紺青鬼の棲家 2

 前大公アルウィンは三年前の秋に亡くなった。死因は病死である。

 アルウィンは中背、どちらかといえば小柄な男で、痩せぎすであった。それまで大きな病気といえば子供の頃、一度肝炎を患った事があったが、それも完治し大人になってからは風邪で寝付く事が数度あったぐらいであった。

 それが、三年前、三十八歳の夏に体調を崩した。

 その年の夏は暑かったため、当初は暑気あたりと言われていたが、喉の渇き、体のむくみが治らず、尿の量が増えた。医師は消渇しょうかつではないかと言い始めた。

 消渇しょうかつとは糖尿病の事で、奢侈を好む貴族にはまま見られる病気である。

 アルウィンは下戸で、酒を一滴も飲めない体質であったが、確かに甘いものには目がなかった。それに、偏食で食は細かった。子供の頃に肝炎を患ったという事で、医師はそっちの方面も調べ、薬を調合し、食事の指導もしたが症状は好転ぜず、床についたまま秋も深くなった日。

 アルウィンは小用に立った後、急に高熱を発し、意識がもうろうとなった。すぐに医師が呼ばれたが、患者はすでに意識がなく、高熱に喘ぎ、なすすべもなかった。医師は対症療法としていくつかの注射と投薬をしたが、翌朝、息を引き取った。

 この時代、死は人々にとって身近なものであり、病気で亡くなる時には多くが意識を失い、高熱を発した状態で亡くなった。

 死因は当初の医師の見立て通りに消渇しょうかつとされた。

 桔梗館が炎上したのは、この前日である。アルウィンの容態が変わるか変わらないかというタイミングで、桔梗館は燃えたのだ。

 アルウィンの死とともに、公式には家族のなかったアルウィンの喪主となった、次期大公である十五歳のカイエンは多忙を極めた。

 皇帝への奏上、葬儀、そしてもろもろの手続きの後に大公位を相続するまで、息もつけぬ忙しさの中で翻弄されたと言っていいだろう。

 これは、大公宮の執事であるアキノも同様で、彼の場合には葬儀の手配から通知、実際の葬儀とその後の納棺、墓の手配からすべてが彼のすべき仕事であったのだから、なおさらであった。

 桔梗館の炎上後の始末に取り掛かったのは、すでにアルウィンの納棺が済み、棺が大公宮の外宮に安置された後のことであった。

 気丈というより、唯一の近親である父に死なれ、ただただ「自分のすべき事」に流され、新大公となったカイエンは、葬儀で泣く事もできず、毎日を忙殺されていた。

 今になって思えば。

 あの桔梗館の火災は、普通ではなかった。

 余人の追求を受けずに謎の館をこの世から、内情を知る使用人もろとも抹殺するにはあのタイミングしかなかったとも言える。

 カイエンは、うなだれるアキノを叱咤し、今からでもできる事、すなわち当時の事情を知る人物の発掘と調査を命じた。

 父に秘密があり、それにあのスライゴ侯爵が関係しているとあれば、今回の二つの騒動、ヴァイロンの件と大公軍増員の件に繋がってくるかも知れなかった。

 皇女オドザヤのお茶会での侯爵夫人ニエベスのあの態度。

 あれは、「宣戦布告」のようなものであったのかも知れない。

 だが、向こうはカイエンが桔梗館のあの紺色の部屋を思い出したことはまだ、知るまい。

 カイエンの五歳以降の記憶はかなりしっかりしている。五歳から家庭教師について勉学や習い事などを始めたので、以降は時期大公として日誌をつけさせられているからだ。もちろん、最初の頃の日誌は一行日誌とでも言うべきものだが、その日になにをしたかはほぼ把握できるのだ。

 この時代、貴族の当主は日記をつける事が義務であった。

 であるから、あの「出来事」はそれ以前のことではないかと思われた。

 もちろん、父のアルウィンの日記も残っている。だが、彼の秘密だった桔梗館の事が書いてある可能性は低い。

 それでも、カイエンは父の日記も見るつもりであった。

 アキノは、アルウィンの日記を書庫から出してくる事も約束し、一旦、カイエンとヴァイロンの前から下がった。


「なんてこった」

 カイエンは書斎の机から立ち上がり、広い書斎の一隅にある、庭への窓に面した長椅子のあるスペースへ移動しながらため息をついた。

 カイエンは足が不自由だが、部屋の中の行き来には杖を必要としない。足はやや引きずるが歩ける。杖をつけば、かなりの早足で歩く事も出来た。

「今度の事と関係があるとお思いですか」

 今や昼間は有能な秘書状態のヴァイロンが問う。長椅子にかけたカイエンが、自分の横をぽんぽんと叩いて、座るように促したので、いつもの事ながら巨体をやや縮めるようにして横に座る。

