想いは遠く船を曳く

 皇后主催の非公式晩餐会の数日後。

 ハウヤ帝国首都、ハーマポスタールの港を離れようとする、一隻の帆船があった。


 帆船、「ラ・パルマ号」


 遠く南方のネグリア大陸南端を越え、可能ならば西側の未知の海へ乗り出そう、という冒険船団の一隻であった。

 皇帝サウルはこの船団の経費を負担する代わりに、未知の陸地その他を発見した場合にはその所有権をハウヤ帝国に帰す、という秘密の盟約を結んでいた。

 だが、当時の航海技術、また世界情勢から見ても、この船団が無事にハウヤ帝国よりも西側の陸地へ到達する可能性は無きに等しかった。

 大陸の西側には広大な大洋が広がっていたからである。

 それでも、この日、誰に見送られることもなく、密かに出航する船団には活気があった。

 ネグリア大陸に沿って南下すれば、そこから東側へはもう、陸伝いに東の果ての螺旋帝国までの航路が開けている。船団の状況によってはそちらを選べば、貿易による利益が待っているのだ。

 西側への冒険航海に挑むかどうかは、その時に最終決定することが許可されていた。


 ラ・パルマ号は船団の旗艦として出航間際の慌ただしさの中にあった。

 その慌ただしさを背景にして、船の舳先に立たずむ、二人の人影があった。


 一人は、きっちりと灰色の髪をなでつけた、黒衣のどこかの貴族の執事のような服装のそろそろ老境に差し掛かった男。

 もう一人は。

 もう一人は、中肉中背、やや痩せぎす。

 目立つのは変わった色合いの髪の色だ。

 紺色がかった黒い髪。

 それを、首の後ろで束ねた、三十代後半から四十前後に見える、貴族的な繊細な容貌の男だ。

 目立たない白いシャツと黒いズボンに身を包んだ彼を見て、その正体に気がつくものはいないだろう。

 顔色の悪い顔には、いつもほんのりと微笑みが浮かんでいる。

 特徴的な灰色の瞳が、揺れる港の海面を写して、鈍く光っていた。



「どうしても、行かれるのですか」

 執事のような服装の男、この帝都ハーマポスタール大公カイエンの執事、アキノは問うた。

 この日、アキノは妻のサグラチカにも黙って、大公宮を抜け出した。

 呼ばれたのだ。

 彼のかつての主人に。


「行くよ!」

 アキノのかつての主人、前のハーマポスタール大公、アルウィンは微笑みをやめない。

 その容貌は、中年になった今でも、娘のカイエンとそっくりである。ただ、その顔から消えない凍りついた微笑みのみが、この父娘の相違点だ。

 少年のように無邪気に話す彼。

 とっくの昔に、いや、もしかしたら生まれた時から、心のどこかが壊れてしまっている、ひと。

「カイエン様には、何も言われずに旅立たれるのですか」

 アキノは言っても無駄だと百も千も、万も承知していたが、聞かずにはいられなかった。

 それに対する答えは、やっぱり脇にずれたものであった。


「兄上はすごいなあ。みんな、あの人のものになっちゃうね。やっぱり、兄上は皇帝陛下なんだねえ。カイエンは今度、帝都の防衛も任されたんでしょ? とうとう、あの子まで兄さんに取られちゃった」

 そう話す声は、声までが男の声でありながら、カイエンにどこか似通っていた。

 そうだ。

 あまりに似ていたために、この父親は親子たりとも別の人間であるという簡単な事実が遂に自覚できず、今もこうして娘を自分の一部のように話すのであろう。

 カイエンを女帝に、という謀も、兄を排して自分が即位するのは面倒だからと言って言えないこともないのではないか。それともカイエンの母であったアイーシャへの思い入れが少しでも彼にあったのか。

 もっとも彼に近しい側近であった、アルベルト・グスマンが他界した今、もはや、これは余人の知り得ぬことではあったが。



 あの日。

 三年前のあの日。


 皇帝に桔梗館の謀りごとが露見すると知るや、アルウィンは己自身をこの世から消し去る方法を選んだ。

 彼の発病と、病死を証明した典医は、もはやこの世の人ではない。

 実際のもろもろの全てを画策したのは、あのアルベルト・グスマンだ。

 彼は数日前に、自決して鬼籍に入った。

 グスマンの死んでいたのは、カイエンがあのカルロスの遺骸を納めた地下の共同墓地カタコンベの前だった。

 カルロスこと、アルウィンの出自が判明したのち、カイエンの命によって、その遺体は帝都の共同墓地の中では、一番、皇宮や大公宮に近い、そこへ納められた。

 前大公アルウィンの墓地のある、皇家の陵墓へは葬れなかったから。 


 ああ、カルロス。

 アキノにはあの少年のことでも言いたいことはたくさんあった。 

 だが、それを言ってどうなるというのだ。

 この高貴な生まれの、心壊れた、しかしなお魅力的な魔人に!



