銀色の貴婦人

「伯母様」

 気を取り直して、カイエンは聞いた。

「桔梗館のことと、父上の若い頃の所業はわかりましたが、それがどうして今回の事件につながるのです」

 答えはザラ将軍から与えられた。

 だが、それは一見答えと関係ない質問の形を取っていた。

「殿下、今日のこの劇場の警備はどうなっていますかの?」

 カイエンは、思わずヴァイロンと顔を見合わせた。これは、帝都の治安を守る大公への質問であった。

 歌劇はもうすぐ二幕目が終わろうとしているところだ。

「はい、平土間に部下が何人か。それに劇場の周りに二個部隊を待機させています」

 将軍は平土間席を見遣って、幾人かの団員を確認したようだ。

「うむ。あそこで隣のご婦人にちょっかい出しているのはイリヤボルト・ディアマンテスだな。こういう場所にはうってつけだ」

「……将軍」

 カイエンはげんなりした。

 有名人だな、イリヤ。

「なにかな」

「やつら……と言っても、名前は一人しか知りませんが、は私やヴァイロンの命を狙っているわけではありませんね」

 カイエンはあえてあのスライゴ侯爵アルトゥールの名前を伏せた。

「そうだな。それならあんなややこしい人事異動を皇帝陛下に命じさせるよう、し向けたりはすまい」

 人事異動。一将軍を大公の男妾にするのも人事異動なのだろうか。

 前代未聞の椿事だと思っていたのだが。

 カイエンはめげそうになる自分を心の中で、「頑張れえ!」と叱咤しなくてはならなかった。

「目的はなんでしょうか」

 その質問には、ミルドラが答えた。

「カイエン殿下、あなたを利用しようとしているのでしょう」

「利用?」

「この度の男妾……言いにくいわねえ、こんな言葉、口にする時が来ようとはね……の騒ぎは、あなたがこういう攻撃にどんなダメージを受けるか、試したのでは無いかしら」

「それならわざわざヴァイロンを使うことはないのでは……」

「確かヴァイロンは御宅の執事のアキノの縁者でしょう。それをアルウィンが後ろ盾して軍に入れた。それに若くして昇進しすぎている。フィエロアルマが事実上大公の軍隊となるように思えた方がいたんじゃないかしら」

「私が帝国軍のフィエロアルマを私物化するということですか」

「ものぐさなあなたがそんな面倒なことをしそうにないと言うことは、私たちにはわかるけれど、貴族内の力関係からでしか物が見られなかったら、どうかしらね」

 そんなことで。

 そんなことで、火のないところに煙が立ったり火事になったりするわけか。

 あの皇帝陛下があんなことを命じるのか。

「伯母様」

 カイエンは思い切って聞いた。

「伯母様はあの桔梗館にいたものどもの名前をご存知ですか」

「知らないわ」

 ミルドラの答えはそっけない。

 この劇場に呼び出して、親切に過去の事情を教えてくれた伯母だが、元皇女は確信のないことや推測を口にしない嗜みを持っているということだ。

「私は夢で思い出したのですが、その中で、一人だけそこにいた者の名がわかったのです」

「あら、そう」

 カイエンは爆弾をぶつけるように、その名前を伯母に向けて放った。

「アキノによると、それは現スライゴ侯爵アルトゥールだそうですよ」

 ミルドラはしばらく黙っていた。

 ザラ将軍も口をきかない。

「そう……」

 しばらくして、ミルドラはため息をついた。

「……あの方がねえ。そういえば、あの方、先代のスライゴ侯爵の妾腹の息子さんでしたわね。今、お幾つぐらいかしら? 先代のスライゴ侯爵には嫡男がおられなかったとかで、引き取られた方でしたっけ。子供の頃は下町にお育ちで。でも、凄いようにきれいな方ねえ……」

