大公殿下の十九回目の誕生日
「恵まれた女よ、おめでとう
栄光の女神グロリアが、貴女とともにおられます」
あのとき、聞こえた声はあこがれにも似て
白い百合の意匠に囲まれた彼女の部屋で
青いガラスタイルが百合の文様を描く部屋のなかで
彼女は身を震わせ
冷たい石畳の上に倒れ伏す日と
何千年、何万年ともしれぬ過去の人と神々との夢を見た
あの時
天の使いが耳元で
囁いた
あのとき
彼女のなかで天は晴れわたり冴えわたり
雲が飛沫のように跳ね飛び
空は
海のようにはじけた
ああ、そのとき
彼女は信じようと、こころ震わせた
己のなかに、未だ虚無の若さのなかに
聖なるなにかを
育めるものかと
あこがれたーー
アル・アアシャー 「星の歴史」より「受胎告知」
その日。
大公宮の人々はなんとなく浮き足立っていた。
日にちは十二月九日。
それは時の大公、カイエンの誕生日である。
カイエン自身は十五までは家族が父のアルウィンしかいなかったために、家族打ち揃っての祝い事などには無縁であったし、アルウィンが死んだふりをして去ってからはせいぜいが執事のアキノと乳母のサグラチカの夫婦が親代わりになってささやかな祝いの晩餐を用意するぐらいが関の山であった。
もっとも、あのような性格のアルウィンでも、たった一人の娘のためにはそれなりのお祝いの雰囲気は作ってくれていたのだが、なにせ父と娘の二人家族だ。それはお世辞にも華やかと言えるものではなかったのである。
カイエン自身がそんなわけで、誕生日などの記念ごとには無頓着だったのだが。
この年から、カイエンの誕生日は様相を異にすることになる。
それはまず、ヴァイロンの考え方に始まった。
彼自身も、アキノとサグラチカのうちにいた十二までは同じように誕生日といえば、ささやかな祝い事であった。そもそも、彼は誕生日がわからなかったからだ。
彼は生まれたばかりの赤子のときに捨てられ、それが七月の終わりだったので、その日が誕生日になっている。
それでも、アキノとサグラチカに誕生日を決められたから、彼は彼らの家族になれたのだ。彼にとって、それは大切な記念日である。
十二で士官学校に入学してから、彼の誕生日は彼の出世に伴って徐々に派手なものとなっていった。
学校時代には学生寮で親しい友人たちが祝ってくれるようになった。そして、軍に入ってからは朋友たちが年々、派手に祝ってくれるようになっていった。将軍になってからは部下が率先して祝ってくれた。飲めや歌えやの大宴会が繰り広げられたこともあったのだ。
今年の二十四の誕生日はあの「春の嵐」の最中であったためにサグラチカが心づくしの手料理で祝ってくれ、カイエンとアキノ、サグラチカの三人が祝ってくれただけであったが、彼はそれで満足していた。
彼はもう、ささやかな家族だけの誕生日も、大勢が祝ってくれる誕生日も、その両方を知っていたから。
だから彼はカイエンの誕生日が近づくと、アキノやサグラチカに「毎年、どのように祝ってきたのか」と聞いたのだが、それに対する答えは、彼には到底、受け入れられるものではなかった。
ささやかといえば聞こえはいいが、寂しすぎるではないか。
金をかけた大掛かりなものはカイエンが喜ばないであろうことは、彼ももうわかっていた。というか、彼自身もそういう祝いは将軍時代に断ってきた。
大公宮自体も、新設の帝都防衛隊のことや、例の連続殺人事件で忙しい。
だが、彼は仕事はきちんとやりつつも、根回しを始めた。
彼はまず、大公軍団のトップである、あの男のところへ行くことにした。
「ええー? 殿下の誕生日って、九日なのう?」
大公軍団団長の執務室で、数え切れない事件に立ち向かっているイリヤではあったが、それでも書類処理の合間から顔を上げはしてきた。
「知らなかったわー。……さすがは大将ですねえ。仕事ちゃんとしながらも殿下は特別ですかあ」
