ある父娘の肖像
大公父娘は恐ろしいほどに似ていた。
女大公カイエンが幼きおり、高原のアパネカの別荘に父娘でいた時、何も知らない、通りがかりの農夫は、仲睦まじい父娘を見て、「ご兄妹ですか」と訊いたという。
大公アルウィンは、その「似ている父娘」という事実によって、その死の後のち、しばらくの年月、カイエンを支配し続けた。
彼女がその呪縛から逃れた時。
本当の女大公カイエンが生まれた。
この世界に、彼女は自分の一歩を記したのであった。
ああ、古の都カイエンヌの娘
星神エストレヤと、女神グロリアの名を冠する女よ
汝は知らんとす
自由なる御身に、海の力が戻ると
海よ
もはやお前は彼女を取り戻すことはできない
アル・アアシャー 「海の街の娘」より、「蜃気楼の涙」
カイエンが嫌そうに、それでも珍しく着飾って、皇女オドザヤのお茶会へ出て行った日。
ヴァイロンはカイエンの留守を守って、執事アキノとともに、彼女の書斎で書類の片付けをしていた。ほんの数日前まで将軍であった彼には慣れない仕事のようだが、そうでもない。
世の人は「将軍」とはただ勇猛果敢、戦場での働きしか思わないであろうが、実のところ、将軍の仕事には事務仕事も多い。
どこの国でも、常時戦時下にあるわけではない。小競り合いぐらいはあっても、平和な時だってある。
ハウヤ帝国は、大陸の西側にあり、すでに切り取るべき小国は切り取り、名前を残した小国や自治領はあったが、大きな版図の拡大はこの数十年に渡ってなかった。
現皇帝サウルの御代では、いままで辺境の国境地帯の小競り合いを超える、国と国とが正面からぶつかるような大きな戦は起きていない。
そう言うわけで、ヴァイロンも若年にして将軍になったと言っても、それは大公家の後ろ盾があり、士官学校からその軍人生活を始められたことに負うところがないとはいえなかった。
まあ、それでも近年の「御前試合」の優勝者が常に彼であったことは事実である。それも、圧倒的な強さで。
戦場においての個人的な戦士としての技量でも、彼に並ぶものは帝国には存在しなかった。
そういうわけで、外見は獣人の血を引いていることを隠しおおせないほどに巨大な体躯を誇るヴァイロンではあったが、読み書きは当然のこととして、古今の戦術書、戦略書の教養もあり、一見つまらない書類をしっかりと読み下し、それを裁可する力量も備えていた。
「ヴァイロン様、この書簡を整理しておいていただけますか」
執事アキノが、新しく上がってきた書類を分けて、ヴァイロンの座っている机の上に置いた。
騎士シーヴが驚いたように、後宮で逼塞させられる心配などなく、表に駆り出されて大忙しの彼には、すでにカイエンの執務室、書斎の中に、彼用の机までもが用意されていた。
さすがはアキノ様、ぬかりはないわ。
そうは思うが、「ヴァイロン様」にはまだ慣れない。
父とは呼んでこなかったが、赤子の頃からの育ての親だ。
「……アキノ様、あのう……」
ようやっと言っても、すかさず訂正が入る。
「アキノとお呼びください。ヴァイロン様」
怖い。
アキノの氷のような青い目は笑っていない。
アキノという男は、言ってみれば、「常に本気」である。相手が子供だろうと皇帝だろうと、はたまた神々であろうと。その心や判断には一分の迷いもない。己に厳しい彼は、彼の認める人物や存在に対しては、「尊重」という名の「本気」で望む。
アキノの「本気」をぶつけられることは、彼を知る者にとっては誉れでもあったが、怖いことには違いはなかった。
ヴァイロンにとって、その、アキノの「怖さ」は、子供の頃に、叱られた時の記憶そのままだ。
「では、アキノ……さん。それは分かったが、大丈夫なのだろうか」
さん。
アキノの目がぎろり、と光ったが、「今はそれ以上無理」というヴァイロンの心も伝わったらしく、今度は訂正は入らなかった。
「何がでございますか」
ヴァイロンは首を縮めた。
