二人の後朝に、やや拗ね気味の騎士シーヴ

 ヴァイロンが女大公カイエンの後宮へ、正式に納められた翌朝。

 見届け役(という名のとんだ出歯亀だ)のウェント伯爵は、いやらしく頬を紅潮させ、ほくほくと満足げだった。

 若い二人の初めての睦言を聞いた彼は、自分が一夜を楽しんだかのように表情を弛緩させていた。

 まだ、夜明け前、カイエンとヴァイロンの初夜はとっくに終了し、寝室が沈黙に支配されてから、彼は、強張った顔のサグラチカと、女騎士ブランカに両脇を抱えられるようにして、半強制的に大公の後宮を後にさせられた。



「安心いたしましたぞ」

 カイエンの後宮から、本殿の客間へ移されたウェント伯爵は、いやらしく脂ぎった顔をほころばせ、執事アキノに言った。彼が聞き取った閨のあれこれは、彼の想像以上に淫らなものだったようだ。

「この上は、初夜の証拠を持って、早々に皇帝陛下にご報告いたしたいと思いまする」

 繰り返すが、夜はまだ明けていない。

 アキノは厳しく整った顔に、忍耐という言葉を張り付かせてうなずいた。そして、うなずいた後も続けた。それはカイエンへの忠義であった。

「申し訳ございませんが、大公殿下は未だお休みです。その証拠とやらは確かにご提出しますゆえ、今日はもはやお戻りくださいませ」

「そうはいかぬ」

 アキノが心の底で予想していたとおり、ウェント伯爵はしたたかだった。

「大公殿下がお休みであるのは承知しておる。では、私は殿下がお目覚めになるまで待たせていただこう」

 アキノもまた徹夜のお勤めに疲れていたが、穏やかに、そしてうやうやしく応じた。

「承知いたしましてございます。では、何かお飲み物でも用意させましょう」



 さて。

 大公宮の後宮の、この日のうちに新しく「青牙宮せいがきゅう」という名が付けられた、ヴァイロンの部屋である。

 朝、先に目覚めたのは、勿論、ヴァイロンの方であった。

 目覚めたというより、ことが終わってすぐ、疲れてすうすうと寝入ってしまったカイエンとは裏腹に、当事者、それも男。しかも男妾、なヴァイロンは目が冴えて寝られなかったのだ。

 一応はだだっ広い寝台の上で、眠るカイエンに腕を回して寝たふりはしていたが、落ち着いて考えれば考えるほどに、昨夜の出来事は己の人生をあっちこっちするような大変な「儀式」であったと思えた。

 腕のなかにいる小さな、彼とは全然違う生き物からは、なんだかいい匂いがする。女臭いというよりは、日なたの猫のような甘く乾いた匂いに、おそらくは寝る前につけられたのであろう、薔薇の香油か香水の匂いが混ざっていた。

 彼の人生の中で、こんな朝が今まであっただろうか。

 ……いや、もちろんない。

 武辺者として生きてきた彼の歴史が根こそぎ書き変えられたのが、この数日間だ。

 そして、新しい生き方を嫌でも始めなければならない、その始まりの儀式でもあった。

 大変に身分違いかつ、恐れ多いことではあるが、自分はこの、現大公殿下を抱いた。

 出歯亀伯爵は一部始終を聞いていたであろうし、今寝ている寝台の敷布には破瓜の証という「証拠」も残っている。

 そこまで考えて、ヴァイロンの精悍な顔に冷汗がにじんだ。

 ……進退極まった。

 いや違う。もはやこの状況からは一生逃げられない。

 女大公カイエンがどのような人生を歩むとも、己はその後をついていかねばならぬ。……男妾として。

 そう思って、腕の中の「大公殿下」を見た。


 眠っている、青白いほどに白い顔。美女である、とは色気が皆無なので言えないが、整って欠点のない、アストロナータ神殿の神像のような、彫りの深い潔癖な顔立ちだ。眉はまっすぐな性格通りの線を描き、その下の目は、今は閉じられているが切れ長の瞼の下は深い灰色で、やや冷たい印象を与えはするが、すっきりしている。額は大広間にある前大公の肖像画にそっくりの秀でた額だ。鼻筋もきっぱりと通っている。唇に赤みがほとんどなく、形も薄いところが年頃の少女としては冷たすぎるが、まずは頭の良さと品の良さが、顔の造形からにじみ出ているような貴族的容貌である。

