賎民は意味もなく虐げられるべきではない
氏名:クーロ・オルデガ
年齢:40代前半から半ば。
職業:男娼。所属する店などなし。
住所:テルミナル・エステ、レンカ通り。G・ヒル方。
出身:ハウヤ帝国中西部サン・ヴィセンテ州、パンチマルコ
死因:腹部刺創を致命傷とする失血死と思われる。
容疑:連続男娼殺人事件第四件目の被害者殺害容疑。
備考:連続男娼殺人事件の五人目の被害者。事件で死亡。
身体的特徴:長身。やや瘦せ型。髪は黒く染めていたが元は極めて薄い色だったと思われる。目の色は緑。
遺体引き受け人:Dr.マテオ・ソーサ国立士官学校教授。
調書90905892号(秘)
カイエン達一行に緊張が走った。
頼 國仁先生とクーロ・オルデガが知り合いであったとなると、あのオルデガの部屋の暖炉で燃え残っていた先生の手紙……螺旋文字の手紙が生きてくる。
カイエンはしばらくの間、黙っていた。
迷っていたのだ。このまま先生とオルデガの関係を聞いていくべきか、それとも目の前の二つの品物、ククリナイフと佩玉について聞いたほうがいいのかと。
皆も黙っている。
やがて、カイエンは決めた。先生が話し始めたところから続けようと。
「先生」
カイエンは長椅子から身を乗り出した。小柄な彼女が長椅子の背に背中を預けていると、あまり格好がよくないこともある。
「先生は、クーロ・オルデガをご存知なのですね」
先生は憔悴した顔を上げた。
「はい」
「どうして、先生はオルデガにあのような手紙を出したのです」
先生はもう覚悟を決めたようだ。
「実は、我々が紛失したあるものを彼が持っているという情報を、この子昂が下町を駆けずり回って、やっと聞き込んできたのです」
紛失したもの。
おそらく、それは今このテーブルの上にある佩玉なのであろう。だが、その事は後だ。
「では、先生、オルデガは螺旋文字が読めたのですか」
カイエンはまず、あの暖炉の中に燃え残っていた手紙について聞く事にした。あれは間違いなく、先生の文字だったから。
先生はすぐには答えなかったので、カイエンは先に証拠品を見せることにした。
「カマラ、あのスケッチを」
カマラがイリヤの方をちらっと見て、彼がうなずくのを見てから、カイエンの方へやってきた。抱えてきたスケッチブックを広げる。
それは、あの第五の殺人事件現場の壁に残された血文字と、暖炉から発見された手紙のスケッチだ。
それをテーブルに載せ、先生の前におくと、先生は溢れんばかりに黒い目を見開いた。
「おお、この手紙は」
馬 子昂も驚いているところを見れば、彼もこの手紙のことは知っていたと見えた。
「オルデガはちゃんと先生の書かれた通りに、これを暖炉で燃やしたのですよ。でも、他にもたくさん燃やしものがあったようで、これは燃え残っていたのです」
そう言いながら、カイエンは何か引っかかるものを感じていた。
彼女は見ていないが、オルデガの部屋の暖炉にはたくさんの燃えかすがあったという。彼はいったい何をそんなにたくさん、燃やしたのであろうかと。
「……悪いことは出来ないものですな。燃え残ったのがこの手紙だったとは。……それに、こっちのスケッチ……これはオルデガが死んでいた場所の絵ですな。あそこにこの文字が?」
カイエンはうなずいた。
「はい。後ろの日干しレンガの壁に書かれていました。この言葉は……ご存知ですね」
(賎民は意味もなく虐げられるべきではない)
先生の方は、カイエンがその言葉の意味を知っていることに驚いたようだ。
「殿下、殿下はこの言葉を?」
先生が聞くのへカイエンは答えた。
「貴国の新王朝を開いた、
サヴォナローラから聞いた情報である。
それを聞くと、先生はすっと目を閉じ、はっきりと、宣言するように言った。
「お話ししましょう。そのために来ていただいたのですからな。ややこしい話ですが」
