皇后は古の恋人たちの幻を見る

 スライゴ侯爵とウェント伯爵の賜死を皇宮に呼ばれて見せられた翌日。

 クリストラ公爵は慌ただしく帝都ハーマポスタールを発ち、東側国境の領地へと戻って行った。

 ドラゴアルマのトリセファロ将軍はまだ帝都にいるが、おっつけ後を追って出発するであろう。


 新しく大公軍団に創設される「帝都防衛部隊」の隊長に任命された、元フィエロアルマ将軍それから大公殿下の男妾(継続中)のヴァイロンはその朝、やや機嫌が悪かった。

 とはいえ、これまた新しく大公宮の表に設置された、「帝国防衛部隊隊長室」へと向かう彼の顔つきは、常となんの変わりもない。

 光が当たると金色に見える赤い髪はやや癖っ毛で、それは軍人らしく短く整えられている。それが三方を囲む顔は日に焼けて浅黒い。

 骨格がごついが、その上にのっかっている顔自体はかっきりとしていて、端整と言っていい。鋭角的な眉、これまた厳しい線を描く高い鼻、そして特徴的な翡翠色の瞳は今日も落ち着いて見えた。真っ黒な大公軍団の制服に包まれた体は背があまりにも高いのでずんぐりとしては見えないが、筋骨隆々としていることが制服越しにも見て取れた。

 だが。

 彼の頭の中はやや混乱気味と言えば言えた。

 十二で士官学校へ入れられてからの十年余りの軍人生活で、私的な物事の感情を仕事に引っ張らない訓練を嫌という程、受けてきた。そのために仕事モードに入ったら、思考の海の表にそういう「個人的な感情」が登ってくることはない、というだけだ。

 ヴァイロンのその日の「個人的感情」をここで引っ張り出してくれば、以下のような事情であった。



「……いやしかし、お前にだってこれから好きな女性が現れるかも知れないだろう」

「私みたいなのにかかずらっていると不幸になるぞ。将軍位復帰を断ってしまったのには、心底、呆れた。もう、帝国軍人には戻れないのだ、わかっているのか?」


 今朝、起き抜けにまたあれこれあって、まだ眠そうなカイエンがヴァイロンの腕からもがもがと脱け出ようとしながら言い放った言葉がこれである。

 いろいろと閨のあれこれで揉めていた彼ら二人であったが、今朝もまたこれだ。 

 カイエンはヴァイロンの才能を惜しんでこんなことをいうのであろうが、それにしても。

 だが、ヴァイロンとしては十二歳のおりに前の大公でカイエンの実父であるアルウィンに唆されてここまで来ました、とは言いにくい。

「ねえ。君さあ、あの子が、欲しい?」

 あんなことを笑って唆す父親。

 ヴァイロンとて、あのアルウインがまともな父親であったとは思っていない。

 カイエンを可愛がっていると彼なりに思い込んでいたことは事実だが、その愛情というのは「束縛する愛情」だった。

 それは、「カイエンが欲しいか」と問われ、うんと言った彼が一番よくわかっていた。

 この春に皇帝に「ヴァイロンを大公カイエンの男妾に」と言わさしめた事態の大元を探れば、そこにあるのはおそらくアルウィンの意志だ。

 ヴァイロンが思うに、彼自身もカイエン同様、アルウィンのおもちゃだったのである。

 だが、カイエンには言えなかった。

 だから、カイエンはヴァイロンの彼女への感情を信じようとしない。

 と言うよりも、彼女は自分に向けられる愛情と言うものを信じていないのだ。

 カイエンを生んだ母であるアイーシャは彼女が赤子のうちにそばを離れた。その理由はカイエンが病弱で足が不自由な子供であったからだ。

 執事のアキノと乳母のサグラチカの夫婦はカイエンに愛情を注いで育てて来たが、それは肉親の愛情とは違う。

 そういう意味ではヴァイロンも親の愛情というものは知らない。

 だが、彼は士官学校から戦場へ出て行き、将軍にまで上り詰める間に、人間同士の信頼の重さ、その暖かさを仲間たちから与えられた。もちろん、憎しみや蔑みもその身には降り注いだが、それは戦友たちとの心の繋がりを凌駕するものではなかった。

「私から大公という地位を剥ぎ取ったら、何が残る? 体の不自由なただの女だ。頭でっかちで、何の役にも立たない、そこらの塵のような存在じゃなないか」

 カイエンは、年頃の娘らしさのかけらもない苦々しい顔つきでそう言い、ヴァイロンの手をそっと払いのけた。

「皇帝も言っていただろう。これからの私は皇帝に殺されないようにせいぜい励む、無能な臣下だ。あのサヴォナローラにいいように使われて生きるしかない、大公と言う名の傀儡だ。……女でさえない」

