皇子と皇女
一度しかない死を前にして
あなたは果たして私のことを覚えていてくれたのかと
そんなことが気になっている
二度とは会わないあなたなのに
もう一度あなたに会える日を
冷たい墓の中から
永遠に待っている
半身よ
この体の向こう半分を持っている者よ
悲しい人生の間じゅう、岸辺の向こうにいた者よ
死んでしまった今こそ
あなたをここで永遠に待っている
アル・アアシャー 「春と修羅」より「月夜の永訣」
「しかし」
「でもさあ」
その時、カイエンの後ろと横から声がした。見るまでもなくヴァイロンとイリヤの声である。
二人は一瞬、目を合わせたが、話を始めたのはイリヤの方だった。これは彼らの職務からしても正しいことだろう。おそらくは言いたいことの内容も同じだったであろうから。
「先生さん、オルデガは螺旋文字が書けて、それも上手な字で書けた。そして、先生さんも子昂シゴウさんもあの壁の文字は書いてない。だからあの日干しレンガの壁に血文字を書いたのはオルデガだ、っていうのはわかりましたよ。でもねえ、あの文言は今度のおたくの国の革命の
「そうです」
先生の答えは短い。
「じゃあ、どうしてこのハウヤ帝国の人民のオルデガがその言葉を知っているの? 殿下が宰相から聞かされてきたのだって最近のことなんですよお。まさか、あんたたちが教えたの?」
イリヤが言い終わると、ヴァイロンも無言ながらうなずいた。彼の指摘したかったこともこれだったのであろう。他の皆もイリヤの指摘は同感だったので、皆が先生の顔を見た。
「私はもちろん、そんなことは話していない。……子昂、君は話したかね」
子昂は首を振った。
「オルデガと下町で会ったのは偶然です。その後もその佩玉の話はしたが、新王朝の話など……」
「では」
カイエンはそこで口を挟んだ。
「では、あの文字がオルデガの手になるものだとしたら、彼はあなた方以外の螺旋帝国人から聞いたということになりますね」
「そうでしょうな。私たち以外にも最近、螺旋帝国から逃れてきたものは結構、いるのですよ。それに、殿下はもうご存知だろうと思いますが、早くも新王朝からの外交官もやってきているとか」
朱
「朱 路陽という男だそうですよ」
カイエンは先生と子昂の顔色をじっと観察しながら、言った。
「朱 路陽……おお」
案の定、二人の顔色が変わった。
「ご存知ですか」
カイエンが聞くと、二人は複雑な顔をした。
「裏切り者ですよ」
子昂が吐き捨てるように言う。だが、言った後で、悩ましげに表情を変えた。そこからは、今回の螺旋帝国の革命での彼や先生の立ち位置が微妙であることが伺われた。
「宦官です。『冬』の最後の総管太監だった者です。彼が裏切ったことで馮 革偉の革命は成功したようなものですが。果たして良かったのか悪かったのか……」
「宦官が外交官に?」
そんなことはあまり聞いたことがない。
カイエンが聞くと、先生が答えた。
「……あまり聞かない人事ですな。それだけ、新王朝はこちらのハウヤ帝国との関係を重要視しているということでしょう」
先生はそれ以上この話をしたくないらしく、そこできっぱりと口を閉じた。
「殿下。そちらのお話はまた別に致したいと思います。まずはそこの佩玉の件を片付けてしまいませんか」
カイエンたちは黙った。
だが、カイエンは帝都の治安を預かる大公軍団の長として、事件を優先せざるをえなかった。外交官の話は政治的なものだ。となればそれは彼女の管轄ではない。
「いいでしょう」
カイエンが答えると、隣から教授が続けた。
「先生、この手紙、ここで読んでも構いませんかね?」
「そうしたまえ。だが、まずは宛名の主である君が一人で読むべきではないかな」
教授は黙ってうなずくと、オルデガの手紙の封を切った。
