クーロ・オルデガの遺留品

 その若い女が皇帝の宦官どもの指図する部隊の兵士に連れ去られようとした時。女の義理の弟にあたるその男は、己の腰の佩玉はいぎょくを取って、彼女に手渡したという。

貞辰テイシン、これを!」

 そう言って、雑兵どもの体の間から、やっとの思いで義理の姉の手に渡った佩玉。

 それは、彼らのような街中の商人の娘や息子が持っているには珍しい、硬玉の玉環であった。

「……、これはだめよ。これはあなたの……」

 若い女、貞辰は手の中の佩玉を、弟に返そうとしたが、もうその手は彼には届かなかった。


 「玄」王朝最後の皇帝、玄 博黎ハクリの後宮を支配する宦官達が行った、俗称「女狩り」によって、螺旋帝国全土から集められた見目好い娘達の数は五千。

 その中からまた厳選されて後宮に納められた娘達は千人に達したという。

 このような暴挙が行われるに当たっては、もちろん理由があった。

 皇帝が十七で即位してより十年。螺旋帝国の重鎮の娘達が数多く、後宮に納められたが、未だ一人の皇子、皇女の誕生もなかったからだ。


 趙 貞辰はその千人の一人として後宮へ納められた。商人の娘である彼女の位階は低かったが、彼女は皇女と皇子をあげた。だが、彼女と同時に後宮に上がった他の娘達も、それまでの皇帝の後宮の寂しさが嘘のように、争うようにして皇子、皇女をあげたという。

 それまでの十年、後宮にあった貴族の娘達が一人として産めなかった皇子、皇女が、「女狩り」の末に寵姫となった女達からは幾人も生まれたのである。

 このことによって、螺旋帝国は落ち着いたかに見えた。


 だが。


 「女狩り」のあった十九年後。

 螺旋帝国を「易姓革命」が襲う。

 その立役者の名を、馮 革偉という。

 彼はことを起こすに際し、それまで名乗っていた名を捨てたと言われている。

 なるほど、革偉とは出来すぎた名である。

 彼の本名は忘れられた。

 その本名を覚えていたものどもはどこへ?


 その物語は遠い西の果てにつながるという。


 西の果ての、あの海の街へと。




      シュウ 暁敏ギョウビン 「革命夜話」より。






 カイエンが頼 國仁先生以下の螺旋帝国からの亡命者たちに面会する用意を始めるべく、皇宮のサヴォナローラのところから、大公宮に戻ったところへ、慌てた様子のマテオ・ソーサ教授と、それになぜかトリニが冬にもかかわらず、汗をかきながら飛び込んできた。

 足の悪い教授のことであるから、トリニと二人、辻馬車で乗り付けたのであるのに、である。

 連続殺人事件と外交懸案、それに大公宮では新隊員募集準備中、と複数の案件が進行中とはいえ、忙しいことである。カイエンは子猫のミモと遊ぶ暇もなかった。

 カイエンもちょうど、大公宮の表の馬車どまりで馬車を降りたところで、いつもついてくる護衛騎士のシーヴとともに、びっくり顔で突っ立ったまま辻馬車から降りる二人を見守る。

 時刻はそろそろ昼食の時間に差し掛かろうという頃合いでああった。普通なら訪問は遠慮する時間帯である。

 先に降りたのは背の高いトリニで、彼女は自分よりも小柄な教授の手を取って、助け降ろしている。

 二人とも普段着のようだが、トリニだけではなく黒っぽい服の教授までが、まるで炊事中か掃除中か、といった風なうす汚れた前掛けをしているのがおかしい。よく見れば蜘蛛の巣のようなものも付着しているではないか。

