第三話 夏の夜の夢

薔薇園の出来事

 カイエンはうんざりしていた。

 ちょっとした立ち回りの末、今、両足の下に踏んづけている厄介者のしでかしたことにも、その理由がてんで分からないことにも、自分がこんな場所にいることにも、そして、目の前で呆然として動けない女たちにも。

 そして、うんざりしている心の反対側で考えていたのは、腕に覚えなどてんでない自分が、こんな立ち回りを演じてしまった、という事実への驚愕だった。

 この時、彼女は気がつかざるを得なかった。

 ハウヤ帝国帝都ハーマポスタール大公カイエンの人生は、これからもまだまだ大変なのだと。嵐は吹き荒れたままなのだと。

 そしてまた、うんざりした。




 季節は七月初旬。

 つい先日、皇后アイーシャと第三妾妃マグダレーナの懐妊が公表されたばかり。

 カイエンにとっても、皇后の子は父親の違う妹か弟で、しかも従兄弟か従姉妹という存在となるし、マグダレーナの産む子とて伯父である皇帝の子である以上、従兄弟か従姉妹に当たるわけだ。

 それにしても、マグダレーナは後宮に入ってから三ヶ月の間、すでに妊娠している可能性を排除するために皇帝の閨に侍ることはなかった。それが、二月に解かれてすぐの妊娠ということになる。

 一方、三十五になる皇后の方も、年齢からしても、オドザヤを産んで十七年間、子を産んでいないことからしても驚くべきことであろう。

「すごい事になって来ましたねえ。二人同時にご懐妊ですか」

「なんだか剣呑な情勢になってきましたねえ」

 話を聞いたカイエンの部下達がみんなそう言ったように、新年早々にオドザヤの立太子を行ったばかりのハウヤ帝国である。そこへ皇后と妾妃の懐妊だ。それも、産み月も同じという。

 どちらかの産む子が皇子だった場合、またはどちらも皇子だった場合には、オドザヤ皇太女の立場も変わって来ざるをえない。

 もっとも、マグダレーナを後宮に入れた時点で、皇帝や宰相のサヴォナローラにはこの事態の予測もあったはずだ。まさか、皇后までもが懐妊するとは思っていなかったとしても。

「まあ、様子見だな」

 大公としてのカイエンには日々、帝都ハーマポスタールの治安維持という「義務という名の職務」がある。その上に新設の帝都防衛部隊の編成も一応終わり、顧問のマテオ・ソーサと予備役の猛者達、それに隊長のヴァイロン達は訓練に入っていた。新入隊員候補生の訓練もあった。つまりは忙しいのである。

 正直、皇帝の後継者問題には関わりたくない、というのが本音だった。大公である以上、そうも言っていられないのは確かであったが。今、この時には。

 なのに。

 



 真っ青な夏の空の下、花々の咲き乱れる庭園の中で続けられる、意味のないだらだらとした会話に、カイエンはうんざりしていた。

 うんざりしてはいたが、顔には全くそれを出すことなく、彼女はそこで土気色の不健康な顔に、微笑みさえ浮かべておしゃべりに興じていた。

 いや、興じている演技に没頭していた。

 そこは皇宮の奥。皇帝サウルの後宮であった。

 小高い丘の上に建つ皇宮の庭園は、夏の盛りであっても涼しい風が吹く。それでも日差しは強いから、繊細な貴婦人達は肌を守るために雅なあずまやの中にいる。

 それは、皇后アイーシャの開いた「お茶会」だった。

 それも、非常に内うちのもので、呼ばれている貴婦人達はまず皇太女のオドザヤ、そして妾妃の四人、その皇女たち二人。

 臣下から呼ばれてきているのも、たった三人だけであった。

 大公のカイエン、夏の社交シーズンなので帝都に来ていた皇帝の妹でクリストラ公爵夫人のミルドラ。それに元老院長であるフランコ公爵夫人のデボラである。

 あずまやはなかなかに広かったので、貴婦人達総勢十一名が座っていてもさほど窮屈ではなかった。庭園の方にも、幾つかの日よけの天幕が張られており、そこにも瀟洒な椅子が間配られている。今、そちらの茶菓の準備を女官たちがしている最中だ。

