去りゆくものの残す言葉を噛み締めよ

 そして。

 一月の終わり、皇宮の中央にある海神宮において、オドザヤ皇女の立太子式が執り行われた。

 すでにして皇帝と皇后が、もっとも正式な場合にかぶる、重々しい冠を頭に戴き、正装で玉座についている。

 そして、海の神オセアニア、栄光の女神グロリア、太陽の神ソラーナなど、有力な神殿の大神官が、大広間の高い壇上の玉座に座った皇帝と皇后の後方の脇にに居並ぶ。その大神官たちの一番奥に立つのは、天来神アストロナータ神殿の大神官である。

 数代前の皇帝が深い帰依を示してより、海神よりもアストロナータ神への信仰がこの国では重要視される傾向にあった。

 すでに各神殿への皇帝からの喜捨も済み、ここに大神官たちが居並ぶことで、新しく誕生する帝国の後継者を神々が祝福していることを示しているのである。

 今日の主役である第一皇女オドザヤは未だ入場していない。

 皇帝と皇后の脇、と言っても壇上のすみに、妾腹の二人の皇女、第二皇女カリスマと、第三皇女アルタマキアが静かに着席している。

 他の後宮の妾妃たちはそこにいない。もとより人質としてやってきた彼女らにはこういった公式行事に出る自由も権利もないのである。

 大広間の向かって右側には、大公カイエンを筆頭として、その後に筆頭公爵クリストラ公爵ヘクトルと、皇帝の妹である公爵夫人ミルドラ、というように公爵から始まる臣下たちが宮廷での位階の順に居並んでいる。

 大公のカイエンやクリストラ公爵はそれぞれの身分に即した色と意匠、それに勲章のついた重々しい大礼服姿で、貴婦人のミルドラも青っぽい銀色の地紋のある、重たい絹の飾り気の少ないドレスに斜めにかけた綬章に勲章をつけた姿である。

 ちなみにヘクトルとミルドラ夫妻の次に並ぶのは、元老院長を務めるフランコ公爵夫妻であった。

 彼らは第一皇女オドザヤの入場を待っているので、今は起立しているが、その後ろにはきちんと椅子が用意されていた。もっとも、そこに居並んでいたのは伯爵家までで、子爵家以下の当主と夫人たちは海神宮の外に設けられた場所に待機している。

 そして、彼ら大貴族と向かい合うようにして向かって左側に立つのは、宰相サヴォナローラをはじめとする、皇帝の政務補佐官たちと軍人たちだ。 

 ハウヤ帝国だけに限ったことではないが、文官にも武官にも貴族出身者が多い。

 平民出身のサヴォナローラが左側の筆頭に立っているのは、実は皇帝サウルが最近になって行ったそれまでなかった、異常な人事があってのことであって、彼のすぐ隣に立つ大将軍エミリオ・ザラは子爵家の出身だ。だが、彼の場合には大将軍として元帥府を任されたことによって、兄のザラ子爵家当主ヴィクトルよりも上座に立つことになっていた。

 ザラ大将軍の後には帝国軍の将軍たちの姿が並び、その中には居心地の悪そうなあの、ジェネロ・コロンボの姿もあった。

 将軍たちの後には、各国の外交官たちも居並ぶ。妾妃たちの故郷、属国ネファール、自治領スキュラ、それに新妾妃マグダレーナのベアトリアからの使節と外交官の姿も見えた。

 その中に螺旋帝国の朱 路陽の姿を見つけたカイエンは、あの佩玉を皇帝とサヴォナローラの前で朱 路陽に返還した時のことを思い出していた。

 カイエンもサヴォナローラも、新皇帝、馮 革偉の元へ、直接に朱 路陽が持ち帰ると思っていたのだ。佩玉のあの由来話からすれば、そう思うのも当然であっただろう。新皇帝は朱 路陽に、東の端の螺旋帝国から、この西の端のハウヤ帝国まであの佩玉を追わせたのだから。

 だが、朱 路陽はハウヤ帝国に残り、あの佩玉は最初に皇宮に現れた副官の方が持ち帰ったのだという。

「あの副官、くせ者だったのかも知れませんね」

 サヴォナローラは副官を見ている。見ていないカイエンにはなんとも言いようがなかったが、サヴォナローラは朱 路陽の代わりに着任状を持って来た副官を思い出して、真っ青な目を光らせていた。


