ロシーオがミモを連れてきた
話はやや前に戻る。
カイエンの十九回目の誕生日は家庭的な雰囲気のもと、最後はみんなで暖炉の前で沈没、という、ほとんど「慰労会」か「忘年会」のような様相を呈していたのだが、祝われる側のカイエンもシーヴも満足していたし、アキノやサグラチカは「こんな歳になってこんなに気を緩めて騒ぐのは久しぶり」と目元の皺をより深くして、若者たちの様子を見守っていた。
女中頭のルーサや料理長のハイメ、侍従のモンタナ、三人の女騎士はそれなりに給仕の仕事もしたが、それでも主人と一緒に飲み食いし、無礼講で騒ぐことなど他の屋敷ではありえないことではあったので、最初は遠慮していたものの、最後の方にはすっかり場に溶け込んでいた。
特に、マテオ・ソーサ教授と、執事のアキノ、それに料理長のハイメ、のおっさん組はそれぞれ全く畑の違う仕事に従事してきたとはいうものの、そこは人生の後半にとっくに足を突っ込んでいる者たちならではの話題、それは主に昔話であったが……に花を咲かせていた。
イリヤはあまり表情を変えないが、これは間違いなく美人のルーサに早速、目をつけてにじりより、酒の飲み比べを企んだようだが、連日の過酷な労働での疲れもあったのか、彼は早々にルーサに負けて潰されてしまっていた。カイエンはその様子も見ていたが、うるさい男が静かに久しぶりの熟睡に入っているのを、なんとなく微笑ましく見ていた。
双子のマリオとヘススは、無表情ではあるが、そこが浮ついていなくて安心感があったのか、女騎士の中の若い二人、シェスタとナランハに捕まり、話を一方的に聞かされていた。だが、二人とも別に迷惑ではなかったようだ。
カイエンの周りにはサグラチカとヴァイロン、シーヴ、それに他に入れる輪がなかったのか、ガラも話に加わってきたのには皆、内心、驚いていた。
話し方はぶっきらぼうだが、話させてみれば、ガラはなかなかに面白い話題の提供者だった。……もっとも、あまり表情が変わらないので、笑うべきところで笑いにくいという困った点はあったが。
さて。
宴もたけなわになってきたところで、皆からの誕生日プレゼントがカイエンに贈られ、カイエンはその包みを、ひとつひとつ、開けて行ったのだが。
中身は女性陣からのものは、カイエンが普段使えそうな可愛らしい小物類が多かった。サグラチカとルーサからのものは、大きな毛織物の暖かそうな膝掛けで、表でも使えるように、それは比較的地味な色合いのものであったが、その表面にはぎっしりと二人による刺繍が施されていた。カイエンは大事に使わせてもらうと感謝し、早速、冷えると痛む足の上に掛けた。
男性陣からのものは表での仕事に使えそうな実用的なものが多かった。
そんな中。
ヴァイロンからの包みは、一番最後になった。
そうなった理由は簡単で、それは包みではなかったからだ。
自分の番になったら「奥から持ってくる」とヴァイロンはいい、それで最後になってしまったのだ。
カイエンがふと、サグラチカとアキノを見ると、すでに彼らはその「中身」を知っているらしく、謎の微笑を浮かべてヴァイロンが食堂から出て行くのを見守っていた。
「なんなの? ナマモノなの?」
イリヤがそう言って、左右を見たが、皆知らされていないので、曖昧な表情で黙っていた。
やがて。
戻ってきたヴァイロンが食堂の入り口に見えた時。
みんなの耳に、意外な声が聞こえてきた。
ヒャー。
みやー、とも、ひゃー、ともつかないあの独特の鳴き声。
「ええええええええ?」
イリヤとシーヴを中心とした何人かの声がデュエットした。
ヴァイロンのでかすぎる手に大事に抱えられた、というか載せられてきたのは、一匹の子猫。
ヴァイロンは黙ったまま、ちょっと恥ずかしそうに顔をうつ向けて、カイエンの腕の中へ、その子猫をそっと移した。
「……これはミモです」
カイエンはヴァイロンの顔をまじまじと見てしまった。
カイエンの胸にしがみついた子猫がまた、ヒャーと鳴いた。
「ミモっていう名前です」
ミモ。
それは「甘い言葉」とか、「甘やかし」とか、「過保護」とかいう意味だ。
その猫は、模様だけ見ると、あのトリニの家の猫、パンキンに似ていた。
白地に茶色のぶちの猫だ。