 さすがは貴族社会を泳ぎ渡ってきただけあって、ミルドラ伯母はよく知っていた。社交界とは驚くべきところだ。

 自分の身分と仕事に忙殺され、周りの見えていなかったカイエンなどはまだまだ、甘いということだろう。

 伯母はその上にまだ爆弾を投げつけてきた。

「……あの方、確か皇后陛下のお取り巻きに入っていましたよ」

 皇后陛下のお取り巻き。

 意識的に実母の周辺からなるべく離れていようとしていたカイエンには入って来ようのない情報だった。

 カイエンはうなだれた。

 それではこの度の事態は、自らの不徳の招いた事態ということだ。

 大公として、まるで盲目だった自分が憎い。


 その時。


 自虐的思考の中、ぼんやりと歌劇場の中に目を移したカイエンは、気がついた。

 あの貴婦人がいない。

 平土間の周りにある一段高くなったバルコン席に一人で座っていた婦人。

 やや光沢がある灰色がかった鈍い空色の地味なドレスの貴婦人。

 周りの席はすべて埋まっているのに、彼女だけがいない。

 カイエンの頭に雷が落ちてきた。

「伯母様」

 カイエンはもはや扇で口元を覆うこともせず、カーテンの方へ振り向いて席を立ち、ブランカを押しのけてカーテンを開いて言った。声は自分でも落ち着いていると思ったが、心の中は逸っていた。

「すぐにこの劇場から出てください。将軍、あなたも!」

 それを聞いて、ヴァイロンとブランカもはっとなった。

「……警備の者への合図は?」

 将軍は音もなく席を立ち、ミルドラに手を貸して立ち上がらせながら、短くカイエンに問うた。

「もうしました。さあ、早く!」

 カイエンが口元から扇を外し、席を立つのが合図であった。

 平土間席で、何人かの男たちが静かに席を立った。

 隣の婦人にやたらに話しかけていたイリヤも例外ではない。




 火の手が、劇場の舞台裏の楽屋から上がった。

 それは、裏方の声から始まり、舞台へと伝わり、その頃には観客にも焦げ臭い匂いが届き始めていた。

「なんか焦げ臭くない?」

 という囁きが、どんどん広がって大きくなる。

「火事だあ!」

 その一声は、なぜか観客の中と楽屋裏から同時に聞こえた。

 人々は、一斉に立ち上がった。

 慌てふためく人々がパニックになろうとした時、劇場の扉が次々と開き、外から大公の治安軍団の団員がなだれ込んできた。

「落ち着いてください!」

 大公軍団は帝国の首都を預かる治安警察部隊である。その黒っぽい制服を見ただけで、人々は安堵した。

「落ち着いて、近くの扉から避難してください。火の手は楽屋です。落ち着いて!」

「口元を布で覆ってください! 大丈夫です。火はまだここまで来ていません!」

 まだ炎は見えず、もくもくとした煙だけが入ってきていた段階であったのも幸いし、観客は歩いて近くの扉へ誘導された。

 舞台の上と楽屋へも、団員が走る。

 役者や裏方を叱咤して、火の回っていない観客席の側から避難させる。

 その時にはもちろん、大公カイエンの一行の姿も、ボックス席から消えていた。





 時間はさかのぼる。

 まだ、カイエンがカーテン越しにザラ将軍とミルドラと会談していた頃。

 一人の少年……あのバルコン席の地味なドレスの貴婦人のお付きの少年は、人気の少ない楽屋裏の片隅にいた。

 周りを見て人気がないのを確認すると、衣裳部屋に入り、おもむろに懐から金属の小箱を取り出した。煙草を吸う者が熾火を入れておく特別な箱だ。一緒に小さな瓶も取り出す。

 瓶の中のものを吊るされている衣裳に掛け、箱から慎重に取り出した熾火を、その上へ投げると、たちまち火の手が上がる。

 瓶の中身は灯火に使う強燃性の油であった。 

 少年は、燃え上がる火を確認すると、素早く部屋の外に出た。部屋の扉は閉めない。部屋の外に人気がないのを見て、裏口へ走る。その頃には衣裳部屋の外へ火が飛び出そうとしていた。

 少年が走った裏口には、あの貴婦人が待っていた。

 ああ、あの地味な空色のドレスの貴婦人。

 彼女は少年を見ると、頷き、その背を押しやって、劇場の裏口、それもごみを運び出す一番隅の出口から出した。

 港に近い裏通りの石畳を走り去る少年を見送り、扉を閉ざす。

 振り向いた貴婦人の顔は……。

 扇に覆われぬその顔は蒼白なほどに白く、整っていた。

 銀色の眉の下で、銀色の瞳がぎらぎらと怪しく光っている。

 婦人は踵を返した。

 舞台からは歌声が聞こえる。まだ歌劇は進行中であった。

 銀色の瞳の婦人は、まだ客席が暗いうちに席に戻ろうとしているようであった。まだ衣裳部屋の火の手は悟られていない。今なら客席に戻り、火の手が立ってから他の客に紛れて逃げられると踏んでいるのだった。