 

 やがて。

 海神宮の入り口の大扉が、重々しい音とともに開かれた。

 しんとして位並んだ廷臣たちの間、真っ赤な天鵞絨の絨毯が敷かれた上を、遠くにまっすぐに海の見える海神宮の巨大な入り口から、一人の美しい若い女が入ってくるのが見える。

 皇宮は小高い丘の上一面に建てられ、特にこの海神宮はハーマポスタール港の青い海が一望できる位置に、前に遮るものなく建てられている。

 大扉に四角く切り取られた青い空と青い海を背景に、オドザヤ皇女は重たい毛皮の縁のついた、鈍い金色に輝く布地のマントと、真っ青な海の色のドレスの長い裾を後ろに引き、黄金の髪を高く高く結い上げた姿で立っている。

 結い上げた髪にはなんの飾りもない。

 それは当然だ。

 彼女にはこの立太子式で、輝かしい皇太子の冠が与えられるのであるから。

「第一皇女、オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラ殿下!」

 普段呼ばれることのない彼女の本名がすべて読み上げられると、オドザヤは父と母、皇帝と皇后の待つ、海神宮大広間の正面へ向かって歩き始めた。

 緊張しているのだろう、蒼白な顔にはいつもよりも濃い化粧が施されているが、きりりと引かれた眉の下の琥珀色の目は固く凍りつき、瞬きさえ忘れたように正面の両親を見つめている。 


 実は、オドザヤにとって、皇太女に決まって嬉しく思ったこともあった。

 それは、後宮をで出ることができるからである。

 これまでの皇子たちもそうだが、立太子した皇子には新しく、彼だけの宮殿が与えられる。そこは皇太子宮と呼ばれる、皇帝の居室のある宮にも近い場所なのだが、オドザヤもこの例に倣い、立太子した今日から後宮を出て、新しい宮で起居することになるのだ。

 酔い痴れて我を忘れた母、オドザヤに酔っては絡みつく皇后アイーシャに悩まされる頻度は、ずっと減るであろうから。


 だが、そんなことは今の彼女の頭の中にはなかったであろう。

 長い赤い絨毯の上を歩き、叔母のミルドラの前をすぎ、今日も装飾された銀の握りのついた黒檀の杖をついて立っているカイエンの前を通り過ぎ。

 オドザヤは皇帝家族の待つ、壇の上へと続く階段を静かに登った。

 こんな時だが、恐ろしく長い裳裾を引きながら危なげなく段を登る、オドザヤの優美な動きにカイエンは感心した。螺旋文字の習得には泣いて苦労していたオドザヤであるが、皇女としての優美な身のこなしはさすがである。カイエンも今日は大礼服の上に重いマントを羽織っているが、足が悪いことで彼女はここまで歩いてくるのにかなりの苦労を強いられたのである。

 皇帝と皇后の座る前にオドザヤが上がると、同時に皇帝夫妻が玉座から立ち上がった。その前にオドザヤが静かにひざまずき、首を垂れると、皇帝の後方脇に立っていた大神官たちが一人一人、祝辞を述べる。最後にアストロナータ神殿の大神官の言葉が終わると、皇帝の前に侍従が皇太子の冠の載せられた天鵞絨の台を恭しく差し出す。

 皇太子の冠は、その昔、皇帝サウルも立太子式で父皇帝から授けられたものである。

 皇帝サウルは冠を手に取ると、おごぞかに宣言した。


「ここに、神々の加護を受け、ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの皇太女として、第一皇女オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラを立太子することを宣する」

 オドザヤの金色の髪の上に、同じ金色に輝く皇太子冠が、皇帝の手で載せられた。

 カイエン以下、臣下はそれと同時にその場に黙ってひざまずいた。




 こうして、第一皇女オドザヤは、ハウヤ帝国皇太女となった。

 帝国始まって以来、初の女の皇太子が立ったのである。

 彼女が順当に即位すれば、これまた初の女帝の誕生となる。

 ハウヤ帝国創設より三百年あまり。皇帝家の継承は大きな変換を遂げたことになる。

 そうして考えてみれば。

 ハウヤ帝国首都ハーマポスタール大公の地位というのも、他国では見られない継承方法によって存続されてきたものであった。

 大公は帝国創設時には存在しなかった地位である。

 帝都ハーマポスタールが他国に類を見ない巨大な都市へと急速に発展した時代の皇帝によって創設された地位なのだ。広大な都市機能を維持するために帝都そのものを「領地」とする大公が必要とされたのがその理由である。そして、帝都そのものが領地なのであるから、大公は皇帝に極めて近しい存在でなくてはならない。

