……そして、海の街の娘の叙事詩(エピカ)
彼女の時代は、変革と動乱の時代であった。
彼女の名は、歴史に「ハーマポスタールの女大公カイエン」としてだけ、遺されている。その他の肩書きや名称は残されていない。
その名は後世まで、かの地を守り抜き、新しい時代へとつなげていった人々の渦の中で輝く一つの輝かしい「
そこに生まれた者は特に意識することもないが、パナメリゴ大陸の西端、ハーマポスタールは、今も昔も、おそらくは人の営みが続く限り、「海の街」である。
そこには確かに、どんな時代にも、「海があった」。
ハーマポスタールの女大公カイエンの伝記を初めて歌った吟遊詩人は、かのアル・アアシャーである。
彼の生まれたのはカイエンの死後、六十年あまり後。
海の都ハーマポスタールが夕暮れの時代を迎えて衰え、しかし偉大なる海の街の守護神であった女大公カイエンの名がまだ、「ついこの間まで、そこにいた人物」として、未だ歴史になりきれずに人々の心に残っていた時代。
それはまだ、本物のカイエンの治世を知っている者が生き残っていたぎりぎりの年代である。
カイエンは足が悪く、病弱で、生前から陰では「足萎え《あしなえ》公」とも呼ばれていた。
そして、吟遊詩人アル・アアシャーは、
彼がカイエンに心を寄せたのはそんな理由からかもしれない。
同じように、生来、欠け落ちた肉体を持ち、それをおのれの自然な姿として、他人の前で臆することなく、ありのままに生きていったという部分で、彼ら二人は同じように潔く、そして同じように同時代の人々に愛された。
アル・アアシャーはカイエンの時代の記録を読み、古老に話を聞き、女大公の遺構の残る場所を訪れ、そのすべてをおのれの中に入れて、長く続くタピストリを編んだ。
そして、編み上がった物語を、各地で歌いながら旅を続けた。
パナメリゴ大陸を西へ東へ。北へ南へ。そして、南方のネグリア大陸を越えて。
女大公カイエンの一生を歌い続けた。
喜びを、そして苦悩を。
彼女のすべてだと彼が感じたすべてを。
長い長い
ハーマポスタールのカイエンの伝記は、
「海の街の娘の
カイエンは生来の病弱の割には長生きしたが、アル・アアシャーはあえてその生涯を描く物語の題名に、「娘」という言葉を選んだ。
理由はわからない。
叙事詩の第一部は、それまでの歴史にはなかった、奇妙奇天烈な出来事から始まる。
それは、齢十八のカイエンがその生涯を共にすることとなる一人の男を、彼女の実の伯父である当時の皇帝サウルに強制的に男妾として与えられるという、大変奇妙な場面である。
だが、彼女はそれを受容し、乗り越えた。
彼ら二人の間の絆は、カイエンが生きている間中、途切れることはなかった。
カイエンの人生は混乱に満ちたものとなったが、彼女は常にそれらを乗り越えようと足掻いた結果、その性格通りにまっすぐに、おのれの道を開いたのだ。
この事件から始まる女大公カイエンの人生は、この事件以降、彼女に死が訪れるまで、終始、生涯波乱に満ちたものであった。
彼女は押し寄せてくる歴史の波を恐れつつも、決してそれから顔を背けることはなかった。それだけは確かなことだ。
この叙事詩には多くの人物、皇帝から最下層の男娼まで雑多な人々が登場する。
そして、彼らもまた。
時代と歴史に翻弄されながらも、必死に足掻いて生きていたのだ。
アル・アアシャーは歌う。
王侯から場末の虐げられた人々まで。
彼らの生きたその、時代の息吹を。
女大公カイエンが、生涯をかけて守り抜いた街。
美しきパナメリゴ大陸の西の端の宝石。
彼女の名前の最後を飾る、ハーマポスタールという街を。
そこで生まれてそこで亡くなった、海の街の娘たちの物語を。
……君は決して倒れない
君のその過酷な人生の間ずっと
君は決して諦めない
君のその平凡で、時に非凡なありきたりの人生の間ずっと
君は決して奪われない
君のその孤高の人生の間ずっと
そして
若いままで過ぎ去った時代に残った人たちを
君は決して忘れない
女大公カイエンは、その人生の中で何度も転び、倒れ、打ちのめされ、時代の波に押しつぶされそうになった。だが、彼女はその人生の最後まで、決して諦めたことはなかった。
決して奪われることなく、そして、彼女のそばに在ったすべての物事を、出来事を、そして人々を忘れてしまうこともなかった。
すべてを飲み込んで進んで行く。彼女は大いなる器として、その時代の人々の渦を牽引した。
さあ。
聞くがいい。
この、長い長い物語を。
出来うるならば、アル・アアシャーの、どんなに美しいものにも形容できないとも言われたあの声で。
かの女大公。
この星の歴史に決して忘れられることのない主人公の物語を。
カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタールの人生を。
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