時代は変わる

 グスマンが非常線を破って逃亡。

 では、グスマンはスライゴ侯爵アルトゥールの殺害を断念したのだ。

 モラエス男爵の惨殺から、カイエンたちはグスマンがアルトゥールへの復讐をあくまで狙うのではないか、と考えていた。

 それゆえ、カイエンは皇宮に入る前に、新・桔梗館であるアイリス館の捜索と同時に、イリヤたちに帝都から出る街道の全ての要所に検問所を設けさせ、グスマンの捕縛を目指していたのである。

 だが。

 皇帝の内閣大学士が桔梗館の一党であったとなれば、とっくにアルトゥールが今夜逮捕されることも伝わっていただろう。

 カイエンは歯噛みした。

 サヴォナローラの告白は、カイエンにとっても諸刃の剣なのだ。

 彼の告白を皇帝に知らせ、桔梗館でアルウィンが画策していたことが、カイエンを女帝にするという策謀であったと証言されれば、今度は彼女の立場が危うくなるのである。

 皇帝はすでにそこまで全て把握していると見るのが妥当だが、それでもだ。

 カイエンは、じろり、とサヴォナローラを睨み据えた。

「その弟とやらは、何の役に立つ?」

 今の今まで、カイエンの敵方で暗躍していた者ではないか。

(我ら兄弟、これより、ハーマポスタール大公、カイエン殿下に忠誠を尽くします)

 カイエンはサヴォナローラが言ってのけた、この言葉が引っかかっていた。彼らの忠誠は元は父のアルウィンの上にあり、今、兄の方は皇帝に鞍替えしようとしているのだ。

「お前達の忠誠というのは、どうなっている? サヴォナローラ、お前の忠誠は今、皇帝陛下にあるのであろう?」

 サヴォナローラは、落ち着いていた。

「はい。皇帝陛下に抜擢され、内閣大学士に任ぜられた時から、私の第一の忠誠は皇帝陛下にあります」

 第一の。

「忠誠に第一、第二があるのか」

 カイエンの追求にもサヴォナローラは動じない。

「大公殿下。アルウィン様の願いは、今となっては誰のためにもなりません。そして、大公殿下は帝国の重鎮となられる方です。そして、それにはこのハウヤ帝国の安寧が第一」

 サヴォナローラの真っ青な目は狂信者的でさえあった。

 確かに、一人の神官から、皇帝の政治を助ける地位への道を選び取った時に、彼の世界は変貌したのであろう。

「カイエン様、今夜、前大公アルウィン様の時代は完全に終わりました」

 サヴォナローラはカイエンの前にひざまずいた。

 この部屋に彼女が入った時の尊大な態度はどこにもない。

「明日の朝からは、大公、カイエン様の時代が始まります。この帝都ハーマポスタールを守り、そしてハウヤ帝国の安寧の守護神として、存分にお力を振るわれますように」

 守護神。

 カイエンは引っかかった。

「何か誤解していいないか。そなた、私を買い被っているのではないか」

 サヴォナローラは面を上げた。そして、意外な人物の名を挙げた。


「マリアルナ様が」


 その瞬間。

 カイエンは目の前に見た。

 死にゆく無言のマリアルナ。もう何も言わない、生ける屍の。

 そして、あの墓標を。


 ーーはしり去るなにをか得んと人の世にぶちのめされる朝に戻れば。


 カイエンが目の奥で、あの墓標の文字を読むのと同時に、サヴォナローラもあの墓標のことばを口にした。

 まさか。

「あの言葉は、私が詠んだものです」

 カイエンの呆然とした顔を見ながら、サヴォナローラは、そう、言った。

「マリアルナ様のなさりたかったこと、なされるはずだったこと、それを思うと……」

「大公殿下は先日、マリアルナ様の墓参りをされたと聞いております」

 サヴォナローラは語り始めた。

 「マリアルナ様はアストロナータ神殿に帰依なさり、短い時間ではありましたが、奉仕活動を熱心になさっておられました。素晴らしいお方でした。大きな希望を持っておられました。最初はよくある貴族のお嬢様の気まぐれと思いましたが、あの方は違いました」

