紺青鬼の棲家 1
暗き海の底を
ひとり
海の地獄まで
ひとり
落ちていくまで
ひとり
あの人はもういない
だからひとり
ひとり
ひとり
歌劇 「紺青鬼」より
その部屋は壁紙も床に敷かれた絨毯も、天井の壁画も、すべてが紺色だった。
壁紙の柄は桔梗。暖炉を囲む石までが紺瑠璃色。
その、一面紺色の上に、鈍い光沢の金色の家具が置かれていた。家具の方はすべてが金。暗い金色から青金、黄金を越えて赤金へのグラデーション。
自分はその部屋に誰かの腕に抱かれて連れてこられて、そこに集まっていた一群の人々……女はいない、の前で柔らかい紺色の絨毯の上へ降ろされた。
目線がひどく低い。
だから、みんなが自分を見下ろしている。
一斉にそれまでしていた話をやめ、彼らが興味深げに自分を見た。
怖かった。
彼らの目が。
自分を笑いながら見ている、興味深げな目が。
ぎらぎらとした欲情に満ちた目が。
その中から、一人の少年がにこやかに手を差し伸べる。
十五、六歳だろうか。自分よりも十は上に見える。優しげな顔立ちの少年だ。
北方スキュラの血を思わせる色調。
青いほどに白い顔、青光りするような見事な銀の髪。瞳までが銀色。まるで氷のような。
あのこはこわい。
思わず、父の手を探して握りしめた。
ああ、ここに連れてきたのは父だったっけ。
そう思って、そちらを見ると、父の微笑む顔があった。
若い父。
……あの肖像画のように若い父。
紺色の部屋の中に、同じような紺色の髪をした父がいる。
自分にそっくりな顔で。
微笑って。
「うわああああああああああああああああああああああ」
ただただ怖い。
恐ろしい。
理由はわからない。
もう何も見えない。
体が動かない。
なんとか助けを呼ぼうと、声を出そうとするが、声が出ない。
手も足も動かない。
ふいに、見えた。
寝台に寝ている自分が下にいる。
死ぬの!?
必死で訊いても誰も助けてはくれない。
ひたすらの恐怖。
永遠に続くかと思うような。
恐怖。
声が、でない。
叫びたいのに!
声が、でない。
息が、
息が、できない!
たすけて!
たすけてえ。
たすけてえ。
だれか。
だれか。
だれか、たすけてえ。
「カイエン様!」
急に体を揺さぶられる。手足に感覚が戻ってきそうな予感がする。
ああ、助かった。
出せなかった声をあの人が聞き取ってくれた。
私はもう、一人じゃない。
それに力づけられて、むりやりに瞼を上げる。
ヴァイロン。
「殿下! カイエン様!」
目の前にヴァイロンの顔があった。薄暗いが、月夜なので寝室のカーテンの向こうは薄明るい。それで、カイエンの目でも彼が見えた。
金色がかった翡翠色の目が光っていた。
起き上がろうとすると、力強い腕が助けてくれた。
まだ、息がうまくできない。
ぜいぜいと荒い息を繰り返していると、喉が痛くなったが、やっと、声が出た。
「だ、だいじょう……ぶ……」
気がつくと、涙を流していた。
「夢を見たのですか」
背中をさすってくれながら、太い声が聞いてくる。
「うん」
もう一人じゃなかった。
よかった。
心からの安堵。
ああ、私はもう何があっても生きていける。
そう、信じて悪夢から起き上がる。
「大丈夫」
カイエンはもう一度言って、目をこすった。
こうやってうなされるのは初めてじゃないから。
でも。
今日のはちょっと違っていた。
まだ、覚えている。あの、紺色の部屋。
「……描いておかなくちゃ」
カイエンは、慌てて、寝台から出ようとした。
カイエンはよく、生々しい夢にうなされて起きることがあったが、夢は、起きてしばらくすると忘れてしまうのだ。
今日の夢は忘れてはいけないような気がする。
「描いておかなくちゃ」
ヴァイロンはうなされて大声をあげたカイエンにびっくりして目覚めた。それは彼が、カイエンと共に寝むようになってから初めてのことだった。すぐ隣で寝ている顔を見れば、激しくうなされているようだ。それも、目覚めたくても目覚められないようで、涙を流して、もがいている。
なんてことだ。
肩をそっと揺すって起こしてやると、やがて、彼女は目を開いた。
よかった。
彼女の灰色の目。それはいつでも、なにがあっても、どんなに苦しくても、絶対に負けない目だ。そして、自ら倒れることを忌避しようと、常に「踠いている」ものの目だ。
カイエンは、ヴァイロンに助けられて寝台を出ると、すぐに寝室にもある書き物机に歩いた。ヴァイロンは抱き上げてやろうとしたのだが、カイエンはその手をはねのけて、急いだ。
忘れる前に!
