秘密の暴露と二人の始まり
ヴァイロンの方は勝手に納得に至っていたようであったが、カイエンの方はと言うと、頭の中は大嵐、という状態であった。
この春からの事件続きで、もう相当にびっくりどっきりには免疫がついてきたと思っていたが、今日のこの騒ぎはまた別だ。
憎っくきスライゴ侯爵には最終的に逃げられ、悔しいと思う間もなく、目の前でヴァイロンがぶっ倒れるわ、獣化しはじめるわ、大公宮へ戻ったと思ったら、アキノはとんでもない話を始めるわ、どうやって元に戻すんだと思っていたら、サグラチカが何やら高そうな宝石の入った箱を持ってくるなり、体がふた回りも膨れ上がり、牙だの鉤爪だのが生えていたヴァイロンは元に戻るわ……。
いや、元に戻ったのは結構だ。
だが、今、元に戻るなり、周りを囲む人々を無視して自分をぎゅうぎゅう抱きしめているこの男。
勝手に盛り上がるなー。
カイエンは不自由な体で生きてきたせいで、我慢強かったが、実のところ我慢が無駄だと悟った瞬間には、潔くキレる方でもあった。ヴァイロンとの関係ではすでに一回、キレるというよりは「もうよく分からないから全部投げ」を一回やっている。
「こら」
カイエンはおのれに纏わりついている巨体の中で、ちょうどいい位置にあったので、ヴァイロンの耳を思い切り引っ張ってやった。ただ引っ張るだけでは甘いと思ったので、爪を立て、やや捻りを効かせてねじってやった。これならさすがにちょっとは痛かろう。
「離せ!」
「周りを見ろ! 一人で盛り上がるな!」
もともと、女性としては低めのカイエンの怒りにまみれた声には、本人はあまり意識していないが、迫力がある。表情も疲れもあってかなり剣呑だ。生来の目つきの悪さが強調されていた。灰色の目が尖っている。
さすがにヴァイロンは顔を上げ、周りを見回し、そこにいたザラ将軍を始めとするみんなが、不自然に視線を逸らして居心地悪そうにしている様を見ると、カイエンに巻きつけていた太い腕をパッと離した。
見れば、やや頰が赤い。少しは分かったか。
カイエンはまだあの父の衣装での扮装のままであった。アルウィンの服は彼女には大きかったので、上着の長めのコートの下にいろいろ着込んでいるので、暑い。
カイエンはおもむろにコートを脱ぎ始めた。その下の何枚かのベストも脱ぐ。
はっとしてサグラチカが後ろからそれを受け取っていく。
今、皆が集まる部屋は大公宮の表、大公カイエンの執務室の奥の居間である。
秘密厳守を必要とする事態に選ばれた場所がそこであった。
「ザラ将軍」
身軽なシャツとズボンだけになり、その上へサグラチカから一番上の上着のコートだけを着せかけられたカイエンは、身振りで皆を居間の椅子やソファに掛けさせると、ザラ将軍の向かい側に座った。
そこに集った人々は以下の十名であった。
カイエン
ザラ将軍
ヴァイロン
イリヤ
シーヴ
アキノ
サグラチカ
それに、ザラ将軍の手下三名。
カイエンとザラ将軍が向かい合うソファの真ん中に座っている。カイエンの横に、カイエンの手を優しく握るようにしてサグラチカ。
後ろにヴァイロンとアキノ。
イリヤとシーヴは脇の椅子にかけた。
ザラ将軍の後ろに、まだ名前を知らない三人の部下が立つ。
「……将軍、そこの三名のお名前を聞いておきましょう」
カイエンが促すと、将軍は顔を後ろへ向け、一人一人紹介した。
「ああ、じゃあこっちから紹介しよう。これはわしの言わば影使いの者どもでな。わしの軍の者ではないからこの秘密も漏れんよ。これがスール、次がエステ、最後のがノルテだ」
そこまで聞いて、その場の皆が同じことを思ったであろう。
「……方角じゃないですか、それ」
さすがのイリヤがすかさす、突っ込んだ。スールは南、エステは東、ノルテは北である。西がいないだけではないか。
「その通り。影使いだからな。本名では呼ばん」
ザラ将軍は平気な顔だ。
影使いとは、将軍の私的な用を秘密に承る組織があるということだ。さすがは帝国随一の戦績を誇る将軍である。
三名ともに中肉中背。
驚くほどに平凡な、特徴のない顔をしている。兄弟ではないようだが、どこか似通った雰囲気だ。
なるほど、これなら誰にも覚えられにくい顔で、影向きといえよう。
「いいでしょう」
カイエンは眉間を指で揉むようにして、顔を上げた。疲れている。もう、夜半をとっくに過ぎた刻限だろう。
