皇女はその若き騎士と出会ってしまう
オドザヤ皇女が大公宮を訪れたのは、ベアトリアの王女マグダレーナが皇帝の後宮に納められてからすぐのことであった。
それも早朝。
女官長のコンスタンサからは訪問の予定を知らせる書簡がカイエンの元へすでに届いていたが、それによればオドザヤの訪問はなにかとうるさい皇后アイーシャには秘密としたが、皇帝サウルへは話を通したと言うことであった。
女官長としては慎重で適切なやり方であったが、カイエン達には皇帝が許可したとと言う事実は驚きを持って迎えられた。
それだけ、皇帝はオドザヤ皇女に対して期待するものがあるということだ。
確かに、今から皇帝に世継ぎの男子が誕生しても、その子供が成長するまでの中継ぎとしてオドザヤ皇女が即位する可能性は十分にある、と皇帝が判断したということだ。
皇帝は見たところ健康そうだが、この時代、一回重篤な病を発病すれば、それは死につながるのが当たり前であった。
平均寿命などという概念は勿論ないが、五十、六十ともなればいつ病に倒れてもおかしくない、という認識を持つのが普通であった。
現在四十五になる皇帝が次代について考え始めるのは当たり前のことと受け止められていた。
この年に宰相府と元帥府が設立されたのも、大公であるカイエンの職権が倍増したのも、次代が女帝になった場合、もしくは少年皇帝が誕生した場合を慮ってのことと推測されていた。
皇帝として一人前の判断がまだ出来ない者が即位した時も、政治や軍事が混乱しないように手を打ち始めたのだ。
「殿下、皇女殿下の馬車がご到着になりました」
そう、取次ぎの侍従が伝えた時はまだ朝も早い時間で、大公軍団の朝礼と朝の訓練もまだ行われていない時間であった。
女官長によれば、「オドザヤ皇女が後宮の皇女宮を出る姿を、他の皇后宮や妾妃たちの宮のものに見られないため」の配慮であった。
オドザヤ皇女の居間では、姿形や声の似た女官が皇女の役を演じているはずだ。
皇后はこの日、公務として神殿の女子修道院を訪問する予定があるのだという。
「そうか。ではお迎えに出る」
カイエンはすでに大公宮の表にある彼女の執務室におり、朝の朝礼に出るべく黒い制服姿で椅子についていた。
体があまり丈夫でないカイエンは毎朝の朝礼に出るわけではないが、この日は皇女に大公の仕事を見せる必要があったので、そのように計らったのである。
イリヤやヴァイロン、双子のマリオとヘススの「団長」、「隊長」クラスはすでに練兵場へ行っている。
大公宮での朝礼と練兵に出るのは、今までは治安維持部隊の小隊長級以上で、何か連絡事項のある時のみ、街中にある数人単位の警ら署の署長も出ることになっている。署長は班長級の仕事で、幾つかの署を統括するのが小隊長級の役割となる。
小隊長以上の隊員は大公宮での朝礼の後、自分の持ち場に出勤することとなる。
一般の隊員の訓練は署長または小隊長が行う仕組みである。
カイエンが執事のアキノを連れて大公宮表の大玄関の前の馬車どまりへ杖をつきながら歩いていくと、そこには地味なしつらえのなんの紋章もない馬車が一台、停まっていた。
窓にも厚いカーテンが引かれている。
アキノが手を振って指示すると、馬車の周りから使用人や隊員たちがさっと引き下がっていく。
アキノは大玄関の前で目を周囲に一巡させると、カイエンにうなずいて見せた。
カイエンが黙って首肯すると、アキノは自ら馬車の扉に手をかけ、そっと扉を開けた。
中には三人の婦人。
皆、フードのある地味な外套を着ており、顔は見えない。
アキノが手を差し出すと、一番手前に座っていた大柄な姿勢のいい婦人が最初に馬車を降りた。
顔が見えなくとも、その長身と姿勢の良さで誰だかわかる。
女官長コンスタンサである。
コンスタンサは馬車を降りると、自ら手を差し出した。手袋をしたその手を取って、降りてくる婦人の手も手袋に包まれていた。