 だが。

 彼女が客席へ戻ろうと客席の扉をそっと開いた時、早くも火事を知らせる声が客席と楽屋の両方から上がったのだ。

 次いで、あっという間に客席の扉が開かれ、落ち着いた男の声が避難を促すのが聞こえ始める。

「!」

 その瞬間、彼女は計画が予定通りに進行していない事を知った。

 彼女は被っていた黒っぽい灰色の鬘を引きむしった。その下の本当の髪……青みがかった銀色の髪も小さな髷に結われているのは、別人に化けて逃げる用心をしていたということだ。

 彼女は地味な空色のドレスのスカートにも手をかけた。一番上の一枚をはげば、その下の色は黒に近い銀灰色。

 今や、「銀色の貴婦人」となった彼女は客席に戻ることを諦め、さっき少年を逃したのとは違う劇場関係者の出入りする裏口へ急ぐしかなかった。


 銀色の貴婦人が、裏口から外へ回ろうとしていた頃、劇場内には大公の治安軍団が突入し、観客をどんどん逃していた。

 陣頭指揮を軍団長自らがしているのであるから、無駄が無い。

 火は劇場の裏手だけを残してほとんどが早くに鎮火された。

 そんなことは露知らず、銀色の貴婦人は一目散に裏口へ急いだ。

 本来、裏口から逃げるはずの舞台関係者の姿がないのに気づいても、もう表へ回ることはできない。役者や裏方も、大公の治安軍団の誘導で、客席側から逃がされていたのである。

 火の手の広がるのは早かった。

 劇場の表側は石造りであったが、裏側の楽屋側は木造であったからだ。

 人気がないことに不安を覚えつつも、まだ裏口が燃え上がっていないことを確かめて、貴婦人は外へ出た。あわただしく扉を閉める。

 その時。




「トゥール!」

 劇場の裏口から出ようとした、銀色の貴婦人へ向けて、声がかけられた。

 やや高いテノール。

 黒みがかった灰色のドレスの裾をからげて、今、劇場を出ようとしていた、銀の貴婦人は、その声に、思わず振り返った。

 振り返らずにはいられない何かがその声にあったからだった。

「!」

 目を見張り、足が止まる。

 ぐすぐずと燃えるハーマポスタール開港記念劇場の壁を背に、その人は立っていた。

 明るい紺色に青金とくすんだ銀糸の刺繍の長い上着の襟元に、真っ白なレースの、しかし甘みのない鋭角的なデザインの襟が見える。

 長い紺色がかった黒髪は、首の後ろで夕方の海のような青のリボンで束ねられている。 

 男としてはほっそりとして、背も高くはない。

 白い襟の上にうりざね型の土気色をした青ざめた顔。

 まっすぐに伸びた黒い眉。

 やや切れ長の瞼の下の瞳は灰色。

 白茶けた唇に浮かんでいる微笑は不健康でやや捻じ曲がって見えた。

 顔の中で一番目に付く、灰色の目が病的に光っている。

 それは、不健康で病的な中に、ある種の異常な情熱を秘めた、冷酷なまでに貴族的な顔であった。


「トゥール!」


 その人は再び、銀色の貴婦人をそう呼んだ。

 銀色の貴婦人はとっさに声が出ない。

 その美しい顔へ、笑いを含んだ声が浴びせかけられた。

「なんだよ。おれが呼んでいるのに、無視して行っちまうのか」

 貴族的な唇から漏れるのは、男としては甲高いといってもいい声色なのに、言葉は乱暴で粗野なものだ。

「待てよ、トゥール!」

 その気だるい、投げやりな響き。

 銀色の貴婦人の赤い唇から、恐らくは本人も意識しない言葉が漏れていた。


「……アル……ウィンさま……」


「そうだよ、トゥール!」

 嬉しそうな声。

 あの人にそっくりな声。

 だが。

 違う。

 背景は真っ赤に燃える劇場。

 その非日常な状況に飛び出てきたものに、心乱されてしまったのだ。

 銀色の貴婦人は瞬時に己の失敗を悟り、唇をかみしめた。 

 なんと。

 あの小娘は覚えていたのだ。あの桔梗館でのことを。

 前大公アルウィンだけが、自分を「トゥール」と呼んでいたことを!


