フェロスの毒

 揺れる黒い馬車。

 鋼鉄で補強されたそれが疾走する。

 すでに大公軍団の追っ手はついてこない。

 すでに石で舗装された道ではなく、郊外へ向かう乾いた土の道になっている。周りにはうっそうとした森が広がっていた。 

 小貴族や大商の別邸が多く建つ場所である。

 森の中をしばらく走った後、馬車は一軒の瀟洒な邸宅の庭へ入った。石造りの、何の特徴もない小貴族か商人の寮といった趣の屋敷である。窓に明かりは見えるが、それは一階の一つ二つの部屋のみだ。

 馬車から二人の人影が屋敷の前で降りると、馬車の御者は馬車を建物の裏へ回していった。

 二人の影が屋敷の中へ入る。

 一人は銀色の貴婦人……スライゴ侯爵アルトゥールである。もう一人はそれよりは体格のいい黒衣の男で、フードのあるマントで顔は見えない。

 恐らく馬車の中から矢とヴァイロンが受けた白木の毒針を射った男だろう。その手に重量感のある十字弓クロスボウが見える。

「……後の様子は誰が」

 アルトゥールが問うと、黒衣の男が低い声で答えた。

「何人か影を配置してあります。おっつけ報告に戻るでしょう」

「わかった」

 二人は、入り口の小さなホールから廊下を通り、一階の窓に明かりが見えた部屋の一つへ入っていった。使用人らしき姿はない。

 その部屋は人が集まる場所として使われているらしく、入り口の扉は観音開きの木製のものだ。飾りはない。

 その扉を入ると、あまり飾り気のない、応接室のような幾つかの椅子やソファ、テーブルのある部屋である。だが、二人はそこで足を止めず、屋敷の奥へとつながる、もう一つの扉を開けた。

 その奥の部屋にはもう窓がない。

 狭い、従者の控え部屋のような場所で、奥に分厚いカーテンが下がっている。窓がなく、部屋に明かりもないのでカーテンの色はわからない。

 二人は迷うことなくそのカーテンを開く。

 すると、またもう一つの扉。

 だが、その扉はそれまでの屋敷の簡素な様子とは様相を異にしていた。

 一面に彫刻が施されたそれは、重厚で、凝った造りのものだ。

 二人がその扉に手をかけ、押し開けると、中には明かりが灯っていた。


「おかえりなさいませ」

 一人の中年の痩せた男、恐らくはこの屋敷の執事かと思われる男が、明かりを背にして待っていた。

「うん」

 答えるアルトゥールの後ろで扉が閉まる。

 部屋の明かりに見える扉の彫刻は、不思議な絵柄であった。

 天地創造の絵図である。

 このハウヤ帝国の宗教は多神教で、多くの神々が存在する。その中で、天地創造の神とされるアストロナータが世界を創造している場面だ。

 アストロナータは「外世界」の神で、外世界を追放されてこの地に降り立ったことになっている。複雑な意匠の衣服を纏ったアストロナータが、そそり立つ天の山を崩して海を埋め立て、大陸を作っている場面。

 この彫刻のアストロナータは若い男の顔をしている。やや神経質そうな厳しい顔つき。だが、その体格は脆いほどに脆弱だ。

 全体としては、ハウヤ帝国臣民なら、誰もが知っている場面である。

 だが、この彫刻のアストロナータはそれにしても、やや線が細いようだ。

 それを見ることもなく、二人が入った部屋。


 そこは。


 紺色一色の部屋であった!

