琥珀姫オドザヤ
琥珀色の薔薇
汚れた泥雨が降りかかり、首を垂れる
あわれなり、琥珀の薔薇
雨がやみ、
青く高い空が見える
あの薔薇はどうしたか
あの琥珀色の薔薇は
アル・アアシャー 「星の歴史」より「甘き薔薇のアリア」
そしてそれは皇女オドザヤ主催のお茶会、「初春の薔薇を愛でる会」とでもいうものの会場であった。
カイエンは護衛の騎士シーヴを従え、「あの事件」以来初めて皇帝の宮殿へ上がったが、「表」へ「勅命で呼び出される」のと、「後宮の皇女の宮」へ「お呼ばれ」するのとでは、もちろん全く違った趣があった。
皇女の宮へは男のシーヴは入れないので、後宮の入り口で別れたが、
「殿下、ご無事で……」
事件以来、すっかり心配性になったシーヴの不安そうな顔に見送られ、カイエンは最初からうんざりしている気持ちがより複雑に変化したように思えた。シーヴに悪気が全くないのはわかっているが。
彼の反応や言葉は、いつもカイエンの思っている、感じているものと近しいものだった。
カイエンにとって、護衛の騎士シーヴというのは、ほぼ唯一の「同じぐらいの年齢」の友人であった。
お互いに身分があるから、「友人」とは認識してはいないが、実のところ、同年輩の侍女、女中たちよりも、カイエンにとってはシーヴの方が「自分に近しい存在」であったのだ。
次期大公としてほんの子供の頃から教育を受けてきたカイエンの考え方は、多くの女性たちとは違っており、自立して働く若い男の方に近かったと言える。
この頃、例の事件によって、自分の身近、それも彼女の肉体を覆う皮の、すぐ外に位置するものとなった「男妾」ヴァイロンはもっとも近しいもの、として認識されていたが、彼を今、表の世界へ連れ出せば、それは「大公の男妾」としてになってしまう。それは、彼の失った地位や名誉を考えれば、あまりにも忍びないことであった。
それに。
数日経って嫌が応にも気がつかされたが、一度、裸の体を繋げあった間柄というものは奇妙だ。
たった数日なのに、もうヴァイロンとは「身内」になってしまっている。アキノやサグラチカのように。
いや、そのなかでも特別になってしまっている。
大公として、線引きができないのは「困る」と自覚しているが、「女」の自分がうねうねと騒がしくて、うっとうしい。
つまりは、自分はアレなのだ。
……ちょっとまだ自覚するのは保留にしたい。
あれがあるまえは、年齢こそやや離れていたが、ヴァイロンもまた、シーヴのような存在だったのに。
(あー。いかんいかん)
カイエンは己の心の中の諸々を、ぶった切って捨てた。
残りは大公宮へ帰ってから。
今は、他に注意しなければならないことがあるじゃないか。
いつの間にか、カイエンはオドザヤ皇女の侍女に導かれ、皇女宮の中庭へ案内されていた。
「カイエンおねえさま!」
カイエンはその声を聞いて、即座に回れ右をして帰りたくなった。
だが、大公としては勿論、そんな行動はできない。それに、オドザヤ皇女に悪気が全くないことは承知している。
(皇后がいなければいいが……)
オドザヤ皇女の手紙では、「お友達の集まりです」とあったから、皇后はいないだろうと踏んだのだが。
今日のカイエンは、紫がかった黒髪をいつもより華やかに、と言っても髪に付けられた装飾は、編み上げた後ろ髪に一緒に編み込んだ、薄い青紫のリボンと、銀色の櫛だけであったが、結っていた。高い位置に髷がくるように結いあげたので、かなり大人びて見えるだろう。
それに、衣装もいつもの大公としての男に準じた服装ではなく、やや裾を引く、濃い青紫の女物の衣装に身を包んでいた。
他の姫君たちのように、ドレスの裾を長く引いたり、膨らませていたりはしていない。
生地は最高級の絹地で、華やかな銀色と青の刺繍が施され、ドレスの襟元からは真っ白なレースが覗く。
足が悪いため、杖をついているので、デザインはシンプルなものだ。
カイエンはよくこの青紫の色味の衣装を選んだ。
彼女の髪の色や、顔色、目の色にぴったり合っていたからだが、若い姫君たちの花のような華やかな色味の中では、やや地味ではあった。
「……皇女殿下、ご無沙汰いたしております。少々、遅れたようです。申し訳もございません」
カイエンはすでに十人以上の姫君たちが集まっているのを見ながら、言った。