 あずまやには女官長のコンスタンサが、力強い糸杉のようなまっすぐな姿勢で控えており、庭園の木の影からは後宮の女騎士たちが目を光らせている。

 お茶会はそろそろ安定期に入った皇后が暇つぶしに開いたもので、おそらくはそこに集められた貴婦人達のほとんどにとっては、迷惑な催しであったことは間違いない。

 去年、オドザヤの開いたお茶会にはドレス姿で参加したカイエンであったが、この日は大公軍団の黒い制服の胸に真っ白な薔薇の花を挿しただけの姿だったので、その場で彼女は恐ろしく浮いていた。薄い生地の夏服ではあっても、襟の詰まった黒い制服は暑苦しく見えたし、髪も後ろでくるくる巻いて、銀製の髪留めでまとめただけの地味さ。

 だが、そういう姿でやってくるに際してはカイエンもちゃんと言い訳を用意していた。この辺り、去年の騒動で鍛えられた彼女は要領よくなってきている。カイエンは「お茶会の前に偶然、帝都に起きた事件現場に立ち会った後、宰相府に呼ばれた」という建前を用意したのである。

「申し訳もございません。今日は朝から事件現場に行かねばならず、またその後すぐに宰相府にも赴かねばならず、着替えの時間がございませんでした」

 来るなり、カイエンはにこやかな顔でアイーシャの前へ進み出て、そう挨拶したので、さすがのアイーシャもとがめ立てることは出来なかった。

 叔母のミルドラだけは面白そうな含み笑いを扇で隠して見ていたようだ。


 と言うわけで。

 昼過ぎに始まったお茶会は最初に出されたお茶が終わり、そろそろ場所を庭園の天幕へ移して、咲き乱れる夏の鮮やかな花々を愛でながら、といった趣に変わろうとしているところであった。

「あらあら、お庭の方の用意が整ったようですわね」 

 そう言うと、そこは皇帝の妹の元皇女様で、ミルドラは皇后のアイーシャに憚ることもなく、いの一番に椅子を立った。

「あなたも悪くなったわねえ」

 そのまま、カイエンの横につかつかとやってきたミルドラが、扇で口元を隠してカイエンに囁く。

 夏らしい鮮やかな青緑の、大胆なカットのドレスがよく似合っている。さっきおしゃべりの中で言っていたが、ミルドラはこれをあのノルマ・コントに作らせたらしい。前にカイエンがあの、弾劾の場となった皇后の晩餐会に着て行ったドレスを見てから興味を持っていたようだ。

「まるでアルウィンがやりそうなことだわ。そんな服のまま来るなんて。そうしていると、本当に若い頃のアルウィンにそっくり。かわいそうに皇后陛下はあなたの方を見ないように努力なさっているわよ」

 カイエンは左手に持った装飾された銀の握りの黒檀の杖を握り、立ち上がりながら、微笑んで見せた。

「それは重畳でございます」

 カイエンも顔を俯けながら戯けた声で囁き返した。

 父に似ていると言われるのは面白くないが、苦手な皇后とやり取りしなくて済むのはありがたい。

 小柄なカイエンは踵の高い靴を履いたミルドラよりもやや背が低いが、ミルドラをエスコートするように空いている右腕を差し出した。それに軽く手をのせたミルドラとともに、あずまやの階段を降りる。

 皇帝とよく似た容貌の二人が並んで出て行くのを、幾つもの目がなんとも言えない目つきで眺めていた。

 なんだか背中に複数の視線を感じたので、そっと振り返れば。

 あずまやの中に集った面々の姿がいやでも目に入ってきた。

 この日も、皇后アイーシャは後宮の女王にふさわしく、華やかだ。夏の日差しにも負けない、薄い透ける生地の赤いドレスには夏の花々が刺繍されており、なんとも華やかだ。三十五には見えない美貌は懐妊してから若返ったように見えた。

 その彼女に寄り添う皇太女のオドザヤはあの立太子式の日の青いドレスを彷彿させるような夏の空のような青い装い。二人ともに黄金色の髪が、きらきらと眩しい。オドザヤはこの日は言葉少なであったが、表情は落ち着いていた。

