大公殿下は激動する世界を抱いて悩む

 燃え上がる季節でした

 あの春の薄闇にいたわたしに、あなたが笑いかけてくれた

 あの春

 あれがわたしたちが出会ったところ


 また、再び会うことのない、あなたとわたしのお別れに

 今年もわたしは出会います

 あなたに出会った、あの春 

 わたしは今、この爛漫の春にいるのに

 あなたはもういない


 あなたの強さにさえ気が付かない わたしはあまりに若すぎて

 生きることの恐ろしさをわかってはいなかった

 ただあなたを守ろうとばかりしていたわたしが

 あなたの微笑みだけを追いかけていたことを

 今になって知っている……


 今は春だというのに 今年もあなたがいない

 行ってしまったまま わたしだけがいつまで春を迎えるのでしょう


 わたしたちは出会ったまま、まだ別れていない 

 そう、今は信じ続けよう

 わたしはまだここにいて、あなたを待っていよう


 あなたの微笑みが、わたしとともに壊れる日まで

 わたしは待っていよう



        アル・アアシャー 「春と修羅」







 女大公カイエンは当惑していた。

 あの、ヴァイロンが男妾として自分の後宮に入った衝撃的な初夜の後のことである。

 あれから早くも数ヶ月の時が経った。

 繰り返そう、カイエンは当惑していた。

 どうしてか。

「自分のもの」になり、「自分の管理下」に入ったはずの当の男妾から求められる、夜毎の行為に当惑していたのである。

 あの初夜の次の日、カイエンは身体中が痛くて動きが取れなかった。普段使わない筋肉を使わされたことが原因だ。

 とにかく、初夜の翌日の夜、カイエンはゆっくり一人で眠れるものと信じて疑わなかった。

 アキノもサグラチカも労ってくれたし、彼女としては「お勤めは終わった」という気分だったのだ。

 だが。

 寝る支度を手伝ってくれたサグラチカはこう言ったのだ。

「これからは毎晩、ヴァイロンが殿下のお側に侍ります。間もなく、殿下の後宮を守ります女騎士も参りますが、殿下が他に男君をお入れになるまでは彼の者が殿下のお休みを守ります」

 そう言い切る顔は、反論を許さない「乳母という名の実母以上」の存在の顔だ。

 カイエンは彼女を置いて去った実母なき後、事実上サグラチカに育てられた。その言う事は絶対なのだ。貴族社会では実母よりも乳母が育てた子に対して大きな影響力を持つ事は普通であった。


「そうか」


 カイエンは、他の貴族の若君や姫君と同じく、乳母の言葉に素直に頷くしかなかった。

 そして。

 サグラチカに送り届けられた寝室。自分の、一昨日まで一人で眠っていた寝台の上で、居心地悪そうに待っている男の前に放り出されたのである。

 ヴァイロンはカイエンが「そうか」の一言で納得した事に驚いていたのだが、カイエンの方も自分の意思で「そうか」と言ったわけではなかった。

「えーと」

 カイエンはなんと言っていいかも分からず、ぽりぽりと頭をかいた。手にあまる事態は未だ進行中なのであった。

 だがだがだが。

 このひ弱だが足が不自由なまま様々な苦難や陰口に耐えて育ち、他の姫君と違って、次期大公として男並みに育てられた女大公と、獣人の血を厭われて赤ん坊の時に捨てられ、大公家の執事夫妻の養子として育ち、士官学校から将軍位まで上り詰めたのに、今や女大公の男妾、が二人きりになると、主導権を握るのは男妾の方であるようだった。

