憧れを抱いて逝く男
私たちは出会ってさえもいない
だから、永遠にさよならも言わない
私たちはまだ、出会う前のあの道の端と端にいるから
出会ってもいないのに、別れるはずもない
そう、信じ続けよう
私はまだここにいて、あなたを待っていよう
私の時間が
まだ、続いているうちは
憧れが私とともに壊れる日まで
私は待っていよう
アル・アアシャー 「春と修羅」
俺は若い時に故郷を追い出されるようにして後にした。
そして国の都に出てきた俺の見たものは、広大な街。
そびえ立つ皇帝の宮殿、この街を守護する大公の宮殿と、それに連なる貴族たちの街。
そして、民衆たちの住む賑やかで活気に満ちた街。
港の周りの異国情緒たっぷりな趣ある街並みも美しかった。
そこまではよかった。
だが、俺はそれらをすべて通り過ぎ、石畳の、名前の付いた道から離れた。
俺がこの都で落ちつくことができた場所は、場末の場末。
道は砂利道か泥道に変わると、そこに住むものたちの顔は、皆どこか気が抜けたように気だるげになった。
田舎から出てきたばかりの俺は、そこで俺の少ない荷物を下ろし、その街の住人となった。
俺がすっかりその街の住人として馴染んだ頃。
俺は金持ちの客に連れて行ってもらった、俺の住処よりもだいぶましな界隈で、同じ故郷の顔を見た。
あいつ。
あいつは俺とは違っていた。
同い年だったのに、あいつは頭が良くて村の神童とまで呼ばれていたっけ。
家も、俺の実家がしがない小作の農家であるのとは違い、あいつの父は村の顔役たち、村長と神官さんの次に偉いとされている村の診療所の先生だった。ちなみに診療所の次は学校の校長先生だったっけ。
俺が村を出た頃まで、あいつは絵ばかり描いていた。
父親の診療所の先生が大声で嘆いていたことを覚えている。
俺は思ったものだった。
馬鹿じゃないのかと。
あいつは頭がいいんだから、学校で一番なんだから、家だって村の顔役なんだから、絵ぐらい描いてたってなんの問題があるというのか。
あの頃は俺も体はそんなに大きな方ではなかったが、あいつは明らかに同じ年頃の中では小さかった。
痩せて小さくて走るのも一番遅くて、小作人の息子よりもみすぼらしい体なのに、服だけは立派だからといじめられていたのだ。
普通なら家が金持ちでもなんでも、子供の世界では、いじめられっ子として片隅に追いやられているはずのガキだ。
でも、学校へ入って、頭がいいのが大人たちに知られてからは変わった。
子供なんて残酷なもんだ。
それでも俺はほとんどあいつと話したこともなかった。
俺にないものを持っているあいつが、嫌いだった。
その、あいつがそこにいた。
黒っぽい学徒らしい服を着て、本の束を小脇に抱え、あいつは先生らしい外国人の男と歩いていた。
相変わらず貧相で小さかったが、青白い顔は明るく、知的で学べることの喜びに溢れているように見えた。
あいつは俺に気がつくこともなく、俺の前を通り過ぎて行った。
俺を連れてきた金持ちのお客が、その時言った言葉を俺は今でも忘れられない。
「人もいろいろだねえ。今、前を通った貧相な奴が国立大学院の学生さんで、きれいなお前が男娼だなんて」
お客の声は大きかったので、通行人の何人かがこっちを見た。
俺はその場から逃げ出したくなった。
客の腕にすがりついた俺に、客の冷酷な言葉がなおも降り注がれた。
「知らないのか。あれは国立大学院の制服だよ。一緒にいたのも有名な先生だ。螺旋帝国から来た、なんとかって先生で、貴族の子女の家庭教師もやってるっていう『やり手』だってよ」
ーー俺ははそれからしばらくの日々、考え込んでいた。
もちろん、客をとらなければならない毎日の中での思考だ。
何日も考えた後、俺は立ち上がり、行動を起こした。
俺が、あの凄惨な事件に関わったのは、それから二十年以上の年月が流れた後の出来事だったーー。
夜遅く。
帝都ハーマポスタールのアストロナータ神殿の北門の前に停められた無紋の一台の馬車。その他に護衛ともつかず、何騎かの騎乗の男たちが続いた。
カイエンたちのあの賑やかな昼餐の早くも翌日の夜である。
すでに人通りの絶えた時刻ではある。
