休日に呼び出された大公殿下はまさかの気力で頑張る

 ええっ。

 サグラチカだけではなく、教授の声まで聞こえてきたので、カイエンはちょっと、いやかなり焦った。

 一体何人が今、自分、と言うか自分たち、の寝室の扉のあたりに集まっているのか。

 寝室の扉の手前には大きな衝立があるし、寝台には天蓋があって長い帳とばりも垂れてはいるが、今は夏だからその布地も薄地の絹だ。そこまで考えた時には頭の方も完璧に起きていた。

 絶体絶命的羞恥心で顔がどんどん赤くなっていく。

 それにしても。

 シイナドラドとは。

 今、聞いた言葉は休みの日にサグラチカが、未だ主人が起きていないと分かっていても、寝室まで飛んでくるにふさわしい言葉だ。

「ち、ちょっと待って」

 カイエンはやっとそれだけ言えた。

 そして、部屋の入り口に集まった面々も、事ここに至って寝室内部の状況に思いが至った。これは待つなと言われても、待たさざるをえまい。

 サグラチカと教授、それに当番をシェスタから変わったばかりの女騎士のナランハは、自分たちまでもがなんだか赤面して、慌てて部屋の扉の向こうへざざざーっと下がっていった。

 寝台の上でカイエンが起き上がろうとあたふたしていると、一緒に寝ていた寡黙な男が、肩から麻と絹地で出来た夏のガウンを掛けてくれた。それに袖を通しながら起き上がろうとして……カイエンは再び寝台の枕と敷布の上に崩れ落ちた。

「あ、ぃたっ」

 彼女の腰とか背中とか、あといろいろが悲鳴をあげて起き上がるのを拒否したのだ。

「にゃぅ」

 枕の上に待機中の、猫なりに忠実なミモがそんなカイエンの顔をざりざり舐めた。

 大丈夫ぅ? フクロウのように丸くて大きな目がカイエンの頭のすぐ上から、心配そうに見ている。 

 そりゃそうだよ!

 猫に心配されているカイエンは、うめき声とともに後ろにいる大男を呪った。

 カイエンの休日はだいたい、一週間に一回か二回だが、この頃、そういう日の朝はいつだってこんななのだ。

 去年の春にヴァイロンとこういう関係になってからしばらくは、本当に辛かった。それでカイエンが一回、ブチ切れてからは確かに改善された。だが、それ以降、彼女の休日は「本当に一日、休んでいるだけの日」になってしまったのだ。

 衝立の向こうを慮ったのか、無言で痛む腰を撫でてくれる大きな分厚い手の持ち主が、全部、悪いのだ。

 腰や背中が痛いのは置いておいても、足がおかしい。ただでさえおかしい右足だけではなくて左足もなんだか痺れていて危なげだ。

「ちっくしょう……」

 カイエンの口から実父のアルウィン譲りのきたない下町言葉が飛び出る。

 カイエンはこれでも女だ。

 女の馬鹿力は呪いとともに発揮されるのかもしれない。 

 女というものは、こういう時に悲しみ痛みを乗り越え、気力だけで起き上がる「バカ気力」がなければこの世で生きていけないのだ。そういうことが、最近よく分かってきたカイエンの体内で「非常時予備動力」とでも言うべきものにスイッチが入った。

 後ろでなんだかはらはらして落ち着かない男になんぞ、かまってはいられんのだ。クソが!

 カイエンの顔が、別の意味で赤らんできた。気合いだ!