 サヴォナローラの薄い唇が、マリアルナの名を語るのは、不思議な光景だった。

「あの方は、真摯に社会の歪みを見ておられました。そして、それを少しでも良くするために、ご自分ができることは何かと、常に考えておられました」

 サヴォナローラの冷徹なままの目から、涙がこぼれ落ちた。

「マリアルナ様の口から、カイエン様のお名前を聞きました時の驚き。マリアルナ様は、殿下のお苦しみをご存知でした。アルウィン様のご存知ない、カイエン様の本当の心を、話してくださいました」

 ついに、サヴォナローラはその場に崩れ落ちた。

「マリアルナ様は私の凝り固まった心を開いてくださいました。いいえ、あの方の口からもはや病で命幾ばくもない、その悔しさと嘆きを聞いた時に、真実、私は目が覚めたのです」

 サヴォナローラは、カイエンの青紫の衣装の裾を飾る白いリコリスに口付けた。

「マリアルナ様は聖女でした。……いいえ、そんなわかりやすい言葉では語れません。あの方の心は燃えていました。死を目の前にされた時のあの方の嘆きは、ただの一人の人間の嘆き。私は、そんなものは今までに飽きるほど見てきました。でも、それでもあの方の心の炎は、そんな私をも変えたのです」

 ーーぶちのめされる朝に戻れば。

 人々は皆、毎日を、ぶちのめされながら、生きている。

 だが、それに気がつくには、一人一人のための何かの「事件」が必要なのだ。

「私は幼い時にアルウィン様に出会い、その夢に囚われました。そのまま、神官として漫然と毎日を過ごしていた。そのつまらない毎日を終わらせたのは、マリアルナ様の慟哭でした。生きたいのに、もう生きられない、その儚い命の慟哭です」

 カイエンはもはや言葉も出ない。

「この白いリコリス。あの方の亡くなった九月になれば、あの方の墓標を白いリコリスが飾るでしょう。私はマリアルナ様の魂に誓います。あの方の出来なかったことの幾ばくかでもを引き継いでくださるであろう、大公殿下、カイエン様をお助けすると」

