彼の唯一
通じなかった言葉が
私の歩いてきた道の跡に、たくさん落ちている
あなたとの間で交わされた言葉のなかで
通じなかった言葉の渦が
私を苦しめる
それでも
あなたと私の間をかろうじて繋ぎ止めていたこの糸を
切ってしまうことができない
春の嵐の記憶を
忘れて
置いていってしまうことができない
見残してきた夢のような
あの甘い部屋を行き来していたあの言葉を
あいまいな記憶を
捨てて逝くことが
私にはできない
アル・アアシャー 「春と修羅」より、「春の嵐」
その日、帰ってきたカイエンとヴァイロンをカイエンの居間で迎えた教授とアキノ、それにサグラチカは、言葉を失った。
それは外も薄暗くなってきた頃合いで、そろそろ一般的な市民の家では夕食の時間に差し掛かった時刻であった。
午後早くに皇宮へ上がっていった、カイエンとヴァイロンだったが帰ってきた時の様子は、共に「憔悴」の一言で表現できそうな様子だったからである。
二人ともに目がまったく動かず、蝋人形のように表情が固まって、動きもなんだかぎこちない。
カイエンの方が憔悴し切って帰ってくることは教授たちも予想していたのだが、彼女を抱えて部屋に入ってきたヴァイロンの巨躯までがなんだかいつもより萎んでいるように見えるのは意外だった。
サグラチカはすぐに、居間の、教授の座っているすぐ横のソファの上へ下されたカイエンの元へ寄り添い、アキノは奥へと下がっていく。飲み物の用意をするためだろう。サグラチカは手早くカイエンの着ている大公軍団の黒くて長い制服の、襟から続く前のボタンを外してベルトを緩め、次にさっさと履いていた新しい黒い長靴と靴下までを脱がせてしまった。彼女はここにいる二人の男、つまりヴァイロンと教授は身内だと認識しているらしく、手元に迷いはまったくない。
猫のミモがどこからともなく現れて、カイエンの膝にのっかった。猫なりに心配そうだ。
ヴァイロンの方は無言のまま、自分で制服の襟元だけを寛げている。
「さあ、どうぞ」
言いながら、サグラチカはカイエンの足に、手早く夏の涼しげな部屋履きを履かせてしまった。
そこまでされて、カイエンはうなずきはしたが顔色はまさに死人のような土気色で、これまた真っ白な指が眉間に伸びる。
「ありがとう。……すみません、先生、さすがに疲れました」
カイエンはソファに身を預け、眉間を揉みながら言った。頭が少々痛いし、見ているものの色が強烈に目に刺さるような感じがした。
「……大丈夫ですか。……これは思っていたよりも事態は深刻だったようですな」
こっちはいつも着ている彼の制服のようになっている、黒っぽくて裾の長めの修行僧のような立て衿の服をきちっと着た教授が聞くと、カイエンの表情がやっと動いた。
「先生の方は、今日のお仕事はもう?」
マテオ・ソーサは目をぱちくりさせた。自分の仕事のことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「ええ、ええ。終わっておりますよ。……最後まで前期の期末試験に合格していなかった男も今日、無理やり合格させましたしね」
あのサンデュは合格できたのだ。かなり無理やりにではあったが。今頃、課せられた特別課題に目を白黒させていることだろう。
「それはよかった。……この通り、くたくたのひょろひょろなんですが、先生には今日中にお話ししたかったので、もうひと頑張りします」
そう言うと、カイエンはちょっと笑った。もはやヤケクソを超えた次元に入り、体はともかく頭の方はしっかりと覚醒していた。
その時、執事のアキノが入ってきた。
「カイエン様、お疲れでしょうが、お話ししながらでも軽いものを召し上がってくださいませ。今日はこちらへみんなお持ち致します。食べにくいかとは思いますが、本日はマナーの方もお忘れくださいますように」
最後の方は、教授の方へ向いてそう言うと、まずは飲み物というわけか、アキノはガラスの大きめのカップに入れた紅茶をカイエンとヴァイロンの前へ出した。彫りの深い鋭角的な顔の中で日頃は冷たく見える薄い青の目が、今日ばかりは心配そうだ。
「あまり冷やしておりません。レモンと蜂蜜を入れております。まずは喉を潤してくださいませ。……皇宮では飲み物もお召し上がりではないでしょう」
「うん」