忘れる前に、描いてしまわなくては!
書き物机の引き出しを漁り、真っ白な紙の束と銀筆を取り出す。
カイエンは紙の上に書き始めた。
月夜の明かりしかないのにも構わない。
描き始めたのは、文字ではない。
絵だった。
カイエンは子供の頃、絵を描くのが好きだった。放っておけば、一日中描いていられた。それは子供としてはかなり上手だったので、父のアルウィンは彼女を褒めた。カイエンは人々を描くのが好きだった。アルウィンはカイエンの描いた絵を大事にまとめ、いくつかは額に入れて飾ってくれた。
次期大公としての教育が始まると、絵を描く時間は無くなり、カイエン本人も絵を描くことに耽溺することもなくなった。
でも、大きくなってからも絵を描けば、かなりの腕前で、こんな家に生まれていなかったら絵描きになったのになあ、などと思うこともあったのだ。
ヴァイロンの見ている前で、紙の上にものすごい速さで描かれていく、絵スケッチ。
あの、部屋の「風景」。
それを見るなり、ヴァイロンは、慌てて寝室の外へ走った。
さすがに鍛えられた体だけあって、音もなく扉まで走る。
部屋の外にいる、女騎士のナランハに明かりを持って来させるためだ。
「ヴァイロン様……」
部屋の外には、もう、心配顔の女騎士ナランハが控えていた。
三人いる警備の女騎士の中で、一番若い女である。名前通りの橙色ナランハの髪にそばかすがかわいらしいが、体は大柄でしっかりしている。
大公の寝室の番であるから、中にカイエンと共にヴァイロンが寝ていることももちろん知っている。カイエンの叫び声は聞こえたが、「もしや……」とも思って、中には入れずにいたのである。
「ナランハ殿、失礼」
ヴァイロンは、ナランハの持っていた手燭を奪うようにとって、寝室へ戻った。
戻ってみると、カイエンはもう、早、三枚目に取り掛かっていた。
すさまじい筆致の速さである。
ヴァイロンは書き物机の上のランプに手燭の火を移した。なんとなくついて来てしまったらしいナランハと一緒に、声も出せずにカイエンの描く様子を見つめる。
銀筆が動いている。
一枚めは部屋の中の絵だ。
二枚めは一群の人々の絵。
そして三枚目は。
カイエンは夢中で描いている。
翌朝。
カイエンは執事アキノを書斎へ呼んで、この絵を見せた。横にはヴァイロンが無言で控えている。
「アキノ。私が子供の頃……多分まだ五歳くらいの頃だろう、父上のどこかの別邸に一面紺色の部屋がなかったか」
カイエンは案の定、起きてしばらくすると、夢の細部は忘れてしまった。でも、あの「紺色」は覚えていた。それに、今日はこのスケッチも残っている。
アキノの目が見開かれた。
「これは」
一枚めの部屋の中のスケッチだ。
紺色の部屋。
「……これは、桔梗館でございます」
「桔梗館? 聞いた事がないが」
カイエンはそんな館がある事をこの時まで知らなかった。
大公位を相続して三年。
大公本人の知らない不動産があるとは、おかしいではないか。
しかし、その気持ちを抑え、話を続ける。
「夢で、私は父上に連れられて、この部屋へ行った。思い出したんだ。私はこの紺色の部屋に行ったことが、確かにある」
カイエンの指がスケッチの上で悩ましげに彷徨った。
この自分の知らない館。
連れて行かれた事があったのに、昨夜、夢で見るまで忘れていたのだ。恐らくは五歳頃のことだろう。
だが、あの部屋が存在するというのなら、絶対に連れて行かれたことがあるはずだ。
アキノの顔が諦めのような形で歪む。
「私はこの大公宮の執事ですから、別邸へはそう何度も行ったことはございません。しかし、これはまさしく、桔梗館でございます。この帝都の郊外にあった、アルウィン様の別邸です」
カイエンはほぅっと息をついた。では、昨日の夢は子供の頃に本当にあったことなのか。
しかし……今、アキノは「あった」と言わなかったか。
「アキノ、この桔梗館は今、どうなっている」
スケッチからやっと顔をあげたアキノの顔はやや引きつって見えた。
「もう、ありませぬ」
「なに?」
カイエンはヴァイロンと顔を見合わせた。
「焼けたのです」
アキノは呆然とした面持ちだ。
「アルウィン様が亡くなる前の日、不審火で全焼したのです。……使用人達もろともに」
アキノ以外の二人の瞳が見開かれる。