「どうしたんです」

 カイエンとシーヴが我に返って駆け寄ると、辻馬車から降りたマテオ・ソーサ教授は、普段の人をくったような態度の彼にも似合わず、呆然とした面持ちだった。

「ああ、大公殿下。……なんだか大変なものを見つけてしまいましてね」

 そういう教授の手元には、地味な布に包まれた何かがしっかりと携えられていた。

「わかりました。……ともかくこちらへ」

 シーヴがカイエンを、トリニが教授を抱えるようにして、大公の表の執務室へと急ぐ。

 ばん。

 シーヴがカイエンの執務室の扉を勢いよく開ける。

 カイエンの執務机ではなく、その側のソファ。あの、皇女オドザヤ達が座ったソファに身を落ち着ける。

「殿下。まずはこれをご覧あれ」

 教授がソファの前の飴色のテーブルに、包みを放り出すと、トリニがさっさとそれを広げる。

 向かい側に座ったカイエンとシーヴの前に二つの品物が現れた。

「!」

 その意外さと、驚きに、カイエンもシーヴもとっさに声が出ない。

 それくらい、そこに取り出された品物の影響力は大きかった。

 一つ目の方はいかにも今度の連続殺人事件に関係ありそうなブツだが、もう一つは……。


「……教授、これを、どこで?」

 やっとカイエンが口を開くまで。

 広い、大公カイエンの執務室の中で、四人みんなが息を飲んでいた。

「ああ」

 教授が、カイエンの声でやっと気がついたように答える。

「殿下、御機嫌よう」

 中年に達し、士官学校という公的な場所で長年仕事をして来た教授が、この時点でやっと挨拶がまだだったことに気がついたらしい。

「ああ。それどころじゃなかった」

 それを口走った自分にびっくりしたように、教授は真顔でカイエン達を見た。

「説明しますよ。……いいですね」

 いいも悪いもない。

 カイエンはがくがくと首を縦に振った。

「殿下。私、あの五人目の、クーロ・オルデガの遺体を引き取ったと、申し上げましたよね」

「うん」

 カイエンもそれは覚えている。

 あの連続男娼殺人事件の五人目の被害者は、なんとこのマテオ・ソーサ教授の同郷だったのである。それは、ディエゴの供述の後に明らかになっている。

「……ええ。遺体の方は、もう、ささやかながらも葬いをしましてね、市外の共同墓地に埋葬したんです」

 そうか。

 カイエンもそこまでの報告は受けた記憶がある。

「でね。そのあと、こちらの治安維持部隊からお知らせがありまして、彼の住処の整理も頼まれたのです」

 なるほど。

 それもありそうな話だ。

「正直、面倒だったんですが、乗りかかった船ですからな。今日、このトリニに手伝いを頼んで、二人でオルデガの住まいとやらに行ってきたんです」

 部屋の片付けやら遺品の整理やらならば、教授とトリニの普段着に汚れた前掛けの意味もわかるというものだ。

「オルデガの住まいとはどこ?」

 カイエンが聞けば、それは事件現場のすぐそばであった。あのテルミナル・エステ、場末の男娼窟だのなんだのが多い辺りだ。あまり治安のいいところではないが、今は昼間だし、確かトリニの父親は螺旋帝国人の武人で、彼女はその武術を受け継ぐ達人だと聞いているから教授も問題ないと判断したのだろう。

 と言うか、どう見ても身体的には弱者そのものの教授であるから、トリニを助手兼、用心棒に連れて行ったのかも知れない。

「一応、ここの治安維持部隊の捜査も終わっていたので、二人で気楽に片付け始めたんですよ。住処って言っても一人一人の場所は、寝る部屋だけでね。あとは共同の一間貸しの狭い部屋ですからね」

 トリニもうなずいて補足した。カイエンには馴染みがないと思ったのだろう。気が効くたちらしい。

「……うちのペンシオンの三階もそんな感じなんですけど、一部屋貸しの、風呂やなんかは共同のよくある部屋なんです。一人一人のお部屋にあるのは、せいぜい寝台と箪笥ぐらい。火の用心が心配なので、部屋の中での炊事は禁止されているところが多いです」

 なるほど。

 カイエンにはそれでもあまり実感は湧かなかったが、その部屋のありようは理解できた。寝るための部屋を借りていると言うだけの生活、と言うことだろう。

「オルデガの部屋も寝台とちっさな箪笥がある以外には、……ああ、小さな暖炉が切ってあったくらいでね。他にあったのは古い革鞄が二つくらい。なので、片付けと言っても、すぐに終わるだろうとたかをくくって始めたんですがねえ」