さすがはアキノで、言っていることはそのまま正しかったので、実はカイエンもヴァイロンも喉が渇いていた。ごくごくと子供のように飲み始める二人の前のテーブルへ、アキノはどん、と同じ紅茶の入った水差しをおくと、教授の方を見た。
「お話を始めていてください。今日は料理長のハイメに、鶏肉を根菜や香草と一緒にまるまる煮たスープを作らせております。素朴なものですが、煮た肉は取り出してソースをかけていただきましても美味しゅうございます」
教授はアキノの父親のような心遣いが見えるこのメニューを聞いて、うなずいた。
柔らかくて滋養があり、消化の良さそうな献立だ。
すぐにカイエンとヴァイロン、それに教授の前のテーブルに鶏の澄んだスープの入った大きな鉢が置かれ、その他の付け合せや柔らかいパン、それに柔らかく鶏の煮汁で炊かれた米が置かれる。食堂のテーブルと違って取って食べにくいので、サグラチカと女中頭のルーサが出てきて取り皿に取って食べられるように給仕してくれた。
スープの皿を低いテーブルに置いたまま、スプーンで飲むのは大変なので、カイエンのためにはサグラチカが手伝った。普通の貴族階級の家庭ならば決して許されないであろう、珍妙な食べ方になった。立食形式の集まりだと思えば、なんとかなるかもしれない。
暖かい澄んだスープを一口飲んでから、カイエンは教授に今日の皇帝とサヴォナローラとの会見の内容を話し始めた。
「先生。私は九月中旬から下旬に間に合うように、シイナドラドへ行くことになりそうです」
カイエンがいきなりそう言うと、教授はソファの背に向かってのけぞった。無作法なことだが、飲みやすいよう、膝の上で手に持っていた皿からスープがこぼれそうだ。
「なんと! 殿下が自らシイナドラドへ……それほど事態は、風雲急を告げておるのですか!」
そこで、難しい顔をして黙っているヴァイロンを横へおいて、カイエンがシイナドラドから来た使者のもたらした二つの問題、大公であるカイエンへのシイナドラドの皇太子の婚礼への出席願いと、シイナドラドの第二皇子の婿入りの縁談について話した。
さすがの教授も聞いた後、しばらくの間黙っていた。
沈黙しながら、マテオ・ソーサは理解していた。
今夜、カイエンだけでなくヴァイロンまでもが憔悴していた理由に思い至ったからだ。
そのシイナドラドの第二皇子の縁談の相手がカイエンであったとしたら、ヴァイロンには辛いことになるだろう。
「……それはまた、ややこしいことになりましたなあ。大公殿下を皇太子の婚礼に呼んだのは過去の慣例に従ったように見えますが……その第二皇子との縁談と言うのがそれに付随するかもしれないとすると、こう言ってはなんですが、殿下には甚だ迷惑な話ですなあ」
教授は少し考えてから付け足した。
「本来ならば皇女方のどなたか、まあ、おそらくは第一皇女のオドザヤ殿下との縁談になるのでしょうが……今やオドザヤ皇女殿下は皇太女殿下。そうなるとその夫は……以前、うかがったところでは皇女に従兄弟の大公子を娶せて皇帝としたことはあったが、それ以外は前例がないというお話でしたね」
「そう。それはシイナドラドの皇家でもよく知っているでしょう。何せこのハウヤ帝国の第一代皇帝サルヴァドールはシイナドラドの皇王の弟だったそうですからね」
ハウヤ帝国建国の歴史はもちろん、教授もよく知っている。
「下の二人の皇女方は妾腹。それでは第二皇子がわざわざ婿入りする意味がない。……だから大公殿下、というのも、考えてみれば奇妙なお話ですな」
カイエンは深く、深くうなずいた。
「私と結婚したところで、第二皇子はハーマポスタール大公の夫になるだけです。これも変な話でしょう? 現在、皇后と第三妾妃が妊娠中ですが、その、生まれてもいない子との縁談というのも、ねえ。ですから、今、シイナドラドの第二皇子を婿入りさせる適当な相手など、実はいないのです」
カイエンはそこで思い出した。
皇帝やサヴォナローラが言っていたこと。
今までの十八人の皇帝に、十一人送り込まれてきた、シイナドラド出身の皇后たちのこと。
そして、このハウヤ帝国の歴代の皇帝たちが保ってきた、「ハウヤ帝国皇帝家の顔」のこと。
今、ハウヤ帝国皇帝一家の中でその顔を持ち、そして未婚なのは、カイエン一人だけなのだということを。
そして、その話も教授に話した。
教授は一旦、皿をテーブルへ置いてから、しばし考え込んでいた。
「……シイナドラド側は、第二皇子を婿入りさせたい、とは言っているが、その相手は指名していないんですね?」
