殺された男


 そいつは死んでいた

 港近くの古い劇場の裏で

 その冷たく、固くなった体に

 せいいっぱいの秘密と陰謀を入れて

 右手に十字弓クロスボウ

 左手に毒針の筒

 せいいっぱい強がった姿で

 そこでただ、死んでいたよ




         アル・アアシャー 「殺された男」より。






 黒衣の男の死骸発見の報は、朝のうちにカイエンの元へ届けられた。

 ここ最近の無理が祟って、昨夜から久しぶりに咳の発作が出ていたカイエンであったが、取るものも取りあえず、現場に急行した。

 カイエンと同じ馬車で到着したのは、護衛のシーヴと、どうしてもついていくと言ったヴァイロンである。

「あ、どーも。朝からありがとうございます、殿下」

 あの火災現場の開港記念劇場の裏である。

 すでに到着し、自ら捜査の指揮をとっていたイリヤが、眠そうな顔を上げた。

 港が近いので、あたりは朝霧に包まれている。現場周辺には縄が張られ、その周りを港関係者や野次馬が取り巻いている。皆、声を潜め、小声で話している。

 カイエンの大公の紋章付きの馬車が到着すると、いったん、人垣は崩れたが、すぐにまた元に戻る。大公殿下自らが検分に来た事件だ。

 これは本日最初の大ニュースとなるだろう。

「発見者は?」

 カイエンが問うと、副官の双子……真ん中分けだからマリオだろう、が一人の老人を連れて出てきた。例の軍団員増員募集係の双子だが、一人はこっちの仕事に駆り出されたらしい。

「この者です。この劇場の管理人です。この開港記念劇場はもうすぐ解体工事に入るのですが、まだ管理人他数名は残って、浮浪のものなどが劇場の中に入らないように見張っているそうで」

 マリオが紹介すると、老人は名前を名乗り、カイエン達に恐る恐ると言った体で頭を下げた。

「ホセと申します。私はもう一人と一日交代でこの劇場の夜警をしておりますが、今朝、起きて裏口を開けたらこのとおりで……」

 老人、ホセが怯えた目で見やる場所に、毛布をかけられた死骸が横たわっていた。

 まさに、劇場の裏口のまん前。

 あの夜、カイエン達が女装したアルトゥールと対峙した場所である。

「昨日、最後にこの場所を見たのは誰だ? ここの夜間の人通りは?」

 カイエンが通り一遍のことを尋ねると、老人の後ろからマリオが答えた。

「昨日の夜、裏口の戸締りを確かめた時にはなんともなかったそうです。ここは夜間は人通りが少ないですが、今、目撃者を探しています」

 カイエンはうなずいた。

「犯行現場はどこだ?」

 無残な死骸の状況はもう聞いていたから、ここではないだろうと思いつつも聞いてみる。

「どこかで殺害して、馬車でここへ運んだものと思われます。ここは石畳ですから、馬車の跡はほとんど残っていません」

 そうだろう。

 カイエンは老人にうなずくと、毛布に包まれた死骸の方へと歩いた。すでに死骸の服装や、所持品も報告を受けているが、確認したかった。

 マリオが老人を部下に任せ、イリヤと共についてきて、死骸の上の毛布を、野次馬から見えない劇場側だけ、そっと持ち上げた。

 「死骸も所持品も動かしていません」

 イリヤが言う。

 黒衣の男はそこに放り出された時のまま、右手に十字弓クロスボウを、左手に毒針の発射筒を持って転がっていた。

 頭を潰され、手ひどい拷問を受けたであろう無残な姿で。

 粘った血の匂いが凄まじいが、腐敗臭がしないだけマシではある。

 こんな時ではあるが、カイエンは前に水屍体の引き上げに立ち会った時のことを思い、自らをなぐさめた。前にイリヤも言っていたが、日にちが経って水面に浮いてきた水屍体の検分ほど辛いものはない。

 だが、こんな酷い殺され方の死骸を見るのは、カイエンには初めてだ。それでも目を背けることもなく、彼女は死骸のそばに屈み込んだ。無言で後ろに控えていたシーヴとヴァイロンもそれにならう。