先生は一息置いてから、おもむろに言った。
「壁の血文字を書いたのは、おそらくはオルデガでしょう。書くところを見たわけではないが。私も、この子昂もあれを書いてはいませんのでな」
頼 國仁先生のこの言葉は雷が落ちたような効果をその場にもたらした。
「しかし、まさかオルデガがあの壁の文字を書いたとは」
黙っているカイエンの代わりに教授が先生に詰め寄った。オルデガは彼と同郷の幼馴染なのである。
「信じられんかね」
先生の声はもう落ち着いていた。
「ええ。……いや、しかしそうなると彼はどこであそこまでの知識を」
「ソーサ君」
「はい」
「オルデガに螺旋文字の読み書きを教えたのは私だ」
聞いている皆が息を飲んだ。
誰も想像さえしていなかったのだ。
若い頃から男娼をしてきた男。中年になっても店一つ持つこともできず、年とって男娼窟の置屋にもいられなくなり、落ちぶれ果て、ついには街路で客をとっていた、社会の底辺を這い回っていた男が、大公の家庭教師までしていた螺旋帝国の学者の教え子だったとは。
「ええっ」
「あれは君がまだ国立大学院にいた頃だった。オルデガは君と私が一緒に歩いているところを見たそうでな。それから外国人の私を探し当てて、当時の私の私塾へやってきたのだ」
「螺旋文字を習うためにですか」
教授だけでなく、その場のカイエン以外の皆が驚いていた。螺旋文字が複雑な形を持ち、文字一つ一つに意味を持つ、アンティグア文字とは体系を異にした文字だということは皆、知っている。であるから、このハウヤ帝国では上位貴族の当主以上の階級の者か、学者しか読み書きのできるものはいない。
「その通りだ。私も彼の身なりやら何やらを見て、最初は断った。……彼の職業が何だかわかったからね。でも、オルデガはあきらめなかった」
「どうして……」
「そうだな。そのどうして、はオルデガにも分かってなかったのかもしれないな、あの時には。ともあれ、彼は他の学生同様に学費も払うというので、私は引き受けた。まあ、どうせ長くは続くまいと思ったこともあったな」
「だが」
頼 國仁先生はカイエンと教授の顔をそれぞれに見た。
「彼は一度として休まなかったよ。彼は君に鉢合わせしたくなかったのだろう。あの頃、君は大学があったから午前中には決して来なかった。だからオルデガは午前中にしか来なかった。それも朝早くに来たよ。今思えば、彼の夜の仕事が終わってすぐにやってきていたのだろうな」
先生は続けた。
「彼は何年もかかって、私から螺旋文字の読み書きだけでなく、書写の技術も学んだよ。彼は嬉しそうに、毎日、螺旋文字で日記を書いていると言っていたな。この事でだけは自分も上位貴族か学者並みだ、と。だから、私も子昂も書いていないのだから、その壁の文字はオルデガが書いたとしか思えないのです」
カイエンは混乱していた。
殺されて内臓を取り出されていたオルデガが、あの文字を書けるはずがないのだ。
しかし、先生の言う事を信じれば、書いたのはオルデガ。
ではあの血文字の血はオルデガの血ではないのか。
「ガラ」
カイエンが後ろを振り向くと、ガラがすかさず答えた。寡黙な男だが、話はよく聞いているし、頭も回るらしい。カイエンがみなまで言う前に答えてきた。
「あの壁の文字の血なら、あの遺体の血で間違いない」
ガラはちゃんと嗅いでいたらしい。
では、オルデガは刺された後、しばらくは立ち上がる事も出来たという事だ。
「へへー。じゃあ、オルデガは最初に刺された後、しばらくは生きてたって事ね。それで、あれを書き終わった後に来た誰かが、内臓を取り出して並べたわけかあ」
ここで、それまで黙っていたイリヤが口を挟んだ。
「ああ、皆さんは知らなかったかな? オルデガの死骸は、発見された時、内臓を全部外に出されてたのよ。あんた達がやったの?」