「……うん。なんで昨日の夜にあんな夢を見たのかはわからないが、皇女のところでのニエベスの態度といい、間違い無いだろ」

 カイエンの言葉遣いは、身近なものと二人になるといきなり変貌する。

 これは父のアルウィンが皇子の生まれで大公殿下であったにも関わらず、時に言葉が荒かったのを長年聞いてきた事に起因しているのだが、ヴァイロンも最初はやや驚いた。

 前に図書館で話した時は、大公らしく、それも男性の前での女性らしい言葉遣いで話していたが、ヴァイロンが大公の、つまり彼女の後宮に入ると、徐々にではあったが彼と話す時の言葉も「内向き」へと変わってきたからだ。

 サグラチカとアキノだけの時も同じような乱暴な言葉遣いをしているから、恐らくこの「言葉の使い分け」はカイエン幼少の折からの大公父娘の癖なのであろう。

(よく、公式の場所でお里が出ないものだ)

 と、軍人としての場面以外では、公私ともに謹直真面目な言葉遣いのヴァイロンなどは思うが、アキノたちによれば大丈夫なのだそうだ。

 まあ、ヴァイロンとしては「相手に心を許している」証拠であったから、なんとなくうれしいこと、ではあった。

 そこまで考えて、ヴァイロンはふと、気になった。

「カイエン様」

「うん?」

「カイエン様は私やアキノ様、サグラチカ様とお話になる時は、ずいぶんと、そのう、親しげなご様子ですが」

 カイエンはこれも言葉遣い同様、「内向き」モードのだらしない様子で長椅子に伸びながら答えた。

「はっきり言えよ。言葉遣いが乱暴だって」

 苦笑い。なんだか漢らしい、と思うのはヴァイロンだけではあるまい。普通、年頃の娘が乱暴な言葉遣いをしているのは見ていて見苦しいものだが、大公という尊大な地位にあるカイエンがすると、なんだか頼もしいから不思議だ。あまり女らしく無い容貌や態度もそれには影響しているであろう。

 そういえば、普段のカイエンの服装は女性用というよりも男性の文官仕様に近いが、しっくりして見える。女が無理をして男装している痛々しさとは無縁だ。それは杖をついていることとも関係があるのかもしれない。

「はあ、確か、前大公殿下もお身内相手にはそのようなお言葉遣いだったと聞きましたが」

 カイエンの灰色の目が光った。

「そうだが、それがどうした」

「前の大公殿下が親しいお言葉遣いをなさっておられたのは、どなたまでかと思いまして」

 カイエンは完全に意表を突かれた。

「父上が……」

 その前に、カイエン本人を考えてみる。自分の乱暴な言葉遣いが出るのは、誰と話す時か。


 亡くなった父

 アキノ

 サグラチカ

 ヴァイロン


 それと。

 ああ、何人かいる。気が緩むと出る相手。

 まずはあのイリヤボルト。あの、ぬらりとした馴れ馴れしい男相手だと、こっちもつられる。

 それに護衛でそばにいる騎士シーヴ。これは本人は真面目な好青年だが、年が近いので親しい言葉が出てしまう。

 あとは誰か。

 新しく召し使った女騎士の中にいた。三人のうちで一番年嵩で、人柄も暖かく、初めて会った時からいい印象を持っているブランカだ。

 男言葉になる相手は他にもいる。大公として命令を下す相手だ。しかしこれは除外してよかろう。

 と、なると自分の場合には七人ほどか。

 父は。

 父はどうだったか。

 自分とアキノ、サグラチカ。

 父の場合には男だから、線引きがしにくい。ただ、下町の阿仁さんみたいなあの言葉遣いの相手は。

 それしかいない?

