第二話 冬のライオン
微笑みたたえる白い庭
こころ刺す青いハチドリ紅き花白い時間が笑うあの庭
わすれない微笑みたたえる白い庭ここに抱えてあの地までゆく
アル・アアシャー 「即興詩のための覚え書き」
「ねえ。君さあ、あの子が、欲しい?」
あの時、あの方は、あの微笑みで、あの白い庭で、そう、聞いた。
そして、彼は答えたのだ。
「はい」
と。
彼は夢を見ていた。
夢の中の彼は今と違ってとても小さい。地面がすぐそばに見えるほどだ。
彼は大公宮の裏庭を歩いていた。ここは、本当は彼は入ってはいけないところで、養父母からそうきつく言われていたが、子供の頃の彼は何度か入って行ったことがあった。
裏庭は中庭と違って使用人達の住居のある場所からも通用門を通れば入ることができたから。
その日も、彼はそっと一人で裏庭へ入って行った。
いい天気で、空が青く青くすごく高い。海の青とは違う、吸い込まれて体が持ち上げられそうな青だ。
木々の陰に隠れるようにしながら、池や噴水のある白い壁に囲まれた場所へと入っていく。
白い壁の近くには真っ赤なブーゲンビリアの花垣が囲み、古びた噴水の周りは芝生で覆われている。噴水や池の、彼の目の色とそっくりな翡翠色の水の中には青紫色や白色の睡蓮が花咲く。
オレンジ色と紫色の極楽鳥花の周りには、青いハチドリが何羽も舞っている。
きれいだ。
大公宮の裏庭は広大だ。
もともと、大公宮の建つ前にはこの場所には神殿の修道院があったと聞いたことがある。その時代のままに残された場所だということまでは、彼は知らない。
「あっ!」
その日、彼は噴水のそばに人影を見つけて驚いた。今まではこの裏庭で人影を見たことはなかったから。
この裏庭はいつも静かで、時間に忘れ去られた場所のようで、子供心にも不思議なところだったから。
人影は、三人。
びっくりしたことに、一人は彼の養母のサグラチカだ。
彼は、驚いて戻ろうとしたが、サグラチカと一緒にいるあとの二人に目を奪われて、そこに立ちすくんでしまった。
一人はまだ若い男の人で、もう一人は六、七歳の女の子だ。
男の人は貴族の男の人が普段に着ている、青い絹の長めのガウンがすごくよく似合っている。この人は知っている。この大公宮のご主人様だ。
みんなは「アルウィン様」、とか「殿下」って呼んでいる。
顔色は悪いけれど、優しい顔の人でちょっと珍しい長めの紺色の髪の毛が日差しの中で輝いている。
女の子の方は初めて見る子だ。
でも、すぐに誰だかはわかった。
女の子の顔は、そばにいる「アルウィン様」とそっくりだったから。
もちろん、大人と子供だから、そのままそっくりってわけではないけれど、きっとアルウィン様の子供の頃はこのままの顔だったんだろうな、って思ってしまう様な感じだ。
目の色は同じような灰色みたいに見えた。
でも、髪の色だけがちょっと違う。
女の子の髪の色は紺色じゃない。多分、暗いところでは二人とも黒く見えるんだろう。
でも、今日の明るい日差しの中、女の子の髪の色は紫色に見えた。
これも、珍しい色なんじゃないだろうか。
女の子は子供なのに、杖をついている。アルウィン様が支えるようにもう一方の手を握っているけれど、歩きにくそうだ。
なんだか不機嫌そうな顔つきだ。
この大公宮で、ご主人様のアルウィン様にそっくりで、足の悪い女の子。
それは一人しかいない。
カイエン様だ。
彼は、養父母に聞かされていたので、カイエンとアルウィンが本当は父娘であることは知っていた。でも、外では決して話してはいけないと言われていたけれど。
初めて見るカイエン様はかわいらしかった。
子供なのにほっぺたまで真っ白で、痩せていたけれども。
すごく小さい子だ。顔を見れば六、七歳と思うけれど、体の方は五つくらいにしか見えない。きっと、病気で体が弱いんだろう。
確か、養父母も他の召使いたちもそんなことを言っていた。
彼は、急に自分が大きくなったように感じた。
紫色の髪の毛は、アルウィン様と同様にちょっとくせっ毛で、それを頭の後ろで上の方だけ編んでリボンで結んでいる。
体が細くて小さいので、長い髪の毛が重そうに見えるほどだ。
杖にのせられた手は、指が細くて長く、真っ白で、あまり子供らしくはないが、桜色の爪の先までがすんなりと貴族的だ。
彼は、反射的に自分の手を出して見た。
彼自身は大公宮の中での仕事はしていなかったが、養父母は日中、大公宮の中で働いていたし、執事と乳母であるから、夜も宮の中に残ることも多かったため、いつの間にか家の中のことはほとんど彼がやるようになっていた。
炊事洗濯に掃除、薪割りから大工仕事まで、十を過ぎてからはなんでも一人でやっていたから、彼の手も腕もがっちりしていた。
この頃、急に背が伸び始めた。それが、彼の悩みだった。
彼が養父母の家の前に捨てられた理由も、とっくに知っていた。
人の口には戸が立てられないとよく言うように、彼は自分が獣人の血を引くことを、もうとっくに知っていた。
捨てられていた赤子の時には毛むくじゃらの獣の姿であったこと。
その後、幼児になると姿は他の子供と同じになったけれども、大人になれば背が伸び、体は人並み外れて大きくなり、再び、普通の人とは違う姿になっていくだろうことも。
それが、そろそろ始まりはじめている。
それと比べて。
あの子はなんて小さくてかわいいのだろう。あの、白い花のような長い指。自分とは正反対の。
アルウィン様は男の人としては決して大きくはないから、あの子もきっと。
彼は、木陰からじっと見守った。
「父上、ハチドリ!」
カイエン様が声をあげた。
あれっと思う。
カイエン様の声は、男の子みたいに硬質で、それに力強い。
極楽鳥花の蜜を吸うハチドリに向かって、アルウィン様の手を振りほどいて、カイエン様は走ろうとした。
(危ない!)