「私には権限がないと思うのです、ではない、……だが」
言葉の語尾までがややこしい。
「……大丈夫です。あなた様が読めばわかるものしか、ここへは置いておりませぬ」
さすがはアキノ。
ヴァイロンは声もなく、仕事に没頭することにした。
そんな、元将軍のにわか男妾。実際には大公の秘書としてこき使われているヴァイロンであったが、意外なことに、心の中は不思議に平静であった。
それには、あの夜以降のカイエンとヴァイロン、二人の姿を描く必要がある。
あの「初夜」の翌日から、ヴァイロンはアキノとサグラチカの夫婦に、「この大公宮の中では、常にカイエンのそばにいること」を命じられていた。
大公の側室に、執事と乳母夫妻という「使用人」が命令をする、というのは、本来あってはならぬことだが、現在の大公家では違う。
女大公の「奥向き」を一手に担っている、アキノとサグラチカの命令は絶対なのだ。
ヴァイロンが二人の養い子でなかったら、それは遵守されない危険性があったが。今回は完璧だ。
それもあって、アキノは昼間、ヴァイロンを大公の秘書としてこき使っているのである。
昼間のカイエンには、大公軍団から派遣された形で、騎士のシーヴが付き従う。今までもそうであり、今後もそうだ。カイエンが大公宮の外に出かける時の護衛は、今後もシーヴの役目である。
将軍であったヴァイロンの体が鈍らないよう、朝は大公軍団の訓練にも参加させられている。
実は、これは大公軍の将兵達には「大歓声」を持って迎えられた。
帝国一の猛将と訓練を共にできるのである。
大公軍団の士気は上がった。
団長のイリヤもまた、「自分が率先してがんばらなくてもよくなった!」という一点で、これを歓迎した。
イリヤとて、大公軍の団長、帝都の治安を守る部隊の隊長として、申し分ない能力と人望があるからその地位にあったのだが、彼のモットーは「立っているものは親でも使う(違)」であり、ヴァイロンへの嫉妬心など生まれる隙はなかった。
というわけで。
騎士シーヴが仕事を終えて下がった後のカイエンのそばには、常にヴァイロンが付いていることとなった。
勿論、寝る時も。
というか、寝る時にカイエンの寝台の中でまで側にいるのは、当然のことながらヴァイロン一人である。
大公であるカイエンの寝る場所は、この時期、二つになっていた。
もともとの大公の寝室と、後宮のヴァイロンの寝室である。
だが、「(今のところ)女大公ただ一人の男」が常に同衾するとなると、この区別ははなはだ「形式的」なものとなった。
ヴァイロンはこれが決められた時、カイエンの意向が非常に気になったのだが、良くも悪くも「次期大公」として育てられたカイエンに否やはなかった。
「そうか」
「そうか」
ただ、それだけである。
カイエン本人は「そういうものだ」としか認識していなかったのだが、このあっさりさはヴァイロンの度肝を抜いた。
そもそも。
ヴァイロンにとっては、あの突然に決められた初夜でのカイエンの様子。それが最初の驚きだった。
自分は元将軍とはいえ、帝国では忌み嫌われる獣人の血を引く男である。体も、女としては小柄なカイエンと比べるまでもなく、途方もなく大きい。それなのに、年頃の乙女であるカイエンは怖がりもせず、自分の腕に抱かれた。
大公として、お姫様育ちとしての世間知らず、と思ってはみたが、どうやら根元の方から違っているようだった。
思い出せば。
確かに、自分たちは初夜のあの時、初めて会ったのではない。
初めて挨拶したのは前大公アルウィンの葬儀の時で、初めて言葉らしい言葉を交わしたのは、読書好き、というより「読書魔」のカイエンと、武辺の割には本好きのヴァイロンが偶然かちあった、あの帝国国立図書館の中であった。
前大公の葬儀から二年近くが経っていた。
それまでにも、執事アキノと乳母サグラチカの養い子として、大公宮に出入りし、遠目に挨拶したことはあったが、個人的に言葉を交わしたのは、この図書館の閲覧室が始めであった。