 何か話しながら、身重のアイーシャにオドザヤが手を貸すようにして、二人は席を立った。


 妾妃の四人は、それぞれに個性的な装いだった。

 皆が己の故郷を誇示しているかのように、誰一人としてハウヤ帝国で今、流行している形のドレスなど着ていない。

 第一妾妃のラーラは浅黒い顔色にはっきりとした顔立ち。それによく合う故郷ネファール風の、多彩な色で織り込まれた布地の直線的な意匠の服をまとっている。横におとなしく控えている第二皇女のカリスマも同じような、だが母より華やかな衣装に身を包んでいる。

 ラーラとカリスマは、カイエンの視線の端で、二人揃って席を立ち、皇后とオドザヤの後ろへついて歩き始めた。

 第二妾妃のキルケと娘のアルタマキアは、ラーラやカリスマとは対照的に色素が薄い。ほとんど真っ白の肌に夏の日差しは辛かろう。

 二人は淡い色の髪を、皇后をはばかったのか地味にまとめ、同じような薄い淡い色の、だが重々しい北方の国風のドレスをまとっている。彼女たち二人だけが日差しに当たれば溶けてしまいそうに儚げだ。そのためか、二人は席を立って出てくる気持ちはあまりないように見えた。

 この二組の母娘、いや、皇后とオドザヤにも言えることだが……皇帝の娘たちは皆、揃って母親に似ているのが不思議だ。

 さっき、カイエンとミルドラを見ていた視線の理由はこのあたりの事情からかも知れなかった。

 そして。

 第三妾妃、マグダレーナ。

 皇后同様、まだそれほど目立たない腹を労ったのか、ベアトリア風の重々しい色と形のドレスは緩やかな曲線を描いている。

 そして、どこか遠慮がちな第一、第二妾妃二人と違って、彼女には堂々とした余裕がある。今現在、腹に皇帝の子を宿している余裕というものであろうが、大柄な彼女の体全体が存在感に満ち満ちていることもまた、事実だ。

 そのマグダレーナの横にまっすぐな姿勢で座っているのが、最も新しく後宮に入った住人である。

 玄 星辰。

 第四妾妃になった彼女の顔には常に微笑が浮かんでいる。この日も、それは変わらなかった。

 彼女はほとんど会話には参加していなかった。この新しい後宮の住人は革命によって逃亡せざるをえなかった故郷、螺旋帝国渡りの柔らかい絹で作られた、まっすぐなシルエットの衣装を身にまとっている。螺旋帝国風に複雑に編み上げられた漆黒の髪にいくつも差し込んだ大きなかんざしが揺れている。

 真っ黒な瞳は何を見ているのか。

 カイエンは皇后よりも、マグダレーナの存在感よりも、この星辰の真っ黒な何も見ていない瞳と、口元の微笑みが気になっていた。

 あの連続殺人事件に関わってるのであろう螺旋帝国の皇女。それを知っているだけに、カイエンにはこの星辰の表情は不気味だった。

 今まで見ていても、ほとんど誰も星辰には話しかけない。それは他の面々にとっても、星辰の微笑みとその体から立ち上る雰囲気が取っつきにくいものだということを表してはいないか。

 そこまで見た、カイエンはやっと気がついた。

 あずまやから自分の背中に刺さってきた視線の主に。

 その人は、アイーシャとオドザヤ、それに続くラーラとカリスマを追うように、ゆっくりと席を立った。


 フランコ公爵夫人デボラ。

 年齢はアイーシャと同じくらいだろう。だが、このお茶会の客の中で唯一、「今も昔も臣下」という身分なのが彼女だ。

 ミルドラは皇帝の妹だし、カイエンも世間的には妹ということになっている。アイーシャの出身は平民だが、それを表立ってどうこう言える者などすでにいない。

 確か、デボラはカレスティア侯爵家の出身のはずだ。

 となれば、このお茶会では肩身が狭かろう。だが、先のオドザヤの立太子式で皇帝がオドザヤを支える者として、元老院長のフランコ公爵の名を挙げたことから、アイーシャにここへ呼ばれたことは間違いがない。