同じような色味の外套を着ていたが、それでもその婦人が皇女オドザヤであることはすぐに見て取れた。微妙な外套の質の違い。外套越しでも匂い立つような体型の良さ。
オドザヤの後から、もう一人の女官が降りてきた。恐らく、オドザヤの皇女宮の女官であろう。
三人が降り立つと、カイエンは黙礼し、三人を大公宮の中へと誘った。
一行の一番後ろにアキノがつき、しずしずと朝礼の行われる練兵場が望める三階のバルコニーへと向かう。
バルコニーからオドザヤに朝礼の様子を見てもらうつもりであった。もっとも、バルコニーに座っていては目立つので、カーテンの影からにはなるが。
杖をついているカイエンには階段はなかなか辛いものがあるので、普段は行かない階であるが、まさか練兵場の端に皇女を座らせて見学させるわけにはいかない。
「こちらでございます」
さっと一行の前に出たアキノが扉を開けると、そこは普段、宿直の隊員が寝泊まりする部屋で、幾つかの寝台が並ぶ、清潔だが無駄のない無骨な部屋であった。
中に入ると、窓際にこれだけは場違いに立派な椅子が幾つか置かれていた。まだ、窓は開けらえれておらず、カーテンが窓を覆っている。
「皇女殿下、お掛け下さい」
カイエンが真ん中の椅子を示すと、オドザヤは黙ってそこへ座り、女官長と女官が左右に掛けた。
「フードをお取りになっても大丈夫ですよ」
カイエンがそう言うと、三人は各々、フードを取って顔をあらわにした。
「ようこそ、大公宮へ」
切れ長の目に微笑みをたたえて、カイエンがそう言うと、今日もきっちりと髪をまとめた女官長が静かに頭を下げた。
「朝早くから、お手間をお掛けいたします。あちらの女官は皇女殿下の宮の者で、カルメラと申します」
カイエンがちらりとオドザヤの顔を見ると、オドザヤは黙ったまま、ちょっと笑った。緊張しているらしく、琥珀色の虹彩がやや左右に揺れているようだ。オドザヤも今日は黄金の髪をきつく結い上げており、外套の襟元からのぞくドレスの色も秋らしいトーンの葡萄色である。
彼女の隣の女官も緊張で顔を強張らせている。これはまだ若い女だ。だが、二十歳は過ぎているだろう。
「大公殿下には、これより朝礼にお出ましと伺っております」
女官長が確認するまでもなく、そろそろ刻限であった。
「皇女殿下。私はこれより大公軍団の朝礼へおもむきます。皇女殿下にはこちらでその様子をご覧ください。委細はこのアキノが承ります」
カイエンが立ったまま、そう言うと、アキノはカイエンの後ろへ周り、黒い制服の上へこれまた黒い外套を着せかけた。
「朝礼が終わりましたら、下の私の執務室へご案内致します」
カイエンはそう言うと、ゆっくりと部屋を出た。
扉の外にはカイエンの大公宮表での侍従であるベニグノが待っていた。
オドザヤはバルコニーのカーテンの影から、カイエンを見ていた。
女官のカルメラは後ろで控えており、オドザヤと女官長コンスタンサがカーテンの両端から外を覗く形だ。
バルコニーから練兵場は間に整備された広い庭が広がっているが、木々は少ないので、練兵場の壇上に立つカイエンの様子はよく見える。
(あっ!)
カイエンの朝の訓示が終わったらしく、彼女が壇上の粗末な木の椅子に座ろうとすると、待っていたように椅子を引き、手を貸して座らせた男。
遠目にもその巨躯で誰だかわかる。
朝日に赤い髪が光っている。
オドザヤもあの春の茶会でスライゴ侯爵夫人ニエベスに聞いてから、カイエンの「男妾」のことはよく聞いて知っていた。
元フィエロアルマの獣神将軍、ヴァイロンだ。
今は、大公軍団の新設部隊の隊長に就任したという。
オドザヤよりも小柄なカイエンと並ぶと、まるで大人と子供に見えた。
オドザヤの心の中で何か得体の知れぬものがうごめく。
(おねえさまは、あの男と……?)