 あの桔梗館そのままの、紺色の濃淡で彩られた部屋。

 壁紙の桔梗の紋様もそのままに、家具はずべて鈍い金色から、青金、そして明るい赤金へつながる色の意匠で揃えられている。

 アストロナータの彫刻の扉の周りを囲むカーテンもまた紺色。

 部屋は屋敷の中心にあるらしく、窓はない。

 アルトゥールは貴婦人の衣服の襟をくつろげ、苛立たしそうに執事に言った。

「着替えを!」

「用意してございます」

 執事がアルトゥールの背中に回り、ドレスのボタンをはずしてくと、いつの間にか現れた一人の少年、従者であろう、が側に控え、アルトゥールの着替えを手伝った。

 黒衣の男はフードをはねのけ、椅子の一つにかけた。

 今や露わになった顔は、浅黒く厳しい。

 髪は黒く、顔の下半分は黒いまばらな髭に覆われていた。

 彼の眼の前で平気でドレスを脱ぎ、少年従者の持ってきたガウンを羽織ったアルトゥールを黙って見ている。

 やがて。

 豪奢なガウンを纏い、髪を解き、化粧を落としたアルトゥールがソファに気だるげに身を沈めた時、反対側の扉が開いた。

「遅くなりました」

 入ってきたのはあの馬車の御者だ。

 ヴァイロンを思わせる巨躯の持ち主。

 灰色の短く刈られた髪の下の容貌は狼のように厳しく獰猛な感じがする。その中で真っ青な、北方の湖のような眼がぎらぎらと光っている。

「影どもの一人が戻りました」

 男が言うと、アルトゥールは頷いた。

「どうだった」

 彼の美貌は楽しげだ。皮肉な微笑みで唇が歪む。

「ケダモノに戻った元将軍閣下は何人殺したかな」

 ああ。

 彼はあの白木の針に塗られた毒の効果を聞いているのだ。

 獣に戻ったヴァイロンが、あの伸びた牙と爪、ふた回りも大きくなった体で、周囲の人々を引き裂き、なぶり殺す様を期待しているのであろう。

 だが。

 真っ青な眼の男の答えは彼の予想を裏切った。


「一人も。死傷者はゼロだ」


「なに!」

 アルトゥールと、もう一人の黒衣の男は一瞬、驚きのあまり声が出無いようであった。 

「……フェロスの毒針は確かに当たった!」

 気を取り直して、黒衣の男が軋むような声音で叫ぶ。

 彼はヴァイロンの太い首に吸い込まれる毒針を確かに見たのだ。

 真っ青な眼の男はここで着席できる身分ではないらしく、立ったまま、続けた。

 そういう身分の者にしては言葉遣いも口調も荒い。

「……毒は効いていたそうだ。体が獣に戻りかかっていたと。立つことができず、体が盛り上がるようにして変形していたそうだ。

 だが、彼の頭は人間のまま保たれていたようだ。

 彼は誰も傷つけてはおらず、問いかけに答えさえしたそうだ」

 沈黙。

「ヒトの意識を保ったまま、大公宮へ運ばれた」

「ありえない!」

 アルトゥールは呻いた。

「獣人の血を引く者には猛毒のフェロス。それを体内に入れられれば、獣人の血が蘇り、獰猛なケダモノに戻る。……そう言ったのはお前ではないか!」

 アルトゥールは真っ青な眼の男を責めるように声を荒げた。

 銀色の目が相手を殺しそうなほどに尖っている。

 だが、青い眼の男は動じない。

「奴は安定していた。心がもう揺らがないから、毒も心までは入れない」

 男は続けた。

「!?」

 とっさに言葉の意味を掴みかねたアルトゥールは何も言えない。

 真っ青な目の下の唇が動く。 

「すでにつがいとなる者が決まっているからだ」

 それは、断定的な言い様。

つがい?」

 アルトゥールは怪訝そうに美しい銀色の眉を寄せた。

「なんだ、それは」

 答えは何の感情も無い、乾いた声音だった。

「……それは、二人で一人になれる絶対の存在だ。獣人にとっては、これ以上のない、絶対的な存在だ」

 青い眼の男の答えは淀みない。

「一生で一人しか出会えないものだ。出会えば、お互いが滅びるまで連れそう」

 男の声はまっすぐにアルトゥールを刺した。

 アルトゥールは唇を動かそうとしたが、声は出せなかった。

「あなた方は、獣人は獰猛で野蛮な存在だと思っていただろうが、違う。この習性ゆえに獣人どもは滅んだのだ」