「サグラチカ」

 カイエンは乳母の名前を呼んだ。

「皇宮へ参る。……支度を」




「殿下。すみませんな……本当に……」

 サグラチカを呼んで身じまいを整え、大公軍団の黒い制服に着替えたカイエンは居間のソファで教授と向かい合っていた。カイエンと一緒に、これは自分ですべての身じまいを終えたヴァイロンが、横に何もなかったような、すました顔で座っている。カイエンとしては忌々しいが、どうしようもない。

 そんな様子をかなり遠慮がちに眺める教授も、居心地が悪いことに変わりはない。だが、中年まで生き延びた人間には、すべからく、こういう気恥ずかしさを乗り越える図々しさが備わっている。

「お昼までご馳走になりまして」

 本当なら起きてすぐに皇宮へ行くべきだったが、カイエンは教授の話も気になったので、お茶と簡単な食事を持ってこさせて話を聞くことにしたのだ。

「かまいません。と言うか、皇宮へ行く前にお話が聞けて、良かったですよ」

 カイエンはずずーっと大胆に、ミルクを入れた濃い紅茶をすすりながら言った。後ろからサグラチカの「またわざと下品に飲んで!」という無言の圧力を感じたが、「バカ気力を動力にギリギリで活動中」の彼女は、今日は皇宮へ行く前から「ヤケクソ真っ只中」にあった。

「まさか同じ話題だとは驚きましたが」

 カイエンがそう言うと、教授の方は遠慮がちにお茶をすすりながらうなずいた。

「そう、まさかですな。……まさかあの宰相殿がうちの女子候補生どもの飲み会の横で囁いていったとは思いませんが、恐ろしい偶然です」

「それにしても、シイナドラドの使者が、螺旋帝国の外交官の元に入った、と言うのは、皇宮からの話よりも踏み込んでいますね」

 カイエンが言うと、教授はすぐに答えず、鶏肉と野菜を挟んでからオーブンで軽く焼いたパンを一齧りしてから答えた。彼も午後の授業を控えて、そう自由な時間があるわけではないのだ。

「殿下」

 そう言う教授の声が今までとは違った響きだったので、カイエンだけでなく横のヴァイロンもが、はっとしたように教授を見た。

「これも、まさかですがねえ。私、この話を彼女らから聞いて、とっさに思ったことがあるのですよ。何せまたもや螺旋帝国ですからなあ」

 えっ。

 カイエンの頭の中で、シイナドラドという国名と螺旋帝国という国名が重なり合った。それとともに、浮かんできたのは一つの疑惑。

 カイエンがまさか、と思って教授の色の悪い顔を見ると、横からヴァイロンまでも何か言いたそうな顔をして目を合わせてきた。同じことに思いが至ったらしい。

「まさか」

 今度、そう言ったのは、三人同時で。

「螺旋帝国の今度の革命の裏に、まさか……」

 シイナドラドが。

 三人ともが最後に小声で囁くように言った内容は、同じだった。

 これは状況からすれば、いまだ恐らくは突飛な考えに入るものだろうが、ここにいる三人の意見は合ったというわけだ。

「教授」

 カイエンはお茶も飲み終わり、鶏肉と野菜を挟んだパンもとりあえず食べたので、ナプキンで口元を拭いた。皇宮へ行く前に、あまり食べないほうがいいような気がしてきた。

「これはサヴォナローラと皇帝陛下が私を呼び出して言いたいことも、そのあたりのことなんでしょうか?」

 教授はうなずいた。

「あの宰相殿と皇帝陛下ですからなあ。おそらく、殿下をお呼びになった直接の理由は、螺旋帝国の外交官屋敷への出入りを厳しくしたいという事ではないかと思いますな。親衛隊だの軍隊だのは、この段階では動かせないでしょうから。……しかし、それだけではないでしょうなあ」

 そうだろう。皇宮へはシイナドラドから正式な使者があったらしいから。

 それ以外にも、皇帝とサヴォナローラは大公であるカイエンに用があるのだ。

「ありがとう、先生」

 カイエンがそう言うと、教授は自ら立ち上がった。

「私の仕事が終わるよりも殿下のお帰りが遅かったら、こちらで待たせていただきましょう。私の仕事は今日も時間通りに終える予定ですから」

 そう。

 教授は話がこうなってもまだ、あの帝都防衛部隊訓練生、サンデュの再試験を時間内に終えるつもりなのだった。

 だが、行きかけた教授が、ふと振り返った。

「ああ。そうだった。それともう一点、気になっていた事があったんですよ。……先日の後宮での第四妾妃の事件ですが、そのう、螺旋帝国の皇女様が皇后陛下に襲いかかった時の簪の持ち方とか、体の動きとか、それをトリニに聞いてみたらどうかと思ったんです」

