錯乱と酩酊の女神
その女は心の神殿に愚痴と嫉妬の女神を祀っていた
その手から盃が離れることはなく
ついにその女の人生は曖昧になった
千鳥足で、踊る道化師のように右往左往するしかない女を操っていた糸
女は心底それを憎んでいたが、糸を切ることはできなかった
糸がなくては立ってさえいられなくなっていたから
その女が選ばれたのはなぜか
その女が苦しんだ理由はなにか
ついに女にはわからないまま
彼を愛していると信じていた瞬間に
女はついに戻れぬまま
彼らは女を支配し、消費し続けたから
心はもう決して通い合わない
いや、それまでも通い合ったことなどなかったのかもしれない
仮面は一生、剥がれない
「仕方がないの」
もう化粧の下の顔も忘れたから
それでも
踊る
踊るよ
ただ彼のために
でも、でも
「神様、私をたすけて!」
苦しい叫びは止まらない
女は盃を手に、酔いしれたまま
女は皆に疎まれながら
彼らに踊らされて一生を走り抜けるだろう
そして、最期は冷たい石畳の上で凍って死ぬだろう
女を見下ろす人々の中で
二対の色の違う目が女を見下ろして泣くだろう
安堵の涙を流すだろう
そして
女を葬る手は
手の先に見える女の死に泣きぬれた目は
どんな色をしていたのか
女にはもう、見えはしない
ガラスの目にはもう何も映らない
アル・アアシャー 「星の歴史」より「ガラスの宝石のアリア」
皇后アイーシャは泣いていた。
涙が止まらなかった。
彼女は不幸であった。
少なくとも、彼女自身はずっとそう思っていた。
豪奢な宮殿に住み、山の幸海の幸がふんだんに使われた食事を摂り、幾人もの女たちに
どんなに着飾っても、どんなに素晴らしい宝石を身につけても、人々が皇后としての彼女にひれ伏しても。
美しい娘を生み、ついにその娘が次の皇帝たる皇太女になることが決まっても。
ものどもが「皇帝の寵姫、美しい皇后、できぬ事なき至高の存在」と仰ぎ見ても。
第三妾妃マグダレーナがやってきてから、皇后アイーシャは一日として静かに過ごせたことがない。もっとも、それは周囲が騒ぎ立てたのではなく、彼女自身が不機嫌になり、嘆き、時に涙を見せ……つまりは荒れていたからであったが。
マグダレーナのことがなくても、アイーシャは嫉妬深い女であり、夫である皇帝サウルに対してだけではなく、娘にも女官たちにも誰にでも嫉妬した。そして、それを隠すことができないわかりやすい性格だった。
その上に常に彼女は己を不幸な女であると断じ、信じ続けていたのだ。
いや。
昔、子供を産む前の彼女。
一小役人の娘として生まれ、年頃になって帝都ハーマポスタールの下町の病院で父の同僚の書類仕事の手伝いをしていた頃。
アイーシャは美しすぎるほどに美しく、若く、性格は活発で元気が良く、下町の小役人の娘としてはそれなりの教育を受けていたので、彼女を賞賛しないものはなかった。彼女もまた、骨惜しみせずに毎日、皆と仲良く働いた。
女友達ときゃっきゃと集まって、毎日たわいもない話をし、彼女を目当てに寄ってくる若者たちの、若者らしい恋の鞘当てを見ては自分の美しさにうっとりとした。
生活は裕福ではなく、二人の弟のためにもアイーシャは病院の事務の手伝いをしなければならなかったのだが、それもふつうの事だと思っていた。
彼女の周りでは、娘たちは結婚するまで、もしくはその後も、生活のために簡単な仕事を続けざるをえないのがふつうであったから。
たまたま彼女の働く病院を慰問に来た前大公アルウィンと出会い、見出されたばかりの頃の彼女は幸福だった。自らの幸運と、それを運んできた美貌と運命に感謝していた。アイーシャの顔は幸福に光り輝き、世界は黄金と薔薇色の絨毯の向こうへ、延々と輝かしく続いて見えた。
