毒を以て毒を制す
永遠を生きるものがないように
不滅の王国はない
不滅の支配者もない
誰も星へは行けない
地上から天上への道はない
アストロナータ神殿「サグラリオの碑」より
ヴァイロンがカイエンによって、大公軍団帝都防衛部隊の隊長に任ぜられて数日後の夜。
新しい妾妃がベアトリアからやってくる前の皇宮で、密やかに二人の貴族が皇帝より死を賜った。
侯爵家と伯爵家が一つずつ取り潰され、その領地は皇帝直轄領に編入された。
妾妃を迎える後宮は女官たちがその用意に忙しいが、皇宮全体としては宰相府と元帥府が設立された直後の慌ただしさも落ち着き、全体としては静けさを取り戻しつつある。
そんな中、「春の嵐」事件で皇帝の親衛隊に捕縛されたスライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵アナクレトの処分が決まったのである。
表向きには二人は病死することになっている。
二人ともに跡継ぎがいなかったため、家もろともに消し去られることとなった。
皇帝への謀反の容疑と言っても、首謀者のアルベルト・グスマンはすでに自決しており、モラエス男爵はグスマンに殺害されている。
前大公アルウィンの遺児として登場予定だったとされる、カルロスこと庶子アルウィンも一味の中での行き違いで殺されてしまった。
その他に死傷者も出てはいない。
事件そのものも多くの貴族や一般には何も知られてはいないのである。
本来ならば、彼らは死を賜るほどの罪を犯したのではなかったのかもしれない。
だが、皇后に取り入り、虚偽の進言を皇帝にさせ、皇帝一家の秘密に触れた彼らを皇帝サウルはこの世から消し去る道を選んだ。
今後の禍根を断つためである。
ことの根元には皇帝サウルに男子がないことからくる後継者問題があり、それは事件後に皇帝が第一皇女オドザヤを後継者として冊立する意志を示し、皇位継承の典範の改正にも着手したため、一応の落ち着きを見ている。
だが、今までに例のない女帝冊立をまだ認めていない貴族も多い。
今後、同じような事件を企む者が出ないようにする必要があった。
捕縛に皇帝の親衛隊が使われたのもそのためであった。
スライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵アナクレトは捕縛後、裁判にかけられることもなく獄中にあった。
宰相府と元帥府の設立も済み、大公軍団に新しく設立される帝国防衛部隊の立ち上げにも見通しが立ったことを受け、関係者一同は皇宮のとある塔の地下深く、貴族などの訳ありの罪人が入れられる獄舎へと集められた。
集められた関係者とは、事件のあらましを知っている者たちで、二名の処刑に立ち会わされたのは、「生涯他言無用」という皇帝の意志を知らしめるためでもあった。
大公軍団からは事件捜査の関係で事件の全容を知りえた者として、大公のカイエン、ヴァイロン、執事のアキノ、団長のイリヤ以下、元副長で今は治安維持隊の隊長であるマリオとヘスス、護衛騎士のシーヴまでの側近が該当した。
他の団員は歌劇場事件やモラエス男爵殺害事件、グスマンの捜索のための非常線に駆り出されたが、それら全ての事件の容疑者として自死した前大公軍団長グスマンに全ての事件責任が被せられたため、全体像を知る者はここまでであった。
「うわー、俺たちもう、一生大公軍団ですねー。逃げる時は殺される時ですよねー。やばいわー、怖いわー」
と、イリヤは喚き、アキノに、
「お前は馬鹿か! 里の関係者であるお前はここに入った時からもう逃げられなくなっているのだわ!」
と怒られた。
シーヴは喚かなかったが、彼もザラ大将軍の口添えで入っているので、自分も同じだ、と覚悟を決めた。
本当は一番喚きだしたかったのは、まったく里、プエブロ・デ・ロス・フィエロス関係者ではない双子のマリオとヘススだったであろうが、二人はいつもの通りに無表情のままお互いにうなずき合って終わりだった。
他に集められたのは皇后アイーシャとオドザヤ皇女、クリストラ公爵夫妻、ザラ大将軍、宰相サヴォナローラとその弟、ガラであった。
