ディエゴ・リベラの糾弾
知っているか
君に尋ねているんだよ
ここは
この俺たちの故郷は
最初で最後の楽園だったね
ここは神にも等しい理想の言葉
一瞬の真実が作った言葉に守られた
最後の砦だったのに
俺たちは自分の言葉を持たないままで
そして、血と苦悩の果てに
楽園は崩壊した
守護神は楽園に死んでーー嗚呼
ああやり直しだ
俺たちは息を吐いて
また、立ち上がる
新しい守護神を
作り直すために
何度でも
何度でも立ち上がる
アル・アアシャー 「青い鳥の虐殺」より、「楽園の守護神」
マテオ・ソーサ教授が遅い朝食をしたためている間、猫のパンキンはずっとカイエンの膝の上にのっかっていた。
カイエンは猫を飼ったことなどない。
子供の頃に、大公宮の裏庭で遊んでいたときに、そのあたりを縄張りにしていた猫に何度か触ったことがあるだけだ。
あの猫は何色だったか。
白地に赤っぽい茶色の斑の入った、大きな猫は、目を閉ざし、ぐる、ぐる、と喉を鳴らしている。
カイエンがそっと耳の後ろや顎の下を撫でると、ぐるぐるが大きくなる。
あったかいお腹をカイエンの膝の上に乗っけた猫は、目を細めてぬう、と首を伸ばした。
かわいい。
カイエンはその食堂の快適さもあって、いつも土気色の頬をほころばせた。
初冬とはいえ、陽射しの入る中庭に面した食堂の中は明るい。真冬になれば窓を閉ざし、暖炉に火を入れるのであろうが、この日はその必要はなかった。
民家であるから、窓にガラスはなく、冬になれば部屋の中は一日中薄暗くなる。
その日は、そうなる前の最後の小春日和であった。
トウモロコシの黄色いパンを頬張り、赤い豆のスープに卵、それにナイフを添えた丸ごとのチーズのささやかな朝食だ。
カイエンとヴァイロンは、その様子を飲みなれない珈琲をずるずるとすすりながら見守った。
「砂糖を入れたらどうですか。その方が飲みやすいですよ」
その時、気がついたようにトリニが言って、砂糖壺をカイエンたちの前に寄せた。
「気がつかなくてすみません。先生は砂糖を入れないでお飲みになるから」
なるほど。
ヴァイロンはともかく、カイエンは教授の飲み方を見習って飲んでいたのだ。
カイエンは木の砂糖壺をそっと引き寄せて、スプーン一杯だけ、珈琲に入れた。ヴァイロンは入れない。彼は苦いままの珈琲が好みなのだろう。
カイエンとても、砂糖が下々では高価な調味料であることは承知していた。
砂糖の入った珈琲は飲みやすくなった。砂糖抜きの珈琲をうまそうにすする教授が奇妙に見える。
カイエンの視線に気がついたのだろう。教授は食事を終え、二杯目の珈琲に取り掛かったところで、皮肉そうな笑みを二人へ向けた。
「珈琲というのはね。熱情の源ですよ。お若い方こそ、この苦さの中に混ざったあれこれを飲みほさなくてはね」
教授にはその時、カイエンやヴァイロンに確かに言いたいことがあったのであろうが、この言いようからはあまり伝わったとは言えなかった。
それまで教授の食事の世話を焼いていたトリニも席につき、四人がぼんやりと珈琲の湿った湯気の中に黙り込んでいた時。
その小春日和の静けさを破るようにして、トリニのペンシオンの玄関の呼び鈴が鳴った。
「あら、こんな時間に誰かな」
トリニは三人を食堂に残して、ペンシオンの玄関へ出て行った。
やってきたのは若い男らしく、二人の挨拶する気配と、何かやや言い争うような気配を感じていると、トリニが一人の男を連れて戻ってきた。
「おや」
教授は入ってきた男を知っているらしい。
食堂の入り口で、教授とカイエン、ヴァイロンを見て、ちょっとした驚きを顔に張り付かせている男は、二十代前半という年齢だ。
大柄な男で、やや太り肉でもある。
だが、澄んだ目が知的で、赤みがかった茶色の目が丸くて大きく、大雑把な造作の顔の中で星のように光っている。
トリニはお手上げ、という仕草をした。おそらくトリニは来客中と告げたのに、男は帰るどころか入り込んできた、ということだろう。
どうしようか、という目で教授を見る。
「お客様だって言ったんですけれど」
その話し方からすると、トリニは強い態度で追い払おうとはしなかったようだ。
教授がいるということもあったのだろう。