 カイエンは、ちょっとびっくりした。そんな事は考えてもいなかったからだ。

 しかし。

 あの時の、星辰セイシンの体の動きを思い出してみる。結い上げた髪には、凶器となった簪の他にもいくつもの髪飾りがあった。その中からあの二本を引き抜き、逆手に持ち、瞬時に椅子から立ち上がって走り出したのだ。

 あの動き。あれが、なんの心得もないお姫様にできるか?

「先生は、螺旋帝国の皇女に武術の心得があるのでは、とおっしゃるのですか」

 カイエンの横からヴァイロンの声が聞こえた。

「ふむ。それも可能性の一つだね。まあ、尋問は宰相がしているわけだから、こっちで急ぐ事でもないが、ちょっと気になってね。……こう疑ってばかりでは頭がおかしくなるが、考えてみたまえよ。……あの皇女様が本当の皇女様だかどうだか、知っているのは、頼 國仁先生や馬 子昂シゴウ、大使の朱 路陽だのほんの数人だけだろう? これも、まさかだが、可能性は潰した方がいいからね。ま。本物の皇女様じゃなかったら外交問題だからね。そんなこともあるまいが……」

 教授は何かを振り払うように、きれいに撫でつけられた頭を振った。

「とりあえずトリニに聞いたところでは、螺旋帝国の武術と言ったって、いろいろだそうだから。それでも、トリニには正統派の武術か、裏稼業の武術かの区別がつくのかもしれないと思うんだ」

 教授はヴァイロンに向かって恐ろしい事をさらっと言ってのけると、今度こそ振り返らずに午後の授業のために出て行った。




「……やっぱり、教授はすごいなあ」

 皇宮へ向かう馬車に揺られながら、カイエンは心底、感心して呟いた。

「大丈夫ですか」

 今日は護衛騎士のシーヴがいない。カイエンの休日は彼の休日なので、宿舎で休んでいるか、自由に過ごしているはずだ。

 だから、今日のお供はこれまた今日は休日になっている、別の男である。

 答えになっていない返答に、カイエンはむかっ腹が立った。誰のせいだよ、誰のぅ! と、イリヤみたいにわかりやすく叫んだ方がいいだろうか。

「そういえば、なんでおまえの休日は私と一緒なんだ?」

 だが、この頃、なにかと成長著しいカイエンは怒りを嫌味に変えた。

 いつもよりも冷たい色の目で、横にでんと座っている男の顔を見上げると、一瞬はかちあった翡翠色の目が上方へと逃げた。

 敵も小狡くなってきたようだ。だが、言うべきことは言わないと相手には伝わらないこともある。この頃ではカイエンの方も相手への理解が深まっては、いた。

「……小恥ずかしい台詞は言わなくていいぞ。だが、今日のようなこともあるからなあ。そろそろ、加減というものを覚えて欲しいものだ、なっ」

 だが、カイエンの言葉は最後の最後でぶった切られた。

 ありえない。

 馬車の揺れなどものともせず、カイエンの体がふわっと浮き。

 獰猛な緑色の輝きが眼前に迫っていた。ヴァイロンの膝の上に抱き上げられたと気がついたときには、もう遅かった。

 詐欺だぁ。

 第三者がそばにいる時といない時とで、こんなに態度が変わる男なんて。

 カイエンがそう思って、バカ気力でじたばたもがいているうちに、馬車は皇宮に着いていた。

 実際に時間がなかったことも、時間なかったんです、これでも急いで来たんです的演出のためもあって、ほとんど化粧らしい化粧をしていなかったのをカイエンは心底、ありがたく思った。直す手間が省ける。