 なんてこった。

 カイエンは呆然としたまま、動けなかった。

 マリアルナの墓標の前で誓ったことを忘れてはいない。

「私にはきっと、やりとげることはできないが」

「できうる限りを尽くして、貴女のしたかったことの中のいくばくかでも実現しよう」

 そう誓ったのは、カイエン自身。

 もはや、戻る道はないのだ。

 カイエンは、今夜、今までの人生のすべてが終わり、夜明けと共に、新しい時代が始まることを確信した。 

「大公殿下! 大公殿下はそこにおられますか」

 その時、皇帝の図書室の外から、何人かの軍靴の音が鳴り響いた。

 とたんに、サヴォナローラの後ろにいた、弟のガラが動いた。

 巨躯に見合わない素早さで、図書室の高窓へ飛び上がり、あっという間に外へ消える。

 見ているカイエンやヴァイロンはなすすべもない。

 カイエンが何か言う前に、図書室の扉の向こうから、皇帝の親衛隊の将校がきびきびとした動きで入室してきた。

 ガラが高窓から出た後だったので、室内にいたのはカイエンとヴァイロン、それにサヴォナローラの三人である。

 将校はサヴォナローラとヴァイロンに会釈すると、カイエンの前にひざまずいた。

「大公殿下、大公軍団軍団長、イリヤボルト・ディアマンテス殿が参られております!」


 ほどなく、親衛隊の将校に案内されて、イリヤがカイエンの前へ現れた。

 顔色は冴えない。

「報告せよ」

 カイエンが額を揉みながら言うと、イリヤは目の前に来て敬礼した。

「報告いたします!」

「この皇宮周辺と大公宮は、大公殿下の精鋭二隊と、軍団『予備役』のおっさんじいさん軍団で囲んでおります。帝都街中は残りの団員で非常線を敷いておりましたが……」

 カイエンはうなずいた。

 ここまでは指示通りである。

 カイエンたちは、皇帝に命ぜられた大公軍団の増員と同時に、すでに退役した軍団員たちにも声をかけていた。体は老いても、軍団員としての経験や知識の豊富な彼らに新しく増員される団員の教育を任せようと思っていたのである。

 彼らを「予備役」と位置づけ、すでに一隊を作っていたことが、この際に幸いした。

 だが、グスマンが逃げたことはもう知っている。それでもカイエンは聞いた。

「アルベルト・グスマンは?」

 イリヤの顔が悔しそうに歪んだ。

「先ほど、皇宮近くの納骨堂カタコンベで、死体を発見いたしました」

 カイエンは意外だった。

 心のどこかで、グスマンは逃げ切ってどこかでやり直すだろうと思っていたからだ。

「……自決か」

「はい」

 イリヤは顔を上げない。

「……これを持っておりました」

 すでにイリヤ自身が調べたのであろう、封の切られた手紙であった。

 宛名は。


 ハーマポスタール大公 カイエン・グロリア・エストレヤ殿下。


 読み下して、カイエンはイリヤの顔をまっすぐに見た。

「終わった……な」

 イリヤもまた、黙ってうなずいた。


 凄まじい夜が明けた。





 八月初旬、皇帝サウルは第一皇女オドザヤを後継者とすべく、皇位継承の典範の改正に着手することを宣言した。

 また、隣国ベアトリア第一王女マグダレーナを第三妾妃として迎えることを公式に発表した。

 また、それと同時に、四十四歳の皇帝は、自らの統治と今後の帝国の政治の改革を宣言し、新しい人事を公表した。



 一。大公カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタールに帝都防衛の軍権を与う。


 一。将軍エミリオ・ザラを帝国陸軍元帥大将軍に任じ、元帥府を与う。


 一。内閣大学士サヴォナローラを、宰相に任じ、宰相府を与う。



 大公軍団は、皇帝の命令で増員した新たな大公軍団員を加え、新たに組織改編をすることとなった。

 なお、非常時の「予備役」による増員も認められた。



「えらいことになりましたねえー」

 配下の人数が倍増してしまった、大公軍団団長は他人事のように言いながら、軍団長の執務室の引越しをしている。

 副長の双子、マリオとヘススが、事実上、今までのイリヤの職務である「治安維持部門」を引き継ぎ、治安維持部隊隊長になったので、彼は今までの執務室を明け渡し、大公宮の表にある大公カイエンの執務室の近くに、新しい執務室をもらったのである。

 職務の内容も、皇宮の宰相府、元帥府との連絡が多くなるであろう。

 新設される「帝都防衛部隊」は事実上の軍隊なので、その頭を誰に任ずるのかが現在、一番の彼の悩みどころである。

 この三つの人事の他に、四つ目として、実はもう一つあったのだが、それは内示の段階で不遜にもその本人によって固辞されたため、実現しなかった。

 四つ目は。


 一。不敬罪にて罷免したヴァイロン・レオン・フィエロの無実を認め、帝国軍フィエロアルマ将軍の地位に戻す。


 というものであったのだが。

 内示を受け、皇帝の御前へ上がった四名のうち、この不遜な男は一人、頑なにそれを固辞し続けた。

 他の三名、カイエン、ザラ将軍、それにサヴォナローラでさえ、驚愕し、考え直すように傍から取りなしたが、ヴァイロンは意志を曲げなかった。


 皇帝サウルは無表情のまま、黙って聞いていたが、最後に、

「では、そなたはそこのハーマポスタール大公の男妾の地位に甘んずることを願うのだな。もはや一生、軍籍に戻る手立てはないぞ」

 と確認し、ヴァイロンが深くうなずくのを見、そして既に用意されていた帝国公式の書類の四つめの条項に自らの手で線を引いて消し、その上に玉璽を押した。

 内示の段階であるから、新たに書き直すこともできたものを、あえて、修正の跡を残したのである。

「もとより、覚悟いたしております」

 ヴァイロンの返答に動揺はなかった。


 