皇帝サウルはサヴォナローラ兄弟が元桔梗館の一党であったこともすでに承知しており、無位のガラがそこに名を連ねたのもその理由からである。
桔梗館の一党には他にも貴族の子弟が何人かいたが、彼らはグスマンの起こした事件には関わっていない、とサヴォナローラが証言し、皇帝サウルは一応、それを信じたのである。
もっとも、彼らは今後、皇帝によって厳しく見張られることになるだろう。立身出世などありえず、今後何か微細な罪でも犯せば、すぐに処罰されるのは必至だ。
サヴォナローラがどうしてここまで皇帝の信用を得られたのか、カイエン達には詳しい事情はまだわからなかったが、要するに皇帝は今後の彼の統治を円滑に行うために、サヴォナローラという毒を使いこなす道を選んだのであろう。
その塔の名は「愛国者の塔」という。
実際には愛国者どころか、重罪人の入れられる獄舎へとつながる忌まわしい場所である。その名の由来はこのハウヤ帝国建国時代に遡る。
皇帝の親衛隊に連れられて、カイエン達が密かにそこに案内されていった時刻は、もう夜中と言っていい時刻であった。
カイエンたち大公軍団一行はガラ以外はカイエンも含め、皆、大公軍団の黒い制服姿であった。ヴァイロンの制服もあれから数日のうちに誂えられたのである。
大公軍団の制服は、新設された帝都防衛部隊でも使われることに決まっている。実際の戦闘では、帝都防衛隊の方は軍隊に近い特殊部隊なので、帝国軍に準じたような軍装が必要になるだろうが、通常時用としては同じものが採用されたのだ。
大公軍団の黒い制服は立て襟で、襟や袖の縁などの意匠が地位や担当部署によって変わる。
前で鈍い純銀のボタンで止める形で、腰の革製のベルトのやや下までボタンが続く。
軍団創設時にはボタンではなかったそうだが、脱ぎ着のしやすさから、ボタンというものが一般的な衣装の留め具となる前から制服に採用されたそうである。
カイエンや団長のイリヤ、治安維持隊と帝国防衛隊隊長の三人までの上着の裾は長い。ほとんど膝のあたりまであり、動きやすいように後ろや横に何本かのベンツ(切り込み)が入っている。現場の小隊長格まではこの意匠である。
実際に事件現場に入るときなどは、この長い裾が汚れるので実は不評なのだが、創設時からの伝統のこの意匠は変えられることなく守られてきた。
シーヴは軍団員としては下から二番目の「班長格」なので、彼の上着だけが尻の下までの長さで短い。
上着の下は普通のズボンで、それに長靴が合わせられる。長靴は黒っぽければ形状は自由という事になっている。
杖をついているカイエン以外は腰に皆それぞれの剣を下げていた。
普通は大公殿下も剣を下げるのだが、剣は重たいし、ほとんど剣が振れないカイエンが持っていてもしょうがないので、彼女はいつも丸腰だ。もっとも、杖の銀製の握りの中には鉛が流し込まれているし、柄の黒檀は硬くて丈夫な木だ。これで思い切り突けば一般人なら後ろへぶっ倒れるし、遠心力をつけてぶん殴り頭にでも当たれば昏倒する。
他にも実はいろいろ服の中に仕込んでいることは秘密である。
十一月と言っても夜遅いので、カイエンは制服の上に黒い外套を羽織っていた。これも制服の中に入っている。
「こちらでございます」
親衛隊が塔の地下へと続く階段へ案内していく。ヴァイロンが黙ってカイエンの前に回った。階段は危ないと思ったのだろう。
いつもならカイエンを抱えて歩くところだが、この二人、実はまだ例の件で揉め続けているのである。
ヴァイロンにとっては相談なく帝国防衛部隊の隊長に任じられたことにも不満があるようだが、制服が出来上がってきてからは諦めたようだ。
カイエンの真ん前に真っ黒な衝立が歩いている。というか、ヴァイロンがでかすぎるので、すぐ後ろを降りて行こうとすると足元がよく見えない。
カイエンはちょっと間をおくようにした。
「殿下」
ヴァイロンが前に回ったので、シーヴがカイエンに手を貸した。
しばらく降りていくと、親衛隊員は一つの大扉の前で止まった。