「……あの夜、あの少年とヴァイロンを射った男らしいな」

 それを知らせるためにわざわざ、十字弓クロスボウと、毒針の発射筒を残し、この場所に遺棄したのであろう。

 顔は腫れ上がり、目は潰されている。

「身元のわかる物は持っていたか」

 この様子なら、持っていてもおかしくはない。

 イリヤは一回取り出して元に戻したらしい、死骸のポケットの財布をそっと取り出してカイエンに見せた。

 爪を剥がれ、骨を折られた左手の指にはまった指輪も指さす。

 財布は艶のある爬虫類のものらしい黒革で、銀の装飾で四隅が飾られた贅沢なものだった。金持ちか貴族の持ち物だ。

 指輪の方は、紋章入り。

 手紙の封蝋をする時に使う、これまた上流階級の者しか持たないデザインと用途のものだ。

 カイエンはふーっとため息をついた。

「誰だ? これは」

 イリヤは財布の中を開けて見せた。

 現金がそのまま残っており、金の他に一枚の手紙らしき紙切れが見える。

 財布をマリオに渡して、イリヤがそれを広げると、短い文言と、サインが見えた。

 カイエンはそれを読んで、やや眉を顰めたが、想定内のことだったらしく、紋章入りの指輪の方を指差した。

 鷲を使った紋章は、高位の貴族のものだ。

「この紋章は?」

 イリヤでなくマリオが答えた。

「現在確認中ですが、その鷲の紋章はウェント伯爵家のものに似ています。分家かもしれませんが」

 カイエンはあの出歯亀伯爵の顔を思い浮かべた。体格は似ているかもしれないが、ウェント伯爵よりはややたくましい。

 それに、ウェント伯爵は黒ひげではなかった。この死んだ男は髪も黒いので、それもウェントとは一致しない。

「このひげは本物だろうな」

 一応、聞いてみると、イリヤが無造作に死骸の腫れあがった顔を覆うひげを引っ張った。ちゃんと顔から生えている。

「髪もひげも染めてません」

 聞いて、カイエンは手紙の方へ目を戻した。

 文面は。

(アイリス館にて夜十時。 A.S)

「ここへおびき出して殺しましたよ、ということだな。A.S、アルトゥール・スライゴか」

 カイエンが言うと、イリヤは首を振った。

「殿下、アイリス館と呼ばれている館がないかどうかはすでに団員を出して調査させています。……この痛めつけられ方、見覚えがありませんか」

 いつもはとぼけているイリヤの顔が真面目なものになっている。その中で、鉄色の目だけが激しい感情を表してぎらぎらしていた。

 カイエンは言われて、もう一度死骸を見た。何度も見直したくはないが。

「拷問を受けてるな」

 イリヤがうなずく。

「これは素人の腕じゃないですよ。殺さないで最後まで全部聞くための拷問です。犯人はこれで正体をこっちに明らかにしたかったんじゃないですかねえ」

 それを聞いて、カイエンにもわかった。

 カイエンは前に自ら望んで、イリヤが行う容疑者の拷問に立ち会ったことがある。

 この時代、容疑が濃厚とあれば、拷問で自供させるのは当たり前のことであった。

 その、拷問の手順と目の前の屍体の状況は完全に一致するものだ。

「……アルベルト・グスマンだな」

 なるほど、この「仕事」はあのアルトゥールには出来そうもない。

「……殿下……」

 低い声と共に、カイエンは背中に労わるようなヴァイロンの手と、シーヴの視線を感じつつ、イリヤの言いたいことを自分が完全に理解していることを告げた。

「敵が仲間割れしたということになるが……」

 そうすると、この十字弓クロスボウの男が殺された理由は何であろう。

 そこで、カイエンの頭に昨日の夕方話した、アルウィンの隠し子疑惑の話が蘇った。

 あの少年、カルロスを殺したのはこの無残に殺されている男の放った矢であろう。この黒衣の男がカルロスを殺してのけたのだ。少なくとも、グスマンはこの死骸を通して、そう言いたいのであろう。だから、十字弓クロスボウと毒針の発射筒を死骸にもたせ、死骸の身元もわざとわかりやすくした。

 ウェント伯爵の身内であろうこの男はアルトゥールのお仲間で、桔梗館のメンバーなのだ。

 そして、カルロスを殺してしまったから、こうしてグスマンに殺されているのだ。

 ああ、カルロスの本名はなんだっけ?