「ああ、いいよ、トリニ。こいつは……いつかは紹介しなければならない男だからね」
教授は謎のような言葉を吐き、カイエンたちの方へ向きなおる。
「大公殿下、ご紹介いたしましょう。この男は、サンティアゴ・リベラ。私がここで開いている私塾の、まあ、一番弟子の中には入るでしょう」
教授がそう言うと、大柄な男はさっとその目を教授へ向けた。
「ええ? 大公?」
そのやや分厚い唇が、発した言葉は驚きに満ちている。
「そうだよ。ディエゴ。この方はこのハーマポスタールの大公殿下。カイエン・グロリア・エストレヤ様だ」
ディエゴとはサンティアゴという名のの短縮形である。愛称としてある程度、親しければ普通はこう呼ぶ。
弟子。
カイエンには教授がここで開いている私塾がどのようなものか、まだわからないが、一番弟子の中の一人となれば優秀な弟子ということなのだろう。
「カイエン・グロリア・エストレヤだ。よろしく頼む」
カイエンは教授の紹介のし方に敬意を表して、そう挨拶したのであったが。
カイエンに対するディエゴの返答はカイエンの予想をはるかに彼方に超えた種類のものであった。
「先生!」
ディエゴはカイエンの挨拶を完全に無視した。
この帝都の大公の挨拶を無視したのである。
「先日、大公軍団が新しく作るっていう部隊の顧問がどうとか、おっしゃっていましたが、まさかお受けになったのですか?」
カイエンを無視して、師である教授へと向けられた声は厳しかった。
あまり他人に無視されると言うことに慣れていないカイエンが、呆然としているうちにも、師弟の会話は続いていく。
「そうだよ、ディエゴ」
教授は落ち着いた声でそう返した。
だが、その声はこれから始まるごたごたを十分に予想した声音でもあった。
「今日あたりはこっちへおいでだろうと思って、心配して来てみたら! ああ、先生、目を覚ましてください!」
ディエゴは誰かに知らされたわけではなく、今日辺り教授がこの私塾へ顔を出すだろうと踏んでやってきたらしい。
確かに、今日は士官学校の授業のない日だから、その可能性は高いのだ。
ディエゴは何か言おうとするトリニの手を乱暴に振り払った。
カイエンの挨拶に答えることもなく、彼に向き直ったまま座っているカイエンに向かって叫ぶ。
「出て行け! この呪われた皇帝の傀儡め! 先生をたぶらかす魔女め!」
カイエンの膝の上から、猫のパンキンが慌てて飛び降りて、台所の方へ逃げていく。
皇帝の傀儡。
それにはカイエンはあまり反発は覚えなかった。
春からの騒動で、彼女自身もそういう立場の己を自覚していたから。
魔女。
こっちはどうだろう。
こっちはすぐには分析できなかった。
隣で聞いているヴァイロンも毒気を抜かれたようで、黙ってディエゴを見ているようだ。
ディエゴが実際に手を出してきたら、すかさず止めて叩きのめしたであろうが、ディエゴの繰り出してきたのは言葉の暴力だ。
カイエンが黙っているとディエゴは、ばん、とカイエンの前でテーブルを叩いた。
「この金食い虫のお貴族野郎ども。ただでさえ、ここ数年、税金は上がる一方なんだぞ! それなのにまた大公軍団に新しい部隊を創設するなんて、何考えているんだよ? ええ? この帝都ハーマポスタールの防衛だってえ? どこの国がここまで攻め込んでくるって言うんだよ? ああ?」
カイエンは情けないことだが、ビクッとして椅子の背に背中をぶつけた。
こんなふうに男に目の前で怒鳴りつけられた経験がない。
その様子を見て、ヴァイロンの目が剣呑に光った。しかし、言葉での暴力に肉体言語で立ち向かう愚は犯さなかった。
「君。サンティアゴ・リベラだったか」
落ち着いた低い声に、ディエゴがややすくんだようにヴァイロンの方を見た。
通常呼ばれ慣れている呼び名でなく、フルネームで呼びかけるのには効果がある。
昨日、教授の研究室を訪れた時、教授もヴァイロンをフルネームで呼んだ。それには大きく二つの効果がある。
一つは「お前を完全に認識している」という意思表示。
そしてもう一つは、「お前、こっちにちゃんと注意を向けろ」というメッセージだ。
今、私はお前を完全に認識し、ロックオンしている、返答次第ではお前の料理に取り掛かる、という意思表明なのだ。これは、戦術学にもつながる。