扉の両側にも親衛隊員が立っている。
「大公殿下をお連れ致しました」
静かな声でそう告げると、扉が中から開いた。
中はかなり広い。
床も壁も天井も全て石造りで、天井が高い。部屋は一部が二階になっており、そこが庇か小さなバルコニーのように出っ張っている。
そこには三つの大きな椅子が用意されていた。
カイエン達が案内されたのは一階部分で、奥と左手に一つずつの扉が見える。
中にも親衛隊員が何人か控えており、部屋の真ん中に、二階部分へ向かって大きな樫のテーブルと二つの椅子が用意されていた。
カイエン達は部屋の右側へ案内された。左と違い、後ろには扉がなく、そこには幾つかの肘つきの椅子が用意されている。
そこを見ると、すでにザラ大将軍と、クリストラ公爵夫妻、末席に宰相のサヴォナローラが座っていた。
クリストラ公爵は隣国ベアトリアから来るマグダレーナ王女の迎えのため、これが済んだらすぐに領地へ戻らなければならないはずだ。
「……」
ザラ大将軍とヘクトル、ミルドラ、それから一拍遅れてサヴォナローラが黙って黙礼してきた。
皆地味な服装で、サヴォナローラはいつものアストロナータ神官の褐色の服装である。彼は宰相となっても神官である己を捨てるつもりはないらしい。
カイエンも黙礼し、一番奥の椅子に座った。そこが一番上座で、大公であるカイエンのために空けられていたからである。
イリヤとヴァイロン以下は椅子へは座らず、カイエン達の後ろに立って控えた。
彼らがその場所に収まると、すぐに二階部分で気配がした。
なるほど。
カイエンは二階を下から斜めに見上げた。
皇帝陛下一家は罪人の正面上階から見聞なさる、というわけだ。
「皆、ご苦労」
低い声とともに、皇帝サウルが二階の帳の後ろから現れた。彼も地味な服装だが、きちんと略式の王冠をかぶり、毛皮の縁取りのマントを長く引いている。
彼が真ん中の椅子にかけると、続いて皇后アイーシャが、それから第一皇女のオドザヤが現れた。
二人とも、黒に近いドレスを身にまとい、装飾品も少ない。いつもは髪を派手な格好に結い上げている皇后も、今日は地味に小さくまとめている。
皇帝サウルが階下のカイエン達を見た。
無表情の中に一瞬、違う表情がよぎったように見えたが、すぐにそれは消えた。
カイエン達は無言のまま、立ち上がって、臣下として深く頭を下げた。
皇帝が皇后をここに立ち会わせたのは、今後軽率な真似をさせないための示威行動でもあったのであろう。
さすがのアイーシャの顔も、この夜は蒼白で彫像のようにこわばっていた。いつもは艶やかな顔の皮膚が、そそけ立っているようだ。
オドザヤ皇女は真っ青な顔で今にも倒れそうだった。
今日、処刑されるスライゴ侯爵アルトゥールの妻、ニエベスは皇女と同年の取り巻きの一員である。
彼女もまた捕らえられているが、死は免れそうだ。
おそらくは一生幽閉といったところだろう。若くとも妻としてかなりのことを知ってしまったはずだから。
まだ十六歳の皇女を皇后とともに、この場に立ち会わせた皇帝サウル。
今や世継ぎの皇女となった立場をしっかりと娘に植え付けるための処置であっただろうが、カイエンが見てもその様子は痛ましかった。
とは言っても、そのカイエンとてまだ十八歳である。
だが、十五の歳から大公をやっているカイエンは、治安維持部隊の仕事で血なまぐさい現場にも立ち会っていたし、犯罪者の拷問も見ている。
この春からのあれこれもあって、すでにして純真な乙女の部分はほとんど削り取られてしまっていた。
「罪人を入れよ」
皇帝が命じると、一階の左の扉が開き、二人の人物が覆面の獄吏に引き据えられて登場した。
スライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵アナクレト。
二人とも手枷をはめられており、飾りのない白い筒袖のシャツとズボンを着ていた。
夏に捕えられてから数ヶ月。
すっかり憔悴した二人には、もう全く生気がなかった。
カイエン達を正面に見ても、表情は変わらない。
