炎を抱いて来た女


 あなたは我がこころの雪

 この不幸なる人生の雨

 無垢なる花々の匂い

 我が安息の宿

 微笑みは春の歴史

 怒りはついに見ることのない異国の風の向こう


 次々に壊されていく我が野心の砦から

 あなたはわたしの上へ降り注ぐ


 あれがあなたの生

 あれが我が欲望の宿


 いつか

 わたしが広場で殺されたとき

 あなたはあの刑場に立ち、わたしの命を天秤にかけた

 微笑んでいたね 

 あの優しげな顔で

 倒れたわたしの頭の上へやってきた

 神々の誰よりも早く 死んだわたしを見送るために


 あなたは我がこころの雪

 この不幸なる人生の光

 ただ一つだけ真っ白なもの

 暗黒に落ちた私の中の たった一つの真っ白なもの




        アル・アアシャー 「繰り返す時の処刑場にて」








 カイエンがオドザヤを部屋まで連れて行くと、皇女宮の入り口で何人かの女官が右往左往しているのに出会った。

 よく見れば、皇帝の後宮を統括する女官長の姿もある。

 後宮の主人といえば皇后のアイーシャであるが、その下で実質的に後宮の運営をしているのは女官長である。

 女官長コンスタンサ・アンへレス。

 もう四十に手がとどく年齢だが、その糸杉のような姿勢のいい長身は女官たちの中にあって、ひときわ目立つ。

 後宮の女官たちの衣装は、皇后や妾妃、皇女に直接会うことのないお目見え以下の下級女官は黒っぽいお仕着せ姿だが、お目見え以上の女官は形式としての規則はあるが、色柄は自由な服装をしている。もっとも、皇后や妾妃、皇女の衣装に使われるような華やかな色彩は許されていない。

 女官長は常に臙脂色や深緑、黒に近い紺色のような暗い色調の装飾の少ない衣装を着ているが、それが一層彼女の長身と姿勢の良さを強調しているようだ。

 赤っぽい茶色の髪はしっかりと後ろで結いあげられ、痩せた厳しい顔には少しの微笑みさえ浮かぶことはない。

 その姿を見るなり、オドザヤは身を震わせた。

 なるほど。オドザヤにとっての女官長とはそういう存在なのだ。

 カイエンはその様子を黙って見守った。

「皇女殿下!」

 すぐに女官長はカイエンとオドザヤに気がつき、こちらへやってきた。

 後ろで他の女官たちの動きが止まる。

 オドザヤは皇帝サウルの後継者に定められたが、立太子式は来年なので、まだ「皇女殿下」と呼ばれているようだ。

 カイエンは女官長コンスタンサとはあまり話したことがない。カイエンが後宮へ来るのはほぼオドザヤ皇女に呼ばれた場合のみなので、知っている女官はオドザヤの皇女宮の女官だけといってよかった。

「皇女殿下、今までどちらに?」

 女官長はカイエンに黙礼するなり、オドザヤに問いただした。

「……」

 オドザヤはカイエンの後ろに隠れるようにして答えない。

「今日は大公殿下がおいでと伺っておりますから、皆、お衣装を用意して待っております。そのようなお姿でお部屋の外に出歩かれては……」

 カイエンは改めて皇女の生活の堅苦しさと煩わしさを実感した。ここは助け舟を出さねばなるまい。

「ああ、女官長。この通り、私はもう到着しておる。それに、私は皇女殿下には臣下の一人だ。お衣装などどうでも構わない」

 いや、皇女側は構うか。

 そうも思ったが、面倒臭いのでカイエンは無理やりこの場を仕切ることにした。

「女官長、皇女殿下はこの格好ではお寒かろう。すぐにお部屋へお連れした方が良くはないか?」

 オドザヤの着ているものは緩やかなガウンのような部屋着で、外を歩くには寒そうだ。カイエンたちがいる場所は皇女宮の前の回廊なので、中庭といえど外気の触れる場所である。

