ホアン・ウゴ・アルヴァラードの訪問

「読売りは大衆の耳であり目であり、そして真実を伝える最善の口でなければなりません」



     ホアン・ウゴ・アルヴァラード 「事件はめぐり印刷機はまわる」より。





 十二月の終わりにさしかかった頃、連続殺人事件の犯人が五人目のクーロ・オルデガで、彼の死は自殺であったとの発表が、治安維持部隊から正式に発表され、それが帝都中に読売りの紙面をもって伝えられると、帝都の市民は安堵した。

 だが、この稀代の殺人事件についての噂話も大っぴらに帝都のあちこちで囁かれるようになった。

 俗に人の口に戸は立てられぬと言うが、犯人のオルデガの自殺、という報には疑いを挟む者も少なくはなかったのだ。

「四人も惨殺した犯人が自殺だってさあ。治安維持部隊の捜査が迫ってきたからだって言うけど、本当は口封じなんじゃねえの」

「ここだけの話だけど。四人は殺された後、内臓を取り出されてたっていうじゃないか。そんな頭のおかしい犯人が自殺なんてするかねえ」

 ハウヤ帝国では、地方の村でも初等教育の学校があったり、神殿の神官が個人的に教室を開いて教えていたりしたから、周辺諸国と比べれば識字率は高かった。それゆえに小銭と引き換えに撒かれる読売りを、だいたいのところ読める者が多かったこともあるだろう。そうでない者も読める隣人に読んでもらい、盛んにこの事件の話題に花を咲かせる時期が続いた。


 そうした中、最後の事件に関わったディエゴ・リベラが釈放された。

 厳重にあの最後の事件で見たことについて口止めをされた後の事である。

 彼が大公軍団の帝都防衛部隊の顧問に収まったマテオ・ソーサの私塾の学生という、いわば「身内」でなかったら、彼の釈放はなく、彼は一生を深い獄舎の中で終えたかもしれない。

 トリニと家族に迎えられ、這々の体で大公宮の留置場から出て家路につくディエゴと反対に、大公宮へ移り住んできた者がある。

 他ならぬ、マテオ・ソーサである。

 彼は今年いっぱいをもって、国立士官学校の教授の職を辞し、大公軍団の顧問に就任することになった。後任には、あの頼 國仁が招来されることに決まっていたが、長く教授職にあった彼は、しばらくは非常勤の講師として士官学校への勤務も求められた。

 だが、国立士官学校の教授という「官職」からは退いた彼は、それまで住んでいた官舎からは出なければならなくなった。

 そこで新しい住居を探すことになったのだが、最初、カイエンの執事のアキノと乳母のサグラチカが、自分たちの住んでいる大公宮内の住居を開け渡そうと申し出た。顧問になる教授の住居は大公宮に近い方が都合がいい。それは彼の足が不自由なことからも言えることであった。

 そして、アキノとサグラチカは大公宮のカイエンの周りにいることが多く、夜も帰らずに大公宮内の部屋で休むことも多いので、彼らの住居は半分以上、空き家のようなものだったからだ。

 だが。

 ここで、ボソッと口を挟んだ者がいた。

 宰相サヴォナローラの弟で、宰相から差し向けられて大公宮の「元」後宮に一人で住んでいる、無位無官の変なやつ……ガラである。

 相変わらず、無表情の強面で大公宮内を徘徊する、最近の通称では、「人の形をしたイヌ」。

 今回の事件で役に立つことが証明されたので、カイエン以下、最初はバリバリと火花を散らしていたヴァイロンさえもその居候状態に文句が言えなくなってしまった、真っ青な目の灰色狼のような男である。


「……俺の今いる部屋はとても広い」

 教授の引っ越し先について話が行われていたのは、大公宮奥殿のカイエンの私的な書斎で、カイエンと当事者の教授、それにヴァイロンとアキノとサグラチカの夫婦がいたのだが、みんながびっくりしたように彼の方を見た。カイエンの膝の上に乗っていた子猫のミモさえもびっくりしたように丸い目を見開いている。