パンキンよりも白いところが多く、パンキンよりもぶちの茶色の色が濃い。そして、ぶちの中の縞模様もパンキンよりも太くて濃い。尻尾は濃い茶色の縞模様で、長かった。
顔を見ると、顔の模様も独特で、向かって左側は茶色の部分が多く、向かって右側はほぼ真っ白だ。顔の向かって右側で茶色いのは、眉のあたりだけ。左側の鼻の下に模様があるが、それは模様はちょうどピンとはね上げた小洒落た髭のようで、それが左側にしかないのが面白い。
ミャー。
開けた口にはもう歯が生え揃っているが、体はとても小さい。目の色は薄い黄色で、やや灰色っぽくも見えた。
「なんだこれは」
カイエンのあんまり自信のないささやかな胸を前足でもみもみしている子猫。パンキンよりもずっと小さくて、ちょっと力を入れたら潰れそうだ。
カイエンが顔を上げると、ヴァイロンの代わりにサグラチカが答えた。
「カイエン様、教授様のお教室の猫を可愛がっていらしたと聞きましたよ」
「ええっ」
いつの間にかカイエンの後ろに忍び寄って、すぐ横から蕩けそうな顔で子猫を覗き込んでいた、教授がびっくりしたようにサグラチカとヴァイロンを見た。その猫なら私の教室の猫じゃあありません、大家のトリニのうちの猫です、といいたげだ。その様子では、彼もかなりの猫好きらしい。
「それをヴァイロンから聞いて、猫を飼うのもいいかしらと思っていたんですよ。そうしたら……」
そこからヴァイロンが話を引き取った。
「一昨日の朝、帝都防衛隊の訓練場として使うことになっているので、ここの裏庭を見回っていましたら、裏門から一人の女が中を覗き込んでいたんです」
大公宮の裏庭はその昔、修道院があった跡で、周りは高い塀で囲まれているが、裏門のところだけはそれが切れている。大公宮自体への出入り口はもっと内側の城郭の中なので、今の所、その裏門には門番が一人、立っているだけだ。
その門番が、一人の若い女ともみ合っていた。
「いいじゃないか。ちょっと見させてもらっているだけだよ。きれいな庭だから、ちょっとだけ見させてもらってもいいだろう」
「いかんいかん。ここは大公宮だぞ」
ヴァイロンがそっちを見ると、中年の門番と言い争っているのは、大きなバスケットを腕にかけた、大柄な女だ。
ヴァイロンが近づいていくと、二人がびっくりしたように彼を見た。それはそうだろう。ヴァイロンの赤い髪と巨躯は大いに目立つ。ヴァイロン自身はもう、そういう反応には慣れっこだ。
「どうした?」
そう、門番に聞きながら、女を観察する。
金茶色の髪をしたその女は二十歳過ぎ。あのトリニと同年代に見えた。トリニほどではないが、女性としては大柄だ。髪は後ろで簡単にまとめているが、その顔を見た時、ヴァイロンはちょっと目を見張った。
猫のような顔だ。それも山猫。ヴァイロンはガラの獰猛な顔を思い出した。あれは狼に近いが、この女の顔から感じるのはガラと同じような野生味だ。
弓なりの細い眉の下の目は金色で、虹彩の中心だけが緑色に光っている。まぶたが切れ上っていて、ほとんど猫の目のように見える。その下の鼻や口は小さくまとまっているが、それが余計にこの女を猫っぽく見せていた。
ヴァイロンを見て、口をパクパクさせている門番を尻目に、女はヴァイロンの顔を恐れげもなく見上げてきた。
「あら。おはようございます。ちょっとここから庭を見させていただいていただけなんですよ」
女は場所柄からヴァイロンの身分に気がついたらしい。
「素敵なお庭。……ここで働けたらいいのになあ」
(ここで、働けたら、いいのになあ)
女の言葉はほとんど独り言のように小さくなって消えた。
「なに?」
ヴァイロンが聞き咎めると、女ははっとしたように我に返った。
「いいええ、こっちのことですよ」
ひゃー。
その時、女の持っているバスケットから、それが聞こえたのだ。
門番もヴァイロンも女のバスケットを凝視した。
「ああ、そうだ」
女は思い出したように、ヴァイロンに向かって言った。
「これね、子猫なんですよ。近所の猫が五匹も産んじまってね。そろそろ生まれて二ヶ月になったから里子の先を探してるんですよ」
バスケットのふたを開けると、中からもぞもぞと子猫たちが顔を出した。