 であるから、大公の地位は終身であるが、その継承は血統ではなく、皇族の中から代ごとに選定されることとなった。

 そして、選定される大公は時の皇帝の兄弟姉妹の中から選ばれることに決まったのだ。

 当然、弟よりは兄が皇帝位を継ぐことから、大公の位はすべて皇帝の弟か妹によって継がれてきた。

 女大公カイエンの場合には、さらに複雑な事情が存在したが。

 ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの即位の少し前に、彼の父帝の弟である、前の大公が死去した。それによって新大公に任じられたのは、当時の皇太子サウルのただ一人の同腹の弟であったアルウィン皇子だった。すでに姉のミルドラ皇女はクリストラ公爵に嫁いでおり、他に大公にふさわしい者はいなかったからだ。

 だが、皇帝サウルの即位後、大公アルウィンは兄の皇帝に先んじて亡くなった。

 本来ならば、すでに皇帝の兄弟に大公のなりてはなく、大公位は空位になりかねなかった。

 だが。

 大公アルウィンの妻として、カイエン大公女を産んだアイーシャが、皇帝サウルの皇后になるという「椿事」のために、大公アルウィンとアイーシャの婚姻は無効とされ、それに従って、カイエン大公女は皇帝サウルと大公アルウィン、そしてクリストラ公爵夫人ミルドラの「末妹」の皇女という地位を授けられた。

 同時に、時の大公アルウィンが己の実の娘であるカイエンを次の大公に、と望んでいたことによって、この事態は回避されることになる。

 アルウィンが兄のサウルよりも長生きしていたら、この約束は反古にされていたかもしれない。

 皇帝サウルの次代の皇帝は彼の子になるのだから、次の大公もサウルの皇子皇女の中の一人になったであろうから。

 だが、アルウィンは皇帝サウルより先に亡くなり、その瞬間に公式には皇帝サウルの末妹であるカイエンが大公位を継承することが自動的に決まったのである。

 そういう「偶然」の中で大公になったカイエン。

 彼女もまた、終身大公として、その死まで大公位にあることが求められる存在であった。

 カイエンはそっとオドザヤの血の気のない顔を見上げた。

 そうだ。あなたももう、逃れることはできない。 

 カイエンがそんなことを心の中で転がしていた時。



「我は去りゆく者である。ゆえにこの時、世継ぎの定まった今こそ。ここで話しておきたいことがある」

 皇帝サウルが突然、話し始めた。

 そこにいた皇后も、皇太女オドザヤも、脇で忘れ去られていた他の皇女たちも、大公のカイエン、宰相のサヴォナローラ、そして大将軍のザラ将軍以下、臣下のすべてが動きを止めた。

 皇帝がここで話し始めることはあらかじめ知らされていた「式次第」にはなかったことであったからである。

 そして。

 今、聞いたばかりの言葉の意味。

 この皇帝の言葉はさらりと口にされたが、その意味を推し量れば……。

 皇后のアイーシャが皇帝の横で、言葉を失っているのを見ればわかる。

 このオドザヤの立太子の日に、皇帝が口にすべき言葉とは思えない、それは不吉な未来を暗示する言葉であった。

 だが、その不吉さを除けば、皇帝はすでに自らの死の後のことを具体的に考えているということ。そして、それをここに集ったすべての貴族たちの前で表明したという事実が残る。