「……カ・イ・エン……殿下か」


 カイエン。

 そっくりな華奢な姿。そっくり不健康な顔。そっくり冷酷な微笑み。眉も目も鼻もすべてそっくりな顔立ち。それに声まで!

 それに、あの衣装。

 あれは。

「これね、私の服じゃないんだよ」

 カイエンはもう演技の必要はないとばかりに、普段の声で言った。女としては低い声だが、それでも女の声だ。

「これは父上の服なんだ。見たことがあるんじゃない? やっぱり私には大きいんだけれど、下にいろいろ着込んだらぴったり着られたよ。父上は思っていたよりも痩せていたんだねえ」

 銀色の貴婦人はため息をついた。

「わざわざこの騒ぎの中、着替えられたのですか」

 声が太い。

 そして、今や、彼女の姿形も変わっていた。

 意識的に内へ引いていた体を元の位置に戻したとでも言うように。背の高ささえ変わったように見えた。

 今やそこにいるのは大柄な女だ。

 いや。

 声はもう女でさえない。

「……今夜の出し物はあなたの差し金でしたか」

 実際にはそれを期待していたのは老獪で周到なザラ将軍なのだが。カイエンは、あえて叔母と将軍のことは黙っていた。

「なにせ、『紺』青鬼だからね。誰か引っかからないかと思ったんだ。それに、あなたは私が『父上』と言っても驚かないんだね」

 カイエンはアルトゥールはアルウィンとカイエンが父娘であることを知っているという確信を得ていた。

「まさか、あの桔梗館のことを覚えておられたとは」

 銀色の貴婦人はまっすぐに顔を上げ、カイエンを見た。

 微笑んでいる。


 ……あのこはこわい。


 あの紺色の部屋に居た、銀色の少年の十三年後がそこにいた。

 スライゴ侯爵アルトゥールその人だ。

「あの獣人に抱かれても涼しい顔をなさっておられると、妻から聞いて意外に思っておりましたが、これはまた生意気な」

 美しく化粧された顔があざ笑うように歪む。声もまた、嘲笑の響きを持っている。

 それが、カイエンに向けて大砲のように放たれた。

 カイエンの暗い灰色の目と、アルトゥールの銀色の目がきっかり合った。

「生意気盛りなんだ」

 相手の無礼な言い様に内心、完全にキレた精神状態のカイエンは自分でもびっくりしたことに、ちっとも慌てずに答えることができた。

 こういう土壇場での踏ん張り方は、主にサグラチカに教わったように思う。女ならではの能力だ。それに、今度の騒動で男妾という名の「夫」を持ったことも大きいだろう。

「あの、あんたの使ってた少年も押さえたよ」

 そう言うカイエンの後ろから、夜の火の光の中で鈍い金色に燃え上がって見える赤い髪を頂いた偉丈夫の影が、地面が盛り上がったかのように現れる。顔が炎に照らされて、悪鬼のように赤い。

 そしてもう一人。こちらの影も長身で、炎に照らされた顔の中の鉄色の両目が相手を馬鹿にしたように細められる。

 ヴァイロンとイリヤボルトである。

 イリヤの腕の中には、あのお付きの少年が捕縛されている。

「旦那様……」

 弱々しく主人を呼ぶが、アルトゥールはそちらを見ようともしない。

 二人を横に従え、「完全にナントカの威を借りているな」と自嘲気味に思いつつ、カイエンはヒラヒラと片手を振った。

 ばらばらと大公の軍団、治安部隊の隊員がスライゴ侯爵の後ろを塞いだ。

「カイエン様、私をどうなさいます」

 周りを見回しながらも、アルトゥールの声はもう、落ち着いていた。

「どうしようかなあ」 

 カイエンは言ったが、彼女の余裕はそこまでだった。

 敵もまた手を打っていたからである。

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