 恐ろしいことに、ヴァイロン以外の人々はガラがそこにいることにさえ気がついていなかったのだ。いつの間に出てきたのか。

「それはそうだろうな」

 驚いたことに、ガラの発言に答えたのはヴァイロンだった。翡翠色の厳しい瞳が真っ青な瞳にまっすぐに向けられた。

「あそこにはお前のいる区画以外にも、余っている部屋がいくつもあるからな」

 ヴァイロンはガラの言いたいことがもうわかったらしい。

 現在、ガラが潜んでいる「元」後宮には、何人もの妾妃を囲える部屋が存在する。

 先代のアルウィンの代に短い時期、アイーシャが住んでいた区画であり、男妾にされたヴァイロンが最初に入ったところ、に今住んでいるのがガラで、その他の部屋はアルウィンの前の大公の時代に使われて以降、閉ざされたままだ。

「しかし、ソーサ先生を後宮のお部屋に住まわせるなんて、失礼だろう。それに……」

 ヴァイロンがなんとなく最後の方で言いにくそうにすると、ガラは目をそらすことなく、続きを言ってのけた。彼にも聞かなくてもヴァイロンの話の先は見えているらしい。

「噂なら、もう立っているぞ。大公殿下の後宮には赤鬼、青鬼が……」

「うるさい」

 ヴァイロンはガラにみなまで言わせず、声音だけは静かに切って捨てた。言外に「黙れ!」と言っているのが誰の耳にも聞こえて来るようだ。

 話にいまひとつ、ついて行けていない、カイエンやアキノ、それにサグラチカの前で、二人の大男の会話は続く。

「下世話な噂話を殿下のお耳に入れるな」

 ヴァイロンはガラをまっすぐに睨んで言い切った。

 なんだか雰囲気が怪しくなってきたようだ。カイエンはやや慌てて自分の左右を見回した。

 ヴァイロンとガラはカイエンの座っている書斎の机の左右に立っており、アキノとサグラチカはカイエンの後ろに立っている。

 教授はカイエンの前に置かれた椅子に粗末な杖を手にして掛けていたが、ここまで聞いて話の先が見えたらしく、カイエンの方を見て、にやにやと目元、口元を笑み崩した。だが、言葉は挟まない。もし、脂ぎった中年のおっさんがこの表情で見てきたらカイエンもゾッとしただろうが、教授は小さくて枯れ細った中年だったので、そういやらしくは見えなかったのが幸いではあった。

「赤鬼、青鬼、ああ! そうか!」

 そうして、やっとカイエンが気がついて、手を打った時のヴァイロンの顔と言ったらなかった。

「殿下……」

 カイエンは彼の事は無視して、うんうん、とうなずいた。そして、うれしそうに言った。

「そうか。そんな噂がもう立っているのか。すごいな、こんな私が性豪とか男漁りの悪女とか言われているのかな」

 この春以前のカイエンだったらこんな言葉の列挙はできなかったであろうが、ヴァイロン一人とは言え、男を知った女となったカイエンは元からの口の悪さもあって、こんなあけすけな物言いもお手の物になっていた。乳母のサグラチカはカイエンの後ろで密かにため息をついた。

「……今のところ、それほど悪い方向への噂にはなっていない。だが、気をつけたほうがいいだろう」

 答えたのはガラ。瞬時にヴァイロンが睨んだが、ガラは知らんぷりだ。

「……それはそれとして、俺が言いたいのは、ここの後宮にはまだ部屋がいくつも空いているということと」

 ガラは教授の方を見た。

「そこの先生も足が悪いんだろう。なら、近くに住んでいたほうが楽だということだ。……俺が言いたいのはそれだけだ」

 終了! とでもいうように、言い終わるとガラはさっさと皆に背中を向けた。いつもながら迷いの一切見えないキレのいい行動である。

「俺のいる部屋が一番いい部屋なら、俺が他へ移る」

 ガラは後ろ向きのまま、そう言い置いて去っていく、その後ろ姿を見送ってから、カイエンはにこやかに教授に話しかけた。引きつった顔のヴァイロンには構わない。ここで構うと後で二人になった時にやっかいな気がする……。