手紙は、宛名から螺旋文字で書かれていた。ペンで書かれた文字だが、なるほど達筆で、螺旋帝国人の書いたもののようであった。オルデガは頼 國仁先生に書写まで学び、その後、長い年月、日記を書くことでその流麗な文字を自分のものにしていったのだろう。
マテオ・ソーサが封筒から出した紙の束は薄い、あまり上質ではない用紙で、枚数を惜しんだのかびっしりと螺旋文字が連なっていた。
皆は、教授がその手紙を読み終わるまで、じっと待った。
彼が紙を繰る音だけが部屋に響く。
やがて。
教授が真っ白になった顔をあげるまで皆は辛抱強く待っていた。
教授は一回、読み終わった後も何度も前の方に戻っては読み、戻っては読みしていたが、顔をあげた時には彼の表情はもともとの人を食ったような彼特有の皮肉なものに戻っていた。
「殿下、そして先生、私はこれからこれを読みあげようと思いますが、その前に、そこの佩玉の側面に彫られた文字について、ここの皆さんに話しても構いませんか。そうすると、その佩玉の由来について、後ほど先生にお伺いすることになるでしょうが」
先生の真っ黒な瞳がぎらっと光った。それでも、先生はそれを予期していたらしい。カイエンも教授も螺旋文字が読める以上、佩玉の側面の文字はもう読まれていると考えるのが妥当である。
「いいだろう。この佩玉がこうして殿下の手から出てきた以上、我らもそこまで話す用意はある」
「そうですか」
亡命してきた旧王朝の皇子が所持していた佩玉。
そして、死せるオルデガが最後まで隠し持っていた佩玉。
教授は、カイエンへ促した。
「殿下、もう一度、ここでその文言をお読みください」
カイエンはそっと手を伸ばし、佩玉を手に取った。真ん中の玉環の側面を見る。
彼女は読んだ。その恐るべき呪いの文言を。
「我はこの玉環を
カイエンが読み終わっても、口をきく者はなかった。
やがて、沈黙を破って、マテオ・ソーサの陰々とした声が始まった。
「マテオ・ソーサ殿
御機嫌よう。
この言葉は一度使ってみたかった言葉だ。俺みたいな階級じゃあ、使わない言葉だからね。
君は俺のことを覚えているだろうか。意外に覚えているんじゃないかと思う反面、そんな期待はするなって忠告する自分がいるよ。
だが君も、俺が君にこんな螺旋文字で最後に手紙を書くとは思っていなかっただろう。君には感謝している。あれはもう二十年以上前になるのか、あの時、たまたま国立大学院の制服を着た君と頼 國仁先生を目撃しなかったら、俺は今、螺旋文字で手紙なんて書けちゃいないから。
この文字は頼 國仁先生にお願いして教えていただいた。ついでに作文の書き方も教えてもらったから、俺はあれから二十年、螺旋文字で日記をつけていたんだぜ。そうそう、先生に聞いたよ。君は螺旋文字の読み書きはできるけど、書写までは出来ないって。ざまあみろだな。
おっと、話をそらしちゃったな。だが、その日記はもうない。
さっき、全部燃やしちまったよ。こんな俺の日記なんてこの世に残して行ったってしょうがないからな。焼く前にうっかり読み返しちまって、一晩無駄にしたよ。自分でも忘れてたことが書いてあって、なかなか面白かった。でも、こんな歳になっても街に立っている汚らしい中年の男娼の俺なんかの人生だ。他の人が読むようなもんじゃない」
「馬鹿野郎が」
教授が小さな声で罵った。
トリニが無言で教授の手紙を持った腕を撫でた。
「君のことはたまに見かけていたよ。と言うか、たまに見に行っていたと言うべきだな。その点じゃ、俺もたいがい危ない男だったよ。別に君のことが好きだったってんじゃないんだ。これは信じてほしいな。今、こうして人生最後の手紙を書きながら考えたんだが、俺は君に憧れていたんだと思う。