だが、ディエゴには逆効果だったようだ。
「ああ、あんたはあのフィエロアルマの将軍だった人だな。先生に聞いてるぜ。士官学校の卒業試験で全科目満点取った秀才だってな。もちろん実技も最高点。虐げられてる獣人の血を引いてるってのに、一気に帝国軍の花形だ! それがなんだよ、情けねえな。今じゃ女大公の召使いか」
カイエンは思わず、ヴァイロンの顔を見てしまった。
全科目満点。
それは聞いてないぞ。
カイエンの視線の端で、教授も手で顔を覆っていた。
だが、口は挟まない。
「……それが、どうかしたか」
ヴァイロンはまだ自制していた。
それだけに声音が強かったが、ディエゴはただ噛み付いてきた野犬ではなかった。
「ああ、どうかしたよ。この国を守る軍隊に金を使うってんならまだいいさ。それに、治安維持部隊もいいさ。偉そうぶってる署員のオマワリたちはいけすかねえが、それでも俺たちの生活を守ってくれているからな。そいつらに俺たちの金使うのはいいさ」
「だけどよ」
ディエゴの恐れを知らない発言は止まらない。
カイエンはディエゴの言い方が怖いのもあったが、言っていることがそんなに間違っていない気がしたので、言葉を挟めずにいた。
確かに、今度の大公軍団帝国防衛部隊の創設理由と、その財源にはカイエンとしても疑問はあったからだ。
だが、皇帝と、それにしっかりと絡みついた宰相府のサヴォナローラの意思は絶対的に強大なものだった。
「もう国境の紛争も終わったんだろ。なんでこの時期に帝都防衛部隊なんだよ。で、それのための増税だ。先生を顧問にって、なにさせようってんだよ? 俺たちにはわけがわからないよ。皇帝はなにがしたいんだ? 宰相府ってなんのために作られたんだよ? なんで誰も反対しないんだよ?
それもこれも、この帝都を支配する大公殿下がこんな何にもわからない皇帝に唯々諾々の若い女の子だからだろ」
さすがに最後の方は、いくらなんでも言い過ぎだった。
だが。
増税。
そうか。
カイエンの方は納得しつつも、己のうかつさと未熟さに歯噛みする思いだった。
財源についての疑問は持っていた。だが、それを深く考えることが自分にはできていなかった。
皇帝やサヴォナローラには自明の政策だったろうに。
カイエンの大公としてのこの三年は、徹頭徹尾、「部下が持ってきた案件を解決する」ことに尽きていた。それだけでも右往左往するしかなかったのに。
国全体を見るような余裕があるわけもなく。
だが、これは言い訳だ。
それは、カイエンにもわかった。
今までの自分は子供大公に過ぎなかったと、今、このいかつい男が教えてくれている。
何にもわからない若い女の子。
その通りだ。
「こいつらは、市民のためとか言いながら、無駄な、お偉いさんたちにだけ必要な軍隊に俺たちから搾り取った金を使おうとしているんだ! 何が帝都防衛だ! 実際には俺たちを監視するための部隊に決まっているじゃないか。こいつらはただ、搾取するだけだ。国を守るっていうのも、自分たちの特権を守りたいだけだ。俺たちの生活なんかどうでもいいんだ。俺たちは農場の羊と同じなんだ。餌をもらって太らされてから毛を刈られ、年をとったら肉を食われ、生き残ったって最後には神々の生贄に差し出されるんだ」
言いながら、ディエゴは身を乗り出し、激しく右手でカイエンを指差した。その力強い腕は、そのままテーブル越しにカイエンの胸ぐらをつかみそうな勢いだった。
「やめな!」
トリニはディエゴの腕を強くつかみ、彼の腕を両腕で抑え込んだ。
トリニがつかんだのはディエゴの左腕だったが、ディエゴはなぜかその瞬間、強く顔を歪めた。
その時。
「やめなさい」
ディエゴの声を遮って、初めて、それまで黙って聞いていたマテオ・ソーサが口を挟んだ。
「……聞いているのか? それだからお前たち貴族のやつらは」
だが、ディエゴは感情が高ぶったのか、かけられた声にも気がつかない様子で、椅子から立ち上がってカイエンに詰め寄った。
黙って前に出ようとしたヴァイロンを、カイエンは無意識のうちに体を傾け、顔はディエゴの方を向いたまま、両手で抑えた。
遮れない。だって。
ディエゴの、彼の言っていることは、表現が稚拙な部分はあっても、おそらくほとんどの部分で正しいのだから。