「じゃあ、次だな。アキノ、サグラチカ、さっきのあの宝石、あれは何だ」
今日ここではっきりさせておくべきことは朝までにはっきりさせ、次の手を考えねばならなかった。
サグラチカが、ゆっくりと話し始めた。彼らの家の前に捨てられていた赤子のヴァイロンが、唯一持っていたものであること、それを今回のことがあって、ヴァイロンがカイエンに渡したいと言ったこと。それで自分が金座へ持って行き、このような宝飾品に加工したこと。
「では、それが今日、ああ、もう昨日か……の昼に出来上がってきたというのは、偶然なのだな」
カイエンが確かめると、サグラチカは頷いた。
「はい、私どもも、その石にあのような力があるとは知らず……不幸中の幸いでありました」
「アキノ」
今度はザラ将軍が聞く。
「お前たちは、フィロスの毒のことは知っていたが、解毒剤の方は知らなかった、そうだな」
「はい」
「先ほど、お前はすぐにこの石に思い当たったようだが、それはどうしてだ」
アキノはやや言い淀んだ。
「……私の里の伝承を思い出したからです」
「伝承」
「古の獣人国の戦士たちは『鬼納めの石』を身につけているという伝承があり……」
サグラチカがはっと息を飲んだ。きっと彼女も聞いたことがあるのだろう。
「私の里の外れに、石碑の立ち並ぶ獣人国の遺跡があるのですが、その碑いしぶみに石を身につけた獣人の戦士の姿が彫られております。石は彼らの胸元に大きく描かれており、それが彼らにとって特別なものであることもわかりました。ですが、石碑の獣人たちすべてがこの石を身につけているわけではなく……」
アキノは一旦息を吐いた。
「ヴァイロンを拾ったとき、あの碑いしぶみと同じく、こういう石を持たされていたので、これがあの『鬼納めの石』であろうか、と漠然と思っておりました」
「とすると」
ザラ将軍は話をまとめた。
「獣人国のすべてがその石を持っているわけではないというのだな」
「はい。私が里にいた頃に、里で先祖返りの子供が生まれたことがありますが、その者には石などはなく……。『鬼納めの石』は生まれたときに一緒にもたらされるという性質のものではなく、生後に与えられるものではないのかと思われます」
鬼納めの石。
鬼とは獣人の姿を別の言葉で表したのであろうか。獣人国の住人といっても、普段の様子はなにか決まった動物に似ている、というわけではなかったという。 特別に毛深いとか、姿形が動物に似ている、というのではなく、ただ、体が人よりかなり大きく、筋骨が発達していた。
ただ、生まれた時の姿は狼や獅子、熊、犬や猫など特定の獣の子に酷似しており、幼児になると人間の子供と同じ姿になる。だが、思春期を過ぎると再び、人との違いが現れ、その体が他の人よりも明らかに大きくなる。
また、爪や牙が人よりも丈夫で尖っており、夜目が効き、視力も遥か彼方を見通すようなものであったという。
そういう人々を生まれた時の獣の姿に「獣化」させる薬物が「フィロスの毒」。
獣化した時には、
そして、その変化を抑えるには、今は製法も忘れ去られた「解毒剤」と、「鬼納めの石」があったということであろうか。
だが「鬼納め」である、「鬼抑え」でも「鬼戻し」でもない。
「鬼を体の中の、元あった場所に納める」
そういう意味なのであろうか。
「なるほど」
ザラ将軍は核心に触れた。
「では、昨夜ヴァイロンに毒針を射った者は、その『鬼納めの石』をヴァイロンが持っていることを知らなかったかもしれぬ、いや、恐らくは知らなかったと思うべきだな。つまりは奴らはこのヴァイロンが元に戻れないと思っているのかもしれぬということだ」
ザラ将軍の発言に皆はしん、となった。
カイエンを「
カイエンはやっと、話に口を挟む余地を得た。
「ザラ将軍、そもそも、なぜ将軍は昨夜の歌劇に我々を招いたのですか」
カイエンはたずねた。
「将軍はあそこにスライゴ侯爵が来ることをどうして……」
「あなた様も、大公軍団を配置なさっていたではありませんか」
カイエンの問いを将軍は切り返してきた。
カイエンは苦笑して話した。
「……あのような場所に我々を来させるというからには、何かことが起こるのだろうと用心するのは当然でしょう」
「ちょっと調べれば、あの劇場が今度の公演を最後に取り壊されることもわかりましたしね」
今度はイリヤが口を挟んだ。すでにいつものにょろにょろした不遜な態度に戻っている。