「今日この日、こうして我が後継者として第一皇女オドザヤを立太子したことによりて、我が治世の後を担う者も決定した」

 皇帝はそこに集った臣下に、この言葉が浸透するまで待った。

「オドザヤは未だ未熟であり、そして女でもある。これを直接に支える柱として、我は以下の者を指名する」

 皇帝はここで言葉を切った。 

「ここにおる宰相サヴォナローラ、そして臣下の第一としてハーマポスタール大公カイエン、軍の第一として大将軍エミリオ・ザラ、元老院長としてフランコ公爵テオドロ、最後に我が妹、そしてオドザヤの叔母としてクリストラ公爵夫人ミルドラおよびその配偶者、クリストラ公爵ヘクトルを指名するものである」

 言葉にならない人々の発した「音」がそこで波のうねりのように海神宮を寄せては返していった。

 そう、誰も皇帝のこの宣言に対して、未だ誰も言葉で答えることができなかったのだ。

 そして、皇太女オドザヤを補佐するべきものの中に、実母である皇后アイーシャの名前がなかったことに、気が付いた者はほとんどいなかったのである。


「我は去りゆく者である」

 皇帝はもう一度、繰り返した。


「去りゆくものの残す言葉を噛み締めよ」

 皇帝サウルはその灰色の眼で、臣下一同をぐるりとねめつけた。

「ハウヤ帝国よ永遠なれ。神々の加護のもと、永遠に栄えよ。これはこの皇帝サウルの残す希望である。人として子として親として、そしてこの大国の父たる皇帝として我は願う。皇太女オドザヤよ。汝がこの国土の母としての任務を全うすることを我は切望するものなり」


 臣下の筆頭として皇帝とオドザヤのすぐそばにいた、カイエンは見た。

 わななくオドザヤの唇。

 凍りついたように動かない皇后アイーシャ。

 そして。

 言うべきことをすべていい終わり、ゆっくりと玉座にかける皇帝サウルの、青白い顔を。

 去年の春に始まった「嵐」は未だ終わっていない。

 嵐は吹き荒れたまま。

 そして未だ嵐はその序章を奏でたにすぎない。

 カイエンにはそんな気が、していた。


 



 大公軍団の第一回女性隊員の募集が行われたのは、その年の三月である。

 同時にこの年度の新隊員の募集も行われ、百人あまりが新規に隊員候補生として訓練に入った。

 カイエンは、自分や教授、それにイリヤや双子、それにヴァイロンも立ち会って決定した第一次女性隊員候補生の名簿を見ながら、去年の三月に起こった男妾事件からの一年の長さをしみじみ実感した。

 カイエン本人にとってみても、この一年間は怒涛の一年であったと言える。

 それまでの彼女の人生が、ただの足の悪い頭でっかちな大貴族の女の子の人生だったとしたら、彼女はこの一年で、やっと大公としての人生を始めたようなものだ。

 カイエンは手元の名簿の中の、女性隊員候補生の部分を見た。

 そこに書かれた名前は、わずかに四名。

 実は六十人以上の応募者があったのであるが、最初の採用ということもあり、訓練途中での落伍者を出さないために厳しい選考が行われたためであった。

 隊員の募集は年二回であるが、次回の応募者や合格者はもう少し多くなるかもしれない。

 そのためにも秋までには訓練を終え、仕事に就けそうな、身体的、頭脳的な実力のあるものだけが選抜されたのだ。

 たった四名の名簿。

 そこに書かれた名前は、奇しくもハーマポスタール大公カイエンの波乱に飛んだ、数奇な人生に常に寄り添った女たちの名前である。


 トリニ・コンドルカンキ  二十歳

 ロシーオ・アルバ  二十二歳

 ブランカ・ボリバル  二十四歳

 イザベル・マスキアラン  十九歳


 トリニはあの、教授の私塾の大家のトリニ。女性隊員の募集をカイエンに持ちかけたのは、マテオ・ソーサであり、その念頭にあったのが彼女であったことを思えば、これは順当な選抜である。

 トリニの螺旋帝国人の父親譲りの体術、武術は帝国軍人上がりのイリヤやヴァイロンも瞠目させるレベルのものであり、実際に格闘術の体術自慢として彼女と立ち合った隊員の全てを、トリニは簡単にひねり上げた。筆記試験の結果も断トツで、螺旋文字の読み書きまでできるのだから、彼女の合格は当然のことであった。