「わかりました」

 女官長はさすがに今は臣下とはいえ、元は皇帝の末の妹ということになっているカイエンの言うことには歯向かわないことにしたらしく、カイエンとオドザヤをオドザヤの部屋へと先導していった。

 カイエンは春先にオドザヤのお茶会に招かれていたが、オドザヤの部屋に入るの久しぶりのことだった。

 若い皇女の部屋は薔薇色を基調とした華やかな、だがやや弱々しい色彩でまとめられていた。アルウィンの使っていた部屋をそのまま使っているカイエンからすれば、家具も女性らしい華奢なものばかりで、なんだか落ち着かない。

 前のお茶会の時は女性らしく着飾っていたが、今日のカイエンは大公軍団の黒い制服姿なので、余計に自分が浮いて感じられた。


 女官長は皇女宮の皇女の居間へ案内し、オドザヤを着替えさせるのは諦めたらしく、そのままオドザヤを居間の長椅子に腰掛けさせた。

 オドザヤの座った長椅子の前には飴色の華奢なテーブルがあり、それを挟んで向かい側の一人がけのソファにカイエンは座らされた。

 ソファも濃い薔薇色の布張りで、カイエンはなんだか落ち着かない。ちなみに彼女の居間のソファ木組みはもっと頑丈で、張り地ももっと暗い色だ。

「お茶を持って参ります」

 そう言って、女官長は下がっていった。まさか、女官長自身がお茶を運んでこようと言うのだろうか。カイエンはちょっとびびった。

 見れば、他の女官たちはこの部屋までは入ってこず、居間の外で控えているようだ。

 そういえば、時刻は昼餐前の午前のお茶の時間であった。

 カイエンの前で、オドザヤは長椅子にもたれかかり、ほう然とした面持ちで遠くを見ている。

「皇女殿下、今日はどうなさいましたか」

 カイエンは出来るだけ優しい声を出して聞いてみた。

 日頃、話している相手はサグラチカとルーサ、女騎士たちを除けば全て男、それも大公軍団のやつらばかりであるから、優しい声など出した事がない。

 オドザヤははっと顔を上げた。

「……おねえさまに、聞いていただきたい事が、ありましたの。それで、お手紙を差し上げたんですけれど。……この頃、毎日慣れないことばかりで」

 そういう顔は、物憂げで、気だるげ。

 カイエンはこの妹であり、従姉妹でもある皇女の美貌に改めて感心し、また心配になった。

 オドザヤは皇后アイーシャにそっくりだが、印象はやや違っている。

 咲き誇る真っ赤な薔薇のような豪奢で圧倒的な美を誇る皇后とは違い、オドザヤの美貌には陰影がある。

 剥きたてのゆで卵のような肌理の細かい、真っ白な瓜実型の顔は頰が薔薇色で咲きそめたばかりの薔薇のようだが、そこに浮かぶ表情にはいつも強さがない。

 琥珀色の瞳はいつも濡れたように沈んでいて、相手の出方はいかんと恐れおののいている小動物のようだ。

 だが、それがまた美しい。

 庇護欲を掻き立てられる美貌なのだ。

 カイエンは女だが、このオドザヤの顔つきには放っておけない危うさがあった。

「そうですか。それはどんなこと?」

 オドザヤのほうへ身を乗り出しながら聞くと、オドザヤは言った。

「おねえさまは、螺旋文字の読み書きがお出来になる?」

 と。

 はあ?

 カイエンは内心でそう聞き返した。

 また螺旋文字かよ。この間、サヴォナローラの野郎に試験されたよ。

「はあ。出来ますが。と言うか、個人的な日記は毎日、螺旋文字で書いております」

 カイエンならずとも、貴族の当主というものは毎日、日記をつけるのが普通だ。カイエンはそれを毎日、螺旋文字で記している。

 このハウヤ帝国で、螺旋文字の読み書きの教養があるのは皇帝に近い最上位の貴族の当主達と、神官、学者達のみである。螺旋文字で書いた日記は一般人には解読できない。それゆえに螺旋文字の教養があるものは例外なく螺旋文字で日記を書くのが普通であった。あの皇帝サウルの日記も、サヴォナローラの日記も螺旋文字で書かれているはずだ。もちろん、カイエンの父であるアルウィンも例外ではなかった。