二十年前に国立大学院の制服の君を見た時からか、まだ故郷にいた子供の頃、頭のいい君、絵の上手な君を見ていた頃からか。それはもうわからないけれど。
ああ、前置きが長くなった。
俺がこうして人生の最後に君に手紙を書いているのはこんなことを書くためじゃないんだ。この手紙は明日、頼 國仁先生に渡すつもりだ。先生と会うことになっているからね。
先生なら、きっと君に確実に渡してくれるだろう。俺の死体はどうなるかわからないし、俺の部屋も安全じゃない。だから、先生に渡すしかないんだけどね。
これを読んでいる君は、この帝都を震撼させた連続殺人事件をもちろん、知っているだろう。俺は、あれに絡んでしまったんだ。どうしようもなく。
君が知っているかどうかはわからないが、先生や子昂は螺旋帝国の貴人の落し物の佩玉を探していたんだ。
下町で佩玉を落としたのは最近螺旋帝国から逃げてきた高貴な客人だろう。
あれを最初に拾ったのが誰なのかは俺にも分からない。でも、あの連続殺人事件があの佩玉ゆえに起きたことは間違いがないんだ。
俺が知った時、持っていたのはエンリケだった。俺とはまあまあ、仲のいい男娼だよ。俺同様に中年になっても店一つ持てなかった、クソ野郎さ。
あいつが螺旋帝国のお宝を持っていると聞いたので、俺はあいつに会いに行ったんだ。そうしたら、奴が見せてくれたのがあの佩玉さ。
エンリケは螺旋文字なんて読めやしない。でもあいつとは長い付き合いだから、俺が読めるってことは知っていやがったんだな。
それで、俺はご親切にも読んでやったってわけだ。あの呪われた言葉を。読んだ途端に、俺もエンリケもあの言葉の呪いに捕まったんだ。
そうとしか、言いようがない。そうでなけりゃあ、俺がなんであんなことをしたのか、自分でも理解できない。
四人目のエンリケを殺したのは俺だよ。あいつ、どうしても佩玉を渡そうとしなかったからな。螺旋文字が読めるからってあいつにあの玉環の文字を読んでやったのがいけなかった。あの文言には呪いがかかってるんだろう。そうじゃなきゃあ、エンリケがあそこまで抵抗した理由がわからない。
俺はお客からの話で、前の三人の死体が損壊されていたことを聞いていたから、気持ち悪かったがエンリケの体にもナイフを入れたよ。
こうして落ち着いて書いていると、どうしてエンリケを前の三人の殺しの続きにしなきゃならなかったのか、ちっとも分からないんだけどな。きっと、俺もこの佩玉の呪いにやられているんだろう。
佩玉は俺の手に落ちたが、俺は落ち着かなかったよ。
すぐに馬 子昂が俺を嗅ぎつけて会いに来たしな。それで先生が皇子皇女を連れて戻ってきていることも知った。佩玉が彼らの落し物だろうってこともね。
俺は考えたよ。
これは前の三人の死に方もこの佩玉に関係があるんだろうってね。ということは、五人目の俺もやばい。先生が殺しをやるとは思わないが、もうこれのせいで四人も死んでいるんだからな。螺旋帝国からこの頃やってきた奴らの中に、相当やばい奴がいるんだろう。
俺は多分、死ぬと思う。
不思議だけどな。この佩玉を手にした時から、そんな気がしてしょうがないんだ。
この文言は俺には重すぎるよ。これは俺の運命じゃない。だから、身分不相応な運命を拾っちまった俺は消されると思うんだ。
マテオ。
チビでガリガリの骸骨マテオ。子供の頃のあだ名、覚えているか。
お前、士官学校じゃあ
俺は小さくてひねこびてて悪魔のお前なら、きっと大丈夫だと思うんだ。
お前はまっとうなやつなんだ。いいやつなんだ。俺とは違って、ちゃんとした人生をやっているやつなんだ。
だから、このことを話してもお前は大丈夫だと思うんだ。
マテオ。
俺はお前に憧れてたよ。あのかっこいい国立大学院の制服のお前はかっこよかったよ。
俺のことを覚えていたかい?