そしてアルウィンのもとを去り、アルウィンの兄である、皇帝サウルの元で皇后として冊立された時には、彼女とても人生最大の幸せを実感していた。きっと幸せの頂点を感じていただろう。
だが。
それはともに、彼女が子を産み落とすまでの幸せだった。
カイエン。
あの娘を産んだ時には死ぬかと思った。
出産は初産であることもあって、難産を極めた。
そろそろという月になり、腹の大きさが臨月の重みに達しても、なかなか陣痛が始まらず、奥医師による出産予定日を十日も超えたのちの出産であった。
アイーシャは丸一日以上の苦痛に耐え、瀕死でカイエンを生んだのだ。
最後は医師が、金属の器具をもって赤子のカイエンの頭を掴み、無理やりに引きずり出さねばならなかった。それは母体を助けるための最後の手段で、すでにカイエンの生死は諦められていた。
そうして、凄まじいばかりの難産の末、産んだ娘の腹部には醜い膨らみがあった。
もちろん、アイーシャがカイエンに会わされたのは、産後の肥立ちの悪さからなんとか立ち直った後の事であった。
娘のカイエンは産ぶ声さえ上げず、腹の中での育ち方も悪かったのか、赤子だというのにその体はなんだか骨ばっていた。だから、あの「蟲」だと教えられたものの在りかが彼女にも見ればすぐに認識できた。
その上に生後しばらくの間、カイエンは黄疸が消えず、生き延びられないのではないかと考えられてさえいたのだ。
その上、医師はこの位置にこんな大きな蟲があるのでは、歩行もままならぬだろうと告げた。
アイーシャは恐怖の中に突き落とされた。
それでもアイーシャは、夫のアルウィンが、彼女だけを見て彼女だけの心配をしてくれていたら、人々の「出来損ないの子を産んだ、卑しい出自の娘」という陰口さえ聞こえてこなければ、耐えられたのかもしれない。
だが、それは例えばの話でしかない。
瀕死の苦しみの中でやっと産み落とした娘なのに。
誰一人として、「公女さまのご誕生」を祝いにくるものはなかった。
客観的に見れば、当時、公女のカイエンは死にかかっており、それを産んだ大公妃アイーシャもまた死にかかっていたのであるから、周囲の者たちにはそれどころではなかったのだ。
だが、彼女は思ってしまった。
(私の家族にそんなものは居ないのに。父も母も、弟たちも、皆、体は丈夫だ。足が悪いものなどいない。ましては「蟲」なんて! あの子のアレは私のせいじゃない!)
一度、そう思ってそう決めてしまえば、カイエンはアイーシャにとって「忌まわしい子」でしかなかった。
彼女は呆れるほどに早く、過去の幸福を忘れてしまった。
嘆きと悲しみの中で、アイーシャが手を取ったのは「錯乱と酩酊の女神」とでも呼べるものであった。
そして、彼女は皇帝サウルの目に止まり、彼女はアルウィンと大公妃の地位を捨て、皇后として冊立された。
アイーシャはすぐにまた身ごもった。
カイエンをあれだけの難産の中で産んだことから、アイーシャはまた子が出来るかどうか、心中非常に心配していた。
だが、新しい命を授かることができた。
アイーシャは神という神に感謝した。
だが、それも再びの難産での出産の後には落胆となった。
生まれてきたのは、皇女。健康な皇女であった。
しかし、皇子ではなかった。
皇帝サウルも、周囲のものたちも、健康な皇女の誕生を祝ってくれた。皇子ではないとは言っても、皇帝にとっては初めての子供なのだ。
皇女はオドザヤと名付けられた。
古代の言葉で、「星の歴史」、という意味の名である。
世間にそうそうある名前ではない。いや、このハウヤ帝国広しといえども、他に同じ名の女子はいないだろう。
アイーシャは少しだけ落胆したが、皇帝サウルが真面目に皇女の名前を考えてくれたことに喜びを感じた。
彼女はこの時点ではまだ楽観的であった。カイエンを産んだのはまだ十六の時、そしてオドザヤを産んだ時とてまだ十八。まだまだ、何人でも子は産める、そう、その時の彼女は思っていた。