 カイエンは後々まで、ヴァイロンの「昼間と夜の違い」に翻弄された。

 昼間のヴァイロンはその謹厳実直な性格そのままに大公に仕え続けたのだが、夜の生活の方はかなり趣が違っていた。

 それは、この夜に始まったと言っていい。

「えっ!」

「えーと」、からカイエンは驚愕の「えっ!」へと一気に吹っ飛ばされた。

 ヴァイロンのでかい手で、自分の手を掴まれたな、と認識した時にはもう、男の広大な胸の中に引きずり込まれている。

「えええええええええ!」

 悲鳴ともなんともつかない自分でも悲惨な声が聞こえる。

 初夜の時と同じだ。

 気がつけば、厚い筋肉の壁に四方を塞がれて動けなくなっていた。

 頬と頬が触れたな、と感じた時にはもう唇を奪われている。

 しかも、変な声をあげたせいで唇からあっというまに歯を、舌を、口腔を奪われてしまう。

「うぅーん、うっ……」

 呻いているうちに、もう体は寝台の上に倒されてしまった。背中にはちゃんと太い腕が回されていて、衝撃はないが、それでも昨日の今日だ、体が軋んで悲鳴をあげた。

 これは、なんとか言わなくては。

 相手の顔に両手を当てて、力一杯引き剥がした。

「ちょっと! なんなの!?」

 口の側から二人分の唾液が垂れる。こんな事態は、二日前には想像もしなかった事態だ。

 荒い息をつきながら、目の前の翠色の目をにらむ。

「!」

 とたんに、カイエンはひるんだ。

 そこにあったのは、獲物をがっつりと捕まえて、これから腹一杯喰おうとしている獅子の目だ。

 怖すぎる。

 こんな野獣を敵に回して戦っていた他国の将兵は立派だ。

 昨日の夜はこんな目をしていなかったと思うのだが。

 だがしかし。

 ここで譲ってはいけないと本能が言っていた。

「昨日の今日で! 体が痛いんだってば!」

 これは、精一杯の訴えなのだ。

 そう言ったら、自分でもびっくりしたことに、目から涙が噴き出してきた。なんなのだこの涙は。恐怖からか、憤りからか。カイエン自身にも分からない涙だ。

「なんで、こんなことするのよぅ……」

 次の自分の台詞にカイエンはぞーっとした。なんだこのその辺の女の子仕様な台詞は。なんで自分がこんな言葉をこんな声で言わねばならんのだ!

 やっぱり憤りの涙だった、と思いながら、続ける。

「私を恨むのはわかる。わかるよ。今の私にはどうこうする力がまだないけど、きっと元の地位に戻すから! だからちょっと待っててくれっ!」

 おお。

 今度はちょっとはましに言えた。

 ちょっとだけほっとしたカイエンの耳に、ヴァイロンの低い声が聞こえてきた。

「……違います」

 同時に、左手がヴァイロンの顔から剥がされて、その手の甲に口づけされた。


「私は、ただ……あなたが欲しくて仕方がないだけです」


 獲物を貪り食う前の獣の顔での断言だ。

 今までの人生で聞いたことのない言葉を、聞いたことのない声音で言われ、カイエンの背筋にぞくぞくっとしたものが走った。 

「あなたは何も悪くない。私はあなたを守りたい。あなたはあまりに弱々しくて……ずっとこの腕の中に抱いていたいと思う」


 絶句。


 可哀想なことであったが、十八のこの歳まで次期大公として、大公として「男並み」にと期待され、自らも不自由な体ながらも「そうでありたい」と思ってきたカイエン。

 彼女には、年頃の娘らしい思考の道筋が作られていなかった。

 一人の男に、好きだ、守りたい、一緒にいてくれ、と言われて素直に「うれしい」と思い、身を寄せるような道筋が。

 彼女の頭をこの時通り過ぎた思考は、無残なものだった。


 ……そんなこと、ありえない。



 私のような者にそんなことが起きるはずがない。

 彼女には絶対的に自分を肯定する部分が欠けていた。

 お姫さま育ちの割に、自分を正当に評価していたとも言えるのだが、なにせ彼女は生まれたその瞬間から、足が悪く、体も弱かった。お姫さま育ちの耳へも様々な陰口は容赦なく聞こえてきた。子どもの頃は父のいない場所では他の貴族の子らからひどい言葉を投げつけられたこともある。転ばされて立ち上がれず、地面に強く顔を打ち付けて気を失いそうになったことも。

