弾劾

 愛というものは

 彼女にとって 人生の苦しみの源泉であり

 そのからだに纏わりつく情念の蜘蛛の糸であり

 空へ海のむこうへと誘う 世界という名の恋人の声を

 彼女にとどく前に消し去ろうとする厚い壁であり

 生まれた時からその足に絡まった

 いばらの棘だらけの蔓のような

 身から離し得ぬ 血だらけの彼女の影のようなものであった


 愛というものは

 愛から自由になれるものが

 この世に一人もいないから

 愛と言われているのに


 彼女にとっての愛は

 まことそのように辛いものでしかなかった

 いらない愛をそのからだからすべてこそげ落とした時

 彼女自身が その下に まだ残っているか

 彼女はそれに賭けた


 彼女はあの春の嵐の中で決めた

 ただ与えられる愛なんて信じない

 自分で獲得した愛しかいらない と……




       アル・アアシャー  「これ不気味なるは ……ただ人の愛」






 皇帝の発言の後、部屋は静寂に包まれた。

 皇帝はどこまで知っているのか。

 皇帝サウルは、もう一度、第一皇女オドザヤにただした。

「……オドザヤ。 そなたは女帝として、この私の跡を継ぐ気持ちがあるか?」

 皇帝の灰色の目が、まっすぐに第一皇女オドザヤの、母と同じ琥珀色の目を刺した。

「わたくし……わたくしは……」

 カイエンの見るところ、将来の女帝たるための帝王学を今までに受けているとは思えないオドザヤは、かわいそうに、この急な事態に対応できずに目を彷徨わせるばかりだ。

 むごい。

 皇帝も皇后も。

 この二親は何を求めて、娘をこんなに追い詰めるのか。

 娘自身にその準備がないのを知っていて、それをするのか。

 カイエンはここは黙っているべきだ、という心の声ははっきりと聞いていた。それでも、彼女はだまっていられなかった。

 母を同じくする妹だから。

 それがなかったとは言えない。

 だが、それ以上にカイエンの心を憤らせたのは、皇帝と皇后、二人の親の身勝手さだった。

 これが、あなた達の娘に対する気持ちか。

 これが、あなた達が娘に求めることか。

 こんな、勝手なことが……あってはいけないのだ。

「……おやめください」

 カイエンは、怒りのままに皇帝サウルを睨みつけた。

 言わずにはいられなかった。これは未だ未熟な大公である、カイエンの甘さであろう。だが、それがどうしたというのだ!

 この場に他に声をあげられる立場のものがいるか。

「陛下、それは陛下の問題であって、オドザヤ皇女殿下の問題ではございません!」

 カイエンの声が高ぶった瞬間。

 その上に落ちてきたのは、皇帝の叱責ではなかった。

「控えよ! 小娘が、皇帝陛下のお決めになったことに異議を挟むと言うの!?」

 代わりに聞こえたのは、皇后アイーシャの甲高い声であった。

 続いて、憎々しげにカイエンを見る、琥珀色の目が女豹のように光る。

「オドザヤは我が娘! 皇帝陛下の第一皇女である! お前の弟、それも庶子などにはやれぬ!」

 そして、その、決定的な一言が、彼女の口から発せられた。


「えっ!」


 カイエンは意表を突かれた。

 虚を突かれ、とっさには何も言えない。

 恐らくはクリストラ公爵も、その妻ミルドラも、ヴァイロンもザラ将軍もが氷像のように固まった。

(……お前の弟、それも庶子などにはやらぬ)

 では。

 皇后アイーシャは知っていたのだ。

 彼女の最初の夫、前大公アルウィンに隠した息子がいたことを!

 いや。

 カイエンは凄まじい速さで己の思考が走るのを感じた。

 違う。

 グスマン、もしくはアルトゥール達、桔梗館の一党は、アイーシャに囁いたのだ。

 現大公カイエンは、異父妹のオドザヤ皇女に己の弟である、父アルウィンの庶子をめあわせ、それを次の皇帝を冊立しようとしていると!

 彼らは自分たちの目論見を、さも大公カイエンが企んだことのように、皇后へ吹き込んだのだ。

 がたん!