待っていたのだろう、神殿の中から二人の褐色の僧衣の神官が出て来るのを待たずに、馬車と馬から音を潜めて十人ほどの人数が降り立った。
「お待ちしておりました」
低い声で言う神官へうなずいて、カイエンは先頭に立って神殿の入り口の階段を登り、神殿へと入った。
その夜のカイエンのいでたちは、大公軍団の制服。彼女に続く軍団の面々も制服姿であった。そうでない者達も暗い色のしっかりとした、礼を失さない服を着込んでいる。
彼女の後に連なる顔ぶれは事件の担当者や関係者であったが、そうしてぞろぞろと歩き出すのを見れば、実に雑多な取り合わせの人々だ。
現に、出迎えた若い神官は目を白黒させている。
そもそも、こんなに大勢がやってくるとは思っていなかったのに違いない。
あの昼餐の後、カイエンたちは誰が行くかの相談に入ったのだが、カイエンが「頼 國仁先生は、供回りは何人でもいいとおっしゃったそうだ」とサヴォナローラに聞いたことを伝えると、「じゃあ、役に立ちそうなやつ、全部連れて行っちゃえば」ということになったのである。
というわけで。
カイエン以下、そこに連なった人員は、以下のような人々であった。
まずは「なんかあったら要員」としてヴァイロンとガラと護衛騎士のシーヴ。ガラは犬男としての能力も買われての参加である。
そしてもめた末に、「事件担当責任者」として団長イリヤと双子の隊長のうち、兄のマリオ。
最初は三人揃って行こうと行ったのだが、
「何も三人揃って行かなくても。夜に大事件が起きたらどうするんです」
という意見があって、ヘススが残ったのである。執事のアキノはカイエンの家庭教師時代の頼 國仁先生を知っているから行きたがったが、最終的に彼も大公宮の留守番として残った。
そして、関係者としてマテオ・ソーサ教授とトリニ。
トリニの父は頼 國仁と生前、親交があったのでトリニも子供の頃に先生にあったことがあると言うことと、彼女も腕に覚えがあること、それに半分は螺旋帝国人なので、こちら側にそういう顔が入っていると向こうも安心するのでは、との思惑からであった。
最後の九人目は、カマラである。
彼はこの日もスケッチブックを抱えていたが、彼の「一度見た光景は忘れず、後から克明に書き上げる事が出来る」という能力が買われたのだ。
団長のイリヤが出てきた理由には、このカマラを同行するのが決まったことも関わっていた。カマラは人と上手く話す事が出来ないが、何でだかはわからないがイリヤはカマラから話を引き出すのが上手く、カマラもイリヤの言うことはよく聞いたからである。
と言うわけで。
神官が驚く前を、若い女あり、大男あり、騎士あり、学者然とした中年男あり、スケッチブックを抱えた変な男あり、の九人の一行は真夜中のアストロナータ神殿へと入って行ったのである。
「こちらへ」
先導する神官の後に続けば、ひんやりと冷たい神殿の長い廊下。それは石造りで、余計に寒々として見えた。
神殿の中は天井が高く、廊下の左右にはアストロナータ神の神話を描いた絵がずらりとかかっていた。絵の心得のあるカイエンと教授にはすぐにわかったが、それはなかなかに有名な画家たちの筆になるものばかりで、彼ら二人は仏頂面で歩きながらも、心の中でほうほうと感心していた。北門はいわば神殿の裏門で、だからこの区域は普段、一般人が入れる場所ではないから、これらの絵画も一般へは公開されてはいないものばかりなのである。
廊下に響くのは人々の靴の音と、カイエンと教授の使う杖の石突きの立てる、コツコツという音だけだ。
何回も廊下を曲がり方向もわからなくなってきた頃、やがて一行が連れてこられたのは、狭い螺旋階段の前だった。その頃には廊下もかなり狭くなり、神殿の奥殿に入った事が一行にも理解されていた。
「狭いですので、お気をつけて」
そこで神官が壁のランプから手持ちのランプに火を移し、薄暗い階段の下を照らした。
なるほど、螺旋帝国からの亡命者たちが入れられている部屋は地下にあるらしい。神殿の入り口で階段を半階分ほど上がっているから、完全な地下ではないのかもしれないが。
「私が先に」
ここで、そう言ってヴァイロンが先に立った。