「教授、赤鬼、青鬼の次の三人目の……ナントカ鬼になるお気持ちはありますか」

 ちょっとだけおどけた感じに言ってみた。ちなみに、教授の士官学校でのあだ名は悪魔メフィストフェリコである。

 さすがのマテオ・ソーサも、そこで我慢できなくなったらしい。

「ぐふっ」

 と、変な音をたてて吹き出すと、椅子から落ちそうな勢いで笑い出し、息を詰まらせてむせながら、彼は答えた。

「あははははは。堪りませんなあ。うふふ。この歳で十九の大公殿下の男妾として世に登場ですか! うははははは。苦しい。これは苦しい。……でも、余計な距離を歩かないで済むのは、ありがたいことなんですよねえ。ヴァイロン・レオン・フィエロ、君には実感できないだろうけれど、こんな足になると、一歩でも余計な距離は歩きたくないものなのだよ」

 この言い分はカイエンにはよく理解できるものだった。

 杖を使わないと歩きにくい者にとっては普通の人の「ちょっとの距離」が意外に負担になるのだ。時間もかかるし、歩けば歩いただけ後で疲労と痛みが強くなる。全く歩かないわけにはいかないが、出来れば負担は減らしたい。

 それに、顧問の教授がすぐ近くに住んでいるのは、いろいろと便利だ。安全面でも特別な配慮をしなくて済む。

 教授は仏頂面のヴァイロンの方を見上げた。すでに笑いすぎて涙目だ。

「ヴァイロン・レオン・フィエロ、すまないが私も、もうとっくに、図々しい中年男の一人になってしまっていてねえ。……ぐふふ。ごめんごめん。他意はないんだが、これからの私の仕事を考えると、ガラ君のアイデアはなかなかに魅力的なんだよねえ。家賃もかからずに済みそうだし」

 そこまで言うと、教授は今度はアキノの方を見た。

 執事のアキノは世間の目をやはり気にしたのだろう、痩せた顔に厳しい表情を浮かべたまま、先ほどから黙ってしまっていたからだ。

「アキノさん、心配しないで。大丈夫、世間の噂の方は私の教え子にちょうどいい子がいますからね。うまく操作させますよ」

 アキノはそれまで口こそ挟まなかったが、顔色には憂慮の念が見て取れた。それを教授はちゃんと見ていたのだ。

「ソーサ先生、その方は」

 アキノがたずねると、教授は力強くうなずいた。

「私の引っ越しの前に、彼をこちらへよこしましょう。なに、帝都の読売りの中でも大手の新聞の記者をやっている男ですよ……向こうも来たくてたまらないところでしょうから、丁度いいでしょう」



 

 そういうことがあって、マテオ・ソーサは年末のぎりぎりになって、大公宮の一区画へ収まった。

 結局、今、ガラのいる区画はそのままに、教授のために隣の締め切られて長い区画を掃除し、簡単に補修させることになった。その補修にやや日にちを取られたのである。

 ガラは教授に部屋を譲ろうとしたのだが、アイーシャのいた頃から変わらない部屋のしつらえを見て、教授がこう言ったからである。

「ああー。だめだめ! こんな大きな寝台じゃあ、小さな私は布団で溺れてしまいますよ!」

 と。

 教授の入った部屋は、先先代の大公の寵愛した、とある美姫の住んだ部屋で、アイーシャのいた部屋の意匠が青いタイルと百合だったのに対して、ここは飴色のガラスタイルと象牙色の漆喰で作られた波のような文様で統一された、こじんまりとした、寝室と居間や書斎に使えそうなひと群れの部屋だった。

 前の住人は才女の誉れ高い美女だったそうで、書斎に使っていたと思しき部屋には壁一面に作りつけられた本棚があった。だから、これは教授にはうってつけの部屋というべきだっただろう。