 そして、これは試験の面接でヴァイロンが驚いたことだが、ロシーオは、あの子猫のミモを連れてきた猫のような印象の女であった。

 彼女は年齢二十二。すでにして一児の母親だった。それも、結婚していない未婚の母である。

 ロシーオの突出していたところは、身の軽さだった。猫のような容貌通りに彼女は壁を猫のように這い上がり、塀の上を音もなく早足で移動することも出来た。屋根の上を歩くのも危なげなく、まさに帝都防衛部隊の市街戦訓練向けの人材だったのだ。

 最後のカイエンとの面談で彼女が語ったところによれば、彼女はどうやら獣人の血を引いているようなのだと言う。

 その証拠として彼女が語ったのは、自分の産んだ今年三歳の息子が生まれた時の姿が、毛むくじゃらの一匹の虎の子のようだったので、驚いた産婆に危うく殺されるところだったと言う話であった。

「今はもう、普通の子供と同じに見えるんですけど、うちの子はこちらの旦那と同じなんじゃないかと思うんですよね」

 そう言って、ロシーオが見上げたのは勿論、ヴァイロンの顔である。

 ヴァイロンはなんとも言えない顔でロシーオを見た。そういう子の苦労を、彼はよく知っている。

「あたしも子供の頃から猫みたいに身が軽くて、変だ変だと言われてたんですけど、どうやら、あたしには獣人の血が混じっていたみたいですね。それが息子に出てきたみたいです。結婚するはずだった相手にはこれで逃げられたんですよ。えへへ」

 ちょっと寂しそうに、ロシーオは言った。

「あたしの母親はコロニア・ビスタ・エルモサで煙草屋をやっているんで、息子の世話はある程度任せられますし。何より、あたしはこの大公宮が昔からなんでだか好きでね。……当代は女の大公さんだし、ここで働けないかなあ、とずっと思っていたんですよ」

 だから、あの時、ミモたち子猫のバスケットを抱えて裏庭のそばをうろついていたのだという。

 子持ちのロシーオの採用は、教授が強く支持した。彼女が問題なく働ける環境を提示できれば、もっと広い範囲から有能な女性を集められると言うのである。

 そういうわけで、ロシーオの採用は決まった。

 ちなみに、最後に、カイエンが、なんとはなしに聞いた質問の答えに、その場にいた皆は固まったものである。

「ところで、お子さんのお名前は?」

 カイエンの問いに、ロシーオは嬉しそうに微笑んだ。母親として、大公のカイエンがそういう質問をしてくれたことが素直に嬉しかったのであろう。

「ああ、ウチの子ですか? 生まれてきた時には虎みたいな黄色と黒の大きな縞があったから、“ティグレ”って名付けましたよ」

 ティグレ。

 そこにいたカイエン以下、皆が一瞬、変な顔になった。

 それはまさに「虎」という意味の普通名詞だったから。

 もっとも、ヴァイロンは笑わなかった。

 彼の二つ目の名前は「レオン」と言うが、これはアキノとサグラチカの家の前に捨てられていた時の赤子の彼が、「獅子レオンの子」のように見えたからであったから。だが、レオンは普通名詞であるだけでなく、一般に男子の名として周知されている名前である。


 ブランカ・ボリバルは、カイエンの奥付きの女騎士の一人の、あのブランカである。

 彼女はアキノの里の出身で、カイエン付きの女中頭のルーサの姉だ。

 結婚して子供もいたのだが、夫に先立たれたため里に子供を残してカイエンの女騎士になった。そのブランカがアキノと相談の上、応募してきたのだ。

「子供と一緒に暮らしたいのが本心です。でも、それでは里の一家が立ちいきません。それで大公殿下の女騎士として奉公に上がりましたが、この度の大公軍団の女性隊員募集を聞き、ここならば定期的に休暇もいただけるし、昇進すれば賃金も上がることも知りました。里に残した子のことを考えると、こちらのお仕事の方が私にとってはありがたく……殿下の後宮の警備は今の所、ナランハとシェスタの二人が夜間に交代すれば人が足りておりますから、彼女らとも相談いたしまして、応募を決めました」