 あずまやでの歓談では誰にも話しかけられることもなく、おとなしく座っていた。

 うんざりした気持ちで会話の演技をしていたカイエンは、それを見かねて何度か彼女に話を振って見たが、デボラは用心深い答えしかしてこなかった。

 カイエンはそんなデボラの視線を確かめると、一手、打って出てみることにした。

「フランコ公爵夫人!」

 カイエンがミルドラに腕を貸したまま、振り返ってそう呼ぶと、デボラははっとしたように身構えた。

「こちらへいらっしゃいませんか? 甘いもの好きと伺っておりますよ。こちらでご一緒しましょう」

 もちろん、デボラが甘いもの好きなどと聞いたこともない。でまかせだ。デボラのちょっとふくよかな体型から思いついたにすぎない。

 そのカイエンの声は庭園じゅうに聞こえたので、デボラはアイーシャたちを憚るように一瞬、息を詰めたが、今日のカイエンには視線を向けたくない様子のアイーシャは何も言わなかったので、彼女はアイーシャとオドザヤ、それにラーラとカリスマ、それにマグダレーナが女官たちに促されて、見事な薔薇で飾られた天幕へ入るのを見送ってから、カイエンたちの方へやってきた。

 見ていると、キルケとアルタマキアの母娘と、星辰はまだあずまやに残っているようだ。

 デボラは先ほどまでは強い視線でカイエンの背中を見送っていたが、そうしてやってきたところを見れば、気が抜けたような顔つきをしている。

 派手な色を避け、薄い緑色の夏のドレスに身を包んだ彼女は、額に薄汗を浮かべている。

 アイーシャやオドザヤ、妾妃たちにに比べれば平凡な顔だが、それだけおとなしやかで上品に整っている。ややふっくらとした顔と体形なので表情が緩むと、とたんに人好きのする顔に見えた。

「大公殿下、ありがとうございます」

 意外にも、カイエンとミルドラの前にくると、彼女は安心したような様子で礼の言葉を述べた。

 どうやら、先ほどの強い視線は「助けてえ」という意味の意思表示だったらしい。

「あらあら。じゃあ、先ほどまでの厳しいお顔は……」

 ミルドラがくすくす笑いながら聞くと、デボラは真顔でうなずいた。

「私は皇后陛下のお取り巻きではありませんし、今日いらした方々とは初めてですので、緊張してしまいまして……先ほどまでも何度か大公殿下は私に話しかけてくださったので……つい」

 妾妃たちは、表の舞踏会などへは出られない。だから「お取り巻き」でもない限り、知り合う機会がないのだ。

 マグダレーナと星辰など、去年今年に後宮入りした妾妃とはもちろん、個人としては初対面なのだろう。

「公爵夫人でも緊張なさいますか」

 カイエンが笑いながら聞くと、デボラはカイエンの顔を眩しそうに見た。

「ああ、大公殿下。私の実家のカレスティアは侯爵家とは言っても田舎貴族。夫も元老院長といってもそんなに権力のあるわけではなし、公爵夫人とはいえ、雲の上の貴婦人方とのお付き合いはまた別物でございますわ」

 そこまで言って、デボラは目の前の皇帝によく似た二人の身分に、はた、と気がついたらしい。

「も、申し訳ございません。大公殿下やクリストラ公爵夫人を軽んじておりますわけでは……」

 カイエンは気にしないで、と言いながら、ひらひらと胸の前で手を振ってみせた。

「デボラ様、私もそう呼ばせていただきましょう。私のこともカイエン、とお呼びください。毎日、むくつけき部下どもとともに働いておりますから、間違っても雲の上の貴婦人などではありませんからね」

 すると、得たりとばかりにミルドラも付け足してきた。

「私のことも、ミルドラ、でいいですわよ。私も今では東国境の要塞で夫と共に国土防衛の任についておりますからね。そうでなくともこういう席は若い頃からあまり得意ではないの」

 いや、全然得意でなさそうには見えませんよ、とカイエンは内心で突っ込んだ。

 それから、デボラの話しを反芻して、なんとなく納得した。 

「なるほどね」

 カイエンとて、去年の騒ぎまではろくに皇宮に上がることもなく、己の職務だけに気を取られており、そのために皇帝に酷い方法で実力を試されることになったのだ。ヴァイロンまでも巻き込んで。

 アイーシャの取り巻きにはあのスライゴ侯爵アルトゥールだけでなく、ウェント伯爵、その弟のモラエス男爵までも入っていたのだから、皇帝一家と近いか遠いか、は身分位階だけで決まるものではないのだ。