 ヴァイロンは慄然としてそう言うカイエンを見ていた。

 たった十八の娘にここまで言わせる。

 冷え切った心の叫び。

 それは、ヴァイロンの手に余る種類の苦しみだった。

 いくら、抱いて温めても彼女の心は凍ったままだ。

 だが。

 ヴァイロンの心は揺らいでいなかった。思えば、あのアルウィンと言う心の壊れた男は、その点では凄まじい鑑識眼を持っていたのだ。

 ヴァイロンはカイエンに対する己の向き合い方を考え直すことにした。

 これは戦略だ。

 勝つための具体的な戦術を考える必要がある。




 その朝、「帝都防衛部隊隊長室」へと向かう彼の心の奥底で練られていたのは、そのための戦術であった。

 だが、現実は違う。

 ヴァイロンは部屋の扉を開けた時には、もう帝都防衛部隊隊長の思考になっていた。

 彼の新しい仕事部屋。

 それは、団長イリヤの部屋にも近く、治安維持部隊の隊長であるマリオとヘススの双子の部屋にも近い一角だ。

 ヴァイロンは扉を開けて、ちょっと驚いた。

 意外な人物が、部屋の彼の机の前の椅子に座っていたからである。

「よう、大将!」

 この頃、団長のイリヤがヴァイロンをそう呼ぶが、彼は前にもこの人物にそう呼ばれていた。

「ジェネロ!」

 ヴァイロンは椅子から立ち上がった人物をその太い腕いっぱいに、ぎゅっと抱きしめた。

 ジェネロ・コロンボ。

 現在のフィエロアルマ指令、そして将軍である男を。

「ぐぇ!」

 豪腕ジェネロはヴァイロンの腕の中で、カエルが潰された時のような声をあげた。もっとも、獣人の血を引くヴァイロンほどではないが、筋骨たくましい彼だ。それは大袈裟な演技だろう。

 ジェネロ・コロンボ。

 豪腕ジェネロと言う二つ名を持つ彼は、別名、「死なない男」とも言われるタフな男だ。そして、賢い。力強いが道理にかなった用兵をすることでも有名だ。

 それで、豪腕と呼ばれている。

 身長はヴァイロンより首一つも低いが、それでも通常人としては長身に入るだろう。

 とにかく「死なないための瞬時の判断」に優れた男だ。彼の前に現れた敵は、必ず全滅させられる。ジェネロ自身も傷は負うが、死んだことはない。

 短い薄茶色の髪に、灰色がかった緑色の目をした好漢だ。ブチ切れて暴れ出さなければ。

 歳はヴァイロンよりもだいぶ上で、大きな商店を切り回す妻と二人の子供がいる。

「元気だったか」

 ヴァイロンが聞けば、ジェネロはにっこりと笑った。

「元気も元気でないもねえ。あんたがいなくなってから、激務で死ぬ暇もねえや」

「そうか。良かった。俺はいきなりいなくなってしまったから……」 

 ヴァイロンは自分の椅子に座りながら、懐かしさに翡翠色の目を細めた。彼に会うのは、この春の騒動以来だ。

「何か飲むか?」

「いやいい。すぐに戻らなきゃならねえんだ」 

 ジェネロはヴァイロンをまっすぐに見た。

「大将、今度は大公軍団の新隊長だってねえ」

「うん」

「でもまあ、やっと会いに来られたよ。大公殿下の男妾殿じゃあ、なかなか会いに来づらくってねえ」

「だが、ザラ大将軍の代わりに手紙を書いただろう?」

「ああ、あれねえ」

 ジェネロはふふふ、と笑った。

「ザラ様に頼まれちゃあ、断れねえよな。それにしても変な文面で、俺は目を白黒させて書いたぜ。ま、トリセファロ将軍も言ってたが、俺たちはザラ様が大将軍になられて大万歳だよ。動きやすくなった。細かいことはわかんねえし、知らない方がいいともわかっちゃいるが、元帥府の創設はありがてえよ」