彼は、思わず木陰から飛び出そうになる自分を抑えた。
「カイエン様!」
「カイエン!」
アルウィン様とサグラチカの二人が叫ぶ。
思った通りに、カイエン様は転んだ。
下が芝生でよかった。
泣くかと思ったが、カイエン様はすぐに、黙って左手の杖を使って立ち上がった。
ピンク色の子供服の裾についた泥を、自分でばたばたと叩く。
痛くなかったのだろうか。
彼はちょっとびっくりした。
「あらまあ、急に走られるから!」
サグラチカが走りよって、カイエン様の服の裾をちょっとまくって、怪我がないか確かめている。
子供服の裾からのぞく足も棒のように細い。
ちょっと擦りむいたようだ。
「カイエン様、傷を洗わなくては。こちらへ」
サグラチカはカイエン様を抱きかかえるようにして、大公宮の本殿の方へ歩き始めた。
「アルウィン様」
サグラチカに、アルウィン様は微笑みながら言った。
「僕はもうちょっとここにいるよ。……カイエン、手当てしてもらったら戻ってくるかい?」
「もちろん! だって来たばかりじゃない!」
ちょっと頬を膨らませて。
そう言うと、カイエン様はなんともなかったように杖をつきながら歩いていく。
その時、彼は気がついた。
そうか。足の悪いカイエン様は、きっと転ぶのに慣れているんだ、と。
きっと、普通の子よりも痛いのにも、慣れているんだ、と。
二人を見送りながら、アルウィン様は噴水のへりに腰かけた。
顔にはずっと微笑みが浮かんでいる。
というか、きっとあの微笑みの表情が普通の顔なのだ。アルウィン様には無表情というものがないのかもしれない。
あ。
彼はまた気がついた。
カイエン様はアルウィン様とそっくりだけれども、あんな微笑みはしていなかった。不機嫌そうにしていたし、さっきは頬を膨らませて、ちょっと怒っていた。
そこまで考えた時。
彼の視界の中で、アルウィン様がゆっくりとこちらを向いた。
彼は身を硬くした。木陰に隠れているのに気がつかれたら……。
「ねえ、きみ!」
やっぱり、アルウィン様は気がついておられたらしい。
「君、アキノのところの子だろう?」
アルウィン様の声は朗らかだ。華奢な体の割には大きな声。
「確か、ヴァイロンだよね。……出ておいで。怒らないから」
にこやかにそう言って、アルウィン様は手招きされた。
真っ赤なブーゲンビリアを背景にして。
その姿はあまりにも鮮やかで。
彼は、観念して木の陰から出た。
何を言ったらいいのかわからないので、黙って頭を下げた。養父母から貴人の前では頭を下げたら、いいと言われるまであげるな、と言われている。
「もっとこっちへおいで」
そう言われたので、頭を下げたまま、前進した。
アルウィン様の青いガウンの裾が目の前に見えるところまで来て、やっと許された。
「顔をお上げよ。構わないから」
思い切って顔を上げた時に、初めて至近距離で見た、アルウイン様。
神殿で見た、アストロナータ神の像によく似た、整い過ぎていてかえって美男子には見えないような、不思議な顔。
彼は、それをずっと忘れられなかった。
その後、そんなに近くからアルウィン様の顔を見ることはもうなかったから。
よく似た顔を毎日、同じような距離から見ることにはなったけれど。
「へえ、大きくなったねえ」
感嘆するように言うアルウィン様は微笑んでいる。でも、何を考えているのか、全然わからない種類の笑みだ。
「幾つだったっけ? 十四、十五?」
ああ。
彼は己を呪った。この頃はいつでもこんな会話ばかりだ。
「……十二です」
精一杯、体を縮こめて答えた。もう、声変わりも始まっているかすれた声だ。
アルウィン様は驚いたらしい。
「えー。じゃあ、カイエンと五つ違いかあ」
黙っていると、アルウィン様は彼のうつむきがちな顔を覗き込むようにした。
「わあ、きれいな翡翠色の目だねえ。髪がさっき、木の陰から光って見えたんだよ。金色にね」
「でも、近くで見ると赤いんだね。きれいだねえ。君」
彼は、そのまま後ろを向いて逃げ出したくなった。きれいだなんて言われたのは初めてだ。
それに、もう木陰にいた時に見つかっていたなんて。
「ねえねえ、君さあ、さっきここにいた子、僕の娘なんだけど、見てたよね」
彼の心臓は止まりそうになった。
「ねえ、どう思った? あの子?」
体が無意識にびくっと震えてしまう。かわいいと思ったことが急に恥ずかしくなる。もう、顔を上げられない。
アルウィン様は彼の様子をじっと観察していた。
「ねえ」
そして、すごいことを口にした。
「ねえ。君さあ、あの子が、欲しい?」
え?