「こちらでお待ちください」

 そうして。

 皇宮の表で馬車を降りた後、「危ないから抱えていく」と、言うヴァイロンを、

「真昼間からこっぱずかしいからやめろ。大公に恥かかすな!」

 と、必死の形相でやめさせたカイエンが、のろのろと背中の曲がった婆さんのように杖をつきつき歩いて、侍従に案内されて通されたのは、数日前に皇帝とオドザヤ、それに叔母のミルドラと、フランコ公爵夫人デボラとで集まった、あのこじんまりとした一室だった。

 だいたいカイエンが皇宮へ呼びつけられるときには、皇帝やサヴォナローラの方がもう待っていることが多かったが、今日は違うらしい。

 こじんまりした部屋とは言っても、それは家具調度が華美でないということで、皇帝が使う部屋であるからそれらの質は最上級品だ。部屋も広い。大きなテーブルの周りを囲むソファも大きなもので、大の男が座っても最大十人ほどがテーブルを囲めるだろう。ただ、すべてのソファが一人がけだということがこの部屋の「政治性」を感じさせる。

 先日のことを思い出して見ても、内密の事柄を話し合う場合の部屋のようだから、庭に面した窓などはない。窓はあるが、この部屋は二階だから外で立ち聞きもできまい。

 カイエンがふと気になって窓の外を見てみると、そこは皇宮のいくつかある内堀の一つに面した壁面にある部屋で、窓の外はまっすぐに堀の中だった。

 部屋の一番奥は、先日も皇帝サウルが座った椅子で、一番上座のその面だけが一人がけのソファだ。

 カイエンが侍従に座らされたのは、その一番立派な一人がけのソファの左側だった。侍従はくっついてきたヴァイロンも追い出さずに部屋に入れたが、こちらは陪臣であるから、さすがに座らずにカイエンの後ろに立っている。


 やがて。

 いくらも待たないうちに、カイエンの入ってきたのとは違う奥の入り口が開き、思っていた通り、皇帝と宰相が入ってきた。

「遅かったな」

 皇帝サウルは入ってくるなりが嫌味だ。なるほど、呼ばれてから起きて身支度して、昼飯まで済ませてから来たのだから今日ばかりは皇帝の言いようも当然だ、とカイエンは思った。だから、眉間にしわを寄せたまま座る皇帝に立ち上がって礼をしながら、カイエンは素直に言った。まあ、言い訳も入ったが。

「申し訳もございません。本日は朝から取り込んでおりまして、遅れてしまいました」

 皇帝はじろり、とカイエンの方を見ただけだったが、それでもカイエンの後ろに控えているヴァイロンには怪訝そうな目を向けた。皇帝ももちろん、将軍位への復活を固辞したヴァイロンが、自身が新設を命じた帝都防衛部隊の隊長だということは知っている。だが、就任後、ヴァイロンが皇帝の前に現れるのはこれが初めてではないか。

 皇帝は名前も知らないが、いつもカイエンの護衛についてきているシーヴの顔は覚えている。部下や家臣、その下の陪臣と言っても、何度も自分の前に現れた顔を覚えていられないのでは皇帝も、上位貴族も務まらない。

 だが、実際にこれは変なことなのだ。帝都防衛部隊の隊長が大公の護衛代わりについてくるのは。

 ふう。

 皇帝サウルはこれ見よがしにため息をついた。去年の春、彼自身が命じたことだから、ヴァイロンがカイエンの男妾状態なのももちろん理解していたからだ。

 皇帝はそれで済ませてくれたが、案の定、宰相殿は済ませてくれなかった。

「……いつもの護衛の方ではありませんね、大公殿下。もしかして今日はご休日だったのでは」

 皇帝の横にカイエンに向き合うようにして座ったサヴォナローラは、言わなくてもいいことをわざわざ言ってくれた。もしかしたら親切心からかもしれないが、迷惑である。この辺りが浮き世を離れた神官の感覚か。