「でも、皇帝陛下が立太子式でああおっしゃった以上、フランコ公爵は今や、時の人になろうとしていますよ」

 カイエンは、言外に「だから貴女もこんな席に呼ばれているんですよね」と言ったのだが、それはデボラにしっかりと伝わったようだ。

 三人は話しながら、一つの天幕へ入っていった。どこでもよかったのだが、そこは大きな木の陰で、涼しそうに見えたからだ。

 すぐにその天幕の係りの若い女官が、御用を伺いに来たので、カイエンは何か冷たい、さっぱりとした飲み物と冷たい菓子を持ってくるように命じた。真夏の日差しの中はちょっと歩いただけでも暑かった。あまり甘ったるい飲み物は飲みたくない。

 三人の前に、冷たい螺旋帝国渡りのジャスミン茶の入ったガラスの器と、夏の果物のシャーベットが置かれる。女官が下がると同時に、デボラは小さな声で話し始めた。

「そうですの。夫もそのことでは非常に驚いております。今まで、元老院には目もくれずに専制統治をなさってきた皇帝陛下が、宰相を置いたことにも。そして、立太子式であの宰相やカイエン様やミルドラ様、クリストラ公爵様、ザラ大将軍様に続けて、自分の名が出たことには心底驚いたと申しておりました」

 そこまで話して、デボラはちょっと言いにくそうに間を置いた。

「あの。実は、今日のこの集まりにカイエン様やミルドラ様もいらっしゃると伺いまして。それを夫に申しましたところ、なんとかお近づきになっておけと……。夫は夫で、宰相は無理でも、クリストラ公爵様や、ザラ大将軍様にはご昵懇をたまわりたいものだと申しておりました」

 カイエンとミルドラは顔を見合わせた。なるほど、それならば今までのデボラの態度もうなずける。

 カイエンはデボラとミルドラにも食べるように、と身振りをしてからシャーベットの冷たい器を手に取った。赤から緑までの色が美しいグラデーションを描いている。いくつもの果実のシャーベットを段になるように盛り付けたのであろう。贅沢なことだ。

「よくわかりました。その上に今度の皇后陛下とマグダレーナ様のご懐妊ですからね」

 皇帝との血のつながりもなく、サヴォナローラやザラ大将軍のように政治的軍事的に頂点の地位を与えられたわけでもない、今まで閑職である元老院長だったフランコ公爵には居心地が悪かろう。身の振り方いかんではどっちへ転がるかわからない駆け引きの中に引きずり込まれたのだ。

 カイエンはフランコ公爵テオドロの人となりは知らない。

 だが、この裏も表もなさそうな夫人の様子を見れば、腹に一物ある人柄ではなさそうだ。

 カイエンがシャーベットを銀の匙で口に運びながら、そこまで考えた時。

 アイーシャたちが入って行った天幕から、女官長のコンスタンサともう一人の女官が出てきた。

 コンスタンサはこちらへ、もう一人はあずまやのキルケたちの方へ向かっている。妾妃とその皇女よりも、「皇帝の妹」達を重視していることがそこに現れていた。

 やがて、カイエンたちの前にやってきたコンスタンサは、恭しい態度で言った。

「皇后陛下が薔薇の天幕にて、薔薇の香り尽くしのひと時を共になさりたいとのご意向でございます」

 見れば、あずまやからは早、キルケとアルタマキアの母娘と、星辰が庭へ歩み出していた。

「わかった。……参りましょう」

 カイエンはミルドラとデボラを促し、ゆっくりと薔薇で飾られた天幕の方へと歩き始めた。そこで何が起こるのか予想さえせず。




 それが起きたのは突然だった。

 まあ、事件や騒動というものは、常に突然巻き起るものなのではあったけれど。


 キルケやアルタマキア、それに星辰の後から薔薇の天幕に入ったカイエンたちは、ちょっと驚いた。

 外から見ただけではわからなかったが、その薔薇で飾られた天幕は、大きな、色とりどりの薔薇の巻きついた大きな薔薇の棚アーチの中にあり、ちょっとした貴族の夫人の居間くらいの広さがあったからである。

 そして、その正面奥には皇后のアイーシャが座っている。そこには大きなテーブルはなく、個々の椅子のそばに丸い小テーブルが置かれていて、茶菓はそこに供されることになっているらしかった。だから、当然、天幕の真ん中には広い芝生のスペースができている。