「カイエンももう一人前になったねえ。この帝都全てがあの子のものになったみたいだものね」

 アルウィンは真っ青な海面の写り込んだ目を子供のように輝かせて、そう言う。

「そうだ! ヴァイロンもよくやったねえ。あの子を褒めてやってよ、アキノ! あの子は僕の言った通りに、ちゃんとカイエンのつがいになったねえ。僕が見込んだ通りのいい子だったなあ」


(それは違う)

 アキノそう思ったが、その言葉を飲み込んだ。

 思えば、アルウィンは大公ではあったが、大公ではなかった。

 彼の頭に、このハウヤ帝国帝都、ハーマポスタールを守るという気持ちがあっただろうか。

 ない。

 彼にあったのは、彼が「愛している」と思い込んでいた人々への、「歪んだ望み」と「要求」だけだ。


「……帝都は守られました。宰相にはサヴォナローラが任じられます」


 あの桔梗館に集められた子供たち。

 それは、将来、カイエンが女帝になった時に彼女を助ける人材として集められた子供たちであったのだが、アキノにはその人選にはあまり深い慮りがあったとは思えなかった。

 だが、アルトゥールは遂にアルウィンのカイエンへの愛情を妬んだままだったが、サヴォナローラとガラの兄弟だけは残った。

 そして、彼らは結果的にカイエンのするべき仕事の助けになれるであろう。

「今は、サヴォナローラって言うのかあ。あの子。ガラのお兄さんだったっけ。名前、なんだっけ? ……フェリ……」

 フェリシモ。

 アストロナータ神官としての出家に際してサヴォナローラが捨てた名前は、フェリシモである。

 ちなみにフェリシモとは幸運の子、弟のガラは特別な子、という意味の名である。

 彼らの親の彼らへの気持ちがわかるというものだ。

 ガラが獣人の血を引きながら成人できたのはそれもあっただろう。


「ひどいね、みんなであの子の味方をして。あの時、私にはだれも力を貸してくれなかったのに」

 アルウィンの言葉は続いたが、もはやアキノの耳には入ってこなかった。

 アキノはただ、思っていた。


 時代が。

 もう、時代がかわったのですよ。


 アキノは、そう言いたかった。


「あの子が女の子だからって、みんな優しくしすぎじゃない」

(殿下、それはちがいます。我らが助けたいと思った方は、あなたのように薄汚れてはおりませんでした)

(それに、蟲の王を体に宿されたカイエン様に我らプエブロ・デ・ロス・フィエロスの血は捧げられるのですから)