階段は人二人が並んで降りるのには狭いので、カイエンに手をかすことが出来そうもなかったからである。
教授の前にはトリニが回った。殿しんがりについたのはシーヴとマリオ。
螺旋階段はそれほど長くはなく、下りきった場所はまたしても廊下だった。天井は一階よりも低いが、それでも普通の町家などよりはかなり高いだろう。
「えー、まだなのぅ」
ここで、それまで感心にも黙っていたイリヤが言った。これは皆の心の代弁でもあったので、誰も咎めたりはしない。
「申し訳ございません。もうすぐでございますから」
神官が慌てたように言う。
彼はイリヤの身分を知っているようだ。
「そうぉ?」
「行くぞ」
カイエンが促すと、一行は再び廊下を進み、やがて一枚の木製の大扉の前へ出た。そこで待っていた神官に案内の神官が合図すると、扉の神官が鍵を出し、扉に差し込んだ。
「厳重ですね」
マリオがカイエンの後ろから小さい声で言った。カイエンもうなずく。これは軟禁か拘禁か言葉遣いが難しくなってきたようだ。
扉が開くと、中には小さな円形のホールのようなものがあり、そこに面して三つの扉が見えた。ホールには木製の机があり、そこにも褐色の僧衣が座っている。こちらは中年の神官で、案内の神官よりも位階が高そうだ。
「大公殿下をお連れ致しました」
若い神官がそう言うと、中年の神官は重々しくうなずいた。
「ご苦労。お前はもう下がっていい」
若い神官が下がり、大扉が閉まると、外から鍵の音がした。
カイエンたちは思わず顔を見合わせた。厳重なことである。これが宰相サヴォナローラの指示なのだろうか。いや、多分そうなのだろう。
カイエンは内心、ヴァイロンとガラを連れてきてよかったな、と思っていた。二人がかりならあの木製の扉はなんとかできそうだ。
「大公殿下、わざわざのお運び、恐れ多いことでございます」
深々と頭を下げてから、神官は胸に下げた銀製の鎖で首から下げた護符を両手に抱え込むようにしながら、言う。
「螺旋帝国からのお客人は、こちらのお部屋でございます」
「うん」
神官は正面の扉を開けた。こちらには鍵は付いていないようだ。
中に入ると、そこは広い応接室のような作りの部屋になっていた。壁は石がむき出しで天井の近くに明かり取りの窓が見える。窓の外に月が見えた。だが、あの窓までよじ登ることは、この部屋の家具を使ってもなお難しそうであった。この部屋は、そういう部屋なのだ。
部屋の中央に大きなテーブルを挟んで向かい合って長椅子や一人掛けの椅子が置かれていた。
片側に二人の男が座っていた。服装はこの国のものだったが、明らかに螺旋帝国人である。
亡命してきた皇子皇女の姿はない。
「おお……」
その時。
その中の一人が、よろよろと立ち上がった。長身がゆらゆらと左右に揺れている。
カイエンと教授、それにトリニはその人の顔に覚えがあったが、記憶の中の顔とそれはあまりにも違って見えた。
瘦せおとろえた顔の老人が、真っ黒な瞳を見張ってカイエンを見た。
「おお、カイエン様……ご立派になられて」
そこまで言って、老人……頼 國仁は教授とトリニにも気がついた。
「なんと。君はソーサ君か? 君も来てくれたのか。それに……君は、
老人はふらついた。それを後ろから、もう一人の男、彼が馬
「先生、気を確かに」
頼 國仁は、うん、うんとうなずいた。
「カイエン様、申し訳もございません。このようなことになり、私は、私は、面目もなく。しかし、もはや殿下、大公殿下にしかお話できる相手がおらず……」
カイエンはちょっと気を飲まれていたが、そこで立ち直った。
「よい。先生、お座りください。私たちもそこに座らせていただきましょう。いいのですよ。私たちはお話をうかがうためにここへ来たのですから」
カイエンがそう言うと、この部屋へ案内した中年の神官はそっと頭を下げ、部屋を出て行こうとした。
カイエンは見とがめた。
「待て。ここに残らなくてよいのか?」
中年の神官はカイエンと目を合わせないようにして言った。
「……宰相府からすべて大公殿下にお任せするよう、厳重に申し渡されてございます」
「そうか」
カイエンは素早く思考を巡らせた。
すでにここの神官には箝口令が敷かれているであろうが、それでもサヴォナローラはそう命じたのか。