オドザヤももう十六歳の乙女である。貴族の娘ならばあのスライゴ侯爵夫人ニエベスのように結婚していてもおかしくはない。
後宮の皇女宮に閉じ込められたオドザヤとて色恋の物語などは読み知っている。
「あら。皇女殿下、大公殿下におかれましては、ご側室をお迎えになったばかりではありませんか。兄に聞きましたわ。皇帝殿下のご不興をかったとかで罰せられた、あの獣神将軍ヴァイロンの身柄を、ご側室としてお引き受けになったのですよ」
そう言う、ニエベスに、
「ありがとうございます、侯爵夫人。夫もいない身でお恥ずかしいですが、大公として陛下の御代を支えるためには、こんなことも引き受けなければなりませんのよ。お察しくださいませ」
と、笑って答えていたカイエン。
あの時は、形だけなんだろうと思っていた。
でも、その後、後宮で囁かれていた話を聞けば。
父である皇帝はカイエンに「初夜の証」の提示を求めたという。
その話を知った時、オドザヤは打ちのめされた。
父である皇帝の行いに衝撃を受けたこともある。だが、それだけではなかった。
そうだ。
もう夫のいたニエベスも、いつ会っても飄々として見えたカイエンも。
もうオドザヤとは違うのだ。
ニエベスはあの「事件」でどこかへ幽閉されてしまった。
オドザヤの視界の中で、カイエンが椅子にかけると、あの男はその真後ろに控えた。もう一人、壇上に上がってきた背の高いやや猫背の男が壇上で何か話している。
だが、もうそれはオドザヤの目に映っているだけだった。
「お待たせしましたね」
オドザヤたちがアキノに案内されてカイエンの表の執務室へ案内されると、しばらくしてカイエンが戻ってきた。
杖をつきながら入ってきて、オドザヤたちが座っている執務室の中の応接用のソファの向かいに座る。
アキノが杖を受け取り、それと同時に執務室付きの女中が入ってきて、カイエンの前にお茶を置いた。
女官長のコンスタンサがその様子を落ち着いた目で眺めている。
彼女の目から見ても、執事のアキノ以下の使用人たちの動きには無駄がなく、しかも命じられたことだけをしているのではなく、己の判断で先へ先へと仕事を進めている様子が伺えた。
カイエンは、皇女たちの前に置かれた茶器をさっと見て、女中に合図する。
すぐに替えのお茶が運び込まれた。
「この季節に窓を開け放っていましたから、お寒かったでしょう」
オドザヤは答えられない。だって、カイエンは外に朝礼の間、ずっといたのだから。
「今日は、ここで午前中は仕事を致します。何事も起こらなければ、書類の決済と確認のサインばかりですがね」
香り高い紅茶に少しミルクを落として飲みながら、カイエンは言った。
そう。何事も起こらなければ。
「はあ」
オドザヤがそっと見たカイエンの巨大な執務机には、もうすでにかなりの書類が積み上がっている。
「この部屋に入れるのは基本的に大公軍団の二つの部隊の部隊長クラス以上の者だけです。ですが、部隊長クラスとは言っても、貴族出身は一人も、いません……ねえ。礼儀作法の方も、ご容赦願います。今日ここへ来るとしたら大変な急用でしょうから」
カイエンは言ってから気がついて、そっと女官長の方を見た。
団長のイリヤは帝国軍人崩れの平民。ヴァイロンは帝国軍将軍崩れのこれまた平民出身。マリオとヘススも完全無欠の平民だ。
カイエンの護衛騎士のシーヴに至っては、元は帝国の被差別民族の出身だ。
皇女に会わせてもいいものでしょうか?