ちゃかしながらも、事件の書類から顔を上げたイリヤの目の下には真っ黒な隈。ヴァイロンもイリヤの連日の激務はよくわかっていた。いや、だからこそだ。
「申し訳ない。忙しいことは勿論、わかっている。だが、だからこそお願いしたい」
イリヤに向けた翡翠色の目には真摯な色がみなぎっている。
「殿下に直接、お目見えする団員だけでも、集められないだろうか」
イリヤは書類を一旦、放り出して、指を折り始めた。なんだかんだ言っても親切な男では、ある。
「そうねえ」
イリヤはごそごそと紙巻き煙草を取り出すと、火をつけた。ふーっと紫の煙を一息吐いてから、言う。
「今、忙しいからねえ。それに、殿下も大掛かりなのは嫌がるでしょ。そうねえ、それならいいんじゃないの。双子から上で。あの教授さんも呼んだら? ああ! そうだわ!」
イリヤはショボショボさせていた鉄色の目を、かっと見開いた。何かいいアイデアが浮かんだらしい。
「ああ、大将。俺からも一つ、お願いがあるわ。……人数の方は、アキノさん夫婦に、あんた、俺に……殿下周りの使用人で、十人ちょっとでいいんじゃない? それなら殿下の食堂で十分できるしさ」
ヴァイロンは黙って聞いてうなずいた。イリヤの提案は彼から見てもいいアイデアであった。
ヴァイロンはその足で執事のアキノの元へ歩いて、当日の準備を頼んだ。アキノにも異存はなかった。
そして、当日。
あの連続殺人事件に進展がなくて幸いではあった。
アキノとサグラチカは、料理長のハイメに食べごろの生牡蠣を始めとした旬の料理を中心とした誕生日の料理を作らせ、それを大公宮の奥のカイエンの食堂に置いた、大きなテーブルに並べさせた。どの料理も小皿にとって食べやすいように工夫されている。
暖炉に火が入れられ、部屋のあちこちにサグラチカとルーサが大公宮の中庭や裏庭から採ってきた冬咲きの薔薇の花瓶を置くと、一気に部屋が華やかになった。
今宵は無礼講にすることにしたので、テーブルに料理や取り皿を並べ、壁際に椅子と小卓を配置した。立食形式というわけだ。
それが終わると、料理長のハイメや女中頭のルーサ、侍従のモンタナや女騎士のブランカ、シェスタ、ナランハも私服に着替えて集まった。
やがて、表から仕事に一くくりつけた一団が入ってくる。
大公軍団の頭のイリヤ、治安維持部隊の頭のマリオとヘススの双子。それにカイエンの護衛騎士のシーヴに、帝都防衛軍の顧問になったマテオ・ソーサ教授。
こっちはみんな、仕事終わりのままの服装だが、顔はゆるりと緩んでいる。
そこへ、ヴァイロンに引っ張られるようにして、カイエンが入ってきた。
カイエンには今日のこの食堂での集まりは知らせていなかったのだ。
カイエンは食堂に入ると、目を見張った。
今までの誕生日とはまず、集まった人数が違っている。
カイエンとヴァイロンの後ろから、あのガラも入ってきた。
カイエンの私的な食堂は今、十五人あまりの人々で溢れている。あまり広くはない、カイエン専用の食堂が、冬だというのに熱気で溢れているようだ。その点、このカイエンの食堂を会場に選んだイリヤの考えは図に当たったというべきだろう。
カイエンが、食堂の上座に据えられた椅子にかけるのを見てから。
「はーい。みなさん、お揃いですねえ」
司会は自然と団長のイリヤの役割になった。
「本日はあ、ここの大公殿下カイエン様のー、お誕生日でえ! みなさん、お忙しいところー、お集まりいただきー。ありがとーございまーす」
イリヤはしっかりと食卓の上の料理の数々を見据えてから、続けた。
「今日はこの通りー、ここの料理長さんの頑張りでぇ、旬の食材をふんだんに使ったお料理があ! 並んでおりますぅ! 皆さん、殿下への誕生日プレゼントに抜かりはありませんよねぇ!?」
おおー。
今日は無礼講ということなのだろう、皆がてんでに拳を振り上げた。