 その貴族的に整った顔が、笑うと急に可愛く見えるのも知っている。

 そういえば、カイエンは他人の前では大抵、笑っている。身分柄、嫌なことも多いだろうに。

 白い額に、閨事で汗ばんだ深い紫色の髪が張り付いている。

 昨晩、自分が散々に彼女を苛んだ行為の結果だ。

 起こさないよう、そっと指ではらいのけ、そのまま見守っていると、ふいに、その目がぱかっと開いた。

 じっと観察されていたのに気付かれたのだろうか。……ヴァイロンは慌てた。


 部屋のカーテンは未だ閉じられており、部屋の中は薄暗いので、灰色の目はしばらくものが見えなかったらしい。ほとんど灯りのない部屋でも物が見えるヴァイロンの目とは違うのだ。

「あれ?」

 ちょっとかすれた、女としては低い声。体はその辺の姫君達よりも小さいのに、声は機嫌が悪いと男と間違いそうなほど低いのだ。ちょっと少年のようでどきまぎする。

 焦点の合わない目が、ヴァイロンの上で止まった。

「……おはよう」

 見守っていると、一面灰色の海だった目の中心に、黒ずんだ瞳が収縮し、はっきりとした光を宿した。

 今の状況を、必死で理解し、対応を図っているのだろう。

「今……何時?」

 すぅっと黒目の焦点があって、目に理性が戻った。

 カイエンはヴァイロンの腕から頭を上げ、起き上がろうとした。

「あ痛っ!」

 途端に下腹を手で抑えて、褥に逆戻りする。凄まじい違和感が下腹部に残っていた。

 横のヴァイロンの方も、びくっと体を震わせた。

 カイエンは昨晩のことをほぼ完全に思い出していたが、この自分の体の反応は予想外だった。

 腰が痛い。

 背中が痛い。

 ついでにお腹も痛い。

 他にも色々と変なところが……あるようだ。

「なんだこれ?」

 ヴァイロンがそっと手を貸してくれたので、寝台の上へ起き上がることはできたが、起きたら起きたで、何も着ていない自分にびっくりだ。

「ひゃっ!」

 小さな悲鳴のような声が勝手に出て、あわあわと手でシーツを引っ張り上げる。

「お目覚めですか」

 ……気配を感じて入ってきたらしい、サグラチカの声で、カイエンは一気に現実へ連れ出された。





 ウェント伯爵は、大公の乳母からうやうやしく渡された「初夜の証拠」の敷布を受け取り、満足げに下がっていった。

 いつもよりはずいぶんと遅くなったが、それらすべてが済んでのち、カイエンは今日は名前のついたばかりの青牙宮で朝食となった。

 窓際のテラスのテーブルに、カイエンとヴァイロンがついている。

 ヴァイロンの椅子はテーブルと対のもので、やや古い趣味の草花文様の彫刻のついた、立派なものだが、彼が座ると窮屈そうだ。

 カイエンの方は、同じ椅子の背中と脇に幾つかクッションを当ててもらい、それにそっと寄りかかるように座っていた。体のあちこち、特に背中と腰とが痛くて、耐えられなかったからである。

 本来なら、大公の食事は大公の食堂へ帰ってからするものなのだが、そんなこと知ったことではなかった。こんな体で歩けるか!

 カイエンは向っ腹で思っていた。

 サグラチカの顔を見たときも気恥ずかしかったが、執事アキノ、侍従モンタナ、女中頭ルーサ、と召し使っている者共が次から次へと現れるので、カイエンの羞恥心もいい加減擦り切れてきていた。

 毎朝、決まって飲む、濃い紅茶に多めのミルクをたらしたものを一口、口に含むと、カイエンはやっと落ち着いてきた。

「アキノ、今日の予定は」

 そう聞く頃には、こんがり焼いた薄いパンやら、玉子やら野菜やらハムやらが、丁度よく腹に収まっていた。

 初夜の翌朝の乙女(未だ「乙女」なのかどうかは実際、微妙なところだった)にしてはしっかりした食欲である。

 そばで見ていたアキノやサグラチカは安堵した。

 カイエンの方は、横で食事を取っているヴァイロンの方を見る勇気はまだ出ないが、これはしょうがないだろう。



 アキノは一旦下がってから、銀の盆に幾つかの書簡を載せて戻ってきた。

「……本日は、ごゆっくりお休みくださいませ。夜まで決まった用事はありませぬ」

「そうか」

 安心した。アキノに抜かりはないだろうが、今日、馬車に揺られてどこかに連れて行かれるのではたまらなかった。

「こちらの書簡は、オドザヤ皇女殿下からでございます。つい先ほど届きました」

 しかし、そう言って、アキノが差し出した盆の上の手紙は。

「ご招待か」

「おそらくそうかと」

 オドザヤ皇女は、カイエンの元母、皇后アイーシャの生んだ、皇帝と皇后との間の唯一の子である。カイエンとは異父姉妹であり、また従姉妹でもあるややこしい存在だ。今年、十六歳になる。