ザラ将軍はしばし黙ってから口を開いた。
「今夜の事件は、火災はこの帝都の治安維持に責任をお持ちの大公殿下の責任を問うためでしょう。開港記念祭の夜の歌劇場の火災で人死にでも出れば、大事件ですからな。そして、ヴァイロンの件は……」
将軍は言いにくいのか、唇を湿らせてから続けた。
「春先の男妾の件は大公殿下を精神的に圧迫するためでしょう。今夜のフィロスの毒での獣化でもしもヴァイロンが頭まで獣に変わっていたら……」
皆が息を飲む気配。
「あの場で古の獣が蘇っていたら、一人二人が死ぬぐらいでは収まらなかったでしょうな。お側にいた大公殿下も危なかったのです」
カイエンの頭の中を、あの獣化し、いつも以上に巨大に成長した肉体が、あの牙と鉤爪が、人々を、自分を切り裂き殺戮する様が見えたような気がした。
恐らく、それはそこにいた皆が同じであったのだろう。
それに、ヴァイロンに殺されずにすんだとしても、大公として二つの事件の責任を問われていたら……。
しばらくは、声を出すものさえなかった。
「ふむ」
静寂を破って、ザラ将軍はちらっとアキノの方を見てから、おもむろに口を開いた。
「では、わしの知っておる別のことも話しましょうかな。あのスライゴ達の一派、あれには前の大公がご存命の時から、我々は危惧を持っておりました」
「我々?」
カイエンが聞き返すと、将軍はまたちらりとアキノの方を見た。カイエンもアキノの顔を見やったが、彼は何も言わない。
「わしの産みの母は、そこにいるアキノの里の出身なのです。それで、若い頃から親交がありましてな。同郷の縁というものはなかなかに侮れませんぞ」
「……」
次のザラ将軍の発言に、カイエンは打ちのめされることになる。
「それに、我々、プエブロ・デ・ロス・フィエロス関係者には、『蟲』を持つものが多いのです」
蟲。
カイエンの体内に生まれた時から存在し、その歩行を妨げるほどに影響しているもの。
アキノも蟲を持っている。カイエンのものほど大きくないため、彼はあまり行動を制限されてはいないが。
「まさか……」
ザラ将軍はうなづいた。
「わしにも蟲がおります。もっとも、そこのアキノ同様、小さなものですからこうして将軍などをしておりますが」
「でも、でも……」
カイエンの唇がわなないた。
「私は里の関係者では……」
「それです」
ザラ将軍は我が意を得たり、とばかりに言う。
「殿下がお生まれになった時、わしもアキノもそこのサグラチカも驚きましたぞ。歩行に支障を来すほどの大きさの蟲を持って生まれた方。どこから我々の里の血が入ったのだろうかと!」
「まさか皇家に……?」
ザラ将軍は首を振った。
「ありえませんな。そこで、我々は皇后陛下、当時の大公妃様のご実家を調べました。市の役人の家ですが、今はご両親、ご兄弟がすべて亡くなられております。外戚が全滅しているのは皇家には幸いだったかもしれませんが。数代前に里のものが嫁入りしていることはわかりましたが、それ以上は間もなく次々とご家族が亡くなられたために、調べられませんでした」
「皇后にも蟲が?」
震える声で聞くカイエンに、将軍は落ち着いた声で答えた。
「わかりません。しかし、いたとしても大きな蟲ではないでしょう。至極普通にしておられますし、こうしてお子様も生まれている……」
最後の方は将軍の口の中へ消えていった。おそらく、最後まで言いたくなかったのだ。
「カイエン様」
ザラ将軍は言いたくない言葉を押しやるように、カイエンの方へ、ぐっと体を乗り出した。
「我々はあなた様の誕生を機に結社を作りました。それまで漠然とした関係で市井に混ざって暮らしていた里のもの、蟲を持つものの結社です。名前はありません。つける必要もありませんでしたからな。わしがその時から結社の取りまとめをしております」
将軍は後ろに控える影の者を指差した。
「もちろん、こやつらも結社の者です。そこのイリヤボルトも里の者の縁者でしてな。そこの護衛の騎士どのは違うが、彼はまた別のいわくのある里の出身でしょう」
シーヴは帝国では差別されているある里の出身者である。かの里は名を名乗ることも許されず、シーヴのように仕官がかなう者はごく少数である。
「殿下……」
シーヴは申し訳なさそうに言った。
「私はザラ将軍の推挙で大公軍団に入団したんです」
シーヴ、お前もか!