 うう。

 カイエンは「バカ気力」をぐいっと自分の心臓に引き寄せた。

「いいえそんなことはありませんよいつもの護衛が実家の事情で休暇をとっているだけですからご心配なく」

 一部、事実と異なる上に、棒読みになったのは仕方あるまい。

「そうですか」

 サヴォナローラはちらっと後ろのヴァイロンの方を見たが、そのままテーブルの上へ持ってきた書類ばさみを置いた。ヴァイロンも、去年の事件でアルトゥールたちの処刑に立ち会わされ、「もう逃げられません認定」された中の一人だ。聞いていて問題はない。

「今日は急にお呼びだていたしまして、申し訳ございません。大公殿下にも至急、お知らせしなければならないことが勃発いたしましたので」

 そう言うと、サヴォナローラは黙っている皇帝の前で説明を始めた。

「使いの者からお聞きと思いますが、本日、友邦シイナドラドからの正式な使者がまいりました」

「うん」

 サヴォナローラの真っ青な、弟のガラと同じ、感情に動かされない目がカイエンをまっすぐに見た。

「ご存知のように、シイナドラドはここ百年近く、ほぼ鎖国状態を貫いております。螺旋帝国からつながるパナメリゴ街道の通る、国土の南西部分のみは交易のために開いておりますが、皇都ホヤ・デ・セレンを含めた他の地域には基本的に外国人の立ち入りを禁じております」

「このハウヤ帝国との交渉も、前のファナ皇后陛下の輿入れ以降、絶えていると聞いている」

 ファナはここにいる皇帝サウルと、ミルドラ、そしてカイエンの実父アルウィンの産みの母だ。

 カイエンが生まれた時には、彼女もその夫の先の皇帝レアンドロも生きていたが、間もなく二人とも亡くなっている。アイーシャのことがあったのち、カイエンがサウルたちの末の妹、という建前を持ち得たのは、彼女が生まれた時には彼らが生きていたからなのだ。もっとも、カイエンはファナの子ということにはなっていない。名もない妾妃の子という建前になっている。

「その通りです。皇帝陛下に伺いましたが、お母上のファナ皇后も輿入れ後にはほとんどご実家との交渉はなかったそうです」

 カイエンは自分の祖父母のことは全く記憶にない。二人とも、彼女が生まれるのと入れ替わりに亡くなったからだ。見たことがあるのは二人の肖像画くらいだ。それだって見たのは何度もない。


 あれ。

 だが、その肖像画を思い出した時、カイエンは何か引っかかった。

 祖父である皇帝レアンドロは、ここにいる皇帝サウルやミルドラ、アルウィン、それにカイエンによく似た顔立ちだった。そして。

 先の皇后ファナ。カイエンには祖母にあたる。彼女の顔。

「そういえば、ファナ皇后のお顔も……」

 カイエンの思いは言葉に出てしまった。

「そうですね。ファナ皇后陛下もまた、このハウヤ帝国皇帝家のお顔をなさっておられましたね」

 カイエンの心の動きを正確になぞったらしいサヴォナローラが言った言葉に、カイエンは妙な心持ちになった。

 そうなのだ。

 カイエンの見た先の皇后ファナの肖像は三十代頃の顔だった。そしてそれは見覚えのある顔立ちだった。黒っぽい色の髪、蒼白な顔色。そして、神殿の神々の彫刻のように整った、整っているだけで面白みのない顔立ち。そして切れ長の瞼の下にある灰色の陰鬱な目までもが、明らかに自分と同じ系統の。

「カイエン」

 その時、皇帝サウルが口をきいた。

「そなたも知っているだろう。このハウヤ帝国建国の皇帝がシイナドラドの皇王の弟だったということは」

「はあ、もちろん知っております。第一代皇帝サルヴァドールは、シイナドラドの皇王ドメニクの弟です」

 教科書を読むようにカイエンが答えると、皇帝は満足そうにうなずいた。

「忌々しいことだが、このハウヤ帝国の祖先はシイナドラドの皇弟だ。それでも建国以来ハウヤ帝国はシイナドラドと対等の立場であり続けてきた。だが、私までの十八人の皇帝のうち、多くがシイナドラドから皇后を娶っている。そうだな?」