 そんなわけで、マテオ・ソーサも嬉しそうに引っ越してきた。

 もっとも、士官学校の彼の研究室と、彼の官舎の中に溢れかえっていた書物をすべて運び入れるのには大変な手間がかかった。

 教授は研究室の古い机や本棚をそのまま使いたがったので、カイエンは研究室に新しい机と本棚一式を寄付することにした。次にここを使う先生も新しい机の方が嬉しいだろう。

 教授の蔵書は凄まじい量で、後宮の部屋の本棚だけでは心もとなかったので、官舎にあった、ややこの部屋に置くにはみすぼらしい本棚も運び込まれた。

 仏頂面のヴァイロンと、無表情のガラの大男二人が、最強の引っ越し要員として何人分もの荷物を率先して運んだので、それでも引っ越しは半日で済んだ。

 荷物を運び入れると、特に書斎からは元の雅な雰囲気は全く感じられなくなってしまったが、逆に学究の徒の部屋らしくなったとも言えないことはなかった。

 この日から、マテオ・ソーサはその人生を終えるまでのほとんどの期間をここに暮らすことになる。




 公表しなくても引っ越しやらなにやら、見ているものは見ているから、あっという間に世間では「大公殿下の後宮に三人目が! それも今度は元士官学校の先生が! なんで?」と言う噂になったことは言うまでもない。

 それでも、「淫蕩な大公殿下」という方向に話が及ばなかったのは、その後に大公宮に現れた一人の人物の功績が大きかった。


 その男がやってきたのは、もう年末にさしかかった寒い曇り空の日であった。教授が引っ越してくる数日前のことである。

 すでにカイエンと教授の関係者として、大公宮へ自由に出入りを許されていたトリニが連れてきたのは、教授の私塾の教え子の一人。

 ホアン・ウゴ・アルヴァラード。

 帝都でも大手の読売りで、記事に信頼のある「黎明れいめい新聞」の筆頭記者である。彼はカイエンに呼ばれると即日、大公宮に現れた。

 教授は引越しの荷造りだの、士官学校への書類の提出だのに忙しかったので、この場には立ち会っていない。

 だが、教授から彼にだいたいの話が通っていたので、カイエンはなにも説明せずに済んだ。 

「いいでしょう。今度のことは下手をすればソーサ先生のお名前にも傷が付きます。それは私も望むところではありません」

 カイエンの奥殿の私的な書斎に通された彼は、即座に教授のお引越しについて、穏当に説明した記事を載せることを承諾した。他の読売りでは情報がないから書かないかもしれないし、書けても憶測での記事になるから歯切れの悪い記事になるだろう。そこへ一紙、それも大手が詳しい裏付けのある記事を載せれば、世間の風向きはこちらへなびく。

「ありがとう」

 カイエンが頭をさげると、彼はその様子を黙って観察していた。大公が頭を下げているのに対して黙って座っている様子は、平民の記者風情の態度としては尊大であり、不遜でさえあったので、トリニは隣でやや慌てていた。

「ウゴ! ちょっと……」

 カイエンに見えないようにそっと肘をつつく。

 だが、カイエンは自分の方が年齢も下だし、こちらは頼んでいる立場だと思っていたので、そんなに気にしていなかった。

 この辺りの鷹揚さとでもいうものは、カイエンの育ち方からくるものが多かったであろう。

 足が不自由な彼女にとっては他人に馬鹿にされたり、ひどい言葉を浴びせられることは、子供の頃に遊び相手の貴族の子供達から、散々に言われてもう済ませてしまった苦い経験であった。

 そしてその過程で、カイエンの「大公女としてのわがままや驕慢さ」は粉々に打ち砕かれてしまっていた。どんなに大公女を傘にきて威張っても、皆は影でカイエンを「まともに歩けもしないかわいそうな姫君」と嘲り、侮り、親切な者とて哀れみの目で見ているだけだ、ということを知ってしまったからだ。

