蘇る黄金獣
スライゴ侯爵アルトゥールの心は高揚していた。
指先だけで捻れると思っていた小娘が、面白い反応を示してきたからだ。
そう、彼にはまだまだ余裕があった。
唇を嘲笑の形に歪め、彼は目の前の「あの人にそっくりな小娘」を罵って見せた。
「なにもご存知ないお姫様にしては、よく手配なされましたな! それにしても大公軍の方々は物好きですねえ」
カイエンは唇を噛み締めて相手を睨み据えた。
もう、父の真似は出来なかった。こういう時に父がどんな顔をしたかなんて知らない。
アルトゥールは、周りに近づく大公軍団の兵士たちに油断なく目を配りながら、劇場の端へ向かってじりじりと進んだ。劇場の裏口の向かいはもう、港に近いのだ。
「大公軍団の増員は滞りなく進んでおられますか。その様子では、そこの元獣人将軍のみならず、軍団長殿も殿下の愛人なのですかな」
ヴァイロンを貶めつつ、もう一人のイリヤをも貶める。
ぎりっ、とカイエンの歯が鳴った。
「言いたいことは、それだけか」
相手が求める返答をあえて返す。
その時。
アルトゥールを囲む大公軍団の一角が崩れた。
真っ黒な渦が突入してきたのだ。
それは真っ黒な馬に引かれた真っ黒な馬車。
馬車の要所が鋼鉄で補強された、軽快な馬車が凄まじい勢いで、カイエンとアルトゥールの間で停止する。
あっと、言う間もない。
父アルウィンに扮していたために杖を持っていなかったカイエンが、危険を感じて後ろに身を引いて倒れるのを、ヴェイロンとイリヤの二人が支えた瞬間に、もうアルトゥールは馬車の御者席に乗り込んでいる。凄まじく体格のいい御者がその猿臂を伸ばして、彼を捉えたのだ。
御者もまた真っ黒なフード付きのマントの中。
カイエンは見なかったが、ヴァイロンはそのフードの中の真っ青な瞳の光を見たような気がした。
「ごきげんよう!」
憎々しい声。
勢いのままに走り去ろうとする馬車から、アルトゥールの声が響く。
「カルロス、お前はもういらないよ!」
弓弦の音。
馬車の窓から矢が放たれたのだ。
「ちっ!」
イリヤは舌打ちして、その時まで身柄を抑えていた少年を引きずり起こした。
少年はもう息をしていない。
少年の心臓に、
あの黒い馬車の中にいた人物が射ったのだ。
証人がいなくなった。
走り去る黒い馬車に、剣や槍で武装した治安軍の歩兵たちではどうしようもない。市内の治安を守る大公軍団には基本的に弓の装備はない。そこを突かれたのだ。
「申し訳ございません」
鉄色の目をぎらぎらと光らせて、いつもはとぼけたイリヤが、歯軋りするような声で言う。
予測していなかった展開ではない。
なのに。どうして自分は犯人を取り逃がしたか。
開港記念祭を最後に建て替えが決まっている劇場。敵がそこに現れれば、火を放つことも予想していた。表から客や劇場関係者を逃せば、犯人は裏口から逃げるとも予想していた。犯人を迎えに来る馬車も。
なのに。
イリヤの配した部下たちは、あの黒い馬車を抑えきれなかったのだ。抑えきれずにここまで侵入を許した。
あの異様な雰囲気を持った御者と、馬車の中の射手が道を切り開いたことは確かだった。恐らくは団員の何人かが負傷していることだろう。
「……俺は相手を甘く見ていたようです」
所詮は柔弱な貴族、そう思っていなかったか。
イリヤはカイエンの前で膝を折った。
「すべて俺の責任です。殿下」
「気にするな」
カイエンはイリヤに向かってそう言いながら、ヴァイロンの腕の中から立ち上がった。
済んだことはもう、しょうがない。失敗した部下を責めてはならない。すべての結果は統率者の責任なのだから。