侍従のモンタナが女中頭のルーサとともに、華やかな色合いの発泡酒の栓を次々に開けた。
それが透明なグラスに注がれる。
それを見て。
「ではー。いきますよー。みなさん、グラスを取ってくださいなー」
イリヤはみんながグラスを手に取るのを見て、一拍置いてから宣言した。
「カイエン様あ! 誕生日おめでとうございますー!」
そんなノリには乗りそうもない、アキノやサグラチカ、ヴァイロンやガラ、使用人達も、「おおおー」と声を張り上げた。
「誕生日おめでとうございますぅ! 」
その後はめちゃくちゃである。
カイエンはヴァイロンにぎゅうっと抱きしめられて息が詰まった。
その後、次々とみんなに抱きつかれたり頰に接吻されたりしたが、もう誰からかはっきりしない。
カイエンは、今までの人生で体験したことのない高揚の中でうっとりした。
それは生まれてきてから初めての体験だった。
あったかくて、それでいいて懐かしい。
思い出しても同じような体験をしたことはないのに。
「……みんな、ありがとう。本当にありがとう」
それにカイエンが、驚き、押されつつも、紅潮した頰で答えると、イリヤとヴァイロンが、二人でシーヴの体をひっつかんで、前に引っ張り出した。
「殿下、こいつも今日が誕生日なんですよ!」
そして皆の前で、イリヤは断定的にそう言い切った。
それには、カイエンもシーヴも、目を白黒させた。
イリヤが、シーヴに片目をつぶって言った。
「おまえ、誕生日ないでしょ。いいじゃん、今日がこれからおまえの誕生日で」
その言葉に、周りの皆がうなずいた。
もう、話は皆に伝わっていたらしい。
シーヴ自身は今、初めて聞いたことである。
だが。
「シーヴ、おまえ今年で二十歳でしょ。おめでとう」
イリヤとみんなの声を聞けば。
否やはなかった。
シーヴは目の前の光景が一気に涙で滲むのを感じながら、自分でも意識することなく、みんなへ向かってやみくもに頭を下げた。
イリヤさんだな。
気を遣ってくれたんだ。それは、彼にもはっきりとわかっていた。
あの人、いい加減そうな割には細かいところまで気が廻るからな。
あのマテオ・ソーサ教授の言ってた通りだ。
俺の誕生日。
それは、彼の人生で初の出来事であった。シーヴの胡桃色の目の視界がぼやけた。
「大将、それならさあ、シーヴの誕生日も一緒にやってやってよ」
あの日、イリヤがヴァイロンに提案したのはシーヴの誕生日のことであった。
「あいつさあ、誕生日がいつだか全然、わかんないんだって。夏だか冬だかも。でも、今年、二十歳になることは確からしいんだあ」
「大将もどっかから聞いてない? シーヴって、本名じゃないしさ。ま、愛称ってやつ? あいつの出身は秘密だからさー」
ヴァイロンはその提案に同意した。
ヴァイロン自身も正確な誕生日がわからない、という点ではシーヴと同じだ。彼に否やはなかった。
誕生日ができる。
それは、居場所が見つかることだ。
一つの家族に迎えられるということだ。
それは、素晴らしいことで。
それをヴァイロンはもうよく知っていた。
「誕生日おめでとう!」
カイエンは驚きながらも、シーヴの肩に手を伸ばした。シーヴの方も、自然にカイエンの肩に手を伸ばし、二人は優しく抱き合う形になった。
「誕生日おめでとうございます、殿下」
シーヴの声は、いつもより少しだけ湿っぽかった。
カイエンは、それに応えるように、シーヴの耳元で彼の本当の名前を呼んだ。
「誕生日おめでとう。……シヴァ・ラ・カイザ」
と。
それが耳の奥まで到達すると、シーヴは、少しだけ体を震わせた。今、彼は本当に久しぶりにその音律を聞いたのである。
シヴァ・ラ・カイザ。
それは彼の本名である。
このハウヤ帝国では、帝国創始の時代から差別され続けている一族の名前だ。
それはなぜか。
答えは簡単だ。