「しかし、驚きましたな」

 カイエンは、皇帝サウルの宣言からしばらくして、大公宮に親しい関係者を集め、私的な食事会を開いた。

 今夜は無礼講という触れ込みで、イリヤとシーヴも末席に連なっている。

 あとは、ミルドラとヘクトルのクリストラ公爵夫妻に、大将軍になったザラ将軍、アキノたち使用人を除けば、あとはカイエンとヴァイロンだけだ。

 暑い夏の盛りで、それは涼しい大きな池のある、大公宮の中庭を望む広間で行われたが、料理が終わり、酒の時間になると、さっそくにザラ将軍がこぼし始めた。

 自分のことだと察したヴァイロンが、居心地悪そうだ。

「そこの大馬鹿者には! 心底、もう、息が止まるほどに驚かされましたわ!」

 これにはカイエンも、クリストラ公爵夫妻も、ついでにイリヤもシーヴも同感である。

「もうどうもしようがないが……本当に、君はそれでいいのかね」

 これはクリストラ公爵ヘクトル。

 ヴァイロンは黙って、頭を下げた。

「カイエンはいいわねえ」

 仏頂面でワインを傾けるカイエンのグラスに自分のグラスをかちん、と合わせて、ミルドラが囁く。

「あなたはこれから、たくさんの男どもを従えていくんでしょうねえ」

 ぶっ!

 カイエンはワインを噴いた。

「伯母様、ご冗談は大概に……」

 だが、ミルドラはにやにやと笑うだけだ。

「あらあ。聞いているわよ。あなたの後宮にもう一人、増えたらしいって」

 げ。

 カイエンは伯母の情報網の凄さを知った。

 あの後。 

 カイエンはすっかり忘れていたのだが、あのサヴォナローラの弟、ガラが大公宮の裏口からうっそりと現れた時には驚いた。

 あの時、皇帝の図書室の高窓から身軽く立ち去った時そのままに、いつの間に大公宮の後宮の、あの最初にヴァイロンが入った部屋に住み込んでいたのである。

 結局、ヴァイロンは毎晩、大公宮の本宮のカイエンの寝室で寝るようになってしまったので、後宮の「青牙の君」の部屋は空き家になっていたのだ。

 女騎士のナランハに発見された時は、大騒ぎになった。

 カイエンはアキノ以下の使用人を総動員し、「帰ってもらえ!」と言ったのだが、当人は「兄が決めたことだから」と動こうとしない。

 なにしろ、ヴァイロンと張る体の持ち主であるから物理的にもどかせることは難題であった。

 宰相府のサヴォナローラに苦情を言ったが、「何かの役に立ちますから」というばかりで、こちらもうなぎのように逃げを打たれた。

 遂には、ヴァイロンとの間で肉弾戦に突入しかねない様相となったので、それ以上の騒ぎを回避すべく、カイエンはとりあえず、ガラを後宮で飼うことにした。

 ヤケクソである。

 ヴァイロンは不満そうだったが、ガラは後宮をねぐらに勝手に誰の目にも触れずに出歩き、誰の迷惑にもならなかったので、どうしようもなかった。

 ガラはこの後も、カイエン側にいたが、遂に表立ってはなんの役職にもつかずに終わる。



 時は、第十八代皇帝サウルの御代、十九年。

 ハウヤ帝国は新しい時代を迎えようとしていた。

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