 カイエンがそこから学んだことは「自分は肉体的に人より劣った存在だ」という、ごまかしのきかない真実と諦めの自覚であったし、この年の春からの経験はそれに加えて「大公とは名ばかりの無力な女」の自覚を持たせるものであった。

 だからカイエンは大公を前にしても恐れ入る風情もなく堂々と座っている男の方を、こちらからも遠慮なく眺めさせてもらうことにした。

 ホアン・ウゴ・アルヴァラードは隣に座っているトリニよりもやや年上で、トリニの部屋で会った医者のルカに近い年齢に見える。二十五、六といったところか。

 髪も目も褐色で、褐色の髪はくせっ毛でやや長く、それが櫛の目が通りそうもないほどぐしゃぐしゃに乱れている。鳥の巣のような、という形容はこういう頭の事を言うのだろう。そして顎のはった男らしい顔立ちだ。だが眉が太く、もみあげをやや長く伸ばしているので、年齢よりもやや老けて見える。

 出張った眉の下の目の、粘るような視線の強さが印象的だ。なるほど、これが事件に食いついたら離さないという記者の目であろう。だか、ぐしゃぐしゃの髪同様、あまり寝ていないのかその目も赤かった。

 カイエンが見ていると、その視線の前で彼はゆっくりと腕組みをして見せた。

(あれ)

 不遜な態度の男だが、カイエンの凝視は居心地悪く感じたのだろう。組んだ腕の上にのった指が、苛立たしげにステップしている。

 指には大きなペンだこ。その上にインクの染みまで残っているのは、記事を書いている途中で急いでここへやって来たということだろう。

 そこまでカイエンが見たとき、彼は全く別の話をし始めた。

「あの連続殺人事件ですがね。私どもは全く納得しておりませんよ」

 カイエンは灰色の目を瞬かせた。

 その話か。なるほど、そっちの話もしたかったから、呼ばれてすぐにやって来たというわけだ。

「そうだろうな」

 カイエンはふんふんとうなずいて見せた。では、あのアストロナータ神殿にいた教授もトリニも、身内である彼にさえ何も語らなかったということだ。

 トリニの方を見ると、勿論です、という表情で首を振っている。

 そんな二人を見ているのか見ていないのか。

「では、大公殿下におかれましては真相をご存知ということでよろしいですか」

 ホアン・ウゴ・アルヴァラードは鋭く切り込んできた。

 カイエンは首を振った。ここは正直にいうべきところだろうと思ったからだ。

「それは違う。私もあの事件のすべてを知ってはいないのだ」

「ほお。それでは、あのオルデガがすべての犯人だという話は……」 

 そこでカイエンは片手をあげて、彼の言葉を止めた。

「申し訳ないが、それ以上は聞かれても答えられない」

「そうでしょうね」

 ふうっとため息をつくと、彼は今度は別の角度からの攻撃を始めた。

「では、違うお話を。皇帝の後宮に螺旋帝国の皇女が妾妃に入るというのは本当ですか」

 情報が早い。

 そこでカイエンは気が付いた。マテオ・ソーサの私塾にはあの馬マ 子昂シゴウも出入りしていた。それならば、彼も螺旋帝国で起きた革命のことや、皇子皇女の亡命のことも耳にしているのかもしれないのだ。もしかしたら、彼らが連続殺人事件の関係者であることも。

「……あなたがどこまで知っていての質問かわからないが、それも現段階ではお話できない。だが、新年早々には正式な発表があるはずだ。記事にするのはその時まで待ってほしいな。他の読売りでも、もう知っているのなら、ここであなたに言っても無駄なことだが」

 カイエンは用心深く答えた。

 すると、アルヴァラードは大げさに組んでいた腕を解き、天井を仰いで見せた。

「はいはい、そうですよね。先生のことがあるから、引き換えに何か教えてくれないかなあと思いましたが、そんなことしたら大公殿下の方が危うくなりますよね。この春からの騒動は伺っておりますよ。あの将軍閣下が男妾にされちゃった事件。一時期は兄上の皇帝との間に溝があるのではないかと、もっぱらの噂でしたからねえ」