女官長はソファにもたれることなく背筋を伸ばして浅くかけており、その答えは素早かった。
「大公殿下は元は皇帝陛下の末の妹の皇妹殿下であられます。その方がご側近として重用なさる方々でありますから、たとえ貴族の出身ではなくとも、皇女殿下のお目に触れてはいけないはずがございません」
即答。
カイエンは女官長の背後に、はっきりと皇帝サウルの存在を感じた。
だがしかし。
後宮の皇女宮で女たちだけにかしずかれ、男に免疫の全然なさそうなオドザヤである。
大丈夫だろうか。
カイエンの心配を読み取ったらしく、女官長はぐいっと前に出るようにして言った。
「ご心配なきよう。皇女殿下には私がついております」
「そうか」
カイエンは女官長の座る一人がけのソファの隣の三人がけのソファに女官カルメラとともに座る、オドザヤをそっと見た。
目が泳いでいる。
「皇女殿下」
カイエンが優しく話しかけると、オドザヤはやっとカイエンの方を見た。
「なかなか、個性的な部下が現れるかもしれませんが、とりあえずしっかりと飼い慣らしてはおりますので、ご心配なさらず、落ち着いてご見聞くださいね」
「はい、おねえさま」
いうまでもなく、イリヤ以下、この執務室へやってきそうな部下には今日のことは伝えてある。
イリヤなどはあの「琥珀の姫」を見られるのかも、と狂喜乱舞していたので、今日は大した用がなくともここに現れるのは必至だろう。
「大丈夫ですか、執務机との間に衝立を立てましょうか」
心配性のカイエンはちゃんと透ける布の張られた衝立も用意していた。衝立のすぐそばにいる皇女の側からは見えるが、反対側からは見えないというやつだ。
そこまで言うと、オドザヤはきっと顔を上げた。
「いいえ、おねえさま」
「私、今日はしっかりとおねえさまのお仕事ぶりを見に来ましたの。ご心配には及びませんわ」
そうですか。
カイエンがそう思った途端に、執務室の外で人の気配がした。
(始まった)
カイエンの日常が。
最初に飛び込んできたのはやっぱりイリヤだった。
朝礼から自分の執務室に戻ったら、部下が「事件ですぅ〜」と待ち構えていて、そいつの話を一通り聞いてからやってきました、という時間的なタイミングだ。
お前これやらせだろ、とカイエンが疑いの眼で見るのにブルブルと首を振り、イリヤはオドザヤ皇女一行の方はチラ見さえせずに話し始めた。
マジだ。
これはこれで礼を欠くような気もするが、それだけ急用なのであろう。
事前に皇女がいることは言ってあるし、特別に礼をしなくてもいいと言ってある。
「殿下、これはヤラセじゃないです。マジ仕事です。……例の連続男娼殺しに新しい犠牲者が!」
ぐわっ。
聞いた途端、カイエンももうオドザヤたちの存在を忘れた。
先月から始まった連続殺人事件である。
場末の男娼窟での事件だ。
殺されたのは全て男娼で、それも、若いかわいい少年ではなく、全てがもう青年期も過ぎ、寄る年波で道に立つしかなくなった男娼たち。
皆、むごたらしく殺されていた。最初の一人二人は普通の殺人事件として処理していたが、三人四人と続いて、今では「連続男娼殺人事件」として、治安維持部隊で特別捜査室が設けられている。
場末での事件とはいえ、こう続けば、帝都の人民にも知れ渡る。
すでに男娼窟では客足も遠のき、商売にならないと大きな店からは苦情が上がってきていた。
この帝都では商い別にギルドが作られているので、そちらからの突き上げも激しい。
「今度はどこだ?」
カイエンが身を乗り出すと、イリヤはとりあえず持ってきた調書を机の上に置いた。
「詳しい報告はおっつけ上がってくるでしょうが、今度も中年の男娼ですねえ。名前はクーロ・オルデガ。年齢四十二。前に殺された中のエンリケってやつの朋友だそうで」
「またエグいのか?」
カイエンは調書を見ながら聞いた。調書にはそのあたりの記載はない。書いてあるのは現場の状況と目撃者の有無などで、死体の状況も書かれてはいなかった。
「現場のスケッチは後から現場担当の署長が持ってきます。……今度もスゴイです」
さすがにイリヤはオドザヤたちの方を伺った。
全身を耳にして聞いている気配がする。
真面目だ。
「凶器だけでいい」
カイエンも後でスケッチを見ればいいや、と、そこははしょることにした。
「ククリナイフです」
「また、全部ぶちまけか?」
ああ、細かいところを省いて聞くのって難しいな、とカイエンは思った。
イリヤも同じらしく、ちょっと考えてから答える。だが、歯切れが悪いことこの上ない。