「アルウィン……」

 カイエンはそう呟いて、その恐るべき疑惑に戦慄し、思わず死骸から後退った。

「あ、あの……子……は……」

 あの子はカイエンの何だったのだろう?

 そうだ。

 何だっ「た」のであろうか。

 もう、いないあの子は。

 グスマンが男娼窟から買い取った理由はその本名ゆえではなかった。もっと深い理由があったのかもしれないのだ。

 イリヤも気がついていたらしい。

 カイエンが呟いた言葉を聞いて、ヴァイロンとシーヴにもわかったようだ。

「え? あの子が……?」

 シーヴの目がこぼれそうに見開かれる。

 隠し子云々はわからないが、グスマンが男娼窟から買い取り、アルトゥールが小細工に利用していた少年の本名はアルウィンといい、その子を殺した男がこうしてグスマンに殺されているとすれば。 

 グスマンはすでに妻とともに逃走し、行方知れず。

 もはや元大公軍団軍団長のアルベルト・グスマンとして生きる気がないということだ。

 桔梗館の一派のはかりごとは大きく頓挫したということだろう。



「カルロス、お前はもういらないよ!」


 カイエンの耳に、あの火災の中、黒い馬車に乗って逃げるアルトゥールの残した言葉が蘇った。

「あ!」

 あの少年の正体を、少なくともアルトゥールと死骸となったこの男は知らなかったことになる。

 理由はわからないが、グスマンは少年をアルウィンの隠し子と信じて男娼窟から買い取ったが、仲間にはそれを伝えていなかったという事だろう。

 直接、少年を殺した男はここで死骸になっている。

 そして、グスマンはこの殺人が自分のした事だと、わざと残した証拠で明確に示しているのだ。

 では、アルトゥールはどうなる?

「いかん。アルトゥールが、スライゴ侯爵が殺されるぞ。いやもう……」

 殺されているかもしれん。

 カイエンはイリヤにスライゴ侯爵アルトゥールの居場所の特定を命じた。





 結局、スライゴ侯爵アルトゥールは自分の館にはおらず、皇宮の中の彼の控えの住居に居る事が判明した。

 ハウヤ帝国の大貴族は、皆、自分の領地に城を持ち、帝都ハーマポスタールに自分の館を構えている。地方に領地のある貴族はみな、そうだ。たとえばカイエンの叔母、ミルドラが降嫁したクリストラ公爵家もそうで、国境付近の領地には城塞を持ち、帝都には館を構えている。

 その二つの住居の他にアルウィンの桔梗館のように別宅を持つものも多い。

 その上に、皇帝や皇后、皇女たちの周りに侍る有力貴族となれば、皇宮の中にも控え屋敷を持っている。

 広大な皇宮での行事や仕事の時に控えるためのもので、広くはないが、専属の使用人を置いている貴族も多い。

 もちろん、大公家にも控え屋敷はあるが、前大公のアルウィンは兄である皇帝夫妻との間に溝があったし、カイエンも実母である皇后とは縁が薄かったため、ここ二十年近く、使われた事がなかった。

 アルトゥール夫妻は、カイエンも招待状をもらった、あの皇后主催の晩餐会の用意のため、早くも夫婦揃って皇宮内の屋敷に入っていたのである。

 これは、アルトゥールにとって幸運であった。

 元大公軍団軍団長とはいえ、貴族ではないグスマンは、皇宮へは簡単に入れないからだ。

 だから、アルトゥールはまだ、生きていた。

 グスマンに殺された男の身元も判明していた。

 やはりあのウェント伯爵の身内で、それも長男のウェント伯爵と、アルトゥールの妻であるニエベスの間の兄弟の一人だったのである。

 ウェント伯爵の母は男爵家の跡継ぎで、男爵夫人の称号を持っていたため、そちらを継承しており、モラエス男爵を名乗っていたという。

 あのような状態で殺されていたため、男爵家では病死として皇帝には届けたようだ。もちろん、ニエベスの夫であるアルトゥールは彼の死をすぐさま知ったであろう。

 誰に殺されたのかも、わかっているはずだ。

 こうなってはアルトゥールは安全な皇宮からそうそう出ては来られない。

 他の桔梗館のお仲間も、戦々恐々としているのではないか。

 すでにすべてを失ったに等しいグスマンは、カイエンの命をも狙うであろうか。

 これについてはザラ将軍も交えて話し合いが持たれたが、今までの「積極的に殺しにかかってくるのではない」やり方から見て、その線は薄いという意見が多かった。ただ、油断はできない。