なのに。
それ以降、アイーシャが身ごもることはなかった。
皇帝サウルは対外政策もあって、二人の外国からの妾妃を娶った。
だが、彼女らも皇女を一人ずつしか生まなかった。
そして、時が流れた。
カイエンは表向きはあくまで皇帝の末の妹という扱いではあったが、生まれてからずっと住んでいるのは大公宮で、育てている大公アルウィンが「兄という建前ではあるが実父」であることは、上位貴族たちの中では公然の秘密であった。
カイエンが少女になると、アルウィンはたまに招きごとなどで皇宮へ上がる時に、カイエンを連れてくることもあった。
アイーシャが皇后に冊立されて以降、アルウィンがアイーシャの前に出てくることは稀であったから、アイーシャが成長したカイエンを初めて見たのは、カイエンがもう十歳になろうという頃のことであった。
「大公殿下にそっくりで」
そう、聞いてはいたが、同じような明るい色の衣装をまとったアルウィンとカイエンの父娘は、アイーシャが見てもあまりにも似過ぎていた。
これではカイエンにアイーシャという「生母」が居たことなど、誰も思い出すことさえないだろう。
笑い話ではあるが、カイエンはアルウィンが一人で産みました、とでも言ったとしても皆が納得しそうなほどだった。
アイーシャは強烈な疎外感を味わった。
考えてみれば勝手な感情ではある。だが自分が捨て去ってきた娘と、昔の夫は誰が見ても、「親子」であるのに、彼女とカイエンの間には見たところ、似ている部分が全くないのだ。
それは、オドザヤがアイーシャにそっくりであることとあまりにも対照的であった。
その頃にはオドザヤも八歳。
もう八年も子ができないことに、アイーシャは焦っていた。
カイエンを産んだのち、当時のアイーシャは、一日の苦しみを忘れられず「いかがですか、今年、収められたワインです。きっとお疲れが吹き飛びますよ」と、侍女が言って差し出したワインから、酒量が増えていった。
酒の種類もワインから徐々に強い酒に変わり、ついには上位貴族階級ではあまり好ましいとは思われない、野生的で強いロン酒を好むようになっていった。
ロン酒は帝国の南方で作られる、砂糖黍から作る蒸留酒だ。
しかしその後、皇帝サウルに出会い、皇后になってから酒量は減り、酔いしれて全てを忘れるようなことはなくなっていた。
なのに。
アイーシャは再び、酒瓶に手を伸ばしてしまった。
あの時の侍女、彼女にワインを勧めた侍女はジョランダ・オスナといい、アイーシャの遠縁だった。
娘が大公妃になった時、アイーシャの実家のものたちは外戚の新貴族として子爵の位を与えられたが、父も母も弟たちも、アイーシャが皇后になったのを見届けた途端に次々と病死してしまった。さすがのアイーシャも「まさか」と思ったように、彼女の実家の絶滅は上位貴族の中で様々な憶測を呼んだが、いなくなってしまったものはもう取り戻せない。
アイーシャに残ったのは、従兄弟の娘のジョランダのみであった。
今、ジョランダは皇后付きの筆頭女官として仕えている。
年齢はアイーシャよりもやや年上だが、美貌のアイーシャとは似ても似つかない。独身のままアイーシャに仕え続けているのはもう実家の両親もいないということもあるだろうが、結婚を諦めていたこともあるのではないか。
ともあれ、このジョランダがあの時、アイーシャに酒を勧めたことが、皇后アイーシャの不幸をいたずらに増大させたことは間違いがない。
ジョランダがアイーシャに気晴らしの酒を勧めたりしなかったら、アイーシャは酒に耽溺するようなことにはならず、皇帝に見出されて皇后になることもなく、歴史は変わっていたのかもしれないのだ。