そんなカイエンの様子を見たのか見なかったのか。
仁王立ちで、なおも言い募ろうとするディエゴの横で、静かにマテオ・ソーサが立ち上がった。
立ち上がっても、小柄なマテオ・ソーサの体は大柄なディエゴの肩までくらいしかない。教授は女としても小柄な部類に入るカイエンよりちょっと大きい、という程度の小男なのだ。
だが声はさすがに教授で、鍛え上げられた喉から出る声は大きく、深みのあるその音量と音の力が、まるで声という名の目に見えない波動となってディエゴを打った。二十年以上も教室で声を張り上げてきた彼の歴史は伊達ではなかった。
「やめるんだ! サンティアゴ・リベラ」
カイエンにはその時、声というもの、言葉というものが物質的な力を持つようにさえ見えた。
戦場での大音声を何度も聞き、自らも上げてきたヴァイロンまでもが、弾かれたようにマテオ・ソーサの小さな体を見た。
教授は立ち上がっただけで、ディエゴに手をかけてさえいない。
ただ、教授の灰色の冷静な目が燃えていた。
ゆっくりと、ディエゴは教授の方へ首を回す。
「……先生」
教授のきっぱりとした目に出会った時、ディエゴの赤みがかった茶色の目が、明らかにひるんだ。
「シレンシオ! (黙りなさい)」
教授がきっぱりとそう命じると、その場を
しん、とした食堂の中に、声を落とした教授の声が落ちる。
「ディエゴ、君はいくつだ?」
意外な質問に驚く間もなく、ディエゴは答えていた。
「二十、三、です。先生」
「二十三か、では、君はここの大公殿下よりも四つか五つか、年上なわけだ」
教授は容赦なく続けた。
「君が私の塾に来たのは何歳の時だったかな?」
ディエゴは視線をさまよわせた。
もう、その声には先ほどの勢いはない。
「え、確か、じゅ、十九だったと、思います」
教授は、得たり、とばかりに次の言葉の刃をディエゴに叩き込んだ。
「君はその十九の時に、今、大公殿下を糾弾したようなことを考えていたのかね?」
ディエゴの顔が引きつった。
声も出ない。
十九の時の彼は、家業の両替商の後継ぎで、店の番頭から仕事を教われと父親に命じられてそれに反発していた青年だった。
反発から、幼馴染の通っていたマテオ・ソーサの私塾へ通い始めたのだ。
マテオ・ソーサの私塾へ通うということは、庶民の知らなくていい知識に触れるということであり、未来の市井の両替商の旦那には必要のない「頭でっかちな」知識に触れるということであった。
父も母も反対したが、ディエゴはその「反対」が快くて、塾へ通い続けた。
決して、知識欲からではなかったのだ。
裕福な両替町の子息であった彼には、もちろん、社会への不満も、支配階級への不満もなかった。
全てはこの数年間で、にわかに身につけたことなのだ。
「いいえ」
ディエゴは自分の噴火していた頭が、急速に冷却されていくのを感じていた。
さすがは教授であった。
学生の扱いにかけては教授の右に出るものはいなかったであろう。
もっともその学生に効果的な一言を、瞬時に選択してぶつけることが出来るのだ。
十九の時の自分。
それはあまりにもみっともない存在だった。
裕福な両替商のぼんぼん。それだけの。
どずん。
ディエゴの大柄な体が、再び黒くて背中の高い椅子に収まるのを見届けてから、マテオ・ソーサは次の爆弾を彼にぶつけた。
「ところで、君」
教授は、ディエゴの左腕をそっと触った。
「君、さっきからこっちの腕をかばっているようだね」
それをぼんやりと聞いていたカイエンであったが、何かが引っかかった。
そういえば違和感があったのだ。
この部屋に入ってきてから、ディエゴは左半身をあまり動かしておらず、その動きの違和感が、カイエンには気になっていた。
右足が不自由なカイエンゆえに気がついたことだったかもしれない。体のどこかが不自由な者は、自らがよく動かない自分の体の部分に苦心しているために、他人の体の動きの不自然さに敏感なのだ。
教授の示したディエゴの腕は左腕。
教授は、そっとその腕に触れた。
「怪我をしているようだね。それも、自分の不注意でした怪我ではないようだ」
ディエゴの顔色は真っ青になっていた。
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