というか。
あの悪夢のような初夜以前に、彼ら二人がある程度の会話をした場所は、この国立図書館の中での一度のみであった。
数代前の皇帝で、帝国の版図を決定的なものとした、皇帝ホヤグボルトの時代の戦時記録を閲覧しようした時のことである。
国境地帯での騒乱から、一時、帝都へ呼び戻された時のことで、その時の相手国とのにっちもさっちもいかない状況が、ヴァイロンには士官学校時代に学んだ皇帝ホヤグボルトの御代にあった、ある戦役の状況とかぶって見えたのである。
司書に案内されて、その部屋に入った時。その部屋には先客がいた。
それが、カイエンだったのである。
恐縮し、慌てまくる司書を下がらせ、カイエンは見ていた皇帝ホヤガボルトの戦時記録をヴァイロンに見せてくれた。ヴァイロンの魁偉な容貌に怯えることもなく、「同じものを読みに来たものがいた」とはしゃいで、いろいろなことを話してくれた。
話してみると、大公であるカイエンもまた、現在の戦況を皇帝ホヤガボルトの時代の戦役と似たところがある、と思ってここへ来たことがわかり、ヴァイロンは感動した。
そこで、閲覧室の大机に、大地図を広げて、今後の予想を二人で立てた。
実際の戦地の様子を知っているヴァイロンの言葉をカイエンが聞きながら、今後の対策を立てた。
楽しい時間はすぐに過ぎ、時計を見ながら、「次の予定がある」と、カイエンが寂しそうに帰って行った後。
ヴァイロンは確信していた。
これは、使える。と。
戦地に戻ったヴァイロンは、カイエンと練った作戦を実地に合わせて実行し、戦功をあげたのだ。
それは、「ラス・パルナスの奇跡」として歴史に刻まれている。
そのことは、カイエンとヴァイロンの二人だけが知っていることだ。
きっと、カイエンは「あいつ、やったな」と思っているだろう。
戦地で、戦勝の轟を聞きながら、ヴァイロンは、
「いつか、お礼をしよう」
と、誓っていた。
初夜の時は、「任務」に夢中で、そんなことは言えなかった。言うような雰囲気もきっかけもなかった。
初夜の翌日、疲れて朝食の後に後宮の「青牙宮」の長椅子で寝てしまったカイエンが起きた時、まだ眠そうなカイエンを助けて、起き上がらせ、長椅子の上に座らせ、ルーサの持って来た午後のお茶を共にした時、初めて、ヴァイロンはそのことが言えた。
早く言いたくて、言いたくて、しょうがなかったのだ。
「カイエン様。図書館でのことを覚えていらっしゃいますか」
と。
「……ラス・パルナスでのことか」
カイエンはちゃんと覚えていたようだ。
「あれは、うまくいったな」
カイエンは濃い紅茶を飲みながら、目元をほころばせた。
「そなたの勝利を聞いて、うれしくてしょうがなかった。自分の勝利のように思えてな。勝手なことだが」
カイエンは続けた。
「私には兵を率いて戦に立つような才能はない。でも、あの時はうれしかったな。もしかしたら、私もあの皇帝ホヤガボルトのようにやれたのかもしれない、などと、馬鹿なことを思ったよ」
二つの、深い灰色の目が、ヴァイロンを見た。
「それなのに、こんなことになって……どうしたらいいのか」
ヴァイロンは青磁の茶碗をおいて、カイエンのほうへ向き直った。
「いいえ」
ーーいいえ。
「これでよかったのです」
カイエンは不思議そうに眉を顰めた。
「なぜ、そのようなことを言う。こんなことになって、もはやそなたは戦場へは戻れないのだぞ」
言いにくいことを、カイエンは思い切って口にした。
「そなたの、輝かしい未来も、一人前の男としてのすべても、私は踏みにじったのに」
ああ。
ヴァイロンは驚きと共に、あの図書館での出会いを、大切に心の奥深くに納めた。
これなら、生きてゆける。
「カイエン様」
声も落ち着いていた。
「これは、きっと始まりです。あの、ラス・パルナスでのことは、その始まりだったのでしょう」