「そうだな。今でも私は綱渡りの毎日だからな」

 本当のことだったので、カイエンは素直に認めた。

 すると、アルヴァラードは太い眉をぐいっとあげて驚きの表情を作った。なかなかの役者である。

 そして言った言葉は。

「おや。大公殿下にはずいぶんと我慢強い方でおらっしゃるのですねえ。ここまで言ってもお怒りにはなりませんか」

 カイエンはびっくりした。

「……今までの話の流れに、私が怒り出すような話があったかな?」

 恐る恐る、間にいるトリニに聞いてみる。

「さあ、あったような、なかったような……ウゴ、カイエン様はあんたの思っているような方じゃないんだよ。あの先生と気があっておられるんだから」

「……そうらしいな」  

 トリニの言葉を聞くと、アルヴァラードはいきなりカイエンの前で立ち上がり、気取った身振りで深く頭を下げて見せた。

 そうして立ち上がってみると、彼はあの大柄なディエゴ・リベラと同じくらいの背丈があった。もの書きにしては体つきはがっしりしている。

 彼ははっきりとした声で、まっすぐにカイエンの目を見て言った。

「御用記者になるのは嫌ですがね。大公殿下。私のことは以後、ウゴとお呼びください。……大事なソーサ先生の上司になられるわけですから。先生に関する記事についてはしかと承りました」

 そう言うと、ホアン・ウゴ・アルヴァラードはカイエンの返答も待たず、トリニをそこにおいて、一人、悠々と部屋を出て行った。

 その後ろ姿を目で追いながら、カイエンは残ったトリニに向かってつぶやいた。

「さすがはソーサ先生の教え子だな。ディエゴもルカも個性的だったが、あの……ウゴ、はまた一段と変わっているんだな」

 トリニは内心で冷や汗をかく思いだったが、ウゴが変わっているという点では自分も同意見だったので、しっかりとうなずいて見せた。

「そうですね。あの通り、怖いもの知らずで……結構、痛い目にもあっているんですけど、一向にこりなくて……」 

「そうなのか。だが、話のしやすそうな人間に思えたが」

 ウゴはなかなかに公平な男なのではないかとカイエンは思っていた。





 マテオ・ソーサはこうして正式に大公軍団の顧問になったわけだが、それ以降もカイエンは彼のことを「教授プロフェソール」と呼び続けた。

 彼の引っ越し後、大公宮でもささやかながら年越しの宴が行われ、新年早々にはカイエンは皇宮の行事に出席した。

 近く、オドザヤの立太子式を控えたカイエンは、ノルマ・コントに命じて大公の大礼服を新たに作らせていたが、この日、それに初めて袖を通した。

 去年の新年まではろくに皇宮へ上がることもなく、行事へも義務感だけで顔を出していただけのカイエンであったが、この年からは心構えもすっかり変わっていた。

 そこでは宰相のサヴォナローラ、大将軍のエミリオ・ザラ、そして臣下の筆頭としての大公のカイエンと元老院の重鎮貴族が皇帝を囲み、新たな年を確固たる体制で迎えることを世に知らしめたのであった。


 皇帝サウルの治世二十年目。

 月の終わりに第一皇女オドザヤの立太子式を控えた帝都ハーマポスタールは、歴史的な出来事を前にしたある種の「期待感」の中にあった。




 そんな風に、帝都ハーマポスタールでは年末年始の様々な催しが行われていた時期。

 皇帝サウルの後宮へ、密かに封印された者がいる。

 螺旋帝国の滅ぼされた王朝「冬」の皇女、玄 星辰である。

 彼女は故郷から逃げてくるとき、たった一人だけ連れてきた侍女を伴い、無邪気そうな淡い微笑みさえ浮かべて、後宮の一隅、第四妾妃に与えられた宮に納まった。

 弟と引き離され、あの母の形見の佩玉さえ奪われた彼女。だが、その顔からは寂しさも悔しさも見ることはできなかった。 

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