「そうか」

 ヴァイロンは、静かにうなずいた。

「やはり、どこかに火種があるのだな」

 ヴァイロンはふと、「東の螺旋帝国の王朝が変わったらしい」という話を思い出した。

 だが、螺旋帝国は大陸の東の果てだ。西の端に位置するこのハウヤ帝国まですぐに影響があるとも思えない。

 今回の宰相府、元帥府の創設、それに大公軍団にできた「帝都防衛部隊」。

 宰相サヴオナローラはハウヤ帝国の軍備の充実を図っている。それにはきっと理由があるのだ。

「さあね。俺たちにはわからねえこった。でもまあ、大将が帝都防衛部隊の隊長って聞いて、我慢できずに来たってわけよ」

 ジェネロは古強者らしく、余裕綽々に言った。

「なあ、大将。あんた、困っているだろ?」

 ヴァイロンは、翡翠色の目を瞬かせた。

 ジェネロはもうよくわかった顔で続けた。

「新しい帝都防衛部隊の仕事は市街戦だろ? それで、元将軍のあんたを頭にした。で、治安維持部隊の古参を副官につけるって聞いたぜ。それで、市街戦闘のやり方を体系立てる、そうだろ?」

 ヴァイロンはうなずいた。

「その通りだ」

「俺、いい思いつきがあったんで来たんだよ、大将。ほら、士官学校にいただろう? 変な先生」

 ジェネロとヴァイロンは十近くも年齢が違うが、士官学校卒業と言うことでは共通している。

「変な先生?」

「ああ」

 ジェネロは、一人の戦術学教授の名前を挙げた。

「あんたの時も教えてただろう、今も現役教授だそうだからな。……マテオ・ソーサ教授だよ」

 ヴァイロンは瞬時に思い出した。

 マテオ・ソーサ教授。

 戦術学の教授だ。

 年齢不明の、小柄でねじくれた悪魔メフィストフェリコみたいな外見の教官。

 そんな外見なのに、二言目には「一般人の犠牲を最低限に収める戦術」を言っていた。

「あの人、一般人を巻き込まずに戦術を完成させるには云々って、ことあることに言ってなかったか?」

「言っていた」

「今までは外征する軍隊と、国境での国土防衛の軍隊でしか考えてなかったから、あの人の言ってたことはなんだそれ、って感じだったんだけど、急にあの一般人云々が思い出されてなあ」