 オドザヤ皇女の方は、カイエンがそういうややこしい関係のものとは知らず、父の歳の離れた末の妹、つまりは若い叔母で、それも臣下だとしか思っていない。

 皇后アイーシャが、最初は大公妃だったことは、公然の秘密で、知っているものもいるが、厳重な箝口令が敷かれ、中には、口が軽そうだからと、「墓に入ってさえも口外しない」という念書を取られている者もいた。

 カイエンはため息をつきながら、手紙を手に取った。

 若い娘らしい濃いピンクの封蝋。その上の紋章。皇帝の第一皇女、オドザヤからだ。

 封蝋を破って中身を取り出す。

 これまた少女らしい、うすい桃色の便箋に、水茎のあとも麗しい、女文字。甘い香水の香りがした。



「大公カイエンさま


  カイエンおねえさま、ご機嫌いかが。

  先日は、お父様がなにやらおねえさまに無理難題をおっしゃったとか。

  わたくしにはお母様はじめ、誰もくわしく教えてくださいませんのよ。


  いま、わたくしの宮では、薔薇が見頃ですの。

  この頃は春めいてきて、暖かい日も多いですから、お庭でお茶会をしようと思い立ちましたの。

  つきましては、カイエンおねえさまにも来ていただきたく、ご案内いたしますわ。


  ……云々」



 オドザヤ皇女の手紙はまだ続いたが、カイエンはややうんざりとして、その手紙をアキノの持つ銀の盆へ戻した。

 皇女は従姉妹であるカイエンを「おねえさま」とあまい呼び方で呼ぶのである。

 「叔母様」と呼ばれるよりはマシではあるが。

 基本的な性格もそうだが、オドザヤ皇女は母の皇后によく似ていて、父親似のカイエンとは全然似ていない。

「……返事は、後で書く。ちょっと遅くなってもいいだろう。お茶会とやらにはまだ日にちがあるようだ。今日はもう動きたくないから、ここへ紙とペンとインクやなんかを持ってきておいてくれ」

 アキノはうなずいて、下がった。

 サグラチカが、横になられますか、と聞いてくれたので、カイエンはしばらく長椅子に横になることにした。

 ああ。こんなことがこれから日常的になるのだろうか。それでは体が保たない、などと思いながら。





 テラスから下がる時に、アキノが意味ありげに目配せしたので、ヴァイロンはカイエンをサグラチカに任せ、自分はアキノについて、居間の向こうの控えの間に入っていった。

 銀の盆を正面の飾り棚に置いた、アキノが手招いた。

 ヴァイロンは今朝方着せられた、普段はあまり着たことのない、緩やかな長衣の裾を気にしながら、その方へ近づいた。

 アキノもすらりと背が高いが、ヴァイロンとは首一つ以上違っている。

「……よくやったぞ。ヴァイロン」

 いきなりアキノが自分を褒めたので、ヴァイロンは翡翠色の目をぱちくりさせた。なんだか、こそばゆい。

「はあ……」

「心配だったが、塩梅良くやってのけたものだ。あの出歯亀伯爵は喜んで帰ったし、あいつに持たせた敷布の跡も申し分なかった。殿下もまあまあ、お元気だ。私は安心したぞ、ヴァイロン」

 敷布の跡まで見たんですか、と突っ込みたくなるのをこらえ、ヴァイロンはおとなしく、顔を伏せた。

「こんなことになって、お前には気の毒だが、殿下もいつまでも若くて頼りない新大公のままではない。お前の地位は必ず取り戻してやる、それまでしっかりとカイエン様に尽くせ」

 この養い親は、これから殿下を焚きつけて、何をおっぱじめるつもりなのだろう、と不安になりながらも、ヴァイロンは頷き、カイエンのいる部屋へ戻って行った。






 同じ朝。

 その朝、騎士シーヴは不機嫌だった。

 というか、拗ねていた。

 ここ数日、ここ三年いつも大公殿下の護衛任務に付いていた自分には、何の沙汰もない。

 暇なのだ。

 護衛と言っても、所属は大公の私兵軍団にあるから、そちらには顔を出してはいたが、他の団員は本来の大公軍の仕事である、首都ハーマポスタールの治安警備に出てしまい、彼に構っている時間はない。

 まだ二十歳そこそこ(彼はその生い立ちのせいで、自分の誕生日を知らないため、年齢はおよその歳である)の彼は、仕方なしに団長イリヤの部屋で管を巻いていた。仕事中であるから、酒を飲んで管を巻いているわけではなかったが、言っている内容は酔っ払い同然である。