上に立つものは、常に次の展開に目を向けねばならぬ。これはカイエンが次期大公として受けてきた教育であった。
「成果はあった。まちがいなく、スライゴ侯爵アルトゥールは、この件に絡んでいるし、重要な位置も占めている。それがわかっただけでも、上首尾だ」
イリヤの足元に倒れている少年を見る。
「その子の身元を探れ」
カイエンよりも若い。まだ十四、五の少年だ。カルロス。このハウヤ帝国ではどこにでもあるありふれた名前である。
「ただ死にでは浮かばれまい。軍団の情報局をかけて探せ」
命じるのは簡単だ。
カイエンは思う。
死人を見るのは初めてではない。大公になって三年、治安維持の現場に立ち会えば、殺人事件、傷害事件、あまたの死体を見てきた。
だがこの子は。
さっきまで生きて呼吸していた子供の死体を見るのは初めてだった。
「……かわいそうだ。あんな大人に使われて」
イリヤはそう言うカイエンの表情を見て、思わず目を伏せた。
彼には分かっていた。カイエンは今や大公として多くの部下を使う身ではあるが、恐らくは未だ「あんな大人」達に使い回される子供の一人なのだ。
皇帝、皇后、死せる前大公、そしてあのスライゴ侯爵をはじめとする勢力。
大人たちが、まだ十八の彼女をしたいように動かし、使っている。
その中での自分の居る位置はどこだ。
イリヤにとっても、時代と世界ははっきりとした形で動き始めていた。彼はそれをこの時、はっきりと感じ、自覚した。
「火は消し止めたか」
カイエンは劇場の裏口を見やり、忙しく鎮火に勤しむ部下たちに聞いた。
「はいっ! 観客、劇場関係者の避難を確認。火の収まるのを待って、状況検分に移行いたしますっ!」
ふう。
一応ながら安堵して、額の汗を拭う。
街灯の明かりでなんとなく見れば、汗が青黒い。
カイエンは苦笑した。父に化ける時に髪に振りかけた紺色の髪粉だ。
父、アルウィンの髪の色は変わっていた。紺色がかった黒。
カイエンの髪の色は紫がかった黒で、父の兄である皇帝の髪の色は漆黒であった。先ほどまで一緒だったミルドラ叔母の髪の色はやや緑がかった黒髪だ。
皆が黒っぽい髪の色なのに、並べてみると色味が違っていた。
暗いところでは皆、黒髪なのだが、光が当たった時が違う。
父のこの「紺色」には一体、どんな性格が隠されていたのだろう。
そう、思った時。
カイエンはそばに立つ、ヴァイロンの異常に気がついた。
目の前に真っ黒な馬車が走りこんできた。
ヴァイロンは、とっさに倒れるカイエンをかばって道に倒れこんだ。
イリヤも同時にカイエンを支えたので、三人一緒に馬車を避ける形になった。
馬車が走り去った後。
イリヤとカイエンが立ち上がり、何か話している。
ヴァイロンもまた、立ち上がったが、なにかがおかしい。
イリヤとカイエン、大公軍団の隊員の報告が遠くに聞こえる。
首が痛痒いことに気がついたのはやや時間が経ってからのことだった。首に手をやると、なにか微細なものが刺さっていた。
「!」
そっと刺さっている根本を持って、引き抜く。
白木の棘のような針だった。鋭く研がれた先端になにかどす黒いものが塗られている。
(毒針!)
ヴァイロンは目の前が真っ暗になった。
いくら屈強を誇る獣人の血を引く巨躯とはいえ、毒に対する耐性は普通の人間と同じだ。体が大きい分、毒の回る時間は長くかかるかもしれないが、それだけだ。
これが、あの黒い馬車から放たれたことは疑いの余地がなかった。火を放った少年の息の根を止めた十字弓クロスボウの矢と同時に放たれたのであろう。
(カイエン様!)