 ジェネロはヴァイロンをまっすぐに見た。

「あの人の話、大将の今度の仕事に役に立つんじゃないかと思ったんだよ」

 ヴァイロンは立ち上がり、がしっと、ジェネロのぶっとい肩に両手を置いた。

「ありがとう。ジェネロ。すぐに教授に話を聞きに行ってくる」

 豪腕ジェネロはにかっと笑って、席を立った。

「役に立ってよかったぜ。大将もこっちに遊びに来てくれよ。みんな、喜ぶぜ」

「ああ、落ち着いたら、必ず行かせてもらう」

 ヴァイロンは豪腕ジェネロを大公宮の外まで見送って、自分の執務室へ戻り、早速一通の手紙をしたため始めた。

 宛名は、「帝国軍士官学校気付、マテオ・ソーサ教授」である。





 同じ頃、カイエンの姿は、皇宮にあった。

 宰相府のサヴォナローラに呼びつけられ、帝国防衛部隊の人事についての確認を取られていたのである。

 ヴァイロンを隊長にすることはすんなり受け入れられた。

 だが、さすがにサヴォナローラ。すぐに「市街戦」に対応した訓練に必要な人材について相談してきた。

「大公殿下。おそらくヴァイロン殿はご存知と思いますが、使えそうな人材が士官学校の教授におります」

 カイエンはサヴォナローラの宰相府の執務室で向かい合って座りながら、それを聞いた。

「マテオ・ソーサ教授です」

 カイエンはその名をメモした。

「戦闘時の一般市民の被害を鑑みた戦術を研究なさっておられます。私は面識がございませんが、ヴァイロン殿はご存知のはず、顧問にお迎えしたらどうかと考えます」

 考えます。

 思います、ではないのか。

 カイエンはそれも頭に留めた。

 さすがは宰相にもなろうという男である。全ては彼の中では決定事項なのだ。

「わかりました。早速に連絡を取り、顧問として迎える準備を進めましょう」

 サヴォナローラの礼を受けると同時に、左手の杖に力を入れて、カイエンは立ち上がった。

 その時、ふと思い出したのは螺旋帝国の王朝交代のことだ。

「サヴォナローラ殿、螺旋帝国の情勢はどうなっておりますか」

 そう聞いてみると、サヴォナローラの白皙に有るか無きかの微笑が浮かんだように見えた。

「そのことならば、螺旋帝国に駐在している役人からの情報を待っているところです。王朝が交代したとなると、駐在している役人自身の安否も気になります」

 まだ、未確認情報ということか。

 カイエンは大公ではあるが、外交に口出しする立場ではない。

 彼女は軽く礼をして、サヴォナローラの部屋を出た。

 今日は、護衛騎士のシーヴを連れてきている。この部屋の外で待機しているはずだ。

 だが、この後行かねばならない場所へは彼を連れていけない。

「ここで、待っていてくれ」

 カイエンがそう言って、シーヴと別れたのは、皇帝の後宮の入り口である。

 カイエンは後宮の入り口を守る女騎士に来訪の意を伝え、案内は断って歩き始めた。

 その日のカイエンのいでたちは、大公軍団の黒い制服である。

 カイエンは大公軍団の一番上なので、たて衿の裾の長い上着の首元の刺繍は金と銀で描かれた柔らかく意匠化された鷲の文様で、袖口にも刺繍があり、なかなかに華やかである。前の鈍い銀のボタンは他の団員と同じ。襟元からは下に着ている白の絹のブラウスの衿が覗いていた。

 足元は、歩きやすい柔らかい黒革の踵の低い長靴。

 紫がかった黒い髪は、顎のあたりで切って、短めにしている前髪以外は後ろで簡単に黒いリボンでまとめたきりだ。仕事中のカイエンは髪などに構う余裕はなく、いつもこんな感じである。まあ、このくらいの髪型でないと、黒い制服にはそぐわないということもある。


 カイエンが忙しい中、皇帝の後宮へと訪れたのは、オドザヤ皇女から呼ばれていたからであった。

 断ってもよかったが、手紙のオドザヤの文字は普段と違っていた。

 彼女の心の乱れを表す文字は、ところどころインクがかすれ、封筒の封蝋も乱れて曲がっていた。

 カイエンにとって、オドザヤは公的には姪だが、実際は母を同じくする妹である。

 あのアイーシャという母親を同じくするものとしての同情があった。

 カイエンは宮廷の噂として、アイーシャとオドザヤの様子も聞き知っていた。

 それによれば、オドザヤ皇女は全てにおいて母である皇后アイーシャのいいなりである、ということであった。

 家庭教師の人選はもとより、取り巻きの人選から、衣食住の環境、服や装飾品のことまで、生活の全てに皇后の意志が反映されていると。

(窮屈だろうな)

 カイエンでなくとも、そう思ったであろう。

 服や装飾品などは、皇后が彼女自身でオドザヤの分まで注文するという。皇女個人の趣味など関係なく。皇后の傍にいて、皇后を引き立てるために皇后よりも一段二段、劣った品々が選ばれているとも。

 宮廷の噂話とはそこまで残酷なものだった。

 オドザヤ皇女からの手紙には、

「おねえさまにご相談したいことが」

 とあった。

 おねえさま。

 オドザヤ自身は未だに知らないだろうが、実際にカイエンはオドザヤの父の違う姉である。たった二つ違いの。 

 二人の父親は兄弟。それも、父も母をも同じくする兄弟だ。

 ほとんど普通の姉妹、と言ってもいい血の濃さだった。

(恐らくは皇帝の後継者として冊立されたために急遽、始められた「帝王教育」への不満だろう)

 そう考えながら、カイエンは後宮の回廊を曲がろうとした。

 カイエン自身は幼い頃から男子並みの帝王教育を受けてきたから、それが普通で抵抗などなく学んできたが、十六にもなって、皇女としてのびのび育ってきた生活にしゃちこばった小難しい勉学が課せられれば、混乱し、惑乱するのも致し方ない。

 どん!

 オドザヤ皇女の皇女宮へと続く回廊の角。

 そこを曲がったとたんに、誰かがカイエンにぶつかってきた。

 先導の女官もない。

 カイエンは杖をついていたし、履いていた長靴はかかとの低いものだったので、急な衝撃に耐えることができた。

 もっとも、相手がたおやかな女人でなかったら、後ろに一緒に倒れていただろう。

 相手は小柄なカイエンよりもやや背が高かった。それに踵の高い靴を履いていたようだ。

 相手の首元がカイエンの鼻先に当たってきたので、カイエンの鼻に芳しい、だが若々しい花の香りがむせかえるようだ。

 芍薬ピオニーの香り。

 若い女の香りだ。

 ちなみにカイエンの愛用の香水は白薔薇である。高価だが、香りとしては無難なものだ。

 カイエンは相手の腰のあたりに手をやって支えてやった。

 男並みの教育を受け、男に囲まれて仕事をする生活をしているカイエン。その立ち居振る舞いはやや男前であった。男どもに傅かれるならともかく、男どもに混じって動き回っているので、いやでも影響を受けてしまう。