「カイエン様、あなたは私にそのお体の全てをくださいました。私もまた、全てをあなたに任せましょう」
と。
カイエンはその顔色の悪い顔に、疑問を張り付かせて黙っていた。
まだ、得心できなかったのであろう。
それは、仕方がない。
ヴァイロンは話を変えるように、そっとカイエンの白い、骨ばった小さな手を取った。
「カイエン様、私が住むにあたって、この宮はきれいに整備されました。ご覧になりますか」
カイエンは真面目な顔で、頷いた。
「うん、アキノに、迷路のような後宮のすべてがきれいになったと聞いた。……私はこのあたりだけでいいと言ったのだが、後宮全てに手を入れたようだ」
ルーサに、身振りで自分の杖を要求するカイエンを、ヴァイロンは抑えた。
座ったカイエンの背中から腰に腕を入れ、持ち上げれば、ヴァイロンの片腕で、ふわり、とカイエンの体が、簡単に宙に浮く。
「大事ない。殿下は私がお連れする」
ルーサが頷いて、部屋の扉へと案内する。
「え、え。え! 」
カイエンは揺れて安定しない自分に驚いて、ヴァイロンの太い首にすがりついた。
「ご案内いたしましょう」
ヴァイロンはカイエンを片腕で抱き上げ、青牙宮を出て、外の回廊へ進んだ。
青牙宮は、前の大公妃の住処である。
その大扉の外は、きっぱりと右と左に分かれている。
左へ行けば、大公の寝室、居間へと続く、青銅の大扉がある。
今はその向こうには、三交代の女騎士が勤めているはずだ。
右へ行けば。
それは広大な大公の後宮への回廊だ。
ヴァイロンは右へと足を進めた。
そこに、あれがあることを、昨日見て、知っていたからだ。
「!」
ヴァイロンに抱えられて、それを見た時、カイエンはあまりの衝撃に、息を詰めた。
後宮の回廊を右へ回ってすぐ。
その肖像画があった。
二人の男女が寄り添っている。
男の方は二十歳前後。女はまだ十代の幼さを残した美貌だ。
それは、「前大公夫妻」の肖像画であった。
仲良く腕を組んで、画面におさまる二人は、幸せに満ちた微笑を浮かべて画面に収まっている。
それは、改めて考えるまでもなく、前大公アルウィンと、大公妃アイーシャだった。
結婚した直後の肖像であろう。
黄金色の髪に、魅惑的な琥珀色の瞳の大公妃は、金色の薔薇のように輝いている。
その手をとる、若き日のアルウィン。
その顔は、今のカイエンに生き写しであった!
年頃も近いのだから、当然と言ったら当然ではあるが、青白い顔色、秀でた額、きっぱりと通った眉、その下の瞳の形。
鼻筋から、やや酷薄な印象を与える薄い唇。
何よりも似てるのは目元だ。瞼の切れ上がり方から、その下の薄暗い灰色の瞳まで。
すべてが、今のカイエンと同じであった。
違いは唯一。
その髪の色。
父のアルウィンは紺色に近い黒。
カイエンは紫がかった黒。
それだけが、二人の違いに見えた。
「よく似ておられますね」
ヴァイロンは事実をそのままに描写した。
実の父も母も知らない彼としては、この肖像画の父と、腕の中のカイエンとの相似は、喜ぶべき種類のものであった。
だが。
二人の後ろにひかえていた女中頭のルーサは、身震いしていた。
ああ!
きっと、大公殿下は気づいてしまわれた。
この忌まわしい相似。
その呪いに。
カイエンは絶句していた。
自分と父が似ていることは知っていた。
子供の頃、アパネカの別荘へ行った時、近所の農夫が二人を見て、「まるでご兄妹のよう」と言ったことも覚えている。
だが。
現在の自分と同じ年頃の父が、こんな顔をしていたとは。
当時の父を知る者たちは、これをもう知っているのだ。
きっと。
あの皇帝も、今はその皇后の母も。
その他の古い廷臣たちも!
カイエンは今度の男妾騒動になにかそのあたりの誰かの意思があることを感じた。
私は私なのに!
きっと後ろにはこのそっくりな顔の父がいる。
それは、今や確信であった。
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