自分に背中を向けて部下に指示しているカイエンに当たらなくてよかったと思いつつ、ぐらりと揺れる体。
それでもヴァイロンは懐からハンカチを出し、白木の棘をそっとそれに包んだ。証拠になるであろうから。
「ヴァイロン!?」
カイエンの目の前で、ありえないことが目の前で起こっていた。
あの、獣神将軍が、目の前でその膝を屈して倒れ伏したのだ。
支えることも出来ず、ヴァイロンの巨躯は港通りの石畳に倒れた。イリヤがなにか言いながら倒れたヴァイロンの腕を掴むのが見えた。
いつも冷静なイリヤの顔が尖っている。
ヴァイロンの震える手が、真っ白なハンカチを差し出してくる。
カイエンがそれを受け取ろうとすると、イリヤの腕が乱暴に彼女を押しのけて、それを手にした。
「殿下、離れてください!」
イリヤは普段見せたことのない顔で、カイエンを後ろへ押しやった。
カイエンはよたよたと後ろによろめき、団員の一人に支えられた。
イリヤのややいつもより甲高い命令が聞こえる。
「ロドリゲス、殿下を表の馬車にお連れしろ」
ロドリゲスならカイエンも知っている。部隊長の一人だ。今日の担当になった隊長の一人だ。
「承知!」
カイエンはロドリゲスに半ば抱えられるようにして、劇場の表に止められた大公の馬車に押し込まれた。
すぐに劇場の正面から、護衛のシーヴと女騎士のブランカが駆け寄り、同じ馬車に飛び乗った。
ブランカがカイエンを抱えるようにして席に座らせる。
シーヴにロドリゲスが何か言っている。
その風景を、カイエンは遠いところの風景のように見ていた。
「出して!」
シーヴが馬車の扉を勢いよく閉じるとともに、大公の馬車は走り出した。
馬車の窓にはカーテンが引かれ、カイエンはブランカの腕の中で、やっとこの事態に追いついた。
「シーヴ!」
向かいの席に座り、油断なく周囲に気を配っている護衛の騎士に尋ねる。
「ヴァイロンはどうしたの!?」
声が掠れて、うまく出なかった。
シーヴの端正な若い顔が歪んだ。
「毒針を射たれたようです」
ドクシンヲ ウタレタ ヨウデス。
カイエンはその声を遠く聞いた。
「大丈夫です。ヴァイロン様はイリヤ団長が手当てしています。証拠の毒針も閣下が確保していたそうです」
あの真っ白なハンカチ。
あの中に毒針があったのか。
今になって、イリヤの冷静にして迅速な判断が理解できた。
「大丈夫です。殿下はまず安全な大公宮へお戻りください」
カイエンはシーヴの言葉に従うしかなかった。
ヴァイロンは苦しみは感じなかった。感じていたのは、おのれの肉体が「元に戻る」ような感覚だった。
おのれの骨格が軋んでいる。
軋んで、もっと大きな骨組みに組み換わろうとしているようだった。
体温が異常に上昇していることを感じる。
ビキビキと音がする。
骨も肉も軋んで。
犬歯が伸び、唇を切った。
手足の爪が曲がりながらくねり伸びる。
止めることが出来ない。
私は、どうなるのだろう。
毒をくらったというのに、かえって体の中には力が漲ってくるようだ。
だが、ヴァイロンは本能的に悟っていた。このままではいけない。
自分はこの熱と肉体の変化の勢いに連れて行かれてはいけない。
ヴァイロンは外へ向かって盛り上がり、拡がろうとするおのれの肉体を内側へ必死に押さえ込もうとした。
イリヤは目の前で起こっているヴァイロンの変化に驚きを禁じ得なかった。
毒の苦しみに耐えていると思えた巨躯が、内側から軋みながら盛り上がってきている。
もともと凄まじい量感の筋肉の束が、もりもりと外へ盛り上がってくる。やがて、ヴァイロンの着ている服が背中からばりばりと破れた。
「皆、下がれ!」
イリヤは自分以外の部下を遠くに下がらせ、なおも巨大化しようとするヴァイロンの体を、おのれの纏っていたマントで隠した。
(ヴァイロンは獣人の血を引いている)
まさか。
これがそうなのか。
どうしたらいい?
俺にできる対処は?
なぜだか知らないが、とっくに逃した大公カイエンの顔が浮かんだ。
(落ち着け。見届けるんだ)
「ヴァイロン……大将!」
イリヤはマントの下の増殖する肉塊にむかって叫んだ。
この時から、彼はヴァイロンを「大将」と呼ぶことになる。
「返事をしてください!」
ヴァイロンは増殖する自分を必死で押さえながら、イリヤに答えた。
「……だいじょうぶ、だ。気はしっかりしている……でも、体が……言うことを聞かない……」
イリヤは頭の中でめまぐるしく思考を駆け巡らせた。
このままにはできない。
これは表沙汰にはできない事態だ。
大公宮内で処理しなければならない。
イリヤがそう決めて、顔を上げた時。
目の前に現れたのは。
ザラ将軍。
「困っておるな、イリヤボルト」
将軍は一旦逃げてから戻ってきたらしい。
「ここはまかせろ」
ザラ将軍は連れてきた自分の手下に向かって命令した。
「このマントごと運び出せ!」
屈強の軍人たちが、ヴァイロンの体をマントごと運び出す。
「ヴァイロン」
ザラ将軍は、マントの下へ向かって聞いた。
「縛った方がいいか?」
マントの下から、はっきりとした応えが返ってきた。
「……お願いします」
ザラ将軍は手ずからヴァイロンに繩を打った。
「しばらくの辛抱だ。大公宮でアキノが用意して待っている」
ヴァイロンはおのれの暴走する肉体を抑え込む苦しみの中で、安堵して目を閉じた。
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