覚えていてくれていたらいいな。
俺はもうお前に会うことはない。俺の全てはもう終わった。
なのに俺は未練だなあ。
こんな手紙をまだ書いている。俺は駄目な男だ。
俺は俺の日記を燃やしたが、この手紙は燃やせないだろう。しょうがないから先生に託す。迷惑だろうけれど、読んでくれると嬉しいな。
じゃあ、さよならだ。
クーロ・オルデガ」
教授が読み終わって、手紙をその手にたたんで握りしめる様子を、皆、黙って見ていた。
手紙の中にはあの壁の血文字に関することはなかった。あれを書いたのがオルデガだとしても、この手紙を書いた時点でそれを予定してはいなかったということだろう。
静寂に皆が耐えられなくなる頃、先生が教授の方へ身を乗り出して、小さな声で言った。
「オルデガは言ってたよ、ソーサ君。君は医者のうちの嫡子だ。俺とは違うって何度もね。彼のご両親のどっちかは君の故郷の領主の……親類の誰だかの庶子だったとか言ってたな。でも、彼の家はただの小作農で、彼は家を出てからは一度も故郷の土は踏まずじまいだったとか」
教授は唇をかみしめた。
「ふざけんな、あの野郎。何が嫡子だ。ふざけやがって!」
その口から、普段は聞けないような乱暴な言葉が紡がれる。
先生はそんな教授を、静かな目で見た。
「君も、帝都に出てきてから、一度も故郷には帰っていないそうだね」
「ええ。そうです」
教授は、激しい口調で言うと、黙り込んだ。
教授はそれ以上何も言いたくなさそうだったので、先生もそれ以上何も言わなかった。
「クソが。何が嫡子だ。どいつにもそいつなりの事情があるんだよ。馬鹿野郎が。わかった風なこと言いやがって」
教授が吐き捨てるようにそう言うのを見ると、もうそのことについては誰も何も言えなくなった。
カイエンは思った。彼女も自分の父母については言いたくない、忘れたい事情がある。
教授にもきっとあるのだろう。語りたくない物語が。
やがて、沈黙を破って、
「つまり、最初の三人を殺した犯人、そしてオルデガを殺した者も不明、ということですか」
そうカイエンがつぶやくと、先生は答えた。
「そうなりますな。まあ、オルデガは自殺かもしれんが」
オルデガの手紙に自殺を示唆する言葉はなかった。
「はっきりしているのは、四人目のエンリケを殺したのはオルデガだ、ということだけです」
事件はこれで終わりか。
カイエンは唇を噛んだ。
オルデガの遺体を損壊した者が誰かも分からないままなのか。
黙ってしまったカイエンを見ながら、先生は子昂に指示した。
「……子昂、皇子、皇女殿下をこちらへ」
子昂は静かに一礼して、扉の外へ消えた。
そして。
その皇子と皇女が部屋に入ってきた時。
カイエンは二人の顔を見た途端、思わず身震いした。
螺旋帝国の皇族らしい、華やかな衣装を身にまとった二人の姉弟はよく似ていて、ほっそりと優しい印象だった。螺旋帝国の筆で引いたような眉、漆黒の光のない瞳を宿す目は切れ長で、非常に端正で細工物のように繊細だ。
象牙色の肌は血の気がなかったが、健康に問題がある様子はない。
彼らは微笑を浮かべていた。極めて友好的な様子で席に着いたのだ。
なのに。
それでも、カイエンは何かその様子にゾッとするものを感じたのだった。
後になって聞いてみると、イリヤ以下、カイエンについてきた皆、それに教授とトリニも同じだったと言う。
彼ら二人の周りには何か、異常な色の翳りが取り巻いていた。
言葉には出来ない、うそ寒い何かの気配、とでも言ったらいいのだろうか。
イリヤに言わせれば、
「あ、こいつらヤバイわーって思いました。ああいうの、コロシの犯人にたまにいますよ〜」
だし、真面目一方のヴァイロンに言わせれば、
「たまにああいう空気を
と言うことになる。
だが、それは大公宮に帰ってから聞いたこと。
その時、頼 國仁先生が恭しく紹介した皇子と皇女はカイエンに向かって、それでも挨拶らしい言葉を発し、おとなしく席に着いた。
カイエンは彼らに対し、この佩玉は捜査の終了を宰相サヴォナローラに報告したのちに返還することを約して、その場を後にしたのであった。
彼らは先生も含めて皆、不満そうな表情を見せたが、アストロナータ神殿へ保護したのが宰相であることを考えたのか、表立っての反対はしなかった。
その代わりに、彼らは佩玉の由来を語るのを拒否した。
先生が驚いてとりなしたが、皇子も皇女も頑なに首を振ったのだ。
そのために、彼らとカイエンたちの会合はここで終わりとなった。
皇子と皇女の無表情からはもう、何も聞き出せそうにはなかったから。
カイエンたちはまたあの長い道のりを逆行して、神殿の外に出た時、一様にほっとしたように息を吐いた。
振り返れば、巨大なアストロナータ神殿の大理石の威容が迫ってくる。
「くわばらくわばらですねえ」
イリヤの言った言葉が、皆の気分を代弁していた。
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