「はい」

 歴史的な事実はカイエンも知っている。シイナドラド出身の皇后は、確か十一人だ。

「そなたもそろそろ気がついているだろうが、我々のこの顔は、そうした婚姻の中で保たれてきた顔だ」

 カイエンの後ろで、ヴァイロンが密やかに息をついた。

「なるほど、そうですね」

 それはカイエンにとってもそろそろ自覚のあることだったので、彼女がそう言うと、皇帝はひとつうなずいて、なおも続けた。

「私の皇后は、お前も知っての通りのあの、アイーシャだ。だが、今まで十八人の皇帝に十一人の皇后を送り込んできた、あの国がそれで黙っていると思うか

?」

「いいえ、思いません。というか思えません。しかし、今ではシイナドラドよりもこのハウヤ帝国の方が版図も広く、発展していると思いますが、それでも彼我の関係はそういう関係のままなのでしょうか」

 なぜ、今になっても「古の祖国」を恐れる必要があるのか。カイエンは素直な疑問を口にした。

「その通りだな」

 皇帝サウルは難しい顔のまま、うなずいた。彼もまた、そうは思っているのだろう。

「そなたの言う通りなのだ。それでも、今までの皇帝どもが唯々諾々とそれに従ってきたという事実は変えようがない」


 かしゃん。


 その時、カイエンの頭の中で、いろいろなことが噛み合った。噛み合いはしたが、未だその根本の理由は理解できない。


 皇帝サウルには未だ男子がいない。そして、生まれた皇女たち全てが「皇帝家の顔」を持っていない。

 理由はわからないが、その、「ハウヤ帝国皇帝家の顔」を維持させてきたのは、「友邦」シイナドラドからやってきた歴代の皇后たちなのだろう。

 そういう状況のハウヤ帝国へやってきた、「友邦」という名の「祖国」シイナドラドからの使者。

「その婚姻は、シイナドラド皇家を祖先とする血の維持のためなのでしょうか?」

 カイエンは思わすそう、聞いてしまっていた。

「知らん。だがそれしかないだろう。少なくとも今までの皇帝たちはそういう認識できているはずだ。……ところで、使者の用向きというのは、つまり、新しい縁談のことだった、というわけだ」