 アルトゥールを囮にしてでも取り押さえるべき、ということで意見は一致した。

 こうなると、カイエンにとっての大問題である、皇帝との間の誤解を解く事への対処も考えられ始めた。

 アルトゥールが皇后に何やら吹き込み、それで皇后が皇帝を動かした。

 それはこの際、間違いないだろう。

 となれば、皇帝に直接訴えるのが一番、早い。

 それは誰もが考える事だ。だが、アルウィンとアイーシャ、皇帝サウルの三角関係から縺れた糸はその子のカイエンにもまとわりついており、カイエンはほとんど皇帝と私的に伯父姪として話したことさえない。

 誰かに間に入ってもらわなければならなかった。

 こうなると、人選は一人に集中する。

 クリストラ公爵とその夫人、元皇女のミルドラである。

 自分から皇帝や皇后との接触を拒んでいたカイエン。

 事こうなってみれば、反省する事しきりではあるが、こればかりは若年のカイエンにはどうしようもない。

 ミルドラに言わせれば、

「私も兄上とはそんなに仲の良い兄妹ではなかったから……」

 ということになるが、夫のクリストラ公爵ヘクトルは帝国の東の国境を守る帝国の重鎮である。数家ある公爵家の中でも家柄は一位二位を争う。

 カイエンは皇后から招待状をもらうとすぐにミルドラに手紙を送り、ミルドラは夫を連れて急いで領地から上京してきた。

 彼女が到着したのは、皇后の晩餐会の直前で、それを知った皇后から、ミルドラへも招待状が来たという。

 自分の館から、大公宮へ駆けつけたミルドラは、さっそくカイエンの居間に通された。

 夫のヘクトル、それにザラ将軍も後から来るという。

「伯母様にはお世話をかけます」

 カイエンが言うと、ミルドラは彼女が土産に持ってきた香り高い紅茶を味わいながら、僅かに微笑んで見せた。

「でも、難しいところよ。いくらアルウィンに隠し子がいて、それが認知されていたとしても……。皇帝陛下は何もご存知ないとして、皇后陛下だってアルウィンの、それも庶子とオドザヤ皇女との縁組なんて、うんというはずがないわ」

 この伯母の意見には、カイエンも賛成である。

 そうなると、グスマン達、桔梗館一党はカイエンを謹慎させて遠ざけ、グスマンが大公軍団を掌握したら、皇帝と一緒に皇后をも廃する気だったのかもしれない。皇后がいなければ、オドザヤ皇女はただの、カイエン以上に世間知らずのお姫様でしかない。どうにでも料理できるだろう。

「しかし……父はそんな事を望んでいたのでしょうか」

 カイエンには今や、アルウィンは謎の存在となってしまっていた。

 自分とそっくりだった父。

 自分を可愛がってくれた父。

 恐らくはアイーシャが去った後、自分を母親のない庶子にしないために、カイエンを皇帝の末妹として認めさせ、自分の後の大公にする事を皇帝に約束させたのであろう、父。

 だが、今やそういうかつての父の肖像はよく見えてこない。

「そうねえ」

 ミルドラは痛ましげにカイエンを見ながらも首を振った。

「あの子が兄に取り替わって皇帝になろうとしてたとは、私も思わないのよねえ。あの子、頭はそれなりに切れたけど……ほら、傭兵ギルドの創設とか。でもあれも、もしかしたらあのグスマンのアイデアだったのかもしれないしねえ。……政治は兄上の方が向いていると思うのよ」

 政治は皇帝サウルの方が向いている。

 それは、カイエンも同意見であった。

 皇帝サウルは宰相をおかずにやってきた今までの治世で、大きな失策はしていない。それどころか、領土を広げさえしている。


 その時、アキノがクリストラ公爵ヘクトルと、ザラ将軍の来訪を告げたため、二人の会話はそこでお仕舞いとなった。


 皇后主催の非公式晩餐会は、もう明後日の夜に迫っていた。

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