 ここで、教授の顔が曇った。

「それが、こんなものが出てきちまって……」

 教授とトリニがテーブルの上へ広げられた包みの中身を見ると、カイエンとシーヴもつられてそれを凝視することとなった。

「これは、どこから出てきたんです? 一応、治安維持部隊の捜査の後でしょう?」

 ああ。

 ずさんな捜査が暴かれるのかも。

 カイエンとシーヴはいやな予感に眉をしかめた。 

 こんなものが出たという以上、イリヤ以下の幹部にも話さなければならないが、それで末端の隊員が何人かぶっ飛ばされることになるかも知れない。


「それがね」

 教授が、やっと興奮が収まってきたのか、ちょっと息を整えた。

 その時、執務室付きの女中が茶菓を運んできたので、四人はそれらがテーブルに置かれている間、黙りこくった。さすがは大公宮表の女中で、こんなお客にも驚く様子はない。

 ブツの方は、女中が訪いを入れるなり、シーヴがささっと包みなおして隠している。

 女中が丁寧に礼をして下がると、四人ともがお茶に手を出した。皆、この物品を見てからなんだか喉が渇いていた。

「このトリニがひゃーっと叫んだんですよ」

 教授が、ずずっとお茶を飲みながら、その時のことをまさに思い出したと言うていで言う。こんな時ではあるが、その様子は表情豊かでなかなかの役者だ。

「この子は日頃、ものに動じない子ですからねえ。子供の頃から、あのルカやディエゴが怖がっても、この子だけはいつでも平気な顔で」

 それは怖い。

 この頼もしそうな、どこから見ても気丈そうなトリニが普通の女の子みたいに叫ぶとは。

「私も、びっくりしちゃって」

 トリニはアーモンド型の切れ長の瞳を見張って言う。

「ああ、ちゃんと話しましょう。さっき、部屋に小さい暖炉が切ってあったって言ったでしょう。そこもね、煤だらけでなんだかいろいろ燃やした跡が真っ黒けで、燃えかすがこんもり積み上がってたんで、このトリニが半分頭を突っ込んで、掃除してたんです」

 などほど。

 カイエンも春先に行う大公宮の暖炉の掃除は目にしたことがある。冬じゅうに溜まった煤を払うには大公宮専属の煙突屋も呼ぶし、使用人達も部屋側の掃除はなかなかに大変なもので、毎年の行事のようになっている。

「そしたら、いきなり、煙突からこれが落ちてきたんです」

 これ。

 トリニが指し示す包みは、そう言われてみれば、煤にまみれた灰色の布に包まれていた。

「あー、それはびっくりですねえ」

 シーヴもふんふんとうなずいた。

「頭に当たらなかったですか。これ、煙突の下の方にでも何かで貼り付けたか、止めておいたかしたんでしょうねえ」

「幸いに、この子は運動神経が半端じゃないからねえ」

 教授が、恐ろしげに口を挟んだ。掃除していたのが自分だったら、見事に頭に当たっていただろう、と言外に言いたいのだろう。

「当たっていたら危なかったですよ。サビつき始めていますが、先はまだ尖っている。刺さったら大変だった」

 カイエンは、煤にまみれた布を開けると、そっと布越しにそれを持ち上げた。


 ククリナイフ。

 それも、血まみれの。

 血まみれのまま、サビつき始めた代物を。 


 

「オルデガ殺害の現場にはククリナイフが残されていたと聞いている。……だから最初から凶器は明らかだったのだ」

 カイエンはあのオドザヤがきた日の朝に、イリヤからそう聞かされている。

 ややあって、カイエンがそう言うと、シーヴが引き取った。

「このナイフはオルデガ殺しの凶器じゃないってことですよね」

 教授とトリニはそのあたりの事情は知らなかったので、余計に驚いた。

「ええ。じゃあ、このナイフの血糊は……」

 まず、これは人の血だろうか。

 暖炉の中に隠匿されていたこと、それにもう一つの物品と一緒に隠されていたことを考えると、事件に関係するもの、つまりは人血と考えていいのではないか。

 何よりも、オルデガが暖炉の中にこれを隠し持っていたとなると、五人目の被害者のオルデガ自身が、前の事件か、他の事件に関係していることになる。

「少なくとも、五人目のオルデガは、ただの被害者ではなかったと言うことだな」

「それですよ。それに、刃物ったって、これはちょっと田舎へ行けばその辺の農夫がみんな腰にさしている山刀マチェテの一種です。私が殺人犯だったとしたって、こんなもの、現場にホイホイ置いていきますよ。その血をろくに拭きもせず、そのまま持っているなんて、ありえない」

 教授は、そう言うと、腕を組んだ。

 彼のその意見にはカイエンもシーヴも同感だった。

 現にここにあるこのククリナイフは決して、珍しいものではない。

 カイエンは、もう一つのブツへも視線を投げた。

「こっちはもっと厄介だ。オルデガが螺旋帝国人と接点があったとはな」


 カイエンはとりあえず、血まみれのククリナイフの方は、脇へ置いた。

 血はとっくに乾いているが、あの犬男に嗅がせてみれば、何か分かるかも知れない。

 カイエンは、もう一方の代物の方を見た。

 これも、犬男に嗅がせてみようと思ったので、直には触らない。教授やトリニの方を見ると、二人ともぶんぶんと首を振った。直には触っていないらしい。教授はディエゴの尋問で犬男ことガラを紹介されているから、そこまで考えに入れたのだろう。さすがだ。