先生と子昂に向かって、イリヤは言った。だが、内臓摘出の件は、公表されていない事だから彼らがしたのでなければ、知るはずがない。
先生があの血文字を書いたのがオルデガだろうと言うならば、一応は彼らがオルデガを殺して、内臓を摘出したのではない、と言うことになるが。
イリヤの言葉には先生も子昂も首を振っただけだった。答えようがない、とでも言いたそうな顔色だ。イリヤも別に特別な反応を期待していたわけでもないらしい。
「ふん。ややこしいですねえ。じゃあ、先生、オルデガに呼び出されてあそこに行ってからの事を話してもらいましょうかあ。まず、オルデガがあんたらを呼び出した理由からね。まあ、それはこっちのええと、
先生はうなずいた。
「そうです。……それは、
「天磊様というと、この度亡命していらした皇子のお名前ですね」
カイエンが聞く。
「はい。後ほど、この事件の話を終えましたら、こちらにお連れし、殿下にお引き合わせいたします。皇子皇女殿下は今度の件には無関係でいらっしゃるので」
無関係。
カイエンもイリヤも眉をしかめたが、ここは先生に合わせる事にした。亡命の件はまた別の話である。
「いいでしょう」
「では、呼び出したオルデガとあの場所で会ってからの事をお話ください」
カイエンは鷹揚に答え、話を促した。
先生は、まず、自分たちの知っているのはオルデガと会った時のことだけで、先の四件の男娼殺人事件については何も知らないと断りを入れた。
その上で、話した先生と子昂の話によれば、話はこういう事であった。
下町を聞き回っていた子昂は中年の男娼たちのグループの中の一人が、この佩玉を拾って持っているという情報をつかんだ。それから場末の彼らのたむろするあたりへ行ってみたところで、出会ったのがオルデガだったのだという。
これは時期的にはまだ連続殺人事件の起こる前だった。
実は子昂とオルデガは頼 國仁先生の私塾で会った事があり、顔見知りだった。子昂はオルデガの職業も知っていたから、渡りに船と聞いてみたところ、はっきりとは言わなかったがオルデガは何か知っている様子だったという。
子昂は佩玉を誰が持っているのかただしたが、オルデガは言を左右にして答えようとしなかった。それどころか、知っているとしても誰の持ち物か書いてあるわけではあるまい、と開き直ったのだ。
「あの、佩玉の側面の文字を読んだからですね」
カイエンが読み、教授とトリニに教えた、この佩玉の側面に刻まれたあの文言。あれをオルデガが読んだとしたら。
「そうでしょうな」
先生はうなるような声で言った。
「あの佩玉の由来とあの文言については、後ほどお話ししましょう。……これも、ややこしい話でしてな」
子昂とオルデガの交渉はうまくいかないまま決裂し、その後、苦労してオルデガの住処を探し当ててから先生が直接、オルデガに手紙を書いた。四人の殺人事件はオルデガの居場所を探している間に起きた。
そして、あの夜。
先生は子昂に後からつけてくるように言って、あの袋小路へ行ったのだという。
そこで先生とオルデガは言い争いになり、なんと、先生はオルデガに殴り倒された。
「ええ?」
カイエン達は驚いた。
では、子昂をつけてきたディエゴが見た、倒れていた人物は先生だったのか。
「では、あなたともみ合っていたのはオルデガか?」
カイエンが聞くと、子昂はそれを肯定した。
「私がやめろ、と言って止めに入ったのですが、情けないことに私もまた……」
先生は殺そうとしなかったようだが、オルデガは子昂の方は殴り倒したのち、直ちにナイフを出して殺そうとしたようだ。
そこへやってきたのがあのディエゴ・リベラ。
オルデガはディエゴに切り掛かり、傷を負わされたディエゴは逃げた。
それから?