だが、アイーシャ本人はジョランダを唯一、己の不幸を理解してくれる者として誰よりも信頼していたのだ。皮肉なものではある。
この日も、ジョランダはまた余計なことをアイーシャに吹き込んだ。
ジョランダにとっては、アイーシャの機嫌をとり結ぶことだけが大切なので、そのために余人が迷惑しようと、心痛もうと、どうでもよかったのである。
そして、ジョランダにとってアイーシャへの生贄としてもっとも便利である存在は……。
「皇后陛下、今宵のご夕食はどうなさいますか。オドザヤ様をお呼びになりますか」
そのジョランダの声で、アイーシャは現実へ戻ってきた。
ジョランダはアイーシャがうなずくことを疑いさえしなかった。
今日は、公務として神殿の女子修道院を訪問した。
貞淑の女神テレサの神殿の修道院で、つまらない黒衣の修道女たちの奉仕活動を見学し、長々とした修道院長の説明をにこやかに聞き、最後に安くない寄付金を置いて帰ってきた。
こういう方面が皇后の主な仕事だ。
だが、楽しいものではない。
すでに三十五歳。
皇后としての貫禄も身についた。
にこやかな美貌の中の微笑みは顔に張り付いたようになり、それが普通の顔になってしまった。
下々では、彼女の出自もすでに重要ではなくなりつつあり、皆が「お優しい慈悲深い皇后さま」として崇めてくれる。
しかし、疲れる。
アイーシャはオドザヤの臆病そうな顔を思い浮かべた。生まれついての皇女である娘は、成り上がりのアイーシャが苦労して手に入れたものを、生まれながらにして持っている。
その上にあの美貌は。アイーシャがくれてやったものだ。
あの娘はなんの苦労もなく、生まれながらに全てを持っている。
アイーシャはそう思い、オドザヤを嫉妬していた。
憎らしい。
そう、自覚していればまだマシだったが、アイーシャにとって娘に嫉妬するなどありえないことだった。オドザヤへの仕打ちは全て無自覚なままに行われていたのだ。
アイーシャとてオドザヤを可愛がっていた。いや、可愛がっていると思い込んでいた。
だから、かわいいあの子が私の話を聞き、かわいそうなお母様、と同情してくれるのは当たり前のことなのだ。
アイーシャはジョランダにうなずいた。
「そうね。今日はとても疲れたわ。あの子と一緒に食事をとりましょう。あの子も皇女宮で一人で食べるより、私と一緒の方が楽しいでしょう」
自分の心になんの疑いも持たず、アイーシャはオドザヤも自分と一緒の方が楽しいだろうと勝手に決めてしまった。
だから、愛情ある母として、優しい気持ちで皇后の食卓へ呼び寄せた。
オドザヤの気持ちなど思いやることさえなく。
「皇后陛下が今宵のご夕食をともになさりたいとの仰せです」
その日、オドザヤはカイエンの大公宮を訪れた。
疲れていた。
従姉妹のカイエンは忙しい中、彼女を歓待してくれた。大変な事件現場からとんぼ返りして、一緒にお昼を食べてくれた。その後、何度も謝りながら、次の仕事に出かけて行った。不自由な足が見ていても痛そうで、カイエンはあの大きな男に抱えられるようにして出かけて行ったっけ。
親切な若い騎士がなにくれと面倒を見てくれ、帰りも見送ってくれた。
あの人も大変だったろう。優しい声の人だった。
それに、自分が疲れたのだったら、カイエンはもっと疲れているはずだ。
オドザヤは母に逆らったことなどなかった。
と言うより、逆らうことなど思いつきさえしなかった。
彼女の生活の全てを支配している母。皇后アイーシャ。
その言うことは絶対の命令。
いつしか、オドザヤはそう思い込んでいた。
思い込みというのは凄まじいもので、他の母娘の関係がどんなものか、全く知る機会のないオドザヤには、それを正すチャンスなど今までに一度もなかったのだ。
嫌でもしょうがないのだ。母親というのはそういうものなのだから。
なぜ?