 そう、ブランカは言った。

「もちろん、今まで以上に皆様のお役に立つよう、精進していく心積もりでございます」 

 ブランカの冷静沈着な仕事ぶりはカイエンもアキノも評価していた。それで彼女の採用は決まった。


 最後の一人、イザベル・マスキアランはあの“メモリア”カマラの従姉妹である。

 今年、十九でそろそろ結婚を考える普通の娘だったという。

 彼女はカマラのような「普通にある能力と引き換えに異能を持って生まれてきた人間」だという自覚は無かった。だがその彼女が女性隊員に応募してきたのは、従兄弟のカマラのこんな一言からだった。

「イザベルも、変わっているよなあ。俺は、見たことを忘れないけど、イザベルは、聞いたことを忘れないよねえ」

 カマラにそう言われるまで、イザベルは自分の持っている能力に気がついていなかったらしい。

 だが。

 カマラが「その時、初めて気がついた」という風に言ったこの言葉に、イザベるはぎょっとした。

 イザベルは従兄弟のカマラのように、異能と引き換えに普通の人としての能力に不自由をきたしてはいない。だが、カマラに言われてみれば、思い当たることがいくつもあった。

 子供の頃から、「お前はオルゴールみたいな子だねえ」とよく言われてきたことを今更に思い出す。

 一度、聞いた言葉はいつでも何度でも思い出して、再生できるのだ。

 イザベルにその時、結婚を考える相手の一人でもいたら、彼女は応募してこなかっただろう。

 だが、幸福なのだか不幸なのだか、未だに彼女にはそんな相手の候補は無かった。

 家にいた頃は「絵が上手いだけで、何の役にも立たないロクデナシ」と言われていた、従兄弟のカマラは今、大公殿下の治安維持部隊で密かに活躍しているらしい。

 ちょっと、試しに受けてみようかな。

 イザベルはそんな軽い気持ちで応募してきた応募者の一人でしか無かった。

 だが。

 試験として彼女を事件現場に連れて行って見たイリヤや双子は驚いた。

 イザベルはその時に聞いた人々の話を、相手が一人だろうと複数だろうと、一言一句、残さずに聞き取り、記憶し、そして再生できることを証明して見せたのだ。

 この能力ゆえに、イザベルは採用された。

 体力の方は普通だったが、これは彼女の従兄弟のカマラとて同じである。

 こうして。

 後に「女大公の四方神」と言われることになる女たちが、この時、カイエンの周りに終結した。


 



 そして。

 オドザヤ皇女の立太子式から半年あまり。

 帝都ハーマポスタールに本格的な夏が訪れたころ。

 皇宮からの重大発表に帝都は湧き上がることとなる。


 曰く。

 皇后アイーシャと、皇帝の第三妾妃マグダレーナの二人が、ほぼ同時に妊娠の兆候を示した。

 これを受け、帝都中の読売りが号外を出し、帝都は大変な騒ぎとなったことは言うまでもない。

 だがこの時代でなくとも、妊娠と出産は命にも関わる大事であり、子が出来たからといって直ちに祝賀ムードに至るわけではない。

 時に、皇后アイーシャ、三十五歳。 

 この時十九歳の大公カイエンと、十七歳のオドザヤ皇太女を産んで以来、子の出来なかった皇后がこの年齢で妊娠したことには、多くの憶測が流れた。中には大変、不敬な憶測もあったことはあったが、それは表立って口にできるような種類のことではなかった。

 後宮から出ることの出来ない妾妃のマグダレーナと違い、皇后であるアイーシャは公務で皇宮の外へ出ることもあったからである。だが、それも大勢の女官と護衛に囲まれてのことであり、間違いがあったと本気で考えるような輩は少なかった。

 一方、第三妾妃のベアトリア王女、マグダレーナは二十五になったばかり。

 どちらかが生む子が皇子であれば、立太子したばかりのオドザヤの処遇はどうなるのか。

 だが、オドザヤの立太子と、マグダレーナ、そして玄 星辰の二人の妾妃の後宮入りをほぼ同時に行った皇帝サウルと宰相サヴォナローラの頭には、この事態も当然の予想としてあったっはずである。


 まさか、皇后までもが妊娠するとは思っていなかったとしても。



 アイーシャとマグダレーナの産月は同じ十一月下旬とされた。

 大公カイエンは同じころに十九歳から二十歳になるであろう。



 ハウヤ帝国はこの年、大きな変革期を迎えることになる。




 

            第二話「冬のライオン」了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る