だが。
カイエンは、心の中で笑った。この部屋はうまくできている。どこかに伝声管でもあって、密かに声が聞けるようになっているのかもしれない。そういう部屋は大公宮にも大公軍団の取調室にもあったから、カイエンには容易に想像できた。
カイエンに出来ることはサヴォナローラにももちろん出来るだろう。
馬鹿馬鹿しい、化かし合いだ。
まあ、どっちでもいい。
「ご苦労」
カイエンがそう言うと、中年の神官は恭しく礼をして部屋を出て行った。
それを見送って、カイエンは改めて頼 國仁に向かい合った。
ゆっくりと歩いて、彼の正面の席に着く。そこは長椅子だったので、左右に教授とトリニが座った。
何の打ち合わせもしてこなかったが、カイエンの後ろにヴァイロンとガラの二人の大男が立ち、イリヤは一番下座の一人がけの椅子に座った。シーヴは入り口の扉の前に立ち、マリオは頼 國仁と馬 子昂の斜め後ろ、最後にきょろきょろと困っていたカマラが、イリヤのそばに立った。
それを見てから、カイエンは座ったまま挨拶した。
「先生。お久しぶりです。私は三年前に大公位を継ぎました」
それからカイエンが連れてきた部下達を紹介すると、やっと落ち着いたのか、頼 國仁はへたりこむように座っていた椅子の背から起きなおった。
それを見て、教授とトリニが挨拶するのにも、先生は落ち着いて答えた。
カイエンは馬 子昂の顔へ視線をうつした。
「で。あなたが馬
馬 子昂は、三十くらいに見える目立たない顔つきの、長身の先生とは違って大きくも小さくもない男で、螺旋帝国人らしく髭をきちんと整えていた。螺旋帝国では「髭のない男」とは皇帝に仕える宦官のことであるから、一般に男達は様々な形の髭を蓄えるのが常である。
「そうです。私が、馬 子昂でございます。大公殿下」
ディエゴの供述では、彼は確かにあの第五の殺人現場にいた男である。
それがすでに露見していることも、彼はわきまえているようだった。
「では、先生」
カイエンは座っている長椅子から身を乗り出した。
「私にお話になりたいことがおありと、宰相よりうかがいましてここへ参りました。お話をうかがいましょう」
カイエンのその物言いは、自分はあくまで呼びつけられたから来たにすぎない、ということを主張していた。それがかつての恩師に対して冷酷な物言いであることはカイエン自身も自覚していたが、すでに大公である彼女にはそうした責任をいつでも回避できる、貴族特有の言い方も身に付き始めていたところであった。
先生は、そう言うカイエンの顔をまじまじと見た。カイエンはその凝視に耐えた。
やがて先生は、ふうっと息を吐いた。
「大きく、なられましたな。つい五年前にお別れしたのに、あの頃の殿下とは比べものにもなりませんなあ。……アルウィン殿下にお顔はそっくりだが、ここの中身はずいぶん違うようで、私は……私は、安堵いたしました」
そう言って、先生は自分の胸に手を当て、そっと叩いた。
カイエンはひやっとした。この言いようでは、先生はアルウィンの「正体」をおぼろげにでも理解していたようだ。
「そうですか」
カイエンは先生の真摯な話し方を見て、方針を決めた。そして、下座に座っている団長のイリヤの顔を見てから、おもむろにあの「包み」をテーブルの上に載せた。
そして、そして。
「これが、クーロ・オルデガの部屋から見つかりました」
カイエンがそう言って、あのククリナイフと佩玉はいぎょくを取り出した時。
先生のすでに蒼白だった顔から、一切の血の気が引いた。
「ああ。ああ。あのオルデガが、あんなことをしでかすとは……あの男は、あんなに、あんなにもがいて、足掻いて、這い上がろうとしていたのに! 彼のやったことは、私にも責任があることなのです! 今さらこんなことを言ってもしょうがないが、許してやってくだされ」
頼 國仁先生の血を吐くような叫びが部屋に響き渡った時、一同は声を失って沈黙するしかなかった。
頼 國仁とクーロ・オルデガには、やはり繋がりがあったのだ。
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