 思わず、カイエンは座っていた椅子から立ち上がった。

 いや、立ち上がろうとしたが、椅子の腕木を掴み損ねてよろけた。それを後ろからヴァイロンの腕ががっしりと支える。

「……なんてことだ」

 頭の上の方から、ヴァイロンの声が聞こえた。

 それはため息のように小さな声で、すぐにカイエンの耳元へ落ちて消えた。

「……皇后陛下!」

 同時に、ヴァイロンの後ろに座っているザラ将軍と、向かいのクリストラ公爵、その隣のミルドラから、ほぼ同時に、皇后を正す声が放たれた。

 その三つの声は、睡蓮の間に響き渡った。

 さすがのアイーシャも、そちらを見る。

 一瞬、カイエン以下の人々の、驚きに見開かれた目が合った。

 そして最終的に、その場の長者として、カイエンの次に身分の高いクリストラ公爵ヘクトルがその場を代表した。

「皇后陛下。そのような世迷いごとを、どちらからお聞きになりましたか」

 低い、落ち着いた声であった。

 ハウヤ帝国東側国境の守りを任される帝国の重鎮の言葉である。

「先代大公アルウィン殿下に庶子の息子があったなど、我らみな、聞いたこともございませぬ!」

 続いて彼がそう言うと、カイエン以下、皆がうなずいた。

 ヘクトルは先ほどまでの穏やかな公爵としての顔が嘘のような、厳しい顔で続ける。

「皇后陛下におかせられましては、なにか、そのような者が存在するという証拠をお持ちでいらっしゃいますか?」

 公爵の問いに、皇后アイーシャは明らかに怯んだ。考えることもせずに叫ぶ。

「……なにを……。スライゴ侯爵! ウェント伯爵! そなたら、答えよ!」

 カイエンは目をつぶった。

 なんと。

 皇后は確たる証拠もなく、彼らごときの言う言葉を信じたのか。

 カイエンは、ゆっくりと、ヴァイロンの腕を掴みながら、振り向いた。

 そこに、スライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵が真っ青な顔で、座っている。立つことさえできずに。アルトゥールの妻のニエベスに至っては、気絶寸前だ。

 カイエンは、ヘクトルに手で合図した。

「公爵、ありがとうございます。では、私から聞こう。スライゴ侯爵、ウェント伯爵、私には弟がいるのですか? 私は知らないが、あなたがたがご存知なら、教えていただこう」

 意地悪な問いとは思ったが、カイエン自らがしなければならない質問であった。

 アルトゥールも、ウェント伯爵も答えられない。

 それはそうだろう。

 どういう行き違いかは知らないが、その「アルウィンの庶子」であったあの少年、カルロスことアルウィンを殺してしまったのは、彼らなのだから。

 直接に彼を殺したモラエス男爵は、もうアルベルト・グスマンの手であの世に送られている。

 答えられるはずもない。

「……では、大公殿下とここにいる元将軍ヴァイロンへのあの残酷な沙汰は、皇后陛下が皇帝陛下の耳に、このことでなにやら囁かれたからなのでしょうか!」

 沈黙するスライゴ侯爵アルトゥールとウェント伯爵の様子を確認し、沈黙に凍りついた部屋の中を、追い詰めるように響くのは、ミルドラの声だ。

「皇帝陛下、陛下はもうすでに全てをご存知なのでありましょう?」

 兄である皇帝をしっかと睨むミルドラの目は、灰色の炎のように燃えている。

 年少ゆえにこの場で憤り、皇帝へたたみ掛けることのできないカイエンの代わりに、ミルドラが兄に迫っていた。

「ですから、我らをここに集めたのでございましょう!」

 ミルドラは皇帝サウルの同じ灰色の目をねめつけながら、続けた。

「いかに!」

「ふ、ふふ……」

 ミルドラの細身の剣のような糾弾への皇帝の答えは含み笑いから始まった。

 聞くなり、ミルドラが何か言おうとするのを、夫のヘクトルが抑える。

 皇帝サウルは堪えきれぬ笑いに口元を覆った。

 隣の皇后がなにか言おうとするのを皇帝の口から漏れた高笑いが抑える。


「ふはははははははは! これは堪らぬ」

 皇帝の笑いは止まらない。

 止まった時、皇帝は言った。

「賢きなるは賢きかな。愚かなるは愚かなるかな」


 そして、決定的な一言。

「第十八代ハウヤ帝国皇帝サウルが申し渡す。余が第一皇女オドザヤは、これより女帝たるに必要な見識をその身をもって学ぶべし。これは勅命である。皇后アイーシャに取り入り、真実でない情報をもたらし、誤った判断をさせた者どもをこの場で罪に問う。追って沙汰を待つべし。大公カイエンは皇后の心を惑わせた者どもの首魁、前大公軍団団長、アルベルト・グスマンを捕縛せよ。その他の人事については、追って沙汰する」