 天幕の隙間から入った夏の陽が、真ん中の整えられた芝生の上に複雑な文様を描いてるのもまた、美しい。

 だが、アイーシャ以外の貴婦人たちの座っている場所がなんだか変だった。

 アイーシャの横に座っているべき、皇太女のオドザヤが、かなり下座の方に座っている。ラーラとカリスマの母娘も離れた椅子に座っていた。

 マグダレーナはアイーシャの向かって右側の二番目に座っていた。

「趣向を変えてみたのよ」

 彼女だけは間違いなく一番上座に座ったアイーシャがカイエンたちへ声をかけてきた。

「そこの女官の持っている箱からくじを引いてちょうだい。そうしたら番号の席へ座るのよ」

 琥珀色の目が指し示す席を見れば、椅子の座面に小さなカードが置かれていた。アイーシャの左右の席はまだ空いている。カイエンはこんな際だがいやな予感がした。

「たまには無礼講もいいかと思ったの」

 キルケとアルタマキアは真ん中あたりの席に決まり、星辰は一番下の席になった。それでも星辰の表情はあの微笑みを湛えたままだ。

 カイエンはそれに続いてくじを引いたが、出てきた番号はなんと、二番。

 恐ろしいことに、それは、アイーシャの真横の向かって左側の席だった。

 カイエンが引いた札を見せると、その場に声にならない動揺が走った。

 カイエンの実母がアイーシャであることは、この場では本人たちとミルドラ、そして恐らくは女官長のコンスタンサあたりしか知らないことだが、彼ら二人があまり相性が良くない存在であることは皆、心得ていたからだ。

「これは恐れ多いことでございます」

 やってられねえよ、と内心でヤケクソ気味に思いながら、カイエンは会釈してからゆっくりとアイーシャの右側に腰をかけた。隣はアルタマキアである。

 もしかしたらこんなにアイーシャのそばに寄るのは初めてかもしれない。カイエンはそう思うと、なんとも言えない気分になった。だが、表情は変えない。

 ミルドラが引いた席が一番で、彼女はアイーシャの左隣、カイエンの向かい側へ腰掛けた。

 最後に残った席にデボラが座る。デボラの席は皇女のアルタマキアとカリスマの間だったので、彼女は居心地が悪そうだ。

「揃ったわね」

 自分が言い出したことなのに、まさか両隣にカイエンとミルドラが座るとは思っていなかったのか、アイーシャの声はちょっと上ずって聞こえた。

「用意なさい」

 アイーシャが命じると、各々のそばの小テーブルに女官たちが薔薇の香りの冷たい茶と菓子を静かに配り始めた。これがこの日の最高の趣向なのだろう。なるほど、薔薇ずくめではある。

 それが終わり、女官たちが引き下がると、天幕の真ん中の空間には誰もいなくなり、大きな空間ができた。

 貴婦人たちが、てんでに菓子の皿や茶のグラスを手にした、その瞬間であった。


 一番下座でラーラと向かい合って座っていた、星辰が静かに立ち上がったのは。


「えっ?」


 星辰の隣のカリスマが小さな声を上げた。

 彼女は、星辰が素早くその漆黒の、螺旋帝国風の複雑な形に結い上げられた髪に挿された簪の中の二本を引き抜いて、両手に掴むのを見たのだ。

 大きな花の飾りのついた簪は銀色の金属で、その軸はかなり太く、そして、その先は鋭く研がれて刃状に加工されており、先端は尖っていた。

 まるで、外科医の使うナイフのように。

 星辰は流れるような身のこなしで、貴婦人たちの座る席の真ん中の空間を走った。

 同時に、いくつかの悲鳴が上がった。

 カイエンが気がついた時、星辰はもう彼女の目の前に来ていた。だが、彼女の視線はカイエンの上にはない。


 アイーシャ!