「それが、ちょっと妙な部分がアレでして」
「アレってなんだ?」
カイエンはしょうがないので、「ここへ書け!」と紙とペンをイリヤの前へ突き出した。
やりにくい。
「はあ」
イリヤはペンを持つと、さらさらと書き始めた。
にょろにょろした男らしく、字も女のように細くてにょろにょろしている。
だが、悪筆ではないのは救いだ。
それを上から見て読んでいく。
イリヤが書き終わると同時に、カイエンは立ち上がった。
途端によろけてまた椅子に落っこちる。
今日は朝から朝礼に出たので、足がもう上手く動かなくなっているようだ。
「カマラはもう行ってるか?」
「はい、現場とその周辺を歩かせてます」
カマラは一度見たものを忘れない特殊能力者だ。そして、それを克明にスケッチできる。
「私も見ておきたいな」
その時、執務室にもう一人、部下がやってきた。
こいつはヤラセでは来ない。
なんと、新設の帝都防衛部隊の顧問の件で帝国軍士官学校へある教授に会いに行っているはずのヴァイロンであった。
ヴァイロンもまた、真剣な顔で巨躯を揺らすようにして入ってくる。
「殿下。よろしいですか」
翡翠色の目はイリヤさえも見ていないかのようで、もちろん、オドザヤ皇女一行の方など見もしない。
「うむ」
ヴァイロンはそれでもイリヤに黙礼はしてから、話し始めた。
「マテオ・ソーサ教授からお手紙が届きまして」
「そうか。で?」
カイエンが促すと、ヴァイロンは活字のような文字の並ぶ手紙をカイエンに見せた。
「教授は、殿下も一緒でないと会わない、と言っています」
カイエンはちょっと呆れたが、すぐに手紙を見た。
ざっと目を通す。
確かに「大公自ら来なければ会わない」と書いてある。
そして。
文末に書かれているのは、螺旋文字。
カイエンはげんなりした。
「コイツも螺旋文字の先生かよ」
思わず、声が出る。
ヴァイロンは螺旋文字が読めないので、ここへ手紙を持ってきたのだ。
教授の意図もそれだろう。
部下では処理できないようにわざわざ螺旋文字を入れたのだ。
「真実は自ら知ろうとした者にしか見えないものである。知りたければ三顧の礼を尽くすべし、か」
カイエンは、螺旋文字を読みくだした。その後に書かれているのは日時だ。それは今日の午後。
「今日かよ!」
カイエンは螺旋文字を指差してつぶやいた。
ヴァイロンとイリヤも螺旋文字の意味はわかったようだ。
(日時指定して三顧の礼をやれってか)
カイエンはさすがにむかっときた。
だが、マテオ・ソーサ教授はサヴォナローラだけでなく、あの豪腕ジェネロからもお勧めのあった人材だ。
「この学者野郎!」
でも我慢できず、カイエンの口から汚い言葉が漏れた。
カイエン自身が、「やば」とオドザヤ皇女一行の方を伺ったが、もう聞かれてしまった。
おたおたするカイエンに、イリヤが助け舟を出してくれた。イリヤも帝都防衛部隊の顧問の件はもちろん、団長として知っている。
珍しい。
「殿下。教授のご指定が今日ならば、そちらを優先なさっては?」
「いや」
カイエンはもう決めていた。
「これからイリヤと共に事件現場へ向かう。教授の指定は午後だ。その後に行けるだろう」
カイエンはヴァイロンの方を見やった。
「ヴァイロン、教授には午後に会いに行こう。その前に例の連続殺人事件の件で、現場へ行きたい」
ヴァイロンは、黙ってうなずいた。
「すまないが、今日は足がもういけないようだ。助けてくれ」
カイエンがヴァイロンに抱えられて、イリヤと共に慌ただしく執務室を出て行った後。
オドザヤは呆然としていた。
最初に現れた男が持ってきたのは連続殺人事件。
それも、「男娼」の。オドザヤにはその単語自体が理解できていなかった。
二人とも、こちらを気にして話していた。
とても怖い事件なのだろう。
次に入ってきたのは、あの大きな男。
空気自体が引き裂かれるような鮮やかな雰囲気をまとっていた。
おねえさまは、彼にも恐れることなく対応し、そして。
なんだか、凄まじく乱暴な言葉でお話しになった。
こいつ、とか学者野郎、とか。
それに、出て行かれる時にはあの男に抱えられて。
なんてこと。
「皇女殿下、大丈夫でございますか」
女官長がそっと手を握ってくれた。
彼女はたいして驚いてはいないようだ。まあ、女官長コンスタンサが「驚く」様など、想像もできないか。
「大丈夫よ」
そう言ったものの、オドザヤの琥珀色の目は落ち着かなげにさまよっていた。
ここで待っていたらいいのかしら。
おねえさまはいつ、お戻りになるのかしら。
いつも、こんなにお忙しいの?