ラ・カイザはハウヤ帝国初代皇帝が滅ぼした国の王の家の名前だから。
殲滅は免れたが、ラ・カイザ一族はハウヤ帝国では「賎民」として差別されることになった。
シーヴは、その一族の直系である。
街中には住めず、小さな部落を作って極貧の中でやっと生活している一族の中で生まれた彼には誕生日がない。
生まれてすぐに父も母も失い、人手に渡った彼の誕生日はその過程で失われてしまった。
彼を拾い上げたのは、ザラ大将軍の兄だった。
ヴィクトル・ザラ子爵はシーヴの出身を知った上で、彼を育て、少年になった彼を弟のエミリオ・ザラ将軍を通じて、カイエンが大公になったばかりの大公軍団に入れた。その意図は不明だが、ザラ将軍がプエブロ・デ・ロス・フィエロスの関係者であることから推測はできる。エミリオ・ザラの母親はプエブロ・デ・フィエロスの出身なのだ。
彼らの結社が守っている、蟲を持つカイエンの元ならばこの子も身が立つのではないかとの思いがあったのだろう。
カイエンはシーヴの本当の名前を知っていた。きっと、ザラ大将軍が伝えてくれたのだろう。
「ありがとうございます」
シーヴは、カイエンの細い肩を両腕で、しっかりと抱いた。
後で、ヴァイロン様に締められるかもしれないけれど、それでもいい。
「俺、殿下にずっとついていきます」
(それでいいのか?)
カイエンはそう思ったが、適度に入ったワインの酔いが、全てを甘美な思い出に変えた。
それはシーヴの側も同じだったろう。
シヴァ・ラ・カイザ。
シーヴがその名を取り戻すのはまだまだ先の話である。
カイエンの大公宮での誕生日は、以上のようにして始まり、終始、楽しい雰囲気の中で終了した。
カイエンを始め、一同は大きな家族のような雰囲気の中で食事と歓談を楽しみ、カイエンは皆からのプレゼントを開けた。
宴は夜中までも続き、最後は食堂の隣の大公の居間の暖炉の前での飲み会に進展し、カイエン以下、皆が暖かい暖炉の前で沈没した。
それは、あまりにも幸せな宴であった。
皆が心地よく酔い、暖かい暖炉は燃え、部屋は心地よく、人々は満足していた。
カイエンの十九回目の誕生日はそんな風にして終わった。
だが、その暖かい宴の外で。
他にもう一人、カイエンの誕生日を、毎年、思い出している女がいた。
それはかの
ハウヤ帝国皇后、アイーシャであった。
彼女はちゃんと覚えていた。
自分の胎内から最初に出て行った娘の生まれた日。
あれは、忌まわしい日だった。
苦しみ抜いて、産んだ初めての我が子があんな体で生まれなければ、その日は栄光の日であったろうに。
でも。
それでも、アイーシャは忘れなかったのだ。
カイエン。
あの憎らしいアルウィンにそっくりな娘。
女のくせに、あんな体のくせに、今やこの帝国の大公になっている。
憎らしいのに。
憎らしいのに。
なんで。
どうして。
アイーシャは、その日も酔っていたが、その頭の中には冷静な部分があった。
あの時。
あの子は父の違う妹のオドザヤを優しげに抱いていた。
あの子はアルウィンとそっくりだけど、違う。
あの子は、いい子。
私を傷つけない、いい子なのに。
いい子なのにぃ。
アイーシャは泣き始めた。
いい子なのに、あの子を愛せない。
そのことに彼女は心の片隅で気がついて。
そして泣いた。
このことに気がついたのは、実は初めてではなかったのだが。
それに、カイエンが彼女を傷つけなかったのは、今まで彼女たちが、ほとんど会話らしい会話もしたことがなかったからにすぎなかったのだが。
そんなことはアイーシャにはわからなかった。
それに、彼女は翌朝にはそれを全て忘れてしまっていた。
もう何度目かもわからない酩酊の渦の中に、今年もそれは置き忘れられたのだ。
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