そして、口を開いた時に言ったのは、肝心要の部分であった。
「はい。その婿入りの相談も兼ねて、私を皇太子の婚礼の列席に指名してきたそうです」
「なるほど。それで婚礼のある九月に殿下がシイナドラドへ行くことになったということですか」
足元では、煮たスープから取り出された鶏肉を割いたものを自分の皿にもらったミモが、すごい勢いで食べている。
その様子を微笑んで見ながら、カイエンはサグラチカが取り分けてくれた、柔らかい鶏肉へ香草のソースをかけた皿を受け取りながら言う。
「そうなんです。ま、その話は断れそうもないので、もう逃げようがないんですが、先生の持ってきてくださったあの、シイナドラドの使者が螺旋帝国の外交官邸宅へ入ったって言う情報の方が、ちょっとまあ……ややこしくて」
「こじれましたかね」
教授は、皇帝やサヴォナローラがその情報を認めたがらなかったのかと心配したようだ。カイエンはそれを察して首を振った。
「いいえ。彼らはなんの疑いもなく、信じましたよ。すでにそのことも織り込み済みであったようです」
そして、カイエンは先ほどまでの皇帝と宰相との話を語り始めた。
疲れ切っていたが、彼女はしっかりと飲み、食べながら話そうとした。
今、カイエンは大公として帝国の中枢にいて、皇帝や宰相の内密な話をも聞かされる立場になっているのだから。もはや一人前の大公としての仕事を期待されている存在になっているのだから。
カイエンはもう、去年の春までの、何も知らない大貴族のお姫様には戻れはしないし、戻りたくもなかったのだから。
「おいたわしい」
などと相手に思われたら、その全てが崩れ去ってしまうのだから。
その日の昼、皇帝と宰相の前でカイエンがソファにのけぞったまま、爆発しそうな頭の中の整理をしようとしていた時、ちょうど侍従が茶菓を持ってきましたと訪いを入れてきたので、皇帝と宰相、それに大公の会談は一旦、静まった。
大公のカイエンと、宰相のサヴォナローラは皇帝の直臣であるから茶が飲めるが、カイエンの部下である陪臣のヴァイロンには茶など出ない。
侍従が下がると、サヴォナローラがまた口を開いた。
「大公殿下、去年のあの佩玉の事件で、あれを螺旋帝国の新皇帝の元まで持ち帰ったという、朱 路陽の副官というのを覚えていらっしゃいますか」
「ああ。『あの副官、くせ者だったのかも知れませんね』って言ってたな」
サヴォナローラは副官を見ている。見ていないカイエンにはなんとも言いようがなかったが、サヴォナローラは朱 路陽の代わりに着任状を持って来た副官を思い出して、真っ青な目を光らせていたのだ。
「あの者が、早くもこのハーマポスタールへ戻っております」
カイエンは灰色の目を瞬かせた。あれから半年ちょっとでの行き来とは。早い。西の果てのハウヤ帝国から、東の果ての螺旋帝国まで。このパナメリゴ大陸を横断する旅なのだ。
陸路か海路かわからないが、金に糸目をつけずに全力で行き来したとしか思えない早さだ。
「……そいつの名前は?」
カイエンが聞くと、サヴォナローラは紙を取り出して螺旋文字を書いて見せた。
皇帝サウルも、茶を飲みながらそれを眺めている。
サヴオナローラが書いた螺旋文字は四文字。
それは螺旋帝国人の名前では珍しい、複姓だった。螺旋帝国人の姓は螺旋文字一字のものが多いが、中には二文字の複姓や三文字の姓もあることはある。
夏侯 天予
カイエンは読んだ。
「カコウ テンヨ? 天予とはすごい名前だな」
天があたえる、天がたまう、天がよろこぶ、と言うような意味がある名前である。
サヴォナローラは苦笑いした。
「さて。本名かどうか」
「どういうことだ」
カイエンが聞くと、サヴォナローラはそっと皇帝の顔を見てから言った。
「この者が朱 路陽の着任状を持ってまいりましたので、皇帝陛下と私はこの者の顔を見ております。他の国ならともかく、大国螺旋帝国の新政府から来た外交官だったため、畏れ多くも皇帝陛下に拝謁させたのですが、今となってはそれが良かったのかもしれません」
サヴォナローラが言葉を切ると、その後を皇帝サウルが続けた。
「その時、何か引っかかるものは感じたのだ。だが、外交官ゆえそういう者が選ばれたのか、と思ってしまった」
「そういう者?」
カイエンが怪訝そうな顔をすると、サヴォナローラが続けた。
「夏侯 天予は生粋の螺旋帝国人ではないように見えたのです」
「生粋の東側の民族ではない……」