「気がついたのは、私の方が先だった」
先生はその時のことを思い出したのか、身震いした。
「周りは真っ暗で、それでもこの子昂の倒れているのは見えたので、叩き起こしました。それで二人で見つけたのが……」
「オルデガの死骸ですか」
「はい。……しかし、月明かりで見えた彼はただそこに倒れていただけで、その、内臓が……などということは、なかった」
先生が言うと、子昂も言った。
「これは間違いありません。オルデガは倒れて事切れていましたが、内臓が取り出されていたなんてことはなかったんです」
「確かですね」
カイエンがただすと、二人は何度もうなずいた。
「お二人は、その場をすぐに離れたのですか」
「はい。いいえ、佩玉のことがあったので、彼の体を一通り確かめました。浅ましいことですが、あれはあれは、大変なものなので」
「オルデガは佩玉を持ってきていなかったのですね」
もちろんそうだ。
佩玉はオルデガの部屋に隠されていたのだから。
二人はその後、オルデガの遺体を残してそこを立ち去った。
彼らは貴人二人を抱えた亡命者である。もちろん、殺人事件に関わり合いたくはなかったであろう。
そこまで話して、先生は顔を上げた。そして、事件とは関係なさそうなことを聞いてきた。確かに、彼ら二人の言うことが真実ならば、もう、事件について知っていることはないのだろう。
「殿下、オルデガの部屋で彼の日記を発見しましたか」
その先生の問いをカイエンは怪訝に思ったが、答えた。
「いいえ」
「そうですか。では、彼の部屋の暖炉にあったたくさんの燃殻というのは、おそらく彼の書いてきた日記でしょうな」
「日記?」
「恐らく彼は、自分の死を予期していたのでしょう。だから、佩玉を持ってこなかったし、部屋に隠していた。そして、長年書いてきた螺旋文字の日記をすべて燃やした」
「どうして」
「それは私には分からないが、想像は出来るように思います。彼は、自分の人生そのものを消去したかったのではないかと……」
カイエン達は黙り込んだ。
死を前にして、自分のすべてを消し去ろうとする気持ち。それは、あまりにも重い。
「そして、その彼がこんなものを私によこしました」
そう言って、先生は懐から大事そうに一通の封筒を取り出した。
「あの現場に来るなり、彼は黙ってこれを私の懐にねじ込んできた。そして佩玉は捨てた、と言ったので、我々は言い争いになった」
先生は続けた。
「日記を燃やしてから来たとなれば、オルデガは死を覚悟していたはずです。だが、その死はまさか、私や子昂に殺される死ではなかったでしょう。もっと、強い確信を持っていたはずだ。きっと、それが先の四人の死に方に関係があるのではないのか、と私は推測しています」
「しかし、先生。オルデガの部屋からは佩玉と一緒にこの血の付いたククリナイフが出てきているのですよ」
カイエンが言うと、先生はそれには答えず、マテオ・ソーサの方を見て、手紙を彼に差し出した。
「この手紙の宛名は君だ」
そう言うと、頼 國仁先生は封筒を教授に渡した。
「彼が生涯、憧れ続けた、君への手紙だよ。ソーサ君」
教授の元から顔色の悪い顔が、紙のように真っ白になるのを、皆は見た。
「私はもちろん、この手紙は開けていない。だが、この中に彼の人生を終わらせた物語が書かれているのではないかと思う」
先生の憔悴した顔の中で、真っ黒な両の瞳だけがぎらぎらと光っていた。
「倒れていたオルデガの傷は、腹だった。あの位置ならば、自分でも刺せる。刺してから血文字を壁に書くこともできたかもしれない。その答えがこの手紙になければ、もう、我々は彼の死について知る術はないのかもしれないよ」
頼 國仁のその言葉は、その場の全員を凍らしめるに十分なものであった。
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