父のあの若い日の微笑みが火に焼かれる。
あの部屋は燃えたのだ。
「父上の死ぬ前の日に? 使用人もろともに? 誰も助からなかったのか」
カイエンは自分の声を遠くに聞いた。
「……はい。夜中でしたので、皆逃げ遅れたと……」
なんてことか。
「ありえない!」
「はい、私どももそう思いましたが、なにしろ、火災の次の日にアルウィン様が亡くなられたため、そのまま……」
アキノは歯を食いしばった。
「焼け跡からは使用人全ての亡骸が発見され、全てが焼死ということでした。アルウィン様のご葬儀が終わった後でしたが、もちろん、使用人達の遺族には十分な補償を致しました。ですが……ですが……」
「調査しなかったのか」
「はい」
「葬儀や私の相続のことで取り紛れてか」
カイエンにはあの「紺色の部屋」からどす黒いなにか霧のようなものが立ち上り、それが父の肖像に吸い込まれていくのが見えた。
「カイエン様、アルウィン様は、私どもがあの館の事に関わるのを嫌っておられました。この大公宮ではあの桔梗館の事は、口に出す事さえ出来ないタブーだったのです。ですから、カイエン様にはもちろん……。申し訳ございません。これは言い訳ですな」
アキノはうなだれた。
「アキノ」
カイエンは昨夜の夢が真実だったことを確信した。
あの紺色の部屋にいた、あの一群の男達。あれは本当にあったのだ。
聞きたくない。
だが、こうなっては聞かねばならぬ。
そのために昨日の夜、あの夢がやってきたのだ。
「父上は、この桔梗館で何をしておられたのだ」
アキノは身震いした。
あの桔梗館。
あれか。
あれが蘇るのか、と。
しばしの沈黙の後。
「カイエン様」
アキノは話し始めた。
「桔梗館は、アルウィン様の秘密の館でした。いいえ、それは私から見てのことでございます。アルウィン様があの館を使い始められたのは、アイーシャ様が去られた後のことでした。アイーシャ様が去られてから、アルウィン様はあの館を買われ、あの館には専任の使用人を置かれました。ですから、私を始め、この大公宮の者は、あの館での事からは蚊帳の外だったのです。……ああ、まったく言い訳にもなりませんな。申し訳もございませぬ、。申し訳も……」
カイエンは息を詰めて、アキノの言葉を聞いた。
「アキノ、私はあそこへ連れて行かれたことがあるのか」
アキノははっきりと首を振った。
「存じません」
「申し訳もございません。このアキノ、まさかあの館が……」
アキノとても驚きであった。
カイエンがことここで、それも、夢で思い出したのが、あの「桔梗館」だとは。
「アルウィン様は、桔梗館で会合をお持ちでした。それは知っておりましたが、まさか、まさか、そこにカイエン様を伴われたことがあったとは……」
カイエンは、絶句するアキノの前に、二枚め、三枚めの絵を見せた。
「アキノ、これは誰だ」
アキノの答えは衝撃を持って三人に迎えられた。そう、アキノ本人にも。
アキノは二枚めの群像にはすぐには反応しなかったが、三枚目の一人の少年の肖像には反応した。
顔だちまではっきり描けたわけではない。
カイエンが描いたのは、その少年のシルエットのようなものだ。
細かい顔の造作がすっかり写せたわけではない。
ただ、あの印象的な「氷の色合い」は覚えていたので、それを文字で書き込んであった。
「カイエン様」
アキノは身を絞る感情を抑えて、答えた。
彼にとっても、これはまさに衝撃であった。
桔梗館。
あのアルウィンの秘密の会合。
あそこに彼が居たか。
あの「忌まわしい場所」に。
私は甘かった、と心底思った。
この度の男妾事件の科は私にある、とも。
アキノは覚悟の目で主人を見上げた。
「この少年は、存じております。
……この方は、恐らく、現スライゴ侯爵、アルトゥール様です」
カイエンは瞠目した。
「スライゴ侯爵アルトゥール! あのウェント伯爵の妹、ニエベスの夫か!」
今回の騒動は、父、アルウィンに遡るのか。
あの、自分にそっくりだった父に。
それが、ハーマポスタール大公カイエンと、元フィエロアルマ獣神将軍ヴァイロンに襲い掛かった「騒動」へ繋がる糸の発端が見えた瞬間であった。
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