かなり打ちのめされた思考の中で、カイエンは思い、横目でシーヴを睨みつけた。
「すみません」
ぬう。
では、ここにいる連中はみんな同じ穴の狢なのだ。
「わかりました。将軍以下、ここにいる者達は里の関係者、ということですね」
「その通り」
「結社の目的はなんでしょう」
将軍の目がぎらっと光った。
「殿下の周りに起こるであろう災禍から、殿下をお守りすること」
「はあ?」
カイエンは思わず、変な声を上げてしまった。
「蟲を持っている私が里の関係者になることはわかりましたが、その災禍とはなんのことです? まさか今回の……」
ザラ将軍は曖昧に頷いた。
「それもありますが、根はもっと深いのですよ」
「我々が結社を作ったのは、先代大公アルウィン様の策謀を知ったからでもあるのです」
父の策謀。
カイエンの頭の中に、あの紺色の部屋、桔梗館に集まる人々の映像が蘇った。
「桔梗館……」
「そうです」
「父は、前大公は何を策謀していたのですか」
カイエンの問う声はややかすれて震えていた。
「さあ、それがいまひとつはっきりしないままなのです。我々は皇后陛下のこともありますから、てっきり皇位の簒奪かとも思ったのですが、それにしては集めていた者どもの顔ぶれがね。実際に行動に起こされた事件も無かった。なんにしろ、先代大公殿下が亡くなられましたからな。我々ももう終わったと思っていたのです」
そうだろう。
もう三年も前に父は病死している。
その臨終にはカイエンもアキノ夫妻も立ち会っている。
「ですが、終わってはいなかった。この春の事件が、あの亡霊を呼び戻した。やつらはカイエン様、あなたを貶めようとした。そして、そのために、このヴァイロンを使ったのです。
あやつらは我々を知っているのです。我々の結社の目的を知っている。そして今、挑みかかってきたということは……」
カイエンは思わず、ぶるっと震えた。
「……父の意志がまだ残っていて、やつらが動き出したと?」
死んだ父、アルウィンの遺志を実行しようとしている者がいると?
ザラ将軍は重々しく頷いた。
「そうとしか思えませんからな。……歌劇場の仕掛けは、やつらへの宣戦布告のつもりでした。そして、やつらもそれに乗ってきた」
「だが」
将軍をはじめ、アキノ達の顔も曇った。
「やつらは里のことを思っていたよりも知っているようですな。アキノも私も、先代大公殿下には里のことはお話しなかったのですが……」
では。
父の遺志の実行に、娘の私は邪魔だということなのだろうか。
父もまた、そう思っていたのだろうか。
カイエンは目をつぶり、膝の上へ顔を伏せた。
「……殿下。申し訳もありません。このことは、アキノにはわしから口止めしておりました」
「殿下にはお辛いでしょうが、先代大公殿下は一筋縄ではいかないお人でした。恐らくは殿下を溺愛なさっておられたのは嘘ではありますまい。ですが、その裏でなにか大きなことを目論んでおられた……」
カイエンは泣いてはいなかった。
人前で泣くような可愛げを持っていなかったこともある。
心に渦巻くものは、悲しみよりも憎しみの方が大きかったかもしれない。
この時から、彼女の中で父であるアルウィンの肖像ははっきりと塗り替えられた。
優しいよく似た姿の父親の肖像は、死してなお自分を支配しようとする謎めいた微笑みの一人の男の肖像に描きかえられた。
敵かもしれない者に。
ザラ将軍とその三人の影が朝焼けの中を去って行った後。
カイエンは大公宮の表の執務室から奥殿の自分の居間まで、歩いて戻った。
疲れ切っていたが、抱えようとしたヴァイロンの手を荒々しく払いのけ、彼女は自分の足で歩いた。
痛む足がいっそ心地よかった。
怒りの前では、痛みなど怒りの炎に注ぐ油の役割にしかならない。