あのアルトゥールの美貌も損なわれていた。髭も髪も伸び放題で、かさかさだった。
二人は部屋の真ん中の樫のテーブルの前の椅子に座らされ、テーブルの上に手枷のはまった手を載せられた。
カイエン達は皆、すぐに気がついたが、彼らの手からはほとんどの爪が失われていた。
いったい何を聞き出したのかは知らないが、厳しい拷問が行われたのだ。
皇帝はそこまで見ると、すぐに獄吏に顎で指示した。
獄吏がうなずくと、左の扉から他の獄吏が現れ、罪人二人の前、手枷のはまった手の向こうに、二つの杯を置いた。
それは、きれいに磨かれたガラスの器で、その場には不似合いな代物であったが、おそらくは二人の罪人が上位貴族であるために用意されたのだろうと思われた。
獄吏の手で、ガラスの杯にどす黒い色のワインが注がれた。
カイエン以下の面々は今日の処刑の方法を聞いていなかったが、どうやら皇帝が彼ら二人に課したのは「
毒酒を自ら飲ませるのである。
「スライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵アナクレト」
皇帝が立ち上がって、二人を見た。
二人が獄吏に引き立てられて、やっと顔を上げた。
「両人に死を賜う」
皇帝サウルは静かな声でそう命じた。罪状を述べることもなく、その声は冷たく簡潔であった。
カイエン達は二人が何か言うかと身構えたが、彼らは何も言わなかった。
いや。
言えなかったのだ。
ウェント伯爵が口を開けて何か言おうとした。
だが、声が出ない。
ただ、物狂わしく身をよじる。
おそらくは舌を切られたか、喉を潰されたか。
カイエンと共にいならんでいた面々には、それが瞬時に理解された。公爵夫人のミルドラとて、帝国東側国境にある領地では血なまぐさい現場も見ている。国境紛争は終わったばかりなのだ。
アルトゥールの方は、身動きもしなかった。
皇帝の合図で、獄吏が彼らの手枷を取り、杯を握らせる。
ウェント伯爵は身悶えて逆らったので、獄吏が無理やりその口に毒酒を注ぎ込んだ。
アルトゥールは、杯を握ったまま、一瞬だけ、カイエンの方を見た。
カイエンは目をそらさずにアルトゥールの銀色の目を見返した。
「あ……」
アルトゥール口を開けて少し、笑ったように見えた。
そして、そのまま毒酒を煽った。
彼を迎えに、アルウィンは来ない。
海の彼方へと旅立った無責任な男は、過去も未来もたった一人だ。
「ひっ……」
二階で皇后とオドザヤ皇女が悲鳴にならないうめき声をあげたようだ。
罪人二人が床にくずおれて最期の痙攣でのたうちまわっている。
毒は即効性のはずだが、全く苦しまないわけではなかった。
カイエンは皇后達の方は見ようともしなかった。
彼女の周りに居並ぶ面々も同じ。
彼らの未来もこれと同じようなものになるかもしれなかった。
彼らはこの処刑に立ち会った時点で、皇帝に運命を握られている存在なのだ。
カイエンは、ふと、気がついた。
父、アルウィンは本当に海の彼方へ行けたのだろうか。
港を離れた船の上で、彼は何日の間、生きていられたのだろう。
皇帝の長い腕はきっとアルウィンへも届いている。
「さようなら」
カイエンは心の中で、いろいろなものに改めて別れを告げた。
こっちはまだ明日を生きなければならない。
まだ、皇帝には殺されてやらない。
「大公カイエン」
カイエン達が部屋を退出しようとすると、皇帝から声がかかった。
すでに皇后とオドザヤ皇女は親衛隊の手で退出させられている。
カイエンは皇帝の方を見上げた。
同じ、灰色の暗い目が出会う。
「少しはましになったようだな」
カイエンに向かって、皇帝サウルは言った。
「毒にも薬にもならぬような大公など余の帝国には必要ない」
皇帝はそう言うと、さっさと背中を見せた。
「励め。これから忙しいぞ」
声だけが、カイエンの上へ落ちてきた。
なるほど。
皇帝はこれからまた始めるつもりなのだ。
新しい手足を使って。
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