 少女になって杖をついて歩けば、憐憫の眼差しが送られて来た。

 憐憫の目は彼女を見下げる目で、決して助けようとする目ではない。

 それに、カイエンは決して不美人ではないが、周りの貴族社会の令たちの華やかさを見れば、おのれの不健康な情けない姿はただため息をつくしかないものとなった。


 十五で大公になってから、そういう萎縮した気持ちは少し影を潜めた。

 なにしろ帝国の首都を守る大公殿下になったのだ。

 人々はカイエンを一人の少女としてではなく、大公殿下として見るようになったからだ。

 若輩ながらもこの国の支配者の一人として社会に立ち向かうのは辛いことではあったが、権威は生まれ持ってきた不自由な体を隠すだけの力があった。

 しかし、カイエンという一人の女の中での己への評価は変わっていない。


 ……そんなことは、ありえない。


 心の中にときめく気持ちは確かにあった。

 だが、それを無残に踏み潰した思考。

 それは、あの人たちの顔をしていた。自分をこの世に連れてきた人たち。

 自分を捨てたあの女と……。

「すまないが、信じられない」 

 カイエンは、血を吐くような嫌な声で言い、不信に濁った灰色の目で彼女の男の翠色の目を見やった。

 掴まれていた左手を振りほどく。

「……そんなことは、ありえない」

 言い終わると、目をつぶり、もう何も見ようとはしなかった。

 カイエンは投げた。

 つまりはヴァイロンの向けて来た感情から逃げたのだ。



 生まれてすぐに母親に捨てられたカイエンにとって、愛情とは無償のものではなかった。アキノやサグラチカのそれも、自分が大公であるから与えられたものだという思いが確かにあった。

 父のアルウィンの優しさも、「この不憫な子」という枠の中のものではなかったか。

 疑ってはいけないと思いつつも、彼女には確固として大地に立ち、世界に向かい合うにはなにかが決定的に足りなかった。 

 この時点では、生来足が不自由で痛みを感じることにも慣れていた彼女にとって、「愛情」も「苦痛」も、受け止められる限界まで耐えられるだけは耐え、無理なら歯噛みしながら放り出すしかないものであったのだ。

 ヴァイロンは親に捨てられたことはカイエンと共通していたし、彼の場合には獣人の血を引くものとして言われのない差別を受けた。それを周囲の応援と助けではねのけ、一人の人として立ち、将軍にまでなった。

 彼にとっても愛情というものは複雑なものではあったが、彼には仲間がいた。

 今は引き裂かれ、彼らの元に戻れる日が来るかわからないが、自分で勝ち取ってきた人々との繋がりがあったのだ。

 それに、彼の精神は差別される対象であったとはいえ、その健全すぎる巨大な躰の中に収められていた。

 ヴァイロンには、カイエンにはないある種の「余裕」があった。

 生死を決する戦場で鍛えた「現実」と「真実」を認める心があった。

 彼の目の前でもうすべてから自分を閉ざしたカイエンは、あまりにも弱く、脆かった。

 だが、弱くて脆いだけであったら、彼は少しでも心惹かれたであろうか。

 これは、ヴァイロンにもわからないことだった。

「あなたが欲しくて仕方が無いだけ」

 これは、彼の精神の言葉というよりは、肉体の言葉であった。

 おのれの振るう大剣の下で息絶える人々の肉体を、日常的にその肉体で感じ取ってきた人間の言葉であった。

 おのれの命じる命令のもとで、死に追いやられる人々の叫びや呻き声を聞き続けた脳が紡いだ言葉であった。

 真っ赤に血塗られた戦場で凱歌を上げ、その陰で死神の囁きを聞き続けた者の言葉であった。

 そういう肉体が、昨夜、その腕で抱いて傷つけた相手の肉体に対して覚えた感情であった。

 傷つけたことに対する申し訳なさから始まった気持ちだったのかも知れないが、今、彼女の肉体を求める、おのれの肉体の欲求、欲望には間違いはない。

 彼の方には確信があった。


 

 ヴァイロンは、閉ざされたカイエンの瞼に口付けた。

 彼女が容易に心を開かないであろうことはわかっていた。

 そう、それでも。

 この日から、ヴァイロンはカイエンの体を求め続けた。

 カイエンが彼の欲望に反応しない日、彼の相手を出来ない日も、その哀れで頑なな体を離そうとはしなかった。 



 そして、それから。

 カイエンは毎日、男妾からねだられ、彼女の中から何かを持っていかれることになる。

 彼女の場合にはモノではないが。

 世の男どもは寵愛する女どもに、こうやってやんわりと支配されているのだろうか、などと彼女は考えたりもする。

 世俗の欲の無い健気な愛人もまた、こうやってその主人から目に見えない様々なものを奪い取っていっているのだろうか。

 そんな自覚はないままに。


 おかしいな。

 私は女大公ではあるが、それを取り除ければその辺の女たちと同じ女なのにな。

 なんとなく、違う気がする。

 いや、同じなのか。

 自分もまた、彼から何かねだり取っているのだろうか。

 多分、そうなのだろう。

 だからきっと、なかなか離れられないのだ。



 女大公カイエンの世界は、早くも十八歳の年から激動期に入った。

 この時から、彼女の世界は激動する世界となり、それは小康期を挟みつつも、彼女の死まで続くのである。

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