螺旋帝国は大陸の東端の国だが、螺旋帝国とその周辺の小国の民族たちは黒っぽい髪と目を持ち、肌の色が西側の民族よりも黄色っぽい者が多い。背の高さなどは西側と変わらないが、例えば皇后のアイーシャや皇女のオドザヤのような、明るい色の髪の者はほとんどいないはずだ。
「ええ、私も陛下もそう思いました。彼はまだ若く、私よりいくつか下の年齢に見えました。服や髪型は螺旋帝国人のものでしたが、彼の髪は少し茶色っぽかったですし、目の色は……」
そこでサヴォナローラは皇帝の方を見た。
「灰色がかった茶色に見えました」
「顔立ちも、彫りが深かったな。我らにも少し似たような顔であった」
皇帝が続けるのを聞きながら、カイエンはぞくっと背中が冷たくなるのを感じていた。
皇帝は自分やカイエンに似た顔だった、と言っているのだ。
「大公殿下がおっしゃった情報のように、シイナドラドの使者が螺旋帝国の外交官邸宅に入ったとなると、あの者のあの容姿が気にかかります」
サヴォナローラはカイエンにまっすぐに向かって、はっきりと言った。
「大公殿下、しばらく治安維持部隊の方で、螺旋帝国の外交官邸を見張ってください。こちらでは朱 路陽と副官をなんとか一緒にこちらへ伺候させるように取り計います。なに、第四妾妃の事件がありますから、呼ぶのは簡単です。……別に、士官学校にいる頼 國仁と馬
つまり、皇帝やサヴォナローラは夏侯 天予こそがシイナドラドの手のもので、他の螺旋帝国人を操っているのではないか、と疑っているということだろう。
「シイナドラドの使者というのはどこから出てきて、どこへ行ったのだ?」
そこまで聞いて、カイエンは意地悪くサヴォナローラにたずねてやった。
このハウヤ帝国帝都ハーマポスタールには、もうずっと以前から鎖国中のシイナドラドの外交官はいない。同じように、シイナドラド国内にも前の皇后ファナの死後は「友邦」と言っていてもこのハウヤ帝国の外交官は存在を許されていないのだ。だから、今回の使者の来訪という事態が大事件になっているのである。
「それですよ」
サヴォナローラが言うと、皇帝サウルが残りを忌々しそうに引き取った。
「そなたは我らがすでに、螺旋帝国の革命の裏にあるのがシイナドラドではないかと疑っていたことを知ったな。先ほど、それがわかってからのそなたの態度を見ていればわかる。……我らがそれを疑ったのはまさに、そのシイナドラドの使者が出てきたのも、戻って行ったのも螺旋帝国の外交官邸だったからなのだ。そして、それをわざわざ、市中の下町の店屋で飲み食いしながら漏らす奴がいる。妙なことだ! そ奴らの行動の理由はわからないがな」
うわ。
カイエンはなんだか嫌な気持ちになった。
使者の動向を調べたのは、皇帝の親衛隊の仕事だろうが、これでは疑るのが当たり前だ。そして、新生螺旋帝国もシイナドラドもそれを隠そうとしていないことになる。なんともあからさまなやりようだ。
「それはもう、あからさまですねえ」
思わず、そう言うと、皇帝は本当に嫌そうな顔をした。
二人を眺めているサヴォナローラは同じような顔が、同じような表情を浮かべているのを黙って見ている。
「新皇帝の螺旋帝国とシイナドラドが組んでいる上で、シイナドラドの使者が縁談話と一緒にそなたをシイナドラドの皇太子の婚礼に招く話を持ってきた、と言うことだ。……わかったか」
カイエンはじっくりと皇帝とサヴォナローラの顔色を読んでみたが、彼らにもシイナドラドのたくらみがすべて見えているわけではなさそうだった。それは、皇帝の話し方がいつもよりもやや感情的であることからも分かるのではないか。
すみませんね、よく分からなくて。
カイエンは見ればわかるように、思いきり首をひねってやった。それから、もうしょうがないので、話をまとめてあげることにした。シイナドラドが最終的にしたいことは、彼女にも未だ全然、わからなかったけれども。
「……つまり、シイナドラドは螺旋帝国を裏から操る一方で、このハウヤ帝国にも手を伸ばしてきていると言うことでよろしいですか?」
と。
「なんと!」
そこまで聞いた教授はそう言うと、くわっと目を見開いた。
そして、さすがの慧眼か、はたまたただの思いつきか、すごいことを口にした。
「まさか、皇帝陛下が大公軍団に帝都防衛部隊を創設するようにおっしゃったのは、この事態を想定してのことではないでしょうねえ」
「えっ」