「ダメ元で聞くんですけど、一匹、いかがですか」
ヴァイロンはバスケットの中を見た。中の子猫が茶色や茶色のぶちの子猫でなかったら、彼の気持ちは動かなかっただろう。だが、バスケットの中の子猫たちは全てが茶色や茶色のぶちの猫たちだった。
パンキン。
ヴァイロンの中で、トリニのうちの猫に懐かれて嬉しそうにしていたカイエンの姿が蘇った。
「……ちょっと待っていてくれ」
「えっ」
驚く女と門番をそこに置いたまま、ヴァイロンは大公宮の奥へと走った。本気で走るヴァイロンの速さは、まさに金色の獅子さながらである。あっという間に消える後ろ姿を見送って、女と門番は口を開けたまま、顔を見合わせた。
奥へ走ったヴァイロンは、サグラチカを捕まえると、忙しく猫のことを相談した。大公宮の奥で飼うとなれば、サグラチカの許可が必要だ。
やがて裏門へ戻ったヴァイロンは、女に言った。
「一匹だけだ。選ばせてもらえるだろうか」
女は驚いた顔だったが、がくがくとうなずいた。言ってはみるものだ。
バスケットの中の子猫は五匹。
うち、二匹はほぼ全身が茶色の縞模様。一匹は体の八割が茶色。残りの二匹が白地に茶色のぶちで、白地の部分が多い。ヴァイロンはパンキンを思い浮かべつつ、子猫を見た。ここはやはり白地に茶色のぶちだろう。
二匹を見ると、一匹は他の四匹よりも一回り、体が大きかった。
「こいつは一匹だけ、大きいな」
そう言うと、女が答えた。
「ああ、その子は生まれた時から一匹だけ大きいんだよ。オスだよ。よく見ると、その子だけぶちの茶色が濃いでしょう。縞模様も太くて。……でも、同じ日に生まれた兄弟なんですよ」
ヴァイロンは決めた。
一匹だけ、大きいのもいいじゃないか。
「こいつをもらおう。……私はヴァイロン。一応、名前を伺っておこう」
言うまでもなく、元は若くして将軍にまでなった有名人だ。女もヴァイロンの名前は知っていた。
「ありがとうございます……この子は幸せ者だね。……あたしは、ロシーオ。ロシーオ・アルバって言います。家はビスタ・エルモサ」
コロニア・ビスタ・エルモサは、トリニの家があるレパルト・ロス・エロエスに隣接する、古い下町、といった地域のひとつだ。すぐ隣は旧市街で、この大公宮にも遠くはない。
「わかった。この子猫は大公殿下が飼われることになる。名前はもうあるのか」
ヴァイロンが聞くと、ロシーオは山猫のような顔をほころばせた。
「嬉しいねえ。あんた、いい男だ」
子猫の名前を聞いたら「いい男」とは、ヴァイロンには理解不能だったが、ロシーオは満足げだ。
「うん、もう名前をつけてたんだよ。この子は、『ミモ』っていうんだ。体は大きいのに要領が悪くてね。馬鹿そうだから、母猫も一番に心配してるんだよ。だから甘やかしてやりたいからね、だから、ミモ」
ヴァイロンは約束した。
「ミモか。必ずその名前で育てるからな」
ロシーオは何度もミモの頭を撫でてから、帰って行った。
「ありがとうねえ。ミモ、幸せにね」
そう言うわけで。
子猫のミモはカイエンの猫になった。
「フクロウみたいな顔だな」
カイエンのいう通り、子猫はフクロウのように丸い目をしていた。そんなに目を見開かなくても見えるだろう、と突っ込みたくなるぐらいにまん丸な目を剥いている。その目で、彼は周りの人々を見回した。
そのまん丸な目に映ったのは、大公家の人々。
いろいろな階級、いろいろな外見、いろいろな立場の人たち。
ミモは、カイエンの腕の中から、誕生日の宴会で無用心に蕩けた人々の顔を見定めると、最初に教授の方へ足を伸ばした。
「おお、猫好きがわかるんだねえ」
教授は、自分の赤子をあやすようにミモを抱いて頬ずりした。ちょっと気持ち悪い。
だが、その後、宴が居間の暖炉の前に移動し、皆が暖かい炎の前に酔い崩れた時、カイエンは他の何人かからも同じような言葉を聞いた。
大公宮のミモは、皆に可愛がられるだろう。
カイエンの誕生日が祝われていた頃。
このハウヤ帝国の宰相、サヴォナローラは、このハウヤ帝国を頼って逃げてきた、二人の人物を保護するべく、地下で動いていた。
サヴォナローラには内閣大学士だった頃から、個人的な情報網がある。それは、親に死に別れた後、アルウィンのあの桔梗館一党の中で知り合った貴族であり、アストロナータ神殿での人脈であった。