 でも。

 きっと他にもいる。

 自分の知らない相手が。

 それはきっと、あの「桔梗館」の一群の人々だ。

「ヴァイロン」

 カイエンは思わず、彼の厚い胸板を拳でどん、と叩いた。

 育ち方が育ち方だからしょうがないが、こういうところもなんだかなあ、なカイエンであった。小柄で弱々しいのに、態度が全然それに合っていないのだ。

 ヴァイロンはあまりそばに寄ったこともなかったが、彼女の父親も貴族的な優男だが、普段は、こんな風になんだか男らしい態度の人だったのかもしれない。

「すごいぞ。それだ。それは使えるかも知れない……」

 カイエンは立ち上がった。

「父上の秘密の『お友達』どもは、きっとそれを知っているはずだ……」

 カイエンの頭の中で、忙しく考えが駆け巡る。

 カイエンは長椅子の周りをぐるぐると回りながらぶつぶつ呟いた。

 これは彼女が考える時の癖なのだが、ヴァイロンにとっては、新しい驚きである。

「引っかかるかもしれないぞ」

 ギラリ。

 顔中が生き生きして嬉しそうだ。

 ヴァイロンの方を振り向いた顔は「作戦決定!」の時の将軍に似ていた。年頃の娘としては最悪の凶暴さであったが、なぜかヴァイロンにはなんとも頼もしく見えた。





 その日の午後、ヴァイロンのところに一通の手紙が届いた。

 ちょうど、午後のお茶の時間だったため、カイエンの大公としての執務室にそれは届けられた。

 執務室は大公宮の通称「表」と言われる公の建物の中にあるが、そこでお茶をしていたのはいつもの面子、プラス二人、であった。

 お茶を供しているのはもちろんアキノ。

 カイエン、ヴァイロン、シーヴ、イリヤ、それに大公軍団でイリヤの下にいる二人の副官だ。

 この副官二名は、例の「大公軍団増員計画」の担当者として呼ばれたのである。

 増員の募集は大掛かりなものとなるため、軍団全体の統率を仕事とする団長のイリヤが陣頭指揮をとることはできない。そこで、「そういう面倒臭い仕事」の責任者を探したのだが、いろいろと「裏の事情」もありそうな仕事であるから、隊長クラスではまずい。

 そこで、選ばれたのは、組織の二番目。

 副官である。

 だが。

 副官は二人いた。こういう組織では副官が二人いて、業務を分けることもないではなかったが、現在の大公軍団では事情が異なる。

 この副官、二人で一人なのだった。

 名をマリオとヘススという。

 双子であった。それも、一卵性双生児だ。

 二十代後半であろうが、それまでの戦績はすべて二人でいっしょに立ててきたという、異色の団員であった。

 当然、そっくりである。浅黒い顔に、きっかりとした顔立ち。南国の血を思わせる情熱的な大きい黒い目に黒い髪。その黒い髪は短く刈られているが、その分け目の位置でしか、誰も、そう、団長のイリヤでさえ区別できないという双子である。

 ちなみに、兄のマリオはきっぱりと真ん中分け。弟のヘススは向かって左で髪を分けている。まあ、入れ替わられても誰にもわからないではあろうが、それでも彼らはそれぞれに個性を出そうとはしているのだろう。