 皇帝の声はやまない。

「……また、余は余の後継者として、第一皇女オドザヤを指名することとする。そのため、速やかに帝国の皇位継承に関する典範を変更する手続きに入る。同時に、帝国の後継をより確固としたものにすべく、ベアトリア王国より王太子の姉、王女マグダレーナを妾妃として迎えるものとする」

 それを聞いて、それまでその場にいたたまれぬというように下を向いていた、ベアトリアの王太子フェリクスが殴られたように顔を上げた。

「えっ! 姉を?」 

 恐らくは彼がお忍びで持ってきた縁談は姉の王女ではなく、彼より若い妹王女の方だったのであろう。

 隣国の王太子もなにも知らされてはいなかったということだ。

 カイエンは心の中で、ベアトリア王国王女マグダレーナの名を心に刻んだ。

 皇帝サウルがこの場で指名するからには、新しい妾妃が彼女でなくてはならない理由があるのだ。

 否やを言わせぬ皇帝の命令とともに、絶句する一同を置いて、皇帝サウルは部屋から華麗に退場しようとした。

 それに、カイエン達はまだ名も知らぬ、この陰惨な晩餐会に末席で参加していたあの褐色の衣のアストロナータの神官が末席から立ち上がって、皇帝に続こうとした。

「!」

 カイエンは、皇帝の後ろから、心の中で慌てつつも、胸を押さえて声が金切り声にならないように自制するのに成功した。

 苦労は買ってでもしろ、とよく言うが、ここ数ヶ月のカイエンの身の上を思えば、それはこういう場面での己の律し方の学習でもあったのかもしれない。

「お待ちください。 皇帝陛下」

 先ほどのミルドラの糾弾の声以上に、その声は大きく部屋に響いた。しかし、声は大きくとも落ち着いた声音だったので、さすがの皇帝もその場に射止められたように静止した。

 体は小さいのに、カイエンの声は低くて大きいので、こういう時にははったりがきく。

 ゆっくりと皇帝と、そしてあの神官が顔半分だけで振り返る。

 カイエンは腹に力を入れ、思い切り不機嫌な顔を作り、二人を「自分でも真っ暗だろうな」と思う灰色の目でねめつけた。

「陛下、先ほどからこの席の末席へと連なるその神官、わたくしはまだご紹介を得ておりません」

 この時、カイエンは褐色のアストロナータ神官の制服を身にまとう、その男の姿形を前よりもはっきりと見ることができた。 

 ゆっくりと、その神官が皇帝を守るように、褐色の弧を描くようにして、完全に彼女の方へと向き直ったからである。

 その顔は彫りが深く、厳しく、真っ青な鮮やかすぎる青の目はそれ自体が発光しているように光っている。ちょっと他には見たことのない鮮やかさだ。

 体は痩せぎすで背が高い。今はアストロナータ神官の筒型の帽子を、濃い灰色の短い髪の上へかぶっているので、余計に高く見えた。中肉中背の皇帝よりも頭一つ以上も高く見える。年齢は三十前後だろう。