 オドザヤはため息をついた。

「やっぱりそうですのね。おねえさまは幼い頃から、大変なことを習ってきておられるのね。私、昨日先生に出された宿題がどうしても覚えられなくて、それで今朝は朝から落ち着かなくて……いろいろ考えていたら、なんだかたまらなくなってしまって……」

 それで、一人で皇女宮の外へさ迷い出たのであるらしい。

 オドザヤの悩みはカイエンが想像した通りのものであったようだった。

 しかし、皇女宮の外にちょっと出たくらいで女官長まで出張ってきての捜索とは、皇帝の後宮というところは窮屈極まる場所のようだ、とカイエンは思った。

 帝王教育。

 十六になって初めてそれを始めることになったゆえの苦悩だ。

「……やはり、大変ですか?」

 遠慮がちに聞いてみると、オドザヤははっきりとうなずいた。

「先生はまず、千字覚えよ、と申しますのよ。あの難しい文字を」

 千字。

 螺旋文字は表意文字であるから、日記を自由に書くためには千字では足りない。だが、表音文字であるアンティグア文字なら百字にもならないのだ。

 確かに大変なことだ。

 カイエンは五歳から始めている。それゆえ、あっという間に二千字以上を覚えることができた。

 だが、オドザヤはもう十六だ。

「そうですね、大変ですね」 

 カイエンにはそうとしか言えない。

 皇帝サウルは男児誕生を待ち望むあまりに方策を誤ったことは否めない。

 気がつけば、皇帝は四十半ばになろうとしており、男児のないまま、皇女たちは年頃になってしまっていたのだ。

 オドザヤの今の苦悩は父である皇帝サウルの責任だが、彼とて末子の皇女アルタマキア以後、十年以上も子が出来ないとは思っていなかったのであろう。


「失礼いたします」

 その時、女官長が自ら盆に茶器を載せて部屋に入ってきた。

 カイエンはやっぱり女官長自ら持ってきたか、と驚いた。

 これは、女官長的にも困った問題であるのだろう、と推測できた。

 女官長は茶器と菓子をテーブルに置くと、ポットから芳しい紅茶を注ぎ始めた。

 茶器は縁が金色の薔薇色の陶器。ハウヤ帝国が認定、保護した窯の作った最高級品だ。 

 カイエンはそれを見ながら、茶を注ぎ終わるのを待って、女官長に向かって言った。

「女官長」

「はい」

「今、この後宮は忙しいであろうな」

 女官長は無表情のまま、うなずいた。

「はい、ベアトリアの王女殿下を妾妃としてお迎えするにつき、新しい宮を整えるため準備を致しております」

「うん」

 カイエンは女官長の厳格な顔をまっすぐに見た。

「来週末にはマグダレーナ王女をお迎えするのだな。これはそれが終わって、落ち着いてからで構わないのだが……」

 カイエンが灰色の目で、まっすぐに女官長の榛色の瞳を見ると、女官長は一瞬だけ、その目を左右に惑わせた。だが、すぐに落ち着く。

「はい」

「オドザヤ皇女殿下を、我が大公宮にお招きしたい」

 カイエンがそう言うと、オドザヤはもちろん、女官長もがびっくりしたような顔をした。

 まあ、当然と言えば当然だ。

 皇女宮の外へちょっと出ただけで、女官たちが探すのに躍起になるようなお姫様を外へ連れ出すというのだから。

 カイエンは悠々とお茶の入った茶器を取り上げながら、続けた。

「皇女殿下の外出が難しいことは重々、承知している。だが、それを曲げてお願いしたい」

 茶器に口をつける。皇女がまだ飲んでいないのに、不敬かもしれないが、知ったことではない。

「ご存知のように、我が大公宮には大公軍団の有象無象が跋扈している。年頃の皇女殿下をお迎えするには相応しくない場所だろう。だが、オドザヤ皇女殿下はすでに皇帝陛下の後継者と決められた方。あのような現場の雰囲気を知られるのも良いかと思う」