 それらの言葉は、アキノの口から発せられることはなかった。

「グスマンは安らかに死ねたかな? いつも私のことを心配して、ずっとそばにいてくれたのに……今度はどうしても付いてこられないって言ったんだよ」

 すでに海の彼方しか見ていないアルウィンの言葉は止まらない。

 グスマンが、彼の隠し子であるカルロスをむざむざ死に追いやった事で自分を許せず自決を選んだ事は、アルウィンには理解されなかった。

 もっとも、長年、アルウィンの一番そばにいたグスマンには、そんなことは自明のことであったろう。

 アルウィンにとって価値があった子供は、自分によく似たカイエン一人だけだったのだから。


 アキノは、これだけは言わなければいけないと思って、持ってきた言葉を舌に載せた。

「殿下、もはやカイエン様にはお関りなきよう」

 あなたの時代はもう、終わっているのですから。

「わかったよ。ぼくはもう、ここへは帰らないしね。あの子も、ぼくも、もう、自由だ」

 歌うような明るい声。

「はい、ここはもうあなた様の帰るところではございません」

 アキノがそう切り捨てても、アルウィンの想いは終わらない。

「……ぼくはあの海の彼方へ行く。そして、もう、戻らない」

「カイエンもいつか自由になれるといいね」


 自由。

 アキノは、彼の前半生の全てを飲み込んで、言った。

「それは、あなた様がもはや、生まれ落ちてきた時に持っておられたすべてを、神々に差し出されたから得られたものでありましょう」

「命さえも……」

 アキノの声は波の音にのまれた。

 もはや、アルウィンに付き従う者は一人もいなくなった。

「アルウィン様は自由です。我々、すべての崇拝者からも自由になられなくてはなりません」

「そうだね」

 アルウィンはちゃんと解っていた。

「僕はきっとすぐに死んじゃうね。新しく生まれてきた僕は、きっとすぐに死んじゃうね」

 それでも行く。

 たった一人の夢を飼い。


「殿下はもう三年前にお亡くなりになっておられます。これで、永のおわかれでございます」

 アキノは、万感の想いを込めて、深く、頭を下げた。

 その言葉がアルウィンには永遠に伝わらないことは、もうとっくにわかっていた。


「さようなら」



「さよなら、……アキノもカイエンも、ああ、それにあの子、ヴァイロンも! 長生きしてね!」


 カイエン、アキノ、それにヴァイロン。

 恐らくはアルウィンにその人生を、その最も身近にいて翻弄された人々。


 アキノは黙って頭を下げ続けた。

 港へ戻り、それから、アルウィンの乗った帆船が、港を出、水平線の向こうへ消えるまで、彼はもう二度と彼の熱愛した主人の行く先を見ようとはしなかった。



 アルウィンのその後は誰も知らない。

 その名前さえ捨て去った、海の街の大公は、歴史の波の中へ沈み、そのまま二度と浮き上がってくることはなかった。






「……アキノ」

 大公の執務室。

 カイエンの呼びかけに、アキノは手を止めてカイエンの方へ顔を上げた。

「はい」

「アキノ、父上は生きておられたのであろう」

 アキノが答えようとすると、カイエンは唇に人差し指を立てて、それを止めた。

「言わなくていい。今までどこにおられたのかは知らないが、すでに遠いどこかへと去られたことは知っている」

 そう言うと、カイエンは、グスマンの残した手紙を火にくべた。

 それは、一葉の恋文のようなもの。

 そこに書かれていたのは、ただ、帆船の名前と、その出航する期日だけだった。

 だが、それは恐らく、彼の死を置き去って、笑って彼方へと去っていくだろう愛人ひとへの想いであったろう。


「愛とは愚かなものだ」


 カイエンは未だ、知らない。

 その愛という名の魔物の本当の姿を。








……空を想い

……海を愛し

たった一人の夢を飼い

波打ちぎわの時を捨て

青い海空だけ抱いて

船を曳いて旅立とう


心の中に、夢幻を病む

それだけでももう浜辺には

あまりに長い間留まっていた

たたずんでなにもしないで

立ち尽くして夢を飼っていただけで

あまりに長く立ち尽くし

いつか行こうと決めていたその立った一歩が踏み出せず

泣きながら水平線をにらみ

ゆく舟影ばかり

見送っていたね


世界に出会い打ち倒されて

ちりぢりの塵に還ろうと

船を曳いて、家の明かりに背を向けて

故郷にさよならを言い遺した

永遠にもう港へは戻りたくなかった

それでよかったから

帰ってきたくなかったから

若さに任せてそれまでのすべてを振り捨てた


子どもの頃から長いこと立ち尽くし

足はもう石になって 

あの伝説になった塩ばしらの女のように

海に答える声がもうなかった

やさしい時代に答える声が、心の中でもう壊れてしまっていた

言葉にならない夢物語、語り疲れて故郷の家を捨てた


誰もが見ていた同じ夢だけを

曳く船に託せ

船を曳け

岸辺を離れ

誰もが見ていた平凡な夢だけを輝かしくも船縁に燈せ

「幸せになりたかったよ」

それだけの光を船に蛍のように輝かせて

泣きながら出航する船よ


海を想う

空を愛す

世界に出会い、打ち倒される

そのためだけに、故郷を離れて船を出す・・・

海をこえてきた 人

かざりたてた 顔

そんな自分になって還って来ても

其の時も今も昔も

幾度も幾度も独りで船を


想いは遠く、船を曳く




    アル・アアシャー  「想いは遠く 船を曳く」

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