 星辰の見ているのは正面に座ったアイーシャだった。

 それからの自分の動きに、カイエンは自覚がない。

 星辰に目を据えたまま、カイエンは左手の杖の握りを握りしめ、立ち上がった。そのまま、アイーシャの前に立ちはだかったのも、無意識のうちだ。

 両手で逆手に簪を握りしめた星辰の様子はなんだか手慣れているように見えた。

 カイエンは、無言のまま、左手の杖を持ち上げ、まっすぐに星辰の突進してくる方へと無造作に差し出した。

 振り上げたのではない。そのまま両手で持って、前へぬっと伸ばして見せたのだ。

 カイエンには星辰の両手の簪を叩き落とそうという頭はない。

 そんなことが出来る技量が己にないことは、わかりすぎるほどにわかっていた。

 カイエンのこの銀の握りの黒檀の杖には、細工がある。

 と言っても、仕込み杖というほどのものではなく、黒檀の芯をくりぬいて鉛が流し込んである、というだけだ。

 だから、この杖は重かった。その重い杖を、重いそぶりなど見せずに日常で使っていた、ということだけが特別だった。

 その、重たい杖の石突はもう、星辰の腹のすぐ前に迫っていた。彼我の距離が詰まっていたことがカイエンに有利に働いた。

 すでに杖の石突は星辰の懐に入ってしまっており、両手に凶器を持っていたために、星辰はそれを払いのけることも出来なかった。いや、出来たとしてもカイエンが前に体重をかけて両手で支えていた、その重い杖を片手で払いのけることは難しかっただろう。

 どすっ。

 鈍い音がして、突進してきた勢いのまま、杖の石突は星辰の腹の真ん中に突き当たった。

 足が悪いのが嘘のように、カイエンは一歩も後ろへは引かなかった。

 あまりの衝撃に、星辰は少し後ろへ吹き飛ばされ、たまらずに芝生の上にうずくまった。だが、両手の簪は手放さない。

 そこへ黒い風のようにカイエンは迫った。

 これも意識した行動ではない。強いて言えば、星辰がまだ凶器を持ち続けていたからだ。カイエンは怖かった。その恐怖のままに突進しただけだ。足のことなど忘れた火事場のナントカというやつだった。

「ぎゃあっ」

 カイエンは杖を逆さに持つと、その湾曲したT字型の銀の握りを、星辰の首の後ろに落とし込んだ。治安維持部隊が捕り物の時に使う、刺又さすまたの要領で、星辰の首を固定したのである。

 星辰の悲鳴と同時に、カイエンは彼女の凶器を持ったままの両腕の上に己の両足を置いた。

 腹への衝撃と、首へかけられた重さに動けない星辰は両腕にカイエンの全体重を乗せられて、身動きが出来ない。

 腰から下は自由のままなのだが、衝撃の残った体ではまだ起き上がれないのだ。  

「うぐっ!」

 星辰の喉から潰された空気の立てる音がした。

 首に置かれた杖の握りで、顔面を潰すように芝生に押し付けられた彼女には、舌を噛むことさえ出来そうになかった。



「女官長!」

 カイエンはその姿勢のままで、コンスタンサを呼んだ。

 弾かれたように、コンスタンサが庭園を警備している女騎士たちに手を振る。

 すでに配置されていた場所から出てきていた女騎士たちが、素早い動きでカイエンとその下に押さえつけられた星辰の周りに集まった。

「取りおさえよ!」

 コンスタンサが静かに命じると、女騎士たちはカイエンの踏んでいる星辰の腕をしっかりと抑えた。

「どいていいか?」

 カイエンが聞くと、女騎士たちはてんでにうなずいた。

 すでに星辰の両足もしっかりと確保されている。

 カイエンが杖を星辰の後ろ首からどけ、そこから離れると、一人の女騎士が素早く星辰に猿轡を噛ませた。自害させないためである。

 カイエンが 杖をどけ、ゆっくりと芝生の上へ降り立つと、ふーっというような安堵の音が、いくつか聞こえてきた。

「カイエン!」

 ミルドラが素早くカイエンのそばへ来て、腕をとって星辰のそばから離れさせた。遅れて真っ青な顔のオドザヤとデボラが、すがりついてきた。

 すがりつかれても困るんだけどな、と思いながらも、カイエンは彼女らに引っ張られて女騎士たちの後ろの安全なところへ移動した。

 今更に、冷や汗がどっと出てきた。


 その時だ。


「静まれ」

 静かな声が聞こえた。

 それは、中年の男の声。

 そして、男子禁制のこの後宮にただ一人、入ることができる男の声。

 それは、皇帝サウルの声だった。

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