 新しい縁談。

 それを聞いて、カイエンは今日ここに呼びつけられた理由に思い至った。いやな予感しかしない。

「ちょっと待ってください」

 だがそこで、カイエンは先ほど、出かけるまでに教授に聞いた話を思い出した。

「実は、私の方からもそのシイナドラドからの使者の件で、申し上げたいことが」

「……なんでしょう」

 答えたのはサヴォナローラ。

「これは私の部下が下町の店で聞いたと言うことですが、そのシイナドラドの使者が螺旋帝国の外交官邸に入ったと言う情報があるのです」

 カイエンが言うと、さすがのサヴォナローラが沈黙した。

 これは演技ではなさそうだ。カイエンは一応、付け足そうとした。

「はっきり申し上げますと、これは隊員候補生の聞いてきたことです。ですが、その者の記憶力には……」

「皇帝陛下」

 だが、その時にはカイエンの言葉をおっ被せるように遮って、サヴォナローラは皇帝へ向き直っていた。

「これは、やはり螺旋帝国でのこの度の革命の裏には、かの国があるという疑いがさらに濃厚になったのではないかと思われます」

「なーんだ」

 話の後半の腰を折られた格好になったカイエンは、サヴォナローラの言葉を聞きながらそう呟いてしまっていた。そうなんだ。やっぱりね。

 皇帝やサヴォナローラの頭の中にも、シイナドラドと螺旋帝国の革命への疑いがあったということだ。

 あーあー。

 カイエンはそれまでしゃちこばって座っていたソファに、思い切り背中を預けた。今日の「バカ気力」もこれまでだ。

「そうなんですねえ。やっぱりそうなんだ。シイナドラドが暗躍してるんだ」

 ヤケクソ気味にソファにのけぞったまま、ぶつぶつと言っていると、サヴォナローラがしょうがなさそうに振り返ってくれた。

「恐らくはそうでしょう。……でも、殿下の方でももうお気づきだったのではないですか。やっぱりマテオ・ソーサ教授をお手元に入れたのはよかったでしょう? 殿下」

 慰めるように、それでいてしっかりと恩まで着せて笑ってやがる。

 カイエンはサヴォナローラの真っ青な目を、のけぞっているソファの背中からわざわざ頭だけ振り上げて見てやった。

「言えよ」

 もう、皇帝のいることも関係なかった。彼女は怒っていたのだ。

「シイナドラドの使者の持ってきた縁談ってのをさ」

 皇帝サウルが嫌なものを見るように、カイエンを見た。きっと、若い頃の弟を思い出したのだろう。ざまあみろだ。


 サヴォナローラは一瞬のうちに表情を引き締めた。

「では、申し上げます」

「シイナドラドの現皇王バウティスタ陛下は先の皇后ファナ陛下の歳の離れた弟であられ、ここにおられる皇帝陛下の叔父に当たられます。確か御歳五十六におなりのはずです。その皇太子セレスティノ様が国内から妃を迎えられるそうです。その結婚式と披露へのご招待としてこのハウヤ帝国から、ハーマポスタール大公、カイエン様をご指名だそうです」

 なるほど。

「なんでご指名なんでしょう? 今までにもそういうご招待はあったのかな?」

 いやーな予感をぶっ潰しながらカイエンは聞いた。

「皇王バウティスタ陛下には二人の皇子があり、第二皇子エルネスト殿下をこのハウヤ帝国へ婿入りさせたいとのご意向だそうです。それに関係があると見るべきでしょう。以前にもこういうご招待はこのハウヤ帝国に限っては行われていたようです。……友邦として」

「その時は、誰が行っていたのかな」

 もうすっかりサヴォナローラに対してはぞんざいな口の利き方になったカイエンが聞くと、サヴォナローラはしっかりと調べていたようで、持ってきた書類はさみから紙を取り出した。

「今の皇王バウティスタの時、これは三十年ほど前ですが、も、その前のシイナドラド皇王の折、これは五十年少々前です、も当時の皇太子はまだ幼く、二回とも皇弟である大公殿下が行っておられるのです。ですから、今回のことも前例にのっとっているといえば言えるのです。なお、皇帝バウティスタの即位式にも当時の大公殿下、グラシアノ殿下が招待されて行かれているとのことです。これは前の皇后陛下ファナ様の御輿入れの後になりますが」

 カイエンは、シイナドラド側の事情もよくわかった。

 三十年ほど前の皇太子といえば、今ここにいる皇帝サウルのことで、確かにまだ十代の少年であったはずだ。

 それに、シイナドラドの大きな式典に呼ばれていたのが全て大公だったことは初耳だった。

 それにしても、今回はおまけに婿入り話もとは。

「本来なら、オドザヤに娶せるべき相手だがな」

 サヴォナローラの後ろから、皇帝サウルが言葉を挟んだ時、カイエンの後ろにそれまで黙って立っていた、ヴァイロンの気配が変わった。宰相が回りくどく言っていることの意図が理解できたのだろう。

「向こうが来て欲しいと言っているのはそなただ、カイエン」

 オドザヤ皇女は今や皇太女である。

 そのオドザヤ皇女への縁談なのか。それとも。

「もとより、そなたの仕事はこの帝都の安寧にあるが、こうして使者が来てしまってはどうするかな、というのが今日の相談だ」

 相談ですか。

 カイエンは、不敬にも皇帝の前でソファにのけぞったまま、爆発しそうな頭を整理していた。

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