 女官長はの最初の驚きは一瞬で、もはや顔色一つ、変えなかった。

「……皇后陛下にはご内密にした方がよろしいかと思います」

 彼女の唇から出てきた言葉は、すでに提案は飲んだという前提での答えであった。

「そうだな。期日はまた後ほど連絡致そう。皇女殿下のお供にはしっかりとした女官を付けられるように」

 女官長は深く深く、うなずいた。

「可能な限り、私自らがお供いたすようにとりはからいます」

 女官長の榛色の目が、カイエンの灰色の、皇帝と同じ色の目とがっきりかみ合った。

「そうか。それが良い。頼んだぞ」

 カイエンが言うと、女官長は黙礼した。

「おねえさま?」

 かわいそうだが、オドザヤの意向はこの際関係ない。

 皇后同様、カイエンもまたこの皇女の意向など無視することになるのが気になったが、そうも言ってはいられない。

 来年が来れば、立太子する皇女である。

 もはや、美しいだけのお姫様ではいられないのだ。

 それだけは、もう、どうしようもない。

 カイエンが十五から大公殿下をやっているのと同じだ。

 カイエンは、その後、ゆっくりと茶と茶菓子を頂き、オドザヤ皇女には「まあ、まかしておきなさい」と言ってどんと胸を張って、後宮を出た。




 翌週末。

 帝都の入り口で、ドラゴアルマのトリセファロ将軍から警備を受け継いだ大公軍団治安維持部隊に守られて、隣国ベアトリア王国第一王女マグダレーナの一行が、皇宮の後宮へ入った。

 海神宮の大広間で出迎える皇帝と皇后の前で、顔をあげたベアトリア王国第一王女マグダレーナは、その時、二十四歳。

 故国に双子の息子と娘を置いての嫁入りであった。

 四十五歳の皇帝と、三十五歳の皇后の前で、優雅に顔をあげた彼女。

 ベアトリア王国の王女として、かの国の最上級の装いに身を凝らしたマグダレーナは、美しい女だった。

 すでに一男一女をあげている女としての余裕がある。

 赤を基調とした細かい刺繍が特徴的な重々しい衣装に身を包んだマグダレーナは、やや背が高かった。しかし、高すぎるほどではない。

 体つきは豊満な感じで、背の高さと相まってその姿は冒しがたい存在感がある。

 髪を緩やかに真ん中分けにして、広い額を見せたベアトリア風の髪型の髪の色は栗色。真白な額に赤いルビーの雫型の額飾り。

 細い弓月のように上がった眉の下、大きくて印象的な目をしていた。その目の色もまた栗色。

 だが、その栗色の目には炎があった。

 彼女は体の中に炎を抱いてやって来たのだ。



 居並ぶ、ハウヤ帝国の臣下の中。

 その筆頭に立った大公カイエンは見た。

 マグサレーナはもう出来上がった一人の女だった。

 その全身から立ち上るのは一人の「大人の女」としての存在感。

 それは未婚の姫君にはないものであった。

 故郷に二人の子を置いて、こうして大国である隣国の妾妃としてやってきた、もう「母」である女。

 身を引き裂く思いで生んだ子供を故郷に残して、連れてこられた女。

 その女の目の炎は、皇后アイーシャの尊大な琥珀色の目さえ跳ね返す力がある。

 カイエンは予感した。

 いつかこの女は世継ぎを生むだろう。

 帝国の世継ぎを。

 そうして、第三妾妃マグダレーナは、皇帝の後宮へ迎えられた。

 だが、三ヶ月の間、皇帝の訪れはないだろう。

 すでに故国ベアトリアで二人の子を持つ彼女には特別な処置が取られた。

 処女ではない彼女がすでに身ごもっている可能性を排除するためである。 

 第三妾妃マグダレーナの輿入れからしばらくして。

 大公宮へ第一皇女オドザヤの非公式な訪問があった。

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