「……ほとんどこの皇宮へ、自ら祗候してこないそなたにはまだ紹介もしていなかったか」

 皇帝の応えには皮肉がある。

 この三年。

 大公位を継いだものの、皇帝や皇后への確執と、帝都の治安維持を担う役目を覚えることに忙殺されて、皇宮を避けていた未熟な大公、カイエンへの痛烈な皮肉である。

 カイエンはぐっと来る悔しさをこらえた。

「それは……我が身の至らなさ、今回の件でしかとこの身に受け止めております。今後はそのような不心得のないよう、己を戒めていく所存でございます」

 カイエンが、こちらも嫌味を込めつつも、殊勝に言ってのけると、皇帝はやっとまっすぐにカイエンの顔を見た。

「……我が内閣大学士、サヴォナローラである」

 内閣大学士。

 それは皇帝の秘書官にあたる役職だ。

 神官。それも厳格な修行で知られるアストロナータ神殿の神官がその位に就いた前例は、おそらくあるまい。

 サヴォナローラ。

 神官は宮殿に入った瞬間に俗世を捨てるため、その名前には姓がない。

 恐らくは今、紹介されたサヴォナローラという名も、生まれた家を出家し、神殿に入ってから与えられた名のはずだ。

「ご紹介いただきました。サヴォナローラと申します。大公殿下」

 カイエンの内心は怒りに燃えた灰色の暗い目と、サヴォナローラの青すぎる青の目が、がっき、と合った。

 退場の途中の皇帝に従う彼は、跪きもしない。

「帝都ハーマポスタール大公、カイエン・グロリア・エストレヤである。この度のご活躍には助けられた。また改めて挨拶に参ろう」

 ご活躍。

 皇帝がどの段階から全てをその掌の上に乗せていたのかはまだ不明だが、それにはこの内閣大学士サヴォナローラが大きく関与していたことは確実だ。

 カイエンの皮肉を無表情で受け止め、今度こそ皇帝とその内閣大学士は、睡蓮の間を出て行った。

 呆然とする皇后アイーシャと皇女オドザヤ。

 眉をしかめ、不満げなカイエン以下、ザラ将軍までの顔ぶれが残された。

 そして。

 会場の入り口を開け放って入ってきた皇帝の親衛隊に身柄を抑えられる、スライゴ侯爵夫妻と、ウェント伯爵の叫び。

 それが巻き起こった時、すでに皇帝とアストロナータ神殿の神官であり、いまやその正体の判明した男、皇帝の内閣大学士サヴォナローラの姿は、「睡蓮の間」から消えていたのであった。





「ふーっ」

 カイエンはあっという間に帳のむこうへ消えた皇帝サウルを見送り、ため息をついた。

 女官に半ば引っ張られるようにして、呆然たる面持ちの皇后とオドザヤ皇女が下がっていく。

 オドザヤ皇女は必死に涙をこらえているような顔で、一瞬、カイエンの方を見た。

 だが、腕をとって促す皇后アイーシャと女官には逆らえない。

 カイエンの方も、この急展開の中で、彼女をこれ以上助けることはできなかった。

 結局、皇帝サウルはオドザヤの返答など期待してはいなかったのだ。彼の中で、オドザヤを女帝として立てることは決まっていたのだから!

 それを手助けしていたのが、あの内閣大学士のサヴォナローラだ。

 皇帝の私的な秘書として、すべての情報を掴んでいたのはあの男であろう。

  ともあれ。

 皇帝は土壇場で皇帝らしい判断を下した。

 だが、アルベルト・グスマンの身柄が抑えられるかどうかは……カイエンがこの皇宮へ上がる前にイリヤ達に指示したことが成るかどうかにかかっていた。

 気が抜けたように椅子に崩れ落ちたカイエンは、ふと、気がついた。

 食後の果物と菓子、それに添えられた紅茶の茶器の下に、なにか挟まっている。

 紅茶は、飲もうとしたところで、皇帝の重大発言が始まったために、飲まれることなく冷めている。

 カイエンはそっと、茶器を持ち上げた。

「!」

 茶器の下には薄い、小さな紙片が挟み込まれていた。

 カイエンは周りをそっと見回し、未だ皇帝サウルの一方的な裁定に呆然としながら呆れて立ちすくんでいるクリストラ公爵夫妻とザラ将軍を目に抑えてから、紙片を素早く衣装の中へ隠した。

 ノルマ・コントの考えつくされた衣装には、色や形の素晴らしさだけではなく、ちゃんとこうしたものを隠せる場所も用意されている。

 隣に座って、一部始終を見ているヴァイロンはもちろん勘定しない。

「行くぞ」

 そっと呟くと、カイエンはヴァイロンを従え、「皇后に諫言した者どもの首魁、前大公軍団団長、アルベルト・グスマンを捕縛」するべく出て行く大公を演じながら、この陰惨な晩餐会の会場、「睡蓮の間」を後にした。

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