彼女とてアイーシャに異を唱えたことがなかったわけではない。だが、少しでも意に染まぬことを言えば、アイーシャは荒れ狂った。
オドザヤが悪いのだと叫んで泣いた。
女官たちはアイーシャの意に従い、そうなれば悪いのはオドザヤにされた。
オドザヤには他の母親たちがどういうものなのかなど知りようもない。
いつもアイーシャが荒れていただけだったのなら、オドザヤとて気がついたかもしれない。
だが、アイーシャは優しい母親としてオドザヤを守ってくれる時もあった。皇帝である父の機嫌が悪ければ、アイーシャはオドザヤを庇った。そして、優しく慰めてくれた。
新しいドレスも宝石も、皇女として恥ずかしくない支度の全ても母がしてくれた。
母は精一杯やってくれている。酒が入ると荒れて大変だが、素面なら頼り甲斐がある。と言うよりもオドザヤが頼れるのは母しかいないのだ。
「喜んで、とお伝えしてちょうだい」
オドザヤは女官に答え、晩餐のための着替えを他の女官に命じるしかなかった。
オドザヤはアイーシャとの食事は苦手だった。
それは、無事に終わった試しがなかったからだ。
酒を嗜まないオドザヤの食事はいくらゆっくり食べてもそんなに時間のかかるものではない。前菜からスープ、サラダ、メインの料理と済んでしまう。
だが、最初からワインのグラスを傾けながら食べるアイーシャの食事は長くかかる。
前菜だけでも遅々として進まない。女官たちはオドザヤの分は先に進めてくれるが、それでもメインの料理が終わってしまえば、あとはデザートを待つしかない。
そこまでいっても、アイーシャはまだメインの料理に差し掛かっていればいいところ。
その間の話題といえば、アイーシャが今日の退屈な女子修道院訪問の愚痴を言うだけだ。
オドザヤがカイエンのもとを訪ねたことは秘密だから、オドザヤには話すことがない。と言うよりも、酒の入った母を見ると、もうオドザヤの口は動かない。経験で知っているからだ。自分の話をしたってろくなことにはならない。
アイーシャは自分の話を聞いてほしいだけで、オドザヤの話など聞く気ははなからないのだ。
下手に話せば、言葉尻を捉えられ、ひどい詰問にあう。
詰問の中でアイーシャの気にくわぬことを話そうものなら、話はどんどんこじれ、最初は何の話だったのか、誰にもわからないところまで行って、最後はアイーシャが怒り出し、オドザヤに当り散らして終わるのだ。
「聞いているの!?」
ああ。
オドザヤの前にはもう皿がなかった。
さすがに女官もデザートはまだ持ってきてくれない。
アイーシャはもう食事が済んでしまったオドザヤに苛立っていた。自分の話に生返事しかしないことにも。
オドザヤにしてみれば、アイーシャの愚痴など面白くもなんともない。うんざりしているから頑張っていても生返事になる。だが、それをアイーシャは見逃さない。
自分はまだ楽しく酒を飲んでいるのに。どうしてさっさと済ませてしまって迷惑そうな顔で私を見るの!?