わざとやや遅れて来たのである。そんなことも皇帝の末妹である、大公でなければできない事ではあった。
カイエンは皇女の前で、銀の握りに黒檀の柄の杖を左手に抱え込み、優雅にドレスの裾を束ねて礼をし、皇女の方を見た。
ハウヤ帝国第一皇女オドザヤ。
カイエンの従姉妹にして異父妹は、今日も輝くばかりに美しかった。
まさに、芳紀十六歳。
皇后アイーシャ譲りの、輝く金色の髪、琥珀色の瞳。
彼女は「琥珀の姫」と呼ばれていた。
今日は彼女の年頃にぴったりな、そして今日の集まりの趣旨にもぴったりな、薔薇色のドレスを身につけ、その衣装にも負けない美貌が照り輝いている。
顔立ちも、アイーシャにそっくりだ。
夢見るように甘い目元、だが、きりりとした眉。肉感的な口元。
だが、アイーシャにある尊大で狡猾、そして賢しげで愚かしげなもやもやが、この顔にはない。
生まれつきの皇女は、一役人の娘から成り上がった皇后とはそこが違うのだ。
無邪気で裏表のない性格も、皇后とは違っている。そこが美点でもあり、危険でもあった。
背は小柄なカイエンよりもやや高く、胸や腰のボリュームも申し分ない。
この「従姉妹であり妹」に会うたびに、カイエンは思うのだ。
(いいねえ。うらやましいねえ。このまま、幸せになってほしいねえ)
と。
それは、皮肉でもなんでもない。これほどに美しいとなれば、皇后アイーシャ以上にその将来には様々な男どもの思惑が絡むであろう。
アイーシャはこの国の一役人の娘であったが、その美貌で、大公妃から皇后にまで成り上がっている。
それが、オドザヤは生まれた時から皇女なのだ。それも皇帝の第一皇女。
若年にして「男の世界」を知っているカイエンからすれば、この皇女の美貌は危険すぎた。本人にも、その他の人々にも。
「おねえさま、よくいらっしゃいました。さあ、こちらへおかけになって」
オドザヤ皇女は自分の右隣の席にカイエンを誘った。
そこに集まった女どもは総勢、十人あまり。
見れば、第二皇女カリスマ、第三皇女アルタマキアの姿もある。彼女たちの母親である、第一妾妃、第二妾妃の姿はない。なるほど、今日は娘たちの集まり、なのであろう。
オドザヤ皇女は皇后の嫡出であるから、妾妃の皇女である、カリスマ、アルタマキアとは格式が違う。
まだ若年のオドザヤはその事に無頓着に見えるが、母の皇后アイーシャはまた別だろう。
それでも、彼女ら二人は、大公のカイエンよりは上の、皇女の左側の席についていた。カイエンの身分は元は皇妹だが、大公である今は臣下に降っているからだ。
第二皇女、カリスマは今年十三歳。
母は第一妾妃である、属国ネファールの王女ラーラ。ネファールの血を引いているためか、やや肌の色が浅黒く、目も髪も漆黒であった。目鼻立ちはくっきりとしており、オドザヤのような華やかさはないにせよ、その黒檀を思わせる濡れた瞳は、歳以上に大人びて色っぽい。
性格も気が強いところがあるようだ、とカイエンは分析している。
小国ネファールは、数代前の皇帝の治世までは帝国とほぼ対等の間柄であったが、今では帝国に朝貢するようになっている。だが、ネファールのすぐ東には友邦ということにはなっているが、ハウヤ帝国とは歴史的にややこしい関係のシイナドラド皇国が控えており、油断はできない。
その隣の第三皇女アルタマキアの母は、自治領スキュラの公女キルケである。
スキュラは帝国の北方、獣人国のあった森林地帯に近い、湖水の多い地方である。北方ゆえに土地は貧しく、特産となる物品もない。漁業と林業、それに露天で産出する泥炭と豊富な石炭が主な産業の国だ。露天で産出する泥炭は貴重な資源だが、その採掘権はハウヤ帝国に奪われている。
そんな国からの人質である母から生まれたアルタマキアは十二歳。
北方の血を引く彼女の姿は、儚い雪の精のようだ。母のキルケと同じ特徴が彼女を包んでいる。
肌の色は雪のように白く、髪の色も目の色も淡い。何色とも言い難いほどだ。カイエンの護衛をしているシーヴは顔は浅黒いが、髪の色は亜麻色をしているが、その色に一番近い……とカイエンは思う。
性格は。
カイエンはこの皇女がまともに話すのを聞いた事がない。まさか話せないのではないかと、一時、うたぐっていたほどだ。
そんな二人の皇女が、オドザヤ皇女の左側にある。
この二人の皇女の母である妾妃たちは、いわば「人質」であり、そういう事情もあって、嫡出の皇女オドザヤと、他の二人の皇女との間には、明らかな違いがあった。