宰相府の主人となった今、それらは統合されて彼の手足となって活動している。
宰相となってから、彼は皇宮内にもらった控え屋敷で暮らしている。
その彼の元へ、一つの情報がもたらされたのは、つい数日前だ。
情報源は、下町。
螺旋帝国から、貴人がこのハウヤ帝国入りしたという情報だった。
もとより、サヴォナローラは易姓革命の起こったばかりの螺旋帝国へは情報取集の手をできうる限りに伸ばしている。
彼が内閣大学士になる以前から、螺旋帝国では易姓革命が起こる前の騒乱と混乱があったはずなのだが、その時期にはこのハウヤ帝国には、彼のような地位で情報を整理する者がいなかった。
皇帝は独裁を敷いており、上位貴族の元老院はその言いなりの機関でしかなかったからだ。
サヴォナローラが政治の実権を握った時には、もう螺旋帝国の情勢は決まっていた。
だから、サヴォナローラとても、螺旋帝国の今回の革命の実際はよくわかっていなかったのだ。
わかっていたことは少なかった。だが、新帝、
サヴォナローラにかの国から来た貴人の情報をもたらしたのは、この帝都ハーマポスタールに在住する螺旋帝国人からだった。
名を、
彼からもたらされたのは、二人の貴人の保護であった。
東の果て、螺旋帝国から、この大陸の西の果てにあるハウヤ帝国の首都、ハーマポスタールまでは馬を連ねた隊商なら数ヶ月。南航路の船旅でも運が悪ければ半年ほどもかかる。
二人の貴人がこの帝都に到着したのは、この秋のことだったという。二人を連れてきたのは、数年前までこの帝都に在住していたという螺旋帝国人の学者だという。
二人を迎え、保護したのが、マ・シゴウだ。
サヴォナローラは情報が入るとすぐ、マ・シゴウに指示して、貴人たちを帝都のアストロナータ神殿に入れた。彼らを皇宮へ保護することはさすがに出来なかったからだ。
アストロナータ神は、螺旋帝国でも「天来神」として同じように崇められている。その点でも問題はなかった。
その日。
サヴォナローラは忙しい自身の予定を調節して、彼にとっては懐かしくもあるアストロナータ神殿へ入った。帝都の中央部、皇宮にほど近い場所であるが、一番表の大神殿以外の奥殿への出入りは厳しい。
彼は神官としてもかなり上位の神官になりおおせていたし、今はその上に「帝国宰相」の肩書きを背負っている。案内する彼より若い神官は言葉すくなに、失礼がないようにとのみ念じているように見えた。
神殿の奥殿に入っていく。入り組んだ構造の建物の奥にある、出入り口が一つしかない続き部屋に案内されると、そこにこの部屋に入った螺旋帝国の貴人たちの係の神官と、一人の螺旋帝国人が待っていた。
まだ若いと言っていい年頃の男だ。サヴォナローラと同年代なのかもしれない。
それが、マ・シゴウだった。
そこで、マ・シゴウに紹介されたのは、滅んだ「冬」王朝の遺児。
姉と弟の二人が、彼を待っていた。
姉の名前は、玄
二人は冬王朝最後の皇帝の子供達の生き残りであった。
「お世話になりまする」
二人のそばで頭を下げたのは、二人を混乱の螺旋帝国から連れ出した、一人の男。
すでに老境に差し掛かった男の名を、サヴォナローラは聞き知っていた。
数年前まで、あの現大公カイエンの家庭教師を勤め、街中に私塾を開き、マテオ・ソーサをはじめ、何人もの学者たちを教え導いていた男。
すでに五十の坂を下り、髪にも髭にも白いものが目立った。顔つきも暗く、何か思い悩んでいる様子がありありと見て取れた。彼はサヴォナローラの顔、そして真っ青な切込むような眼差しと目があうと、ゆっくりと目をそらしさえしたのである。
サヴォナローラは頼 國仁のそんな様子をしっかりと観察し、記憶にとどめつつも、丁寧に挨拶した。
「ハウヤ帝国宰相を任されております。このアストロナータ神殿の神官でもあります。サヴォナローラと申します」
彼は二人で手を取り合って寄り添う、まだ若い遺児たちの方を見た。
「お任せください」
サヴォナローラは深く、深く頭を垂れた。
「皇帝陛下より、お二人の安全と保護を託されてきておりまする」
彼の前の前で、姉と弟の顔が明らかに安堵し、緩んだ。