これにはそこにいた皆が驚き、一斉に教授の方に皆の視線が集まった。
「え、しかし、シイナドラドと螺旋帝国がこのハウヤ帝国になんらかの軍事行動を起こしたとしても、その対処には帝国軍が当たるでしょう」
それまで押し黙っていたヴァイロンがそう言うと、教授はふんふんうなずきながらも反論した。
「そうだね。普通ならそうなるね。去年までの国境紛争でも動いたのは帝国軍だけだ。君が活躍したのもその時だね。だが、今回はそれとはちょっと違うようだ。敵、いや敵かどうかまだ確定しとらんが、は、こちらから言いださせる形をとって、皇帝陛下の後宮に第四妾妃として皇女を入れ、先日のような事件を起こさせているし、今度はシイナドラドの第二皇子の婿入り話を持ってきている。つまり敵はこの国の内側へ手のものを入れてこようとしているのだよ。すでに革命からこのハーマポスタールへ逃れてきたという螺旋帝国人の数は、かなりの数に上るはずだ。だから、想定される危機は帝都の内側で起こるかもしれないんだ。街中でね」
恐ろしい予測を淡々と話して、教授は一回、言葉を切った。
「皇帝陛下は新生螺旋帝国への牽制として、あの星辰っていう旧王朝の皇女を後宮へ入れたんだろうが、こうなってみると、こればっかりは皇帝陛下や宰相さんの判断間違いだったかもしれませんなあ」
みんなとっくに食事を終えていたので、そこにしばらく白けたような沈黙があった。
「ですが、皇帝陛下はどういう理由からかは私などにはわかりませんが、去年の段階から、このような事態に対する危機感をお持ちだったことは確かです。だから、帝都防衛部隊の創設に多額の国家予算を割いた。まだまだ、事態は流動的とみるべきです」
そこまで言うと、もう言うべきことは終わった、というように教授は口を閉じた。
カイエンはどう答えていいのかわからなかったが、今、この一見平和そうに見える帝都ハーマポスタールの闇ですでに始まっている暗闘を思って戦慄した。
この帝都ハーマポスタール。
それこそが、カイエンの領地。女大公としての彼女の守るべき、唯一の場所なのだ。
「で、殿下、シイナドラドへ向かわれる時のお供や、警護のものはどうするのですか」
しばらくして、沈黙を破ったのはやはりマテオ・ソーサのやや甲高くも聞こえる落ち着いた声だった。
カイエンははっとした。
「それはこれから考えるのですが、皇帝やサヴォナローラは外国へ赴く大公の警護としてはやはり帝国軍を考えているそうです」
「帝国軍ですか」
「サヴォナローラが調べたところでは、前にシイナドラドへ赴いた前々大公グラシアノの警護は帝国軍から選抜された一隊だったそうで、今回もそれに倣うのがいいのではないかとの話です」
「なるほど」
教授は、納得したように黙り込んだ。大公軍団は形式上は大公の私設部隊だが、その任は帝都の治安維持であるから、大公の外遊への随行は難しいだろう。そのために割く人数も確保するのは難しい。
先のベアトリア王女マグダレーナの輿入れでも、国境まではベアトリア国軍が警護してきたのだ。
そして、そっと彼が目を向けたのは、カイエンではなくその横に呆然とした面持ちで座っている、大きな男の方であった。
彼は去年までは、帝国軍フィエロアルマの将軍だった。去年の騒動ののちに、皇帝の命に従って将軍位に返り咲いていたなら、彼は今や敵地とも言えるシイナドラドへ赴く、大公カイエンの警護として随行できたかもしれない。
だが。
現実の彼はもう、帝国軍の将軍ではない。彼自身が復帰を拒んだのだ。
今の彼の肩書きは、大公の部下。それも今後起きうる事態に立ち向かうべき帝都防衛部隊の隊長なのだ。
現在の責務からも、地位からも、ヴァイロンは外国へ向かうカイエンのそばにいて守ることはできないだろう。
そして。
シイナドラドでカイエンを待っているものは。
体こそ弱くとも、その肩に負せられた運命と責務から逃れずに生きることを選んだ、彼の唯一である存在を待っているのは、未知なる古き隣人。
シイナドラド皇家の面々。遠い遠い祖先を同じくするとは言っても、今やお互いに名前しか知らぬはずの相手。そして今、ハウヤ帝国へその不気味な手を伸ばそうとしている敵かもしれない謎に包まれた国家の中枢だ。
そして、縁談の相手。
シイナドラド第二皇子、エルネスト・セサル・デ・ドラドテラ。
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