 二人の仕事ぶりは、団長イリヤのいい加減さのすべてをカバーして余りある。うるさいイリヤと違って二人合わせても寡黙なところもよくできていた。

 実はこの人事も、前の軍団長グスマンの決めたことであった。

「手紙……だれからだ」

 カイエンが隣に座るヴァイロンの手元を覗き込む。

「それが……」

 ヴァイロンが見せた手紙の裏には、真四角な字で。


 ジェネロ・コロンボ

 と、ある。


「豪腕ジェネロか!」

 イリヤが言うまでもなく、将軍位を奪われたヴァイロンの代わりに、今、フィエロアルマを指揮する、彼のもと副官である。

 ヴァイロンへきた手紙であるから、みな、彼が読み終わるまでお茶を飲みながら待っていたが、読み終わると、ヴァイロンは手紙をカイエンに渡した。

「いいのか?」

 頷くのを見て、カイエンはそれを声に出して読んだ。



『親愛なる将軍閣下


 前略。

 このような手紙を送ることをお許しください。

 また、ご挨拶にも行かれない小官をどうかお許しください。

 われわれのフィエロアルマは私が将軍閣下がお戻りになる日まで責任を持ってお守りいたします。


 ところで、閣下はその後、お元気でいらっしゃいますか。

 私どもはみな、閣下のいらっしゃった時のまま、訓練と鍛錬で日々を送っております。


 さて、この度、このような手紙を差し上げますのは、ご無聊をかこっておられるであろう閣下に少しでもの慰めになるかと思ったからでございます。

 来る六月二日でございますが、この日はこの帝都ハーマポスタールの開港記念日となっております。

 そして、その祝いとして開港祭で、かの名歌劇「紺青鬼」が上演されるそうにございます。

 そこで、私どもフィエロアルマ一同より、この歌劇の切符を送らせていただくものであります。

 どうか大公殿下にもよろしくお伝えください。

 どうかどうか。

 なにとぞ宜しくお願い申し上げます。


                  草々


                    ジェネロ・コロンボ 』




 しばらく、誰も口をきかなかった。

「なんだこれ?」

 カイエンが、皆を代弁してそう言うまで。

「なんでしょうねえ」

「これ、失礼じゃないですか。大公殿下によろしくって!」

「あいつ狂ったか」

「……紺青鬼……?」

「大公の男妾様って、歌劇とかに行ってもいいんですか」

「いいんですか」

 最後のはマリオとヘススの双子のデュエットである。

 なかなかに鋭い。

「ヴァイロン」

 カイエンは変な手紙と、その中に同封されていた何枚かの歌劇の切符をひらひらさせて、聞いた。

「豪腕ジェネロって、こういう男なのか?」

 そこにいた皆がヴァイロンを見た。

 ヴァイロンは精悍な顔に「悩み」という文字を張り付かせて、その翡翠色の瞳を皆の顔の上で一巡させた。

「彼は無骨な軍人で……有能な男ですが、このように手紙を寄こすのはそもそもおかしく……。特にこの歌劇のくだりは長年の友人でもある私にもわかりかねます」

「そうだよねー」

 イリヤが言い、尋ねた。

「この、真四角な文字は、ジェネロさんの字で間違いないの」

 ヴァイロンは頷いた。

「性格はともかく、軍人としては実直そのものの男で、この文字は間違いなく彼のものだ」

「そうなの」

 イリヤがうなずくと、アキノが手紙をそっと取り上げて、調べ始めた。

「何? あぶり出しとかですか?」

 シーヴがすかさず言うと、皆がさげすむように彼を見た。

「なんですか! みなさんで。可能性ですよ、可能性を言ったんです!」

 アキノの手元を見て、カイエンはひとつ、気がついた。

「アキノ、その用紙……」

 手紙の書かれた紙に違和感があるのである。

 豪腕ジェネロのようなまだ若い軍人が使うにしては用紙が高価すぎはしまいか。

 貴族社会では手紙のやり取りが多く、多くは自分専用の用紙と封筒を使っている。だが、軍人であるジェネロが自分専用の用紙を使っているだろうか。

 その手紙の紙は、灰色がかったクリーム色。色は男性貴族が普通に使う色合いだ。だが、若い男よりはやや年のいった、壮年の各家の当主が使うような落ち着いた古紙のような色合いである。

 凝ったものでは薄く文様が入っていたり、透かしが入った用紙だったりする。厚みも違う。色も、同じようなクリーム色でも紙の繊維を変えて個性を競うのが貴族社会だ。

 アキノはぼそりと答えた。

「同じかどうかまだ確認できませんが、この用紙はザラ将軍のお手紙の用紙と似ているようです」

 あの、初夜の翌日。

 フィエロアルマ暴発の危機に届いた、秘密の手紙だ。

 ザラ将軍は軍人だが、もともとはさる子爵家の出である。代々の軍人の家系だ。

 カイエンはインクの色、ペンの跡ももう一度見てみた。

「……似ているな」

 カイエンはヴァイロンの方を見た。

 頭をさげる。

 その場の皆が息をのむ。

 彼女は言った。

「ヴァイロン、すまないが恥を偲んでくれないか」

 と。


 カイエンはこの誘いに乗ることにしたのだった。




 六月二日。

 ハーマポスタール開港祭の日。

 歌劇「紺青鬼」の行われる、開港記念劇場の中央に近いボックス席には、お忍びの女大公カイエンとその男妾ヴァイロンの姿があり、人々を驚かせることになる。

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