「ねえ、ひどいと思いません? 俺、ここ数日、完全に無視ですよ。仕事干されているんですよ〜。殿下からもなーんのご沙汰もないし。そもそも、なんでヴァイロン閣下が男妾になって、殿下の後宮に入ったんですか? 皇帝陛下って、殿下のお兄さんで実は伯父さんでしょ? なに考えてるんでしょうねえ! それで昨日の夜はあのナンタラ伯爵が検分に来て! ねえ、殿下、本当にヴァイロン閣下と……なんですか? 殿下大丈夫なんですか? ……もう、俺、心配ですよぉ!」

 ちなみに、大公家ではカイエンがもと皇妹ではなく、本当は皇帝の姪に当たり、前の大公アルウィンの実子であることは、一部の側近には「公然の秘密」として知られている。


 軍団長の執務室。

 しかし、そこはまさに実務的な一室で、今、イリヤがだらしなく座っている椅子、だらしなく長い足をのっけている、書類にあふれたでかい机、それに壁いっぱいの書類棚、たまにイリヤが徹夜する時に寝転がる長椅子、「しか」ない部屋である。

 広いことは広いが、客など来ないから、余分の椅子もない。

 シーヴは件の長椅子に転がって、バタバタと暴れた。

「団長は心配じゃないんですかー!」

「えーっ。君って殿下に惚れてたの」

 書類片手に、煙草を吹かしながら、遠慮会釈のない団長イリヤはからかったが、返ってきたのは、シーヴのいやそうな、駆除対象の害虫でも見るような目であった。

「……団長、考え方がおっさんですよね。すぐに惚れただの腫れただのに持って行こうとするんですね。いくら俺が若造でも、そんなに単純じゃないですー」

 シーヴはこの帝国では差別される部族の出身なので、本来は皇帝の正規軍はおろか、大公軍にだって入れはしないのだが、執事アキノの鶴の一声で、大公軍への入隊を許され、その上に大公カイエンの護衛まで任されているのである。

 これは、まだ少年じみた容貌で、体格もまだ発展途上ながら、シーヴの剣技その他の才能が並外れていたこと、そしてアキノのお眼鏡に叶う賢さも持っていたからなのだが。

「……アキノさんも、殿下も、ここの人には良くしてもらってますから」

 ふくれっ面で言う顔は、なるほどまだ子供っぽさが抜けない。

「そうですか。いいんじゃないの。君が心配しているより、殿下は図太いですよ、きっと」

(女ってのはそういうものです)

 イリヤはふふふ、と一人で笑い、シーヴは前よりもっと嫌そうにそれを見遣った。この人、本当にある意味害虫かもね、と。




 シーヴは、翌日から大公殿下の護衛に復帰した。

 びっくりしたのは、大公の後宮に入れられた、と聞いていた元将軍ヴァイロン閣下、現、御愛妾「青牙の君」(!)が、大公の執務室やら居間やらで、アキノを手伝い、秘書のようにまめまめしく働いていたことであった。

「アキノさん、あれ、大丈夫なんですか」

「なにがだね」

 シーヴは、恐る恐る、ヴァイロンの方に視線を流した。

 ヴァイロンはもちろん、軍のお仕着せでも、制服でも、甲冑でもなく、ゆるやかな貴族の男子が普段着る種類の服を着、大量の書類を軽々と担いで、書庫の方へ向かうところであった。

「ヴァイロン閣下……ではないですね、俺、これからなんてお呼びすべきですか……って、宮の表に出てきてていいんですか」

 アキノはなんでもない、というふうに言った。

「ヴァイロン様、でよかろう。私も昨日からそう呼んでいる」。君も知っているだろうが、この大公宮は人が少ない。いや、女中や召使いは十分にいるが、殿下の周りでしっかり働ける人材はまだ少ないのだよ。後宮といっても、女騎士三名は新たに雇い入れたが、他に専属で付けられるような人材がおらんのだ。おいおい揃えていくが、ヴァイロン様を遊ばせておく余裕はない」

「皇帝陛下からまたお咎めとかないんですか。あれで」

 シーヴの心配はもっともではあったから、アキノは真面目に答えてくれた。

「いいかね。女性の御愛妾ならば、他の男子とすれ違う危険は避けねばならんが、ヴァイロン様にその心配はない。それに、大公殿下が御側室を伴って行ってもいいような非公式な所なら、連れて行っても構わんのだろうが……。さすがに今、宮の外へ連れて出るのは気の毒だ。殿下がお外にお出になるときは、今まで通り、シーヴ、君が護衛するのだぞ」


 シーヴはちょっと目を回しながらも納得し、通常の勤務に戻った。


 明後日だかの予定に、「皇女オドザヤ様 お茶会。皇女宮」とあるのを見ながら。

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