「大丈夫ですか」

 うつむいている耳元でそう聞くと、相手は慌てて身を起こした。

「すみません。慌てていて……」

 そういう声は濡れていた。

 泣いていたらしい。

 カイエンは相手の顔を見て、驚いた。

 オドザヤ皇女だった。

 黄金色の輝かしい髪を、結いもせずに背中にたらして、服も部屋着のような緩やかな服だ。

 目の前にある、薔薇色の顔が今日はやや青ざめている。

 化粧気もない顔。琥珀色の魅惑の瞳は涙ではちみつ色に滲んでいる。

(おおう)

 カイエンは妹の顔に、瞬間的にうっとりしてしまった。

 カイエンは実は母である皇后アイーシャの美貌は苦手だったが、そっくりでも若いオドザヤ皇女の顔はまた別物だった。

 ゆで卵を剥いたような健康そうな若い肌の肌理きめ

 色の白さは同じでも、カイエンの不健康そうな色味とは陰影が違う。

 何度見てもすごい美人だ。

「皇女殿下!」

 カイエンがそう呼ぶと、オドザヤは引っ叩かれたかのように顔を上げた。

「……! おねえさま!」

 オドザヤは慌てて、涙を手で拭った。

「すみません。わたくし、こんな格好で……」

 まっすぐに立つと、オドザヤの方が、履物の違いもあって頭半分ほども背が高く見える。

 カイエンは、自分よりも弱々しいものには無限に優しくなれるたちだった。それは、自分よりも弱いものに出会う事がほとんどなかった事から来ていたのだが。

 普段の彼女の生活の中では彼女よりも弱々しい者はなかなかいなかったから。

「どうしたのです? お手紙を見て、心配致しましたよ」

 そう言うと、オドザヤは顔をくしゃくしゃにした。

「ごめんなさい。おねえさま、わたくし、他にお話できる方がいなくて」

 カイエンは驚いたが、他にしようもなかったので、ヴァイロンが自分にするような感じで、オドザヤの肩を優しく抱いた。

 皇女がこんな状態なのに、女官たちの出てくる気配はない。

 おそらくは、来週に迫った新しい妾妃のための準備に忙しいのだろうと思われた。

「そうですか、こんなところで泣いていてはいけません。お部屋へいきましょう。さあ……」

 カイエンに肩を抱かれて、オドザヤ皇女は部屋へと歩いていく。



 その様子を、中庭を挟んで反対側の回廊の奥から見ていた一対の目があった。

 琥珀色の瞳。

 それが、狂わしく黄金色に光っている。

 それは、皇后アイーシャであった。

 彼女もまた、オドザヤ皇女に用があったのか。

 後宮の皇后宮から出てきて、皇女宮に入ってきたところだったのだろう。

 アイーシャは、荒い息を吐きながら、微動だに出来ずにいた。

 彼女の見たもの。

 それは。

 紫がかった黒髪を後ろで簡単にまとめた、顔色の悪い大公軍団の黒い制服の人物が、金色の髪を長く背中に垂らし、部屋着のままで琥珀色の瞳を涙に潤ませて泣く美女を腕に抱いて何か慰めている。

 そういう情景。

 黒い制服の襟の上の顔。

 特徴的な切れ長の瞼の下の灰色の目が優しく、琥珀色の瞳を覗き込んでいる。

 アイーシャはそれに見覚えがあった。

 いや。

 見覚えはない。

 なぜなら、昔、その二人のうちの一人は自分であったからだ。

 アイーシャは、目を見開いてそれを見ていた。

 彼女の鼻にはオドザヤ皇女の嗅いでいる、カイエンのつけているあまり甘みのない新鮮な白薔薇の香水の香りは届かなかった。

 代わりに思い出した香りは。


 あのひとの香り。


 薔薇は薔薇でもややスパイシーで白檀につながる残り香のする、毒の香りのする薔薇。

 もっと重い香り。


 ……アルウィン。


 その香りがアイーシャの中で蘇り、彼女は息を詰めた。

 そんな彼女にお構いなく、二人は回廊を歩いていく。

 それは、彼女が生んだ二人の子供だった。

 父親そっくりなのは長女で。

 自分にそっくりなのは次女だ。


 二人ともに女の子。


 そう、女の子。


 おんなのこ。

 おんなのこ。


 嗚呼。

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