サヴォナローラが皇宮に戻ると、宰相府の役人が彼に皇帝からのお召しを伝えてきた。
サヴォナローラは早速に、皇帝サウルの前に出て、螺旋帝国の二人の遺児、今は亡命者である二人の皇子、皇女の様子を伝えた。
しばらくその内容を咀嚼したのち。
皇帝サウルはサヴォナローラに問うた。
「いいだろう。……ところで、カイエンはどこまでこのことを知っている?」
サヴォナローラは真っ青なその目を皇帝にきっと据えた。
「情報は全てあの方へも漏らしております。今日のお二人の貴人のことはまだですが、あの事件もありますし、すでに帝都の螺旋帝国人への疑いは十分に持っていらっしゃるでしょう。最後の事件では証拠を残しすぎております。それに、あちらには私の弟もおります。大公殿下が真相にたどり着くのはそう、遠いことではないかと」
「そうか」
皇帝サウルは土気色の顔をやや歪めた。
この頃、皇帝の顔色はことに悪くなったように見える。
「はい」
サヴォナローラはもちろん、それに気がついていたが、そのことには触れられなかった。
「……アルウィンの動きもあって、あれに対してはややこしいことになったが、カイエンは残ったな?」
皇帝は、サヴォナローラの顔を正面から見た。皇帝サウルはあの事件でカイエンが折れていたら、大公位から外すつもりだった。だが、カイエンは折れずに残ったということだ。
「あれはなんとか使えるようになりそうだ。お前と一緒に後事を任せられそうか?」
サヴォナローラは痩せた顔に微笑みを登らせた。
「大公殿下はあの嵐を乗り切られました。まあ、危ないところはございましたが、部下もついてきております様子。かのマテオ・ソーサ教授もあの方につきました。大公殿下の軍団は、来年には確固たる勢力として確立されましょう」
皇帝サウルは、カイエンによく似た口元に、凍るような笑いを浮かべた。
「……来年が楽しみだな。オドザヤもそれなりの時間稼ぎには使えそうだ。何よりもカイエンがあの娘を守ろうとしているのだからな。まだまだ、余は諦めぬ。……まだ、『終焉を連れ来きたる皇女』は生まれておらぬ」
サヴォナローラは黙っていた。
カイエンはまだ知らないが、近いうちに彼女も知る事になろう。
ハウヤ帝国皇帝家には一つの言い伝えがある。
……終焉を連れ来きたる皇女が生まれた時、帝国は滅びの時を迎えるであろう。
サヴォナローラには予感があった。
だから、皇帝サウルに従ったのかもしれない。
あの海神宮の大回廊に並ぶ、歴代皇帝の肖像画。
そっくりな顔をした皇帝たちの顔が並ぶ回廊。
あの最後を飾るのは、「終焉を連れ来きたる皇女」の肖像になるはずだ。
サヴォナローラは最初の頃、それはカイエンだと思っていた。
だが。
カイエンは皇帝サウルの末妹とはされたが、実際は大公アルウィンの娘であり、すでに大公となった。
では、彼女は違うのだ。
オドザヤ皇女も違う。
なぜなら、彼女は「皇帝の顔」を持っていない。
だが、まだわからない。
サヴォナローラは楽しみだった。
この、皇帝サウルや大公カイエンを始めとする貴人たちが、この時代に、この海の街ハーマポスタールで何を巻き起こすのか。そして、その結果、このハウヤ帝国がどうなるのか。
それは、彼の目の前で、これから起こるはずの新しい歴史の転換期であったから。彼はこの時代に生まれ、皇帝のそば近くに居場所を持ち得た幸運を心の底から喜んでいた。
自分からこの歴史の大河に飛び込んだのであるから。
そうでなくては、今、この時期に宰相の地位などに座ってはいない。
「生まれますよ。皇帝陛下。『終焉を連れ来きたる皇女』は必ず、生まれていらっしゃいます。それはね、既に大昔からアストロナータ神によって預言されていることなのですから」
彼はそう呟くと、手元の分厚いアストロナータ神の神典にそっと手を載せた。
そこには、古代から残る神殿の碑に記された神の言葉が集められているのだ。
だが、その皇女を生むのは一体誰か。
サヴォナローラの脳裏にそのとき浮かんだ顔は、新しい妾妃マグダレーナの顔では、なかった。
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