ」

 立ち上がって、礼をしようとしたオドザヤが、振り向いた。

「おねえさまがシイナドラドへ行かれるというのは本当ですの?」

「お耳が早いですね。どなたからお聞きになりましたか」

「お父様からです。今朝方、呼び出されて聞きました」

 なるほど。皇太女となったオドザヤは自分と同じく、女でもその肩書き並みの扱いを受けているということだ。

「シイナドラドからの縁談の相手は恐らく私ではない、と聞きました」

「そうですね。立太子なさる前でしたらいざ知らず、皇太女になられた今ではもうありえませんね」

 カイエンは「皇帝一家の維持してきた顔」とシイナドラドとの関係についての言及は避けた。オドザヤはそれにはまだ気付いてもいないし、教えられてもいないように見えたからだ。

「大丈夫ですよ。お供には帝国軍がついてくれます。前例があるので、大公である以上は行かねばならないのですよ。……シイナドラドの第二皇子が大公風情の夫におさまるためにわざわざ婿入りするとも思えませんから、よく話を聞いてくるしかありません」

 オドザヤはカイエンの話を聞くと、今まで彼女がしなかったような顔つきでカイエンを見た。それは、ある種の決意を秘めた強い目だった。

「お母様たちのご出産までにはお戻りになれそうですか」

 カイエンは灰色の目をまっすぐに見上げて、オドザヤの琥珀色の目を見た。

 そうだ。

 今度、アイーシャが産む子供は、自分やオドザヤの弟か妹だ。

 その子は、灰色の目をしているのか、それとも琥珀色の目をしているのか。

 カイエンは答えた。

「産み月は十一月と聞いております。間に合うでしょう。何があっても間に合わせますよ」

 オドザヤは黙ってうなずくと、空色のドレスの裾を翻して部屋を出て行った。

 その様子は、高雅で洗練された身のこなしで、すでに若い女帝のような厳しさをたたえていた。

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