「教授、これは螺旋帝国のものですよね」

 カイエンが聞くと、教授だけでなく、トリニもうなずいた。

「ええ。これは佩玉はいぎょくですな。螺旋帝国人の男は皆だいたい、腰につけている」

「私、父の佩玉を持ってます」

 トリニの亡くなった父親は螺旋帝国人だから、彼の佩玉は今、トリニが持っているということだ。

 佩玉は腰飾りで、高価なものは硬玉、翡翠が使われるが、多くはそれに似た軟玉であることが多く、様々な形の玉を華やかで丈夫な紐で連ね、腰に巻いた腰布やベルトに取り付ける。女も身につけることはあるが、多くは男である。

「これは、翡翠だな」

 カイエンは、布越しにそれをそっと持ち上げ、ひっくり返した。大きさはそれほど大きくはない。硬貨よりはふた回りほど大きいが、カイエンの手のひらに乗る大きさだ。

 それは、古い、もう元の色がわからなくなった紐に繋がれた円環だ。だが、石は透明度が高く、薄い緑から暗い青、そして青みがかった紫までの色で彩られている。

 安物の軟玉ではない。

「ここんところ、殿下のに色が似てますね」

 シーヴが玉環の一部を指して、そう言うと、教授やトリニが目を挙げてカイエンの両耳と右手の薬指を飾る紫翡翠を見た。

「あ」

 女のトリニはカイエンのそれ……それはもちろん、アキノとサグラチカの家の前に捨てられていた赤子のヴァイロンが持っていた鬼納めの石だったが……。その珍しい色味に気がついていたようだが、教授は見過ごしていたらしい。彼はまじまじとカイエンの翡翠を見てから言った。

「……なるほど。そうなると、この佩玉は……」

 カイエンはそれには答えず、布越しに石を持ち上げて、ぐるりと見た。

 窓辺からの光にかざすと、玉環の側面に何かが見えた。

 教授が、あっと声を上げた。

「見えるんですね! その螺旋文字!」

 それなら、教授も気が付いていたのだ。彼は悔しそうに言った。

「……私は元は近目な方だったのですが、この頃、いわゆるところの老眼というやつで、細かいところが怪しくなりましてねえ」

「このトリニは情けないことにやや遠目だって言うのですよ。で、うまく読めなかったんです」

 まだ齢十九歳になったばかり。それもやや近目のカイエンにはその文字が読めた。

 これはまた。

「教授、トリニ、これはお手柄だ」

 カイエンが言うと、トリニはともかく、教授はいてもたってもいられなくなったらしい。

「殿下! ここに、ここに書いてください」

 彼はテーブルの上にいつも置いてある、メモ用の用紙とペンを掴み取った。

「……見たら、先生は失神しますよ」

 カイエンがおどけて言うと、マテオ・ソーサは身をよじった。

「いいから、書いてください、殿下!」

 カイエンは、なんとなく微笑みを浮かべながら、卓上のペンをインク壺に浸し、幾つかの螺旋文字をそこに書いた。

 教授と、トリニがその場で固まった。

 教授はともかく、トリニもその文字が読め、しかもその意味がわかったことにカイエンは驚いたが、きっと事情は教授が話したのだろう、と察した。

「ええー。ねえ、殿下、それなんて書いてあるんです」

 一人取り残されたシーヴが情けなさそうにカイエンに取りすがった。 

 いやいや、教えられません。

 これで、あのサヴォナローラのクソ野郎認定は決定だ。

 カイエンは、心の中で、先ほどまで話していた皇宮の宰相様をクソ野郎カテゴリに突っ込んだ。

 一日も早く、アストロナータ神殿へ赴かねばならなくなったではないか。



 その時。

「あ、ディエゴへの差し入れ、忘れてきちゃった」

 トリニがいきなりそう言ったので、カイエンたちは驚いた。

 連続男娼殺人事件の五人目の殺害現場に居合わせた、不運な両替屋の息子は、未だ大公宮の留置場の中である。

「ああ。そうだなあ。……あのあほうは元気にしていますかなあ」

 教授までがのほほんとしたことを言い出した中、カイエンはその場でこみ上げてくる笑いを我慢しながら、顔を上げた。

「ああ、そろそろお昼じゃないですか。……シーヴ、わかってるな」

 シーヴは有能だった。

「はいっ! すぐにガラさん呼んできます。それからイリヤさんと双子さん、呼び出します。それと、お昼ご飯の手配します!」

 走り去る青年の動きの軽やかさよ。


 その日のカイエンの昼食は大公宮の表に用意された。

 突っ走って行ったシーヴがどこかの現場から、問答無用で引っ張ってきた大公軍団軍団長のイリヤと、治安維持部隊の部隊長の双子、普通にゆるゆる歩いて出てきたガラ、それに教授とトリニも入れた昼餐会は、とてもとても有意義なものとなったことは言うまでもない。

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