 真っ青な眼の男は続けた。

「獣人はつがいを見つければ、安定する。もはや心揺らぐことはない。それに、番つがいとしか積極的に交わろうとはしない。あなたたちとは違うのだ。

 もちろん例外はあるが、それゆえに獣人どもは繁殖力が弱かったのだろうな。だから、滅んだ。彼や俺のような混血が、たまに人間の中に現れる以外は」

 血がほとばしるような言葉が続く。

 ああ、彼は喜んでいるのだ。この事態を。

「あんたたちは、とんでもない化け物を目覚めさせてしまった」

 その声に、アルトゥールは沈黙した。紺色の部屋の中で。天地創造の神の守る部屋の中で。






「ヴァイロン!」

 カイエンはヴァイロンより先に大公宮に戻っていた。

 後からザラ将軍と彼の精鋭、それにイリヤの率いる一部隊と共に運び込まれたヴァイロンは、目立つ事の無いよう、大公宮の奥まで運び込まれた。

 上にかけられた布越しに縛り上げられた巨躯は、その縄を引きちぎらんばかりに盛り上がっている。

 カイエンはアキノとサグラチカ、女騎士達に守られつつも、その場に対していた。

 イリヤとシーヴ以外の軍団員はいない。

 ザラ将軍と精鋭数人が現れた時に、イリヤは他の団員を遠ざけたからだ。

 縛られたヴァイロンを囲むのは総勢、十人にも満たない。

 「ザラ将軍」

 イリヤから渡されたあのハンケチの中身を見るなり、アキノは言った。

「これはフェロスの……毒です。こうした白木の微細な針に毒を塗り、染み込ませて使うので、金属の針よりも多くの量を犠牲者の体内へ送ることができます」

「……お前の里は獣人の国があったすぐ近くであったな」

 ザラ将軍は知っているようだ。

「はい……我らの里はフィエロの里。この毒の知識もあります」

 カイエンは驚いた。

 自分の知らない事がここにもまた新たに。

 では、アキノ夫妻がヴァイロンを拾って育てたことにも何か理由があったのかもしれない。

 カイエンの頭は妙な感じで冷えた。

 冷えた頭の中で様々な可能性が浮かんでは消える。

「この毒は、獣人の血を引く者には禁忌です。獣性を解放する毒なのです。解放されれば、己を失い、一個の興奮した獣に戻ります。そうして周りの者を襲うのです」

 アキノの額に油汗がにじむ。

「ですが……」

「うむ」

 ザラ将軍は布越しにヴァイロンの肩のあたりに手を置いた。

「こやつはまだ、自分があるぞ」

 そうだ。

 蠢動する肉体の中で、ヴァイロンの精神は変わらずにここにある。

 アキノはすでに思い至っていた。

 彼の里は、帝国の北方。昔、獣人国があった地域に位置している。

 プエブロ・デ・ロス・フィエロス。獣たちの村、と呼ばれていた。 

 それゆえに獣人の血を引く子が生まれる事も多かった。

 つがいという絶対的な伴侶を必要とする習性にも詳しかった。

 その習性ゆえに弱体化した獣人国の崩壊の後。

 国を失った彼らを利用しようとした帝国が使った薬剤が、フェロスの毒である。

 帝国は獰猛な獣人の力を軍事利用しようとしたからだ。

 まだ、番に出会っていない若い個体はこの毒で操る事ができた。

 解毒の薬をも使って、帝国はその版図を広げた。

 だが、それも今や昔。

 純血の獣人はすでに滅び、今、残るのはその血を引いた人間の女が偶然のように産む、生殖力のない「騾馬」達のみである。

 ここにいるヴァイロンがそうだ。

 だが、この毒を知っている者が敵方にいるのだ。


 しかし。


 今のヴァイロンは己を失っていない。

 アキノはカイエンを見た。

「殿下!」

 カイエンはあまりのことに声も出ない。

「殿下のおかげでございまする」

 「えっ!?」

 カイエンにはまだわからない。

「こやつは殿下を番つがいと認識していたようです。それゆえにこの毒が頭まで効かないのです。番つがいがすでに定まった者にはフィロスの毒でも己を失うことはありません。古来より、この獣人には番つがいという絶対的な関係があり、それゆえに滅びの道をたどったとも言えるのです」

 つがい!?