惑乱する彼女の耳に、その時、優しい声がもたらされた。
そっと部屋に入ってきたのは、若い騎士らしい男。
「失礼いたします」
その声には若さの艶があり、慌ただしく現れたイリヤやヴァイロンにはないゆったりとした感じがあった。
丁寧に跪いて礼をする。
しばらく顔を上げなかったのは、オドザヤたちの動揺を慮ってのことだろう。
「構いません。顔を上げなさい」
女官長がそう言うと、騎士はゆっくりと顔を上げた。
「大公殿下の護衛騎士をしております、大公軍団班長シーヴであります」
オドザヤの目に映ったのは、カイエンと同じくらいの年の若者の顔。
なぜだか知らないが、オドザヤはその顔に惹きつけられた。
おそらく、彼女は同年代の青年など遠目ならともかく、近くからなど見たこともなかったということもあるだろう。
先ほど現れた二人の男たちは、最初の一人はオドザヤより十以上も年上に見える癖のある美男子だったし、二人目はあのヴァイロンだった。獣人の血を引くというカイエンの男妾の、眩しい色彩の、動きの鮮やかすぎる男。
それに比べると、シーヴはオドザヤに近い。
顔つきも尖ったところがなくて、優しい。
亜麻色の柔らかそうな薄い色の髪なのに、顔色は浅黒い。
目の色は肌の色に近い胡桃色だ。
「大変申し訳ございませんが、大公殿下は最悪、夕方までお戻りになれないかも知れないとのことです。今のところ、お昼には一度、お戻りになるご予定です。本来ならばこの大公宮の執事のアキノがご挨拶すべきところですが、ただいま、奥でちょっとした事故の対応を致しておりますとかで……」
シーヴは大変に申し訳なさそうだ。
「大公殿下は皇女殿下にこの大公宮をゆっくりと見ていただき、大公殿下がお戻りになれましたら、お昼をご一緒させていただきたいとのことでございました」
一気に言って、シーヴはまた頭を下げた。
オドザヤはカイエンの仕事の慌ただしさと激しさに驚いていた心が、落ち着くのを感じた。
なんでだろう。
「大変申し訳ないことではありますが、大公殿下のご命令にて、私が皇女殿下のご案内をさせていただきたく、お願い申し上げるものであります」
ああ、この声を聞いたから。
まだ聞いたこともない南国の民族の歌のような、明るくて優しい調べ。
聞いたことのない声音だと思った。
オドザヤは何か言いかける女官長を遮って、シーヴに答えた。
「わかりました」
「そなたは大公殿下の護衛騎士をしているのですね。それならば、大公殿下のご信頼の厚い者なのでしょう。私に否やはありません」
シーヴは目の前にしたオドザヤ皇女の美しさには気がつかなかった。
と言うより、人間の表面の皮一枚の美醜など、彼の生い立ちからすればどうでもいいことだったから。
その点、彼は変わっていたと言えるだろう。
彼がオドザヤ皇女から受けた印象は、弱々しい生き物の儚い暖かさであった。
それは、残念ながら彼の日頃仕えているカイエンからはあまり感じられない種類のものであった。
実際のところ、彼の生い立ちを考えれば、彼は帝国の皇女の前になど出られない出自の者であった。
もし、ザラ大将軍の口添えで大公軍団に入り、カイエンに見出されて護衛騎士に選ばれなければ、彼がオドザヤの前に出ることなどありえなかった。
だが。
彼らはこの日、出会った。
出会ってしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます