亡命者たち
わたしは心の闇に化け物を飼っている
俺は光の影で死神を待っている
炎に身を灼く我らの中のヒトデナシ
待っていろよ、我らが答えを見つけるときを
そのときが来たら、そのときが来たら……
アル・アアシャー 「皇子皇女たちのための挽歌」より。
「頼 國仁先生が、亡命者を連れてお戻りに?」
それはカイエンの誕生日から何日も経たない日のことであった。
あの連続殺人事件には進展のないまま、大公カイエンは、大公軍団への女性隊員募集に向け、マテオ・ソーサ教授と相談の上で準備を進めており、ヴァイロンはヴァイロンで、予備役のベテラン元隊員を選抜して、帝都防衛部隊の編成を図っていた時期のことである。
カイエンがサヴォナローラの宰相府に呼ばれ、驚くべきことを聞かされたのは。
「はい。螺旋帝国の前の王朝、『冬』の遺児であるお二方をお連れになって、すでに秋のうちにはこのハウヤ帝国へお入りだったそうです」
答えるサヴォナローラは宰相府の彼の執務室の机の向こう。いつもと同じように褐色の地味なアストロナータ神殿の神官の装いである。
カイエンはその前に置かれた、彼女の身分を慮って用意されたのだろう、いやに立派な椅子にかけ、サヴォナローラの言葉を聞いていた。
「秋のうちに? それでは、今までどこに潜伏しておられたのです?」
カイエンの声は意識したわけではないが、尖っていた。彼女は思っていた。毎度毎度、この宰相様はもったいをつけすぎるのではないかと。そのせいで、サヴォナローラの顔を見やる彼女の目はいらいらとした内心を反映してぎらめいていた。この辺り、まだまだカイエンはサヴォナローラの域には達していないということなのだろう。
サヴォナローラの応えは落ち着き払っている。
「はあ。それが下町の螺旋帝国人たちの住処に隠れ潜んでおられたそうで。……馬
カイエンの直線的な眉が跳ね上がった。
馬 子昂。
ディエゴが五人目の殺人現場で見た男ではないか。
ディエゴの供述は、サヴォナローラにはまだ伝えていないが、この様子では彼の方が何歩も先を行っていそうだ。忌々しい。
「へえ。それがなんで、この時期に宰相様に助けを求めてきたんでしょうね?」
カイエンはここへ呼ばれてきてすぐに、二人の遺児が、アストロナータ神殿に保護されたことを聞いている。
その後に告げられたのが、頼 國仁先生も一緒だという情報だった。
全く、忌々しいとしか言いようがない。
「……申し訳もございません」
サヴォナローラはそれでも、申し訳なさそうなそぶりは演じて見せた。
「どうも、このハウヤ帝国にいる以上、皇帝陛下に保護をお願いせねばならない『事情』ができたらしいのですよ」
事情ね。
やっと十九歳になったばかりのカイエンではあったが、彼女はこの春からの騒動でかなり彼女の身分と義務にふさわしい見識と図々しさを身につけ始めていた。こういう「成長」は、その人の人生、それも若年時に起きた大事件に触発されることが多い。カイエンにとって今年の春からの出来事は、そういう成長を促す出来事であったようだ。
カイエンは、とぼけた顔のサヴォナローラの前で、椅子から乗り出し、銀の柄のついた黒檀の杖にわざと歪めた顔を載せるようにしてから、やや大きい声で言ってやった。
「殺人事件に関係する『ご事情』ですかねえ? 馬 子昂とかいうのが、五人目の殺人現場にいたことはもう、捜査済みですがねえ」
サヴォナローラはカイエンの嫌味ったらしい表情に、にこやかな微笑みで応じた。だが、真っ青な目は油断ならない色味で沈んでいる。
「おお、さすがは大公殿下。すでにそこまでお調べでしたか。それなら話は早い。私は先日、アストロナータ神殿でご一行にお目にかかりましたが、頼 國仁先生は宰相である私にも、その『ご事情』はお話になれないとおっしゃったのですよ」
へへえ。
カイエンの目が嫌味っぽく顰められた。この目つきは、イリヤだの教授だのから盗んだものだ。真似をする相手が男ばかりなので、カイエンの表情や物腰は年頃の女性らしさからはどんどん離れたところに到達し、つまりはやや男前になってしまうのだが、本人はまだそこまで思い至っていないのが残念では、ある。
だが、カイエンの場合、若い女が無理に男の真似をしている痛々しさを窺わせないところが不思議ではある。
「このハウヤ帝国の宰相様がわざわざ御目通りに行っても、話せないような『ご事情』ですか」
「ええ。冬王朝の遺児は姉と弟のお二人で、お目にはかかりましたが……なんだか無邪気な方々でしてね」
カイエンの灰色の目が光った。
「無邪気?」
「はい。宰相である私がご挨拶に伺ったので、もう大丈夫だと安心なさっておいででした」
なるほど。カイエンがその皇女皇子様の立場で、転がり込んだ先の宰相として現れたのが、このサヴォナローラだったら、もう大丈夫だとは思うまい。そう思うには、この男の持っている雰囲気、特にこの青すぎる目の色が危険すぎる。
いや、そう思うのはカイエンが彼とあのような出会い方をしたからか。
初めてサヴォナローラを見れば、彼は皇帝に忠実で真面目で規律正しい、禁欲的で無欲な神官宰相に見えるのかもしれない。
「……。で、その遺児の方々はお幾つ?」
いろいろと思考を巡らせつつ、カイエンがそう聞くと、サヴォナローラは手元の紙をわざとらしく見ながら答える。
「姉君の玄 星辰様が十八、弟の玄 天磊様は十七、と言っておられました。年子の母上が同じご姉弟だそうです」
それなら、十九になったばかりのカイエンとは同年代である。
「それで、周りにいる頼 國仁先生や、馬 子昂は何か問題を抱えていて、それは宰相様には話せない、と言ったというのですね」
カイエンの脳裏に、あの五人目の殺人現場の血文字が浮かび上がってきた。
(賎民は意味もなく責め立てられるべきではない)
あの、螺旋文字は読み書きだけではなく、その書写の技術も持った人間が書いたものであった。
螺旋帝国人ならば、あの文字を書ける。
だが、書かれた内容は、滅ぼされた冬王朝の遺児が書くような内容ではない。
あの言葉は、新しい青王朝の創始者である、馮ヒョウ 革偉カクイの掲げた標語エスロガンなのだ。
「ええ。頼 國仁先生は、おっしゃいました。話せる相手はただ一人だと」
カイエンはもうその次のサヴォナローラの言葉がわかった。今日ここに呼ばれた理由も。
私か。
サヴォナローラもカイエンがすでに予測したことを悟った顔で、しかし慇懃に話し続けた。
「先生自ら家庭教師をなさっておられた、現大公カイエン様にしか話はできない、との事です」
あ、そう。
カイエンは嫌そうな顔を作りながら、確認しなければならなかった。これをしっかりとやっとかないといけないことは、この春からの騒動で学んでいる。
「確認させてくれ。……皇帝陛下はそのことをご了承済みだろうな」
サヴォナローラの方も、こんなことはとうに予想済みだろう。
「もちろんでございます。大公殿下」
痩せた、彫りの深い顔には誠実さがみなぎっている。
「彼らは神殿内から出られないのか」
彼らが外に出られなければ、これ以上の殺人事件は起こらないのかもしれなかった。だから、カイエンはあえてそれを聞いた。
「……殿下。あの事件は五人目で止まっております。……彼らは、神殿からは出られません」
(神殿からは出られません)
なるほど。
サヴォナローラには、今回の連続殺人事件の犯人までもほとんど明らかなのだろう。
カイエンは一度、目を閉じて考えてから、答えた。カイエンは一人では何も出来ない。
足はうまく動かないし、頭の方も、まだまだ大公としては半人前以下だ。彼女にはその自覚もちゃんとあった。
「ところで、危険はないだろうな? その馬 子昂やら、遺児やらは危険なものを持ち込んだりはしていないだろうな」
カイエンがただすと、サヴォナローラはぬけぬけと言ってのけた。
「そのご心配はごもっともです。私もその点は確認しました。神殿でも持ち物は全て調べたそうです。……頼 國仁先生は、カイエン様の供回りなら、何人でも同席して構わないとのお言葉でした」
カイエンははっきりとうなずいた。
「わかった」
サヴォナローラの真っ青な、あのガラと同じ色の目を、しっかりと見る。
「用意が出来次第、アストロナータ神殿へおもむこう」
そう言いながら、カイエンはもう一つのことを考えていた。
「ところで」
彼女は抜け目なく続けた。
「私が彼らと会見した結果、あの連続殺人事件の容疑者が、螺旋帝国人某氏だったと明らかになった場合にはどうするのだ?」
この春までの、大公ではあったが、何も世間を、人生の厳しさを知らなかった自分。
それはもう彼方に終わった出来事のようで。
あのヴァイロンとの初夜での痛みから後の自分。
あれから、カイエンは必死で毎日を超えてきた。
その後に残った自分はなんだ。
まだ、愛が何かもわからない。そんな自分は未熟者のまま。
だが、彼女を支配し続けた父はもう彼方へと去った。
今、カイエンは一人で自分と向き合っている。
ここにあるのは、無力な、人々に助けられなければ何も出来ない、大公としてのの自分。
ここから逃げるつもりはない。カイエンはそれだけははっきりと分かっていた。この場所で、私のできることをしていくのだ。
カイエンの耳に、サヴォナローラの声が聞こえてきた。
「大公殿下。そのご質問をいただけて、私は安堵しております。……皇帝陛下もご満足でありましょう」
やっぱりそうか。
カイエンは、一瞬、顔を歪めてしまったかもしれない。
「……あの連続殺人事件の犯人は、おそらく、今後永遠に不明のままとなるでしょう。ですが、殿下、殿下はその真相を確かめ、私や皇帝陛下に真相をお示しになる必要がございます。殿下のお聞きになるであろう真相を持って、私共は動きます。かの螺旋帝国での革命の様子も我らは知らねばなりません」
「分かった」
カイエンは答えた。
頼 國仁先生に、また会えることは嬉しい。
まだ決められないが、きっと、マテオ・ソーサも同行を願うだろう。
一度は帰国した先生が、またこのハウヤ帝国に戻ってくることになった事情。
そして、あの連続殺人事件の真相。
それは、皇帝の前で明らかにしなかればならない。
そこまでカイエンが考えた時、サヴォナローラはもう一つ、油断ならない事実を見せてきた。
「殿下」
カイエンが顔を上げると、サヴォナローラはほとんど無表情で、一通の文書を差し出してきたのだ。
「なんだ」
カイエンがそう聞きながらも、それを手に取れば。その文書の紙は螺旋帝国の目の粗い、筆での筆写向きの紙で、書かれた文字はこなれた字体の螺旋文字だった。
外交文書である。そこには新皇帝の名のもと、新しい「青」王朝からの正式な外交官が任命された旨が書かれていた。
と言うよりも、これは着任した外交官が持ってきた「着任状」ではないか。
「……早くも新王朝の外交官が送られてきたか」
カイエンが読みながら言うと、サヴォナローラはうなずいた。
「なるほど」
カイエンは文書の中の一人の人物の名を読み上げた。
「
そう聞くと、サヴォナローラはなぜか苦虫を噛み潰したような表情になった。
「はい。……どうも着任したのは昨日今日じゃなさそうなのですが、まだ、当人は皇宮へ挨拶に来ていないのですよ」
カイエンは呆れた。
「着任状をこうして持ってきているではないか。持ってきたのは当人ではないのか」
「その通りです。呆れたことですが、持ってきたのはこの朱 路陽と一緒に着任したという副官の方でした。そのものが言うのには、朱 路陽は長旅の疲れで臥せっているとか……。恐縮しているそぶりはしていましたが。彼らが主人のいなくなった前の外交官の屋敷に入ったところまでは確認しています」
「見張りはつけてないのか」
カイエンが聞くと、サヴォナローラは真面目な顔で答えた。
「そこが外交官相手ですと難しいところでして……向こうの一行にも武官らしいのが何人か入っていたそうです。下手につつくと……」
藪蛇だと言いたいのだろう。
「ですが、殿下の方で、そういう事情を理解しつつ見守れる隊員を差し向けていただけると大変助かるのですが」
なるほど。
カイエンは理解した。
サヴォナローラがこの話をした理由がわかったからだ。
カイエンの頭の中には予備役の爺さんたちの顔が浮かんでいた。爺さんたちはそういう細かい塩梅には強い。それにもう、一度は引退した爺さんたちがウロウロしているだけなら、螺旋帝国人の中に血気にはやったのがいても大丈夫だろう。
「わかった」
カイエンはうなずいた。
サヴォナローラが机の向こうで立ち上がったので、カイエンも話はこれで終わりと理解した。だが、ふと気になったことがあった。
「ところで、前の王朝の外交官はどうした?」
そう聞くと、サヴォナローラは真面目な顔のまま、さらりと言った。
「私どもが螺旋帝国の易姓を知ったのとほぼ同時に、この国に亡命を求めてきておりますよ。そっちの御仁たちも今、ある場所で軟禁中です」
新しい王朝との関係がどうなるのかによって、彼らの扱いも変わってくるということなのだろう。
「なるほど。よくわかった」
そう言うと、カイエンは一人、サヴォナローラの前の椅子から杖をついて立ち、その部屋を後にした。
アストロナータ神殿へ誰を連れて行くか、帰って話し合わねばならない。日程の調整も必要だ。
同時に予備役の爺さんたちを螺旋帝国の外交官屋敷へ配備しなくてはならない。
カイエンはこの日も忙しかった。
一方。
帝都中心部にある、アストロナータ神殿の奥、上位神官しか出入りを許されない区域に、保護という名の「軟禁」状態にある、螺旋帝国からの客人たちは。
「先生」
そう言って、頼 國仁の部屋に入ってきたのは、馬
頼 國仁の顔色は冴えない。と言うよりも、その頰はげっそりとやつれ、五十九と言う年齢よりも十も老けて見えた。
「子昂か」
神殿の奥、窓は天井の近くに小さな明かり取りがあるのみの、あまり広くもない薄暗い部屋。昼間なのに部屋の机の上にはランプが灯っている。
そのオレンジ色の光に浮かんだ子昂の顔もまた、冴えなかった。
子昂はまだ三十にはならないだろう。マテオ・ソーサの私塾に顔を出していた螺旋帝国人はハウヤ帝国に住んでもう長いのだろう、その顔つきを除けば衣服も髪型も全てこの地の形に馴染んでいた。
一方、頼 國仁の方は、長くこの帝都ハーマポスタールに住んだ後、一度は故郷に帰ったという事実そのままに、なんだか不思議ないでたちだった。
服は旅の途中で手に入れたらしい、ハウヤ帝国よりは東側の国のものだが、頭髪は長く伸ばして黒い帽子の中に入れていた。黒い髭はさすがに綺麗に整えられている。
「……あれは、まだ見つからんか」
頼 國仁はひび割れた声で、子昂に聞いた。
「はい。先生、もう私もこの神殿からは出させてもらえませんのですよ」
子昂の返答を聞くと、頼 國仁の黒い目が悲しげに歪んだ。
「そうか。そうであろうな。あの、宰相という男は優しげな顔はしておったが、油断がならない男に見えたものな。あれは怖い男だ」
「顔相を観られましたか」
老いた学者はうなずいた。
「この天来神の神官と言っていたが、あの者の正体は神に仕える者でも政治家でもない」
天来神とはアストロナータ神のことである。
「あれは『歴史の観照者』、人でありながら歴史を見極め、縁あれば歴史に介入し、管理しようとしている
頼 國仁は断言した。
「あの男の頭には、天来神の神典の全てが収まっておるのだろう。預言の成就を見守るために生まれてきた者かもしれん」
「え?」
子昂はその言葉の意味がわからず、目を白黒させた。そんな彼を見上げ、頼 國仁ははっとしたように口をつぐんだ。
「いいのだ。確かに時代は動いているのだ。こういう変化の中では凄まじい色を持った存在が生まれてくる。だからこそ歴史が動くのだ」
そうだ。
だから「冬」王朝は潰えた。
馮 革偉、あれもまた動乱の歴史の中で突出してきた色の一つだ。
「すまなかったな。何か私に話があったのであろう」
頼 國仁が促すと、子昂は、はっとして話し始めた。
「先生、先ほどここの神官が伝えてきまして。……宰相は大公に話を通じてくれたそうです」
それを聞くと、頼 國仁のやつれた顔にほのかに血の気がさした。
「おお」
「では、では……カイエン様は来てくださると?」
子昂は急激に変わった、頼 國仁の顔に驚いた。
「はい。ご同行になる者の人選が整い次第、こちらへ来られるそうです」
「そうか。そうか。あの方が来てくださるか。大きく、なられたのだろうな」
頼 國仁の脳裏に浮かぶカイエンの姿は、十四歳の少女だ。まだ何も世間のことなど知らない、真面目いっぽうの姫君。ちょっと言葉が乱暴なところがあって、足が悪いせいか、やや物を斜めから見るところのある神経質な少女だったが、彼女の書く螺旋文字はお手本通りに生真面目で面白みはないものの、螺旋帝国のなまじな文人などよりもはるかに流麗なものだった。
だがあれから五年あまり。
「……あの宰相も、カイエン様の名を出した時だけは顔がすこうし、動いた。カイエン様はまだ……」
その後の声は、干からびた唇の中で消えた。
ハーマポスタール大公、カイエンが彼らの元を訪れたのはその数日先のことであった。
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