今日この日から、彼女の人生は新たに始まった。
この朝から、女大公カイエンが始まったのかもしれなかった。
アキノもサグラチカも下がらせ、一人になりたかったのだが、今や
むかつく。
カイエンはヴァイロンの方を見ようともせず、居間の暖炉へと向かった。
もう六月の初めであるから、火は入っていない。
カイエンはテーブルの上のランプから火を取り、暖炉の中へ放った。なかなか火が起こらなかったが、やがて薪に火が移り、燃え始めた。
カイエンは立ち上がり、それまで着ていたあの、父の紺色の上着を脱いだ。
そして、それを丸めて火にくべた。
一瞬、火が消えたかと思ったが、じわじわと古い布地に火が燃え移る。
燃やしてやる。
カイエンは父の子であった自分を燃やしているのだ、と思った。
ヴァイロンは黙ってカイエンのすることを見ていた。
暖炉の前で燃える父の上着を見つめている横顔は、疲れて憔悴している。
だが。
それなのに、口元には微笑みが浮かんでいる。
何かを嘲笑うように。
ヴァイロンはこの数ヶ月の間に、カイエンの性格をかなり理解してきたと思う。
お姫様らしい我がままもある。
生まれついた体の不自由ゆえの悟りと諦観もあった。
だが、彼女は決められたさだめの中で生きるしかない存在だった。だから、自分の大きさ以上に大きく見せようとしている痛ましさもあった。
振り返って、自分の心の内を見てみる。
そこにもまた、同じような感覚があった。
獣人の血を引く捨て子として拾われ、幸運にも士官学校から将軍にまで上り詰めた。
だが、それとて「さだめられた中での人生」ではなかったか。
その全てを剥ぎ取られて以降。
ヴァイロンもまた、生まれ直したようなものだ。
そして、彼ら二人のこれまでの人生の「限界」を定めていたのは、同じ一人の人物であった。
前大公であるアルウィンだ。
カイエンには父として。
ヴァイロンにはその強力な後ろ盾として。
その「彼」の肖像が崩れていく。
火に焼かれて崩れていくのは、そういうものだ。
「カイエン様」
ヴァイロンは今や揺るぎない小さな背中へ向かって言った。
「なんだ」
返事の声はぶっきらぼうだが、何かを願う響きが混じっている。それが、彼には分かった。
「受け取っていただきたいものがあります」
カイエンが面倒臭そうに振り向いた。
ヴァイロンはそっと、その背中を支えて、立ち上がらせた。
居間のソファに座らせ、自分も隣に座る。
中庭に向いた大きな窓の外では、朝焼けが鮮やかだ。
六月三日が始まろうとしていた。
ヴァイロンは先ほど、立ち去るサグラチカから受け取った、あの黒い箱をそっと開いた。
中には三つの石。
黄金作りの百合の文様。
誓いの百合。
それに囲まれた一対の耳飾りと、指輪。
二人とも、それを見て、何も言うことはなかった。
もはや、一人ではない。
これは、約束。
何に操られたとしても、すでに真実となった出来事。
ヴァイロンはそっとカイエンの手を取り、その右手の薬指に紫の翡翠の指輪をはめた。
白茶けた不健康な肌の色だが、きめの細かい白い手に、鮮やかな紫が映える。
カイエンは、自分からそれまでしていた耳飾りを取った。
思えば、それは父が十五の誕生日に、ああ、父が死ぬ前の最後の誕生日にくれたものであった。
高価で希少な青い金剛石ダイヤモンドであったが、カイエンはもう、それをつけることはないだろうと思った。
その代わりにいま、おのれの耳にヴァイロンの手で、つけられたもの。
それは、きっと彼女の人生に、新しい時代をを連れてくるはずだ。
「ありがとう」
カイエンはそう言って、初めて自分からヴァイロンの唇へ口付けた。
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