アキノからアルウィン様の話し方が大公らしくないとは聞いていたけれど。
これは、それだけじゃない。
「ねえ。君は、あの子が好き?」
その瞬間。
ぶわっと頭に血が上った。
無意識だから止めようもないし、彼の年齢ではそれを隠す手段も知らなかった。
きっと、顔は真っ赤になっていただろう。
あの人は、満足そうに、微笑んだ。
もともと微笑んでいたけれど、もっともっとうれしそうに。
あの顔は、多分、死ぬまで忘れないだろう。
「へえ。君はあの子をちょっと見ただけなのに、もう、あの子が欲しいんだね」
否定できない。
というか、彼はこの高貴な大公の前で返答するべき言葉を持たなかった。
でも、大公殿下はそれでは済ませてくれなかった。
「ねえ。返事おしよ」
「君はあの子が、欲しい?」
彼は。
ヴァイロンは、答えた。
答えてしまっていた。
「はい」
と、声にならない声で。そのうつむいたままの顎を引いて。
「そう」
あの時、アルウィン様は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、カイエンは君にあげる。でもね、君も彼女に君のすべてをあげるんだよ」
彼は催眠術にかかったようにうなずいていた。
その意味もわからずに。
「約束だよ」
恐ろしい方。
アルウィン様は念押しした。
「僕が君をカイエンに見合う男にしてあげる。だから、その時が来たら、君はカイエンのものになるんだよ」
アルウィン様は、彼の顎に手をかけて、上向かせた。
灰色の井戸の底のような目と、無垢の原石のような翡翠色の目が、間近で出会う。
「……約束だよ」
アルウィン様は、彼の唇に自分の唇を載せた。
「やくそく、だ、よ」
彼はその時のアルウィン様のひんやりとした唇の感触を忘れなかった。
そのあとすぐ、彼はハーマポスタール大公、アルウィン様を後見にして、ハウヤ帝国軍の士官学校へ入学した。
成長と同時に獣人の血を引くことを隠しおおせなくなった彼であったが、大公殿下の後見は絶対的で、差別されながら、陰湿ないじめも受けながらも士官学校を卒業し、たくましすぎるハウヤ帝国軍人となり、国境紛争への従軍で戦功を上げ続け、ついには帝国軍将軍の一人となった。
将軍として皇帝から一軍、フィエロアルマを任せられる獣神将軍に任じられ、国境紛争を解決。
だが、その時すでに大公アルウィン様は亡くなられ、あの小さかったカイエン様が女大公に就任していた。
そして。
皇帝サウルの治世十九年目。
彼は、獣神将軍の地位から、女大公カイエンの男妾に落とされた。
彼は目覚めた。
一瞬、そこがどこかわからない。
だが、次の瞬間に理解する。
己の腕の中にある、華奢な体。
彼は、大公宮の奥殿の広い寝台の中で、裸の女大公殿下を抱きしめている。
ああ。
彼女が起きたから、彼も目覚めたのだ。
あの、遠い日の夢から。
彼、ヴァイロンは、彼女、カイエンの首筋に口づけを落とした。
腕の中の小さな体が緊張するのがわかる。
女大公の男妾に落とされて、やっと手に入れたものだ。
アルウィン様。
あの方は恐ろしい方だった。
でも、あの方は約束を守った。
ヴァイロンは満足していた。
他人の誹りなど関係ない。
あの、微笑みたたえる白い庭で。
カイエン様が見た青いハチドリ。
あの瑠璃色のハチドリの鋭いくちばしが、彼の心臓を刺したのだ。
深く深く。
まっすぐに。
カイエン様もアキノ様も何も言わないが、アルウィン様はすでに遠い世界へお一人で旅立ったのだろう。
この世界にカイエン様を残して。
あの白い庭から旅立たれたのだ。
ヴァイロンは新しい時代の朝にいた。
女大公カイエンをこの時代で生かすために。
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