 絶対的な関係?

 ザラ将軍、イリヤ、シーヴ、女騎士三名、それに将軍配下の精鋭数人。

 誰もが、

「ええっ」

 と、息を呑んだ。

 今、すごい事を聞いた気がする。

 よくわからないけれども、これ多分、死ぬまで喋れないことだわ。

 と、そこにいた皆が認識した。

「でも、あなた」

 沈黙を破ったのはサグラチカの言葉であった。

「ヴァイロンの体はこんなになってしまいましたわ。これをどうしたら……解毒の薬はもう……」

「ここには無いのか!?」

 恐らくザラ将軍はそれを当てにしてきたのだろう。

 皆がアキノを見た。

 ヴァイロンを元にもどす方法は!?

 アキノはヴァイロンに聞いた。

「そなた、あの石の入った袋を肌身離さず身に付けていたであろう」

 と。

「……はい」

 増殖する筋肉をなんとか理性で押さえつけているヴァイロンの苦しい返答。

「あれをどうした」

 サグラチカはその時以降の自分の行動を覚えていない。

 ヴァイロンの答えを待たず、彼女は無言で走った。

 あの紫の翡翠!

 ヴァイロンが彼ら夫婦の家の前に捨てられていた時、唯一持っていたもの。

 まさかあれが。

 ヴァイロンに頼まれ、カイエンの耳飾りと指輪に加工するためにあの宝飾店に持って行った翡翠。

 なんと。

 あれが、今日の午後、この大公宮に女主人自ら納品されてきていたことを知っていたのは、彼女一人であった。

 あの翡翠はヴァイロンがアキノとサグラチカの家の前に捨てられていた時に唯一、持っていたもの。

 では、あれが。

 あれが、まさか。



 サグラチカがあの紫色の翡翠、それを黄金作りの百合の意匠で加工したものを持って戻った時。

 彼女が豪華な黒い箱を開き、三つの紫の翡翠を取り出し、それをどうしようか、とアキノの方を見た、その瞬間。

 そこに集まった人々は見た。

 その骨格から形を変えて盛り上がり、異常な速さで筋肉をも増強させて暴走しようとしていたヴァイロンの肉体が。

 急速に元に……もとの、獣人の血を引くと一見してわかるほどに巨大な体ながらも、人間の形を保っていた姿に戻っていくのを。

「すげえ」

 イリヤの声がそこにひとつだけ落ちてきた。

「おお」

 ザラ将軍は慌てて、自らが打った縄を解きにかかった。

 アキノは内心、驚いていた。

 実は彼には、解毒剤についての知識は無かった。彼が疑ったのは「あの紫の翡翠自体が解毒剤なのではないか」ということだったのだ。

 だが、答えは違っていた。

 一回使えばもう使えない形の、薬剤としての解毒剤ではなかったのだ。

 ヴァイロンは、自らの周りを囲む人々を見た。

 次いで、己の手を見る、足を見る。

 引き裂かれた衣服に包まれたそれは、長年見慣れた己の体に戻っている。

 そして。


 カイエン。


 呆然とした土気色の顔。

 彼の恋しい大公殿下が見える。

 恋しい?

 彼はその時、初めて認識した。

 あの、夜毎の欲望の真意を。

 体の弱いカイエンを夜毎に求めずにはいられなかったおのれの欲望の真意を。

 この人は私のつがい

 双方が死ぬまで、離れる事はない。

「……!」

 ヴァイロンは腕を伸ばして、呆然としているカイエンの細い体をそっと抱き寄せた。

(この人だったか)

 と。


 ヴァイロンの心はこの事件で定まった。

 もう、迷うことは無い。

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