その他の姫君たちは、みな、皇后アイーシャに近しい貴族の娘たちであった。
アイーシャを積極的に支援している貴族の娘だ。
年齢はみな十代。未婚の娘たちばかりの中に、一人だけ、既婚の侯爵夫人が混ざっている。
去年の秋に、「あの」ウェント伯爵家から、スライゴ侯爵家へ嫁いだ、ニエベスだ。
ニエベスはオドザヤ皇女と同年で幼馴染と聞くが、皇女に先立って結婚したのである。
スライゴ侯爵夫人、ニエベスはオドザヤの右側に、カイエンの分の席をひとつ空けて座っていたが、カイエンが礼をして座ろうとすると、自分から立って、手を差し伸べてきた。
「大公殿下、ご無沙汰いたしております」
動作も優雅なら、その容姿も優雅である。
やや子供っぽいオドザヤ皇女と違い、既婚者の落ち着きか、すべてにわたって際立っている。オドザヤのような美貌ではないが、緑がかった褐色の目は油断ならないほどに聡明だ。
差し出された手に、ほんのちょっとだけ触れて、カイエンは席に着いた。
急いで頭の中にある貴族の系図を検索する。
ニエベスは現ウェント伯爵の一番下の妹なのだ。あの兄にこの賢そうな妹があるとは。それも名門スライゴへ嫁いだとは。
それでも、ウェント伯爵は、今回のカイエンの男妾騒動で、あのような恥知らずな役割を引き受けたほどであるから、皇帝の側近である。
案の定、ニエベスはいらない情報をオドザヤに吹き込んだ。
「カイエン様、この度はおめでとうございます」
カイエンの見たところ、幼いながらもカリスマとアルタマキアの皇女二人は、この情報を母たちに聞かされて来ていたようであった。
一人、オドザヤだけが、不思議そうに聞く。
「ニエベス、何を言っているの」
考えてみれば、皇后が娘のオドザヤに何も言わなかったのはおかしいのである。
オドザヤの裏表のない無邪気な性格を思って話さなかったということもないことでは、ない、が。
カイエンは、オドザヤのこの言葉に、身を引きしめた。
ヴァイロンの不敬騒動の黒幕は、皇后ではないのかもしれない。
ニエベスはにこにこと微笑みを浮かべながら爆弾発言をしてのけた。
「あら。皇女殿下、大公殿下におかれましては、ご側室をお迎えになったばかりではありませんか。兄に聞きましたわ。皇帝殿下のご不興をかったとかで罰せられた、あの獣神将軍ヴァイロンの身柄を、ご側室としてお引き受けになったのですよ」
と。
オドザヤ皇女の顔に驚きの表情が浮かぶ。
本当に何も聞かされてはいないようだ、とカイエンは思う。
「すでに『青牙の君』とお名付けになってご寵愛とか。うらやましいことですわ」
ほほう。
カイエンはニエベスの顔をにこやかに見ながら、自分がこう言っているのを聞いた。
「ありがとうございます、侯爵夫人。夫もいない身でお恥ずかしいですが、大公として陛下の御代を支えるためには、こんなことも引き受けなければなりませんのよ。お察しくださいませ」
十六歳の侯爵夫人には負けられない。
カイエンは耐えた。
我ながら気持ちが悪くなると思いつつ、カイエンが耐えた、意味のない会話はこの後数時間にわたって続き、さすがのカイエンも疲れ果てて、大公宮へ戻った。
とんだ茶番ではあったが、収穫はあった。だが、事態の全貌を掴むにはまだまだ時間がかかりそうだ。
カイエンは帰りの馬車の中で、考えた。
しばらくは、うかつに動けない。
そう、改めて思い、身を引き締めた。
大公家を守るのはカイエンの義務である。
大公家の存在意義である、帝都ハーマポスタールの治安を守ることも義務だ。
それをした上で、何を優先的に守るべきか。
若く、経験のないカイエンにはにわかには対応できない事態が進行しようとしているのは確かであった。
オドザヤ皇女の「薔薇を愛でるお茶会」はつつがなく終了した。偽りの微笑みと、どうでもいい会話。真実は咲き誇っている美しい薔薇の花たちだけであった。
いや。
オドザヤ皇女の無垢で琥珀のような甘やかな美貌、その無邪気な心も、真実であっただろう。
それだけに、今や彼女も危なかった。
後ろに皇后がいるので、すぐにどうこうということはあるまいが、彼女も時代の波にのまれていくのだろう。
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