アイーシャの心を覗けばそういうことで、普通ならさすがにそこまで自分勝手な考えには到達しない彼女をそうさせてしまうのは、ジョランダの勧める酒のせいでは、あった。
「なんなの? 私は今日、大変な思いをしたのよ。あの修道院長の話の長いことったら! 毎日毎日、私ばかりこき使われて!」
こき使われる。
これは、ことあるごとにアイーシャが愚痴る言葉だ。
オドザヤもさすがにアイーシャの出身は知っている。この言いようは、アイーシャの出身階級をいやでも思い出させる乱暴さだった。
皇女として生まれてきたオドザヤにとってはあまりに乱暴で粗野な言いようだった。
「貴族の奥様たちはいいわねえ。なーんにもしないで贅沢ができて!」
アイーシャは何かと言うとそう叫ぶ。
それは違う。
オドザヤは言いたかったが我慢した。言ってもしょうがない。
皇后としての仕事をしているからこそ、普通の貴族の夫人の持てないような服や宝石をいくらでも注文できるのではないか。
皆に敬われるのではないか。
こんな育ちの割には、実は公平な目で物事を見ることができるオドザヤにはそう思えるのだが、それはアイーシャには通じない。
だから、黙っている他にはない。
だが、アイーシャにはそれが気に触るのだ。
「なんで黙っているの!? お前は今日、遊んでいただけでしょう? 少しは私の苦労を考えてもいいのではなくて!?」
言葉は上品だが、言っている内容は独りよがり極まりない。
皇太女に決まってからのオドザヤの生活は「暇」ではない。それはアイーシャとて知っているはずなのに。
「ジョランダ、ワインはもういいわ、ロン酒を出してちょうだい」
そして、とうとう。
オドザヤはもっとも聞きたくない言葉を聞いた。
アイーシャはまだ酒を飲もうというのだ。
オドザヤは見えないようにため息をついた。アイーシャに見咎められれば、えらいことになる。
ため息さえつけないのだ。
女官たちは誰も助けてはくれない。
黙って見ているだけだ。
オドザヤはもう何も飲むものも食べるものもないまま、その後、長い時間、アイーシャの愚痴を聞き続けなければならなかった。
やっと解放された時は、もう夜中になっていた。
オドザヤは自分の部屋で、一人で泣いた。
自分でも泣いている理由はわからない。
わからないから辛いのだ。
誰も頼れる人もいなかった。
疲れているのに、全然眠くない。
オドザヤは日記帳を開いた。
「今日から、螺旋文字で書いてみよう」
独り言を言いいながら、オドザヤはペンを取った。
今日は、それでも楽しいことがたくさんあった。
カイエンの顔と、あの騎士の顔が浮かんだ。
おねえさまはいつも、優しい顔でオドザヤと話してくれた。なんだかくすぐったいような柔らかな目で自分を見るのだ。あの騎士もそんな顔で自分を見ていたっけ。
オドザヤは教師にもらった螺旋文字の辞書をひきながら、日記を書き始めた。
言っていたわ。カイエンおねえさまも螺旋文字で日記を書いているって。
オドザヤはちょっとだけ心が温まった気がした。
そうしてその夜も、かわいそうなオドザヤを散々に悩ませたことに、なんの自覚もないまま。
アイーシャは強い黄金色のロン酒の盃を傾け続けた。
頭の中が溶けたようになり、強い酒に痺れた舌でジョランダに何本目かの酒のお代わりを要求しようとした時。
アイーシャはふと、思い出した。
窓の外を見る。
確かあの日もこんな落ち葉の庭が見えたわ。
夏には色とりどりの花々が咲き乱れる庭も、あの時は鈍色にくすんでいた。紅葉も終わり、もう落ち葉の季節だった。
あんな色の庭を、あの大公宮の奥宮の庭を見ていたら、産気づいたんだっけ。
「ああ」
かすれた小さな声が、アイーシャの真っ赤に彩られた唇から出ていた。
あの子。
カイエンを産んだのは、ちょうどこんな季節だったと。
まる二日も苦しんだ後。あの出産の前、もう庭は真っ暗になっていた。
暦は十二月